■昨夜の地震予測記事に対応する地震は、今朝から続いた群発地震だったようです。
私自身も、地震予測能力の要素を帯びた共感覚の持ち主ですし、私以上にその能力のある自閉症者・解離性障害者などとサイトや勉強会で交流していますから、将来的な私自身の研究のためのデータ集めも兼ねて、このブログにおける今後の地震予測記事の書き方を、あとで自分でまとめてみます。
順に、情報発表日時 発生日時 震央地名 マグニチュード 最大震度
平成24年01月28日08時07分 28日08時04分頃 山梨県東部・富士五湖 M4.1 震度3
平成24年01月28日07時51分 28日07時46分頃 山梨県東部・富士五湖 M4.1 震度3
平成24年01月28日07時48分 28日07時43分頃 山梨県東部・富士五湖 M5.5 震度5弱
平成24年01月28日07時44分 28日07時39分頃 山梨県東部・富士五湖 M5.0 震度4
■昨夜の地震予測
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/53332430.html
■産経新聞より
「イヌ、ネコは震度5以上で予兆行動…地震予知最前線 動物の感知能力を探る」
大地震発生の前後に動物や魚などがとる異常行動を分析し、地震予知につなげようという研究が、専門の研究者らによって進められている。地震学者の間では、動物の行動を地震の予兆現象につなげるのは非科学的だとする意見がある一方で、謎が多い動物の感知能力の解明に期待を寄せる声も大きい。これまでにイヌやネコは震度5以上の地震に事前反応するとのデータも得られており、東日本大震災後は「未科学」といわれるこの分野への関心が高まっている。
●感想ですが、震度3か4でもイヌやネコやは反応しますし、地震感知の共感覚を持つ人も反応しますね。ただし、震度5以上かどうかに関係なく、そもそも動物の地震感知を、否定するか、疑似科学とする地震学者が多い現状ではあります。いわんや人間をや。重度の自閉症児には、イヌやネコとほとんど同時に感知する子もいます。そのことについて我々が素直な心で感動するという姿勢が必要だと思います。
2012年01月28日
昨夜分の地震予測結果
posted by 岩崎純一 at 20:16| お知らせ・挨拶事項
2012年01月27日
【大地震警戒】何人かの共感覚者・自閉症児の行動に変化【M6〜M8級】
東北・関東方向(日本の東方向)に赤紫や紅色を感じた共感覚者、知人の自閉症の男の子の行動がおかしいというお母様からのメールがあるなどしたので、一応、書いてみました。備えあれば憂いなしです。
私はそれほど変化はないが、近所のスーパーマーケットの自動ドアやネズミ駆除器のキーンという音がいつもよりも苦しい、という変化は出てはいますね。もしかしたら、東京なのだろうか。
本記事の予測よりも「前に」発生した付近の地震一覧
01/27 13:19 千葉県東方沖 M5.1 震度3 深さ10km
01/26 05:42 宮城県沖 M5.1 震度4 深さ50km
01/23 20:45 福島県沖 M5.1 震度5弱 深さ50km
私はそれほど変化はないが、近所のスーパーマーケットの自動ドアやネズミ駆除器のキーンという音がいつもよりも苦しい、という変化は出てはいますね。もしかしたら、東京なのだろうか。
本記事の予測よりも「前に」発生した付近の地震一覧
01/27 13:19 千葉県東方沖 M5.1 震度3 深さ10km
01/26 05:42 宮城県沖 M5.1 震度4 深さ50km
01/23 20:45 福島県沖 M5.1 震度5弱 深さ50km
posted by 岩崎純一 at 23:51| 共感覚自然感知研究会や自閉症児の友達からの報告、東北地方太平洋沖地震用の記事
2012年01月23日
日本人男性にとっての母子関係について思うこと(小説や映画を例に)
この私のブログ読者には、登校拒否児童・ひきこもり学生さん・成人ニートさんご本人方、そして、何よりその親御さん方もいらっしゃいます。
