2010年07月23日

サイトとブログを移転してきました。

このたび、旧サイトと旧ブログから、現在のサイトとブログに移転して来ました。

旧ブログの最近の二つの記事だけは、この前に載せております。
posted by 岩崎純一 at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項

2010年07月16日

女性による女性疎外

僕は、文字や音などに色が見える共感覚や、女性の排卵や月経を遠くから感知できる共感覚を告白し、大学の研究者にまで自分の体験を語ったり体験記録を持参するようになって、特に後者の共感覚に関連して、逆にそこで出会った女子学生さんたちやDV被害女性との交流をはじめ、10代・20代女性の性の悩みに触れ、勉強させていただく機会が増えた。

そして、性的トラウマ・性的被害によって重度の解離性障害や対人恐怖症を引き起こした女性のご意見に触れる機会も増えた。

知能が「女児退行」を引き起こした女性もいるため、普通に言葉のやり取りをすることさえ難しいこともあるが、僕としては、その恋愛観・結婚観を、差し支えない程度に聞かせてもらってきた。

性的な問題を抱えた女性たちの中には、「将来一緒になれるたった一人の理想の男性」を誰よりも求めていると言うにもかかわらず、「結婚」という概念を嫌ったり怖がったりする女性たちが、一定の割合いる。僕が話を聞いてみるに、あまり分類するのはどうかと思うが、次の三点のいずれか、または全てが、彼女たちの心にある気がする。

●結婚が「長期売春契約」であることへの恐怖
●結婚が「国家・公的機関への性行為相手の登録」であることへの反発
●結婚が「女としての恥じらいの放棄になる可能性」への不安

僕が感じたことは、彼女たちはマルクス主義さえ超えた「日本女性特有の穏やかなアナーキスト(無政府主義者)」だということだった。順番に、この女性たちの主張をまとめて文章にしてみた。


●結婚が「長期売春契約」であることへの恐怖

「男性と結婚することは、その男性と長期に渡る売買春の契約を結ぶことであり、私は体を売りたいわけではないから、結婚という決まりはいらない。性に奔放な周りの女性とうまく折り合っていけないようなこんな私が大好きになる男性も、きっと私を買いたいのではなく、本能的に守りたいと思う男性のはずだ。頑張って働いてくれている男性に夜に自分の体を提供するという当たり前のことが、紙切れがないとできない女性のために、結婚はあるんだと思う。だから、実は私がなりたいのは、“愛する一人の男性にとって最高の娼婦”なのであり、“最高の娼婦”になりたい女は、結婚という長期売春契約を拒否するはずだ」

▲結婚が契約であることは言うまでもないが、さらに結婚を一種の売春と見なす考え方、結婚制度を使わずに「真の娼婦」になるべきが女だという考え方は、何もこの女性たちだけの「異様な結婚観」ではなく、ニーチェ・キルケゴール・デリダなど過去の哲学者にも見られる。

むしろ、この女性たちの「結婚回避」は、「私は結婚しなくても、たった一人の理想の内縁の夫だけに心身を捧げる」という固い決意と表裏一体で、彼女たちは「契約の紙切れの有無」が自分の気持ちに影響しないことを知っている。


●結婚が「国家・公的機関への性行為相手の登録」であることへの反発

「私が将来、誰かと結婚したら、その男性は国家や地方公共団体に、私の性行為相手として正式に把握されることになる。私だって、同じく把握される。自分たちが属する国家・公的機関の男性と女性たちに、私たちの性的関係の存在は把握される。それは結婚相手に迷惑ではないだろうか。私が愛する男性は、私がそんなことになるのを喜ぶような人だろうか。きっと違う。私はそんな人は選びたくないし、そうはならないと思う。その男性と私とが本当に愛し合うには、結婚制度を回避して、内縁でなければならない。内縁であることによってしか、私たちの愛は国家を超越することができない」

▲これは、女性たち自身は気づいていないだろうけれども、病院にかかれば妄想性の人格障害や統合失調症と判断される一歩手前の状態であり(僕は「あなたたちは正常な女性だ」とだけ言って、通院の勧めなど毛頭しない主義だが)、僕の考えでは、「国(くに)」というものが日本人にとって「国家」ではなく「ムラ社会的共同体」であった時代への回帰願望だと思う。

日本が近代的な「国家」ではなかった時代には、自分たちの愛の上に立つ権力なんてものはなかった。江戸期の幕藩体制でさえ、相対死の流行に脅かされた。今や、自分が愛する男性の仕事や生き方をコントロールする「主権国家」なんて超越概念があることが悔しくてたまらない。だから、自分が属する国家の「結婚制度」をあえて外れて「内縁」に徹することが真の愛だ