職に就かずに「哲学的なこと」を考えておられる無職男性もいらっしゃるし、「絵描きになりたい」という無職女性もいらっしゃるし、学校に行けなくて寝込んでいる学生さんもいらっしゃる。私と同世代の無職男性で、お母様に引き連れられて私とお会いした方もいらっしゃる。
一応、私のサイトにある「勉強会」の名目ではあるにせよ、だいたい母・息子さんひと組ごとにお会いしている。私は、自分で言うのも僭越ながら、わりと親子の問題を見抜く目はあるかなと思っているので、記事にしてみる。
最近、親子関係について考えさせられることが芸術の世界でいくつかあって、ノートにメモしておいたことがあるので、書いておきたいと思う。父親と娘の関係にも同じことが言えると思うが、ここでは主に母親と息子の関係を書いてみたい。
私も明確な答えは出さないところで文章を止めたいと思うので、私の記事に反応して何かを「心で考えて」いただけるだけでも嬉しく思います。
■最近、芥川賞を受賞した田中慎弥氏。幼少期に父を亡くし、高校卒業以来、一切のアルバイトにも正業にも就いたことがなく、小説を書き続け、母親が婦人服の販売で田中氏を養ってきたとのことである。
受賞会見での態度・言葉遣いなどが話題になっているが、母校の恩師などがインタビューで「あれは照れ隠しで、本当は優しい人」だと応じていた。「受賞を最初に誰に報告したか」という問いについても、田中氏は「母です」と穏やかに即答していた。
ところで、今書いた「幼少期に〜」の一文は、最近話題になっている「ひきこもり」や「ニート」や「スチューデント・アパシー」の大学生や成人(多くが男性)が社会に出るためにいち早く脱却することが望ましいとされている親子関係(母親と息子の関係)の条件を満たしている。「母親との関係が密接であること」、「場合によっては父親が死去か離婚していること」、「母親が息子の無職を許していること」など。しかし、いち早くこの条件から脱却していたら生まれなかった芸術もある、ということを知っておいて損はないと思う。
母親と田中氏との関係について、「すばらしい親子関係。田中氏も母親思いで優しい人だ」という意見から、「受賞して小説が売れたことが全てであって、もしそうでなければ、ずっと母親のお金で食べているのだから、本来は自立心がなく許されない生き方だ」という意見まで、色々と見られた。ともかく、それだけ注目されているということだろう。
■ところで、昨月半ばにテレビで『借りぐらしのアリエッティ』の放映があったので、見た。この宮崎駿氏の一連の作品について、「宮崎氏自身の母親への思慕の情が作品に投影されている」と見る分析は、今では熱心なファンの間ではありふれたものとなっている。
『アリエッティ』においても、一部のファンから「マンネリ化した」と言われるほどに、それまでの宮崎氏の監督または脚本作品と同じく「少女性(幼い女)と母性(大人の女)の並行的な愛好」の構図をとっており、宮崎駿の理想的な女性像の体現である小人アリエッティは、最後に涙を流しながら、人間である翔(しょう)の指を自分から抱きしめる。どちらかと言うと、宮崎氏の描く少女は皆、一瞬は自分から男を誘っているように見える。
ところが、宮崎氏にとって、「女は男よりも弱いもの、男が守ってあげるもの(いわば手弱女=たをやめ)」としての設定でなければならない(それこそが女性の自然な姿として描かれる)ので、アリエッティは「わんぱくで勇敢な少女でありながら、翔よりも力弱く」作られている。女性の「力弱さ」が、こと『アリエッティ』においては、「物理的な小ささ(小人)」という設定で明確に示されたのは、興味深い。
ともかく、宮崎氏は、「実質的には恋愛感情でありながら、登場人物本人たちにはそれが恋愛感情であると気づかせない」ような作り方をし、本人たちがそれに気づく直前に話を止めている。いわば、宮崎氏の描く男女はいつまで経っても「初心」、すなわち「初恋」そのものを繰り返しているのであって、その後ろには「母親像から連続する女性像」というものがあるのだろう。何より、宮崎氏自身が、母親の面影と映画作品内の美少女たちとの不可分性を、今までに何度も告白している。
我々男性にとって、「初恋」というのは、母親への思慕の情を引きずりつつそこから離れようとする「あはひ・あひだ・ま(間)」の情にほかならないということだろう。
■小説で言えば、この私のサイトの「好きな本」のページに、川端康成の『片腕』を挙げているが、どういう話かと言うと、女性が自分の腕を肩から一本もぎ取って渡してくれたので、その片腕を家に持って帰って、それと一夜を過ごすという話である。
その女の片腕は、勝手に指で這って動いたり、しゃべったり、自分の本体である女のことを心配したりするのだが、川端康成が自らの頭とペンと紙だけを使ってこのような物語を生み出せる男であったということが、いかに彼が現実の犯罪的少女性愛に手を染めずに済んだかということを物語っているように、私には思える。
そして、その原点にもやはり、川端康成の中の「母親像」というものがあったようだ。よほど歪んだ男性でない限り、自分の母親に対して犯罪を犯そうとは思わない。「母親像」を忘れないで生きることのできる男性は、外出して世の中を見たとき、必ず他の女性への犯罪を犯す前に立ち止まる。あるいは、犯罪と同じことを芸術の中で解消できる。
川端康成にはこれができた。おそらく田中氏にも、高校卒業以来、これができていた。このことは私が思うに、とても男として「カッコイイ」ことである。おてんとさまやご先祖様に見られているのと同じように、自分の父親・母親に我が人生を見られているという感覚は、本来、人間のみならず動物にとっても、おそらく大切である。
■そういう意味で、宮崎駿が『アリエッティ』その他の作品の少女たちに持たせた清純な美少女戦士としての役割と、川端康成が『片腕』に込めた女性へのグロテスクでサディスティックな解体・破壊願望とは、紙一重、あるいは全く同一のものであると言ってよいのではないかと、そう私は読んだわけである。
川端康成の『眠れる美女』も、次から次へと女を部屋に連れ込んでは夜の床を試していくグロテスクな小説であるが、川端康成は、この『眠れる美女』と『片腕』とのわずか四年の間に挟む形で、私が自分の和歌にも時々美しい日本語を拝借している『古都』を書いていることは驚きである。
ところが、これらの作品について「対極的な違いを見ること」、そしてそれに「驚くこと」は、あくまでも「我々の勝手な解釈」に違いないのだ。川端康成は、その間もずっと「川端康成」だっただけのことだろう。
私は時期的に、『古都』のあとにこのグロテスクな二作品を読んだので、初めは少々驚いたが、「もしやこれは、現代日本における正当で健全な母親像・女性像の成果ではないか」と思うようになったものだった。
■ところが、どうも今の日本では、「男らしさ」(母親にとっては「息子の自立」)というものは、「母親像から脱却すること」(母親にとっては「脱却させること・自分から突き放すこと」)とほとんど似通ったものととらえられているようだ。
このような視点は、このブログに来て下さっているニートの息子さん方ご自身よりも、そのお母さん方のほうに共通して見られる、かなり固定化された価値観であるということに、私は関心がある。むしろ、意外にも息子さん方の中には、私と同じような人間観・社会観を持っている方がいらっしゃる。一方で、お母さん方の持っている価値観のほうこそ、「ニートではない息子さん」のいる今の多くのお母さん方にもごく一般的に見られる「価値観」であることが多いようである。
だから、お母さん方の疑問文の書き方としては、「私の息子は、今も無職で家にいて趣味の芸術やら考え事やらをやっているので、将来的に社会に出たり恋人を作ったりできないのではないかと心配しています」という「流行の」書き方になる。この「ので、」の前後には、本当は一切の論理的結合性がないにもかかわらず、なぜか無意識に結合させて我が子や他人を分析してしまう。そういう姿勢を持つことは良くないことだということに気づけば、我々はもっと心優しい人間になれるのではないか。
もちろん、そこに気づかない要因は、家庭の事情だけに収まるものではなさそうだ。「お母さんを思う気持ち」というものを男性が(親子が)恥ずかしがらずに堂々と言っても馬鹿にされずに逃げ切れる世代は、先の田中氏の世代で終わった。田中氏の世代は、団塊世代の最年長層の子供世代。「いつかどうにかなるか分からないが、とりあえず芸術なんかをやっている無職」の男が母親と気兼ねなくコタツで一緒に過ごせた最後の世代でもある。
ちょうどこのあとに、いわゆる厚労省や内閣府の「ニート」の定義や、精神病理における「スチューデント・アパシー」の概念などがあからさまに世に主張されるようになって、これに当てはまる若者たちが根負けするようになってしまう。
今では、母親に面倒を見てもらっていた幼少期・児童期・学生期からいかに早々に脱却できるかが、いかに「男性の自立」であり、いかに「母親以外の女性への正当な興味の芽生え」であるかのように、すでに学校教育の時期から強調されている気がする。
■日本人男性の自己・自我から「母親像」を無理に奪い去ろうとした場合に何が起こるかをもっと端的に物語っている小説には、例えば、水上勉の『越前竹人形』があると思う。
喜助は玉枝を嫁に迎えながら、玉枝に指一本触れず、一対の夫婦をかたどった竹人形を作る。人形には、喜助の中にある母親の面影が投影されていた。喜助は、玉枝が重病になってから初めて玉枝の手を握った。
このような母・息子関係は、元々個人主義を建国や民族の理念とする欧米社会(特にアメリカ)では、あまり理解されがたいものであるかもしれない。しかし、社会に出るためや妻を得るために自らの自我から「母親への思慕の情」や「母胎内回帰願望」を抹消しようともがいたとき、あるいは、親や社会や教育の圧力によってそのような「作業」を暗黙裡に要求されたとき、今でも喜助のようになる日本人男性は多いと思われる。
なぜそんなことになるかと言うと、自己責任を基盤とする個人主義的な女性観を西洋文明化の中で要求された男性の典型たる喜助や、母親から「早く自立しなさい」と迫られている今の日本のニートたちは、「母親の愛や面影や金銭的援助から逃れられていない自分」を「男らしくない」と自分で決め込んだがために、「女性の手を握る気力」が起きなくなったためではないか。
つまり、ニートや鬱病者、特にスチューデント・アパシーの男性に対して、「母親像」や「母胎内的な温かさ」を脱却させるような作戦はほとんど無効であることが多く、かえって「母親である自分の中に息子が一種の女性性を見ることを許す」ことが、実は健全・有効な手であるかもしれない、ということ。そして実は、このような作業をきちんと経ずに飛び越して社会に出てしまっている親子のほうがあまりにも増えているだけの話ではないか、ということ。
■そこで、田中慎弥氏や宮崎駿氏らの「強さ」とは何かと考えてみるに、母親への感謝や母親からの影響を世間に公表することを全く恥ずかしがらない「堂々ぶり」であるという見方があってもよいと思う。これは、まさに一種の「強さ」、あるいは「男らしさ」だと私は考えている。このような「強さ」を持ったニートは、実は最初から立派な「社会人」なのだと思う。
田中氏は有名人になられたばかりなので、とりあえず除くにしても、宮崎駿にしても川端康成にしても、「自分の母親像から連続しない独立した個性としての女性像」を描こうとしない点は共通している。逆に言うと、私が今、特に関心を持っているのは、「いつから(なぜ)日本人は、“母親像から連続しない独立した個性としての女性像”を確立することが、男性の自立であり、結婚実現への近道だと考えるようになったか」ということである。
しかも、とりあえず真っ先に「自立した男性」との評価を得てしまう男性とは、つまりは「経済的に自立した男性」のことだから、問題はもっとややこしくなる。しかし、そのような経済的自立が本当に全て精神的自立かどうかは、疑ったほうがよいと思う。
かつて、息子のために、隣村から妻のみならず妾までも連れてきて息子に与えたのは、ほかならぬ母親であった。それは余談だが、「我々男性が生きていく中で抱く女性像(少女性・母性)の中に先験的に自分の母親像が潜在しているような実存」というものが、なぜ「マザコン」という否定的概念にすり替わったかということは、非常に興味深いところである。
「母親の面影のない女性を男は選ばないものだ」という、おそらく真理であるこのフレーズを、今は我々男性自身が理解できていない時代であるかもしれない。基本的には、「母親の面影」というものは、「男性の自立の障害物」になるものと考えられるようになったようである。しかも、このような価値観は、むしろ「ひきこもり」や「ニート」男性(息子)側よりも、母親側の世代によって強く共有されているのが非常に不思議であると私は思っている。
■また和歌の話になるが、和歌における男性の女性観というものは、基本的に「宮崎駿」的、「川端康成」的なものであると言える。むしろ、「少女性(幼い女)と母性(大人の女)の並行的な愛好」というものが、恋の歌の叙情の基礎を形成している。川端康成の『雪国』や『古都』(男性の手の入らない清廉な女性のいる風景)と、『眠れる美女』や『片腕』(男性の手の入ったあとのグロテスクな光景)との、「あはひ・あひだ・ま(間)」を詠むという能力が、和歌には必要である。
私は、その精神性を保つように心がけながら、和歌を詠んだり、小説を鑑賞したりしている。
■若い時期から息子を自分から突き放そうとするからこそ、息子の中に「自分が拠って立つ(基盤とする)女性像」が抜け落ちてしまい、喜助のように女性に全く手を出さないか、逆にいきなり性犯罪に走ったりしてしまう。昨今増えている痴漢などの性犯罪は、本人のせいでもあるが、親や社会のせいでもあるのではないか。
だから、私は、「自分もまた女性という性的存在であるということを、息子と性的関係を持たずして息子に暗黙裡に教える」ということが、再び日本の母親が取り戻したほうがよい教育観だと思っています。このことがきちんとできている家庭に育った男性は、無職で鬱病であっても、どこか目が生きている。私の勉強会でお会いしてもそうです。
職に就かずに「哲学的なこと」を考えておられる無職男性もいらっしゃるし、「絵描きになりたい」という無職女性もいらっしゃるし、学校に行けなくて寝込んでいる学生さんもいらっしゃる。私と同世代の無職男性で、お母様に引き連れられて私とお会いした方もいらっしゃる。
一応、私のサイトにある「勉強会」の名目ではあるにせよ、だいたい母・息子さんひと組ごとにお会いしている。私は、自分で言うのも僭越ながら、わりと親子の問題を見抜く目はあるかなと思っているので、記事にしてみる。
最近、親子関係について考えさせられることが芸術の世界でいくつかあって、ノートにメモしておいたことがあるので、書いておきたいと思う。父親と娘の関係にも同じことが言えると思うが、ここでは主に母親と息子の関係を書いてみたい。
私も明確な答えは出さないところで文章を止めたいと思うので、私の記事に反応して何かを「心で考えて」いただけるだけでも嬉しく思います。
■最近、芥川賞を受賞した田中慎弥氏。幼少期に父を亡くし、高校卒業以来、一切のアルバイトにも正業にも就いたことがなく、小説を書き続け、母親が婦人服の販売で田中氏を養ってきたとのことである。
受賞会見での態度・言葉遣いなどが話題になっているが、母校の恩師などがインタビューで「あれは照れ隠しで、本当は優しい人」だと応じていた。「受賞を最初に誰に報告したか」という問いについても、田中氏は「母です」と穏やかに即答していた。
ところで、今書いた「幼少期に〜」の一文は、最近話題になっている「ひきこもり」や「ニート」や「スチューデント・アパシー」の大学生や成人(多くが男性)が社会に出るためにいち早く脱却することが望ましいとされている親子関係(母親と息子の関係)の条件を満たしている。「母親との関係が密接であること」、「場合によっては父親が死去か離婚していること」、「母親が息子の無職を許していること」など。しかし、いち早くこの条件から脱却していたら生まれなかった芸術もある、ということを知っておいて損はないと思う。
母親と田中氏との関係について、「すばらしい親子関係。田中氏も母親思いで優しい人だ」という意見から、「受賞して小説が売れたことが全てであって、もしそうでなければ、ずっと母親のお金で食べているのだから、本来は自立心がなく許されない生き方だ」という意見まで、色々と見られた。ともかく、それだけ注目されているということだろう。
■ところで、昨月半ばにテレビで『借りぐらしのアリエッティ』の放映があったので、見た。この宮崎駿氏の一連の作品について、「宮崎氏自身の母親への思慕の情が作品に投影されている」と見る分析は、今では熱心なファンの間ではありふれたものとなっている。
『アリエッティ』においても、一部のファンから「マンネリ化した」と言われるほどに、それまでの宮崎氏の監督または脚本作品と同じく「少女性(幼い女)と母性(大人の女)の並行的な愛好」の構図をとっており、宮崎駿の理想的な女性像の体現である小人アリエッティは、最後に涙を流しながら、人間である翔(しょう)の指を自分から抱きしめる。どちらかと言うと、宮崎氏の描く少女は皆、一瞬は自分から男を誘っているように見える。
ところが、宮崎氏にとって、「女は男よりも弱いもの、男が守ってあげるもの(いわば手弱女=たをやめ)」としての設定でなければならない(それこそが女性の自然な姿として描かれる)ので、アリエッティは「わんぱくで勇敢な少女でありながら、翔よりも力弱く」作られている。女性の「力弱さ」が、こと『アリエッティ』においては、「物理的な小ささ(小人)」という設定で明確に示されたのは、興味深い。
ともかく、宮崎氏は、「実質的には恋愛感情でありながら、登場人物本人たちにはそれが恋愛感情であると気づかせない」ような作り方をし、本人たちがそれに気づく直前に話を止めている。いわば、宮崎氏の描く男女はいつまで経っても「初心」、すなわち「初恋」そのものを繰り返しているのであって、その後ろには「母親像から連続する女性像」というものがあるのだろう。何より、宮崎氏自身が、母親の面影と映画作品内の美少女たちとの不可分性を、今までに何度も告白している。
我々男性にとって、「初恋」というのは、母親への思慕の情を引きずりつつそこから離れようとする「あはひ・あひだ・ま(間)」の情にほかならないということだろう。
■小説で言えば、この私のサイトの「好きな本」のページに、川端康成の『片腕』を挙げているが、どういう話かと言うと、女性が自分の腕を肩から一本もぎ取って渡してくれたので、その片腕を家に持って帰って、それと一夜を過ごすという話である。
その女の片腕は、勝手に指で這って動いたり、しゃべったり、自分の本体である女のことを心配したりするのだが、川端康成が自らの頭とペンと紙だけを使ってこのような物語を生み出せる男であったということが、いかに彼が現実の犯罪的少女性愛に手を染めずに済んだかということを物語っているように、私には思える。
そして、その原点にもやはり、川端康成の中の「母親像」というものがあったようだ。よほど歪んだ男性でない限り、自分の母親に対して犯罪を犯そうとは思わない。「母親像」を忘れないで生きることのできる男性は、外出して世の中を見たとき、必ず他の女性への犯罪を犯す前に立ち止まる。あるいは、犯罪と同じことを芸術の中で解消できる。
川端康成にはこれができた。おそらく田中氏にも、高校卒業以来、これができていた。このことは私が思うに、とても男として「カッコイイ」ことである。おてんとさまやご先祖様に見られているのと同じように、自分の父親・母親に我が人生を見られているという感覚は、本来、人間のみならず動物にとっても、おそらく大切である。
■そういう意味で、宮崎駿が『アリエッティ』その他の作品の少女たちに持たせた清純な美少女戦士としての役割と、川端康成が『片腕』に込めた女性へのグロテスクでサディスティックな解体・破壊願望とは、紙一重、あるいは全く同一のものであると言ってよいのではないかと、そう私は読んだわけである。
川端康成の『眠れる美女』も、次から次へと女を部屋に連れ込んでは夜の床を試していくグロテスクな小説であるが、川端康成は、この『眠れる美女』と『片腕』とのわずか四年の間に挟む形で、私が自分の和歌にも時々美しい日本語を拝借している『古都』を書いていることは驚きである。
ところが、これらの作品について「対極的な違いを見ること」、そしてそれに「驚くこと」は、あくまでも「我々の勝手な解釈」に違いないのだ。川端康成は、その間もずっと「川端康成」だっただけのことだろう。
私は時期的に、『古都』のあとにこのグロテスクな二作品を読んだので、初めは少々驚いたが、「もしやこれは、現代日本における正当で健全な母親像・女性像の成果ではないか」と思うようになったものだった。
■ところが、どうも今の日本では、「男らしさ」(母親にとっては「息子の自立」)というものは、「母親像から脱却すること」(母親にとっては「脱却させること・自分から突き放すこと」)とほとんど似通ったものととらえられているようだ。
このような視点は、このブログに来て下さっているニートの息子さん方ご自身よりも、そのお母さん方のほうに共通して見られる、かなり固定化された価値観であるということに、私は関心がある。むしろ、意外にも息子さん方の中には、私と同じような人間観・社会観を持っている方がいらっしゃる。一方で、お母さん方の持っている価値観のほうこそ、「ニートではない息子さん」のいる今の多くのお母さん方にもごく一般的に見られる「価値観」であることが多いようである。
だから、お母さん方の疑問文の書き方としては、「私の息子は、今も無職で家にいて趣味の芸術やら考え事やらをやっているので、将来的に社会に出たり恋人を作ったりできないのではないかと心配しています」という「流行の」書き方になる。この「ので、」の前後には、本当は一切の論理的結合性がないにもかかわらず、なぜか無意識に結合させて我が子や他人を分析してしまう。そういう姿勢を持つことは良くないことだということに気づけば、我々はもっと心優しい人間になれるのではないか。
もちろん、そこに気づかない要因は、家庭の事情だけに収まるものではなさそうだ。「お母さんを思う気持ち」というものを男性が(親子が)恥ずかしがらずに堂々と言っても馬鹿にされずに逃げ切れる世代は、先の田中氏の世代で終わった。田中氏の世代は、団塊世代の最年長層の子供世代。「いつかどうにかなるか分からないが、とりあえず芸術なんかをやっている無職」の男が母親と気兼ねなくコタツで一緒に過ごせた最後の世代でもある。
ちょうどこのあとに、いわゆる厚労省や内閣府の「ニート」の定義や、精神病理における「スチューデント・アパシー」の概念などがあからさまに世に主張されるようになって、これに当てはまる若者たちが根負けするようになってしまう。
今では、母親に面倒を見てもらっていた幼少期・児童期・学生期からいかに早々に脱却できるかが、いかに「男性の自立」であり、いかに「母親以外の女性への正当な興味の芽生え」であるかのように、すでに学校教育の時期から強調されている気がする。
■日本人男性の自己・自我から「母親像」を無理に奪い去ろうとした場合に何が起こるかをもっと端的に物語っている小説には、例えば、水上勉の『越前竹人形』があると思う。
喜助は玉枝を嫁に迎えながら、玉枝に指一本触れず、一対の夫婦をかたどった竹人形を作る。人形には、喜助の中にある母親の面影が投影されていた。喜助は、玉枝が重病になってから初めて玉枝の手を握った。
このような母・息子関係は、元々個人主義を建国や民族の理念とする欧米社会(特にアメリカ)では、あまり理解されがたいものであるかもしれない。しかし、社会に出るためや妻を得るために自らの自我から「母親への思慕の情」や「母胎内回帰願望」を抹消しようともがいたとき、あるいは、親や社会や教育の圧力によってそのような「作業」を暗黙裡に要求されたとき、今でも喜助のようになる日本人男性は多いと思われる。
なぜそんなことになるかと言うと、自己責任を基盤とする個人主義的な女性観を西洋文明化の中で要求された男性の典型たる喜助や、母親から「早く自立しなさい」と迫られている今の日本のニートたちは、「母親の愛や面影や金銭的援助から逃れられていない自分」を「男らしくない」と自分で決め込んだがために、「女性の手を握る気力」が起きなくなったためではないか。
つまり、ニートや鬱病者、特にスチューデント・アパシーの男性に対して、「母親像」や「母胎内的な温かさ」を脱却させるような作戦はほとんど無効であることが多く、かえって「母親である自分の中に息子が一種の女性性を見ることを許す」ことが、実は健全・有効な手であるかもしれない、ということ。そして実は、このような作業をきちんと経ずに飛び越して社会に出てしまっている親子のほうがあまりにも増えているだけの話ではないか、ということ。
■そこで、田中慎弥氏や宮崎駿氏らの「強さ」とは何かと考えてみるに、母親への感謝や母親からの影響を世間に公表することを全く恥ずかしがらない「堂々ぶり」であるという見方があってもよいと思う。これは、まさに一種の「強さ」、あるいは「男らしさ」だと私は考えている。このような「強さ」を持ったニートは、実は最初から立派な「社会人」なのだと思う。
田中氏は有名人になられたばかりなので、とりあえず除くにしても、宮崎駿にしても川端康成にしても、「自分の母親像から連続しない独立した個性としての女性像」を描こうとしない点は共通している。逆に言うと、私が今、特に関心を持っているのは、「いつから(なぜ)日本人は、“母親像から連続しない独立した個性としての女性像”を確立することが、男性の自立であり、結婚実現への近道だと考えるようになったか」ということである。
しかも、とりあえず真っ先に「自立した男性」との評価を得てしまう男性とは、つまりは「経済的に自立した男性」のことだから、問題はもっとややこしくなる。しかし、そのような経済的自立が本当に全て精神的自立かどうかは、疑ったほうがよいと思う。
かつて、息子のために、隣村から妻のみならず妾までも連れてきて息子に与えたのは、ほかならぬ母親であった。それは余談だが、「我々男性が生きていく中で抱く女性像(少女性・母性)の中に先験的に自分の母親像が潜在しているような実存」というものが、なぜ「マザコン」という否定的概念にすり替わったかということは、非常に興味深いところである。
「母親の面影のない女性を男は選ばないものだ」という、おそらく真理であるこのフレーズを、今は我々男性自身が理解できていない時代であるかもしれない。基本的には、「母親の面影」というものは、「男性の自立の障害物」になるものと考えられるようになったようである。しかも、このような価値観は、むしろ「ひきこもり」や「ニート」男性(息子)側よりも、母親側の世代によって強く共有されているのが非常に不思議であると私は思っている。
■また和歌の話になるが、和歌における男性の女性観というものは、基本的に「宮崎駿」的、「川端康成」的なものであると言える。むしろ、「少女性(幼い女)と母性(大人の女)の並行的な愛好」というものが、恋の歌の叙情の基礎を形成している。川端康成の『雪国』や『古都』(男性の手の入らない清廉な女性のいる風景)と、『眠れる美女』や『片腕』(男性の手の入ったあとのグロテスクな光景)との、「あはひ・あひだ・ま(間)」を詠むという能力が、和歌には必要である。
私は、その精神性を保つように心がけながら、和歌を詠んだり、小説を鑑賞したりしている。
■若い時期から息子を自分から突き放そうとするからこそ、息子の中に「自分が拠って立つ(基盤とする)女性像」が抜け落ちてしまい、喜助のように女性に全く手を出さないか、逆にいきなり性犯罪に走ったりしてしまう。昨今増えている痴漢などの性犯罪は、本人のせいでもあるが、親や社会のせいでもあるのではないか。
だから、私は、「自分もまた女性という性的存在であるということを、息子と性的関係を持たずして息子に暗黙裡に教える」ということが、再び日本の母親が取り戻したほうがよい教育観だと思っています。このことがきちんとできている家庭に育った男性は、無職で鬱病であっても、どこか目が生きている。私の勉強会でお会いしてもそうです。
posted by 岩崎純一 at 23:51| 社会論・人生論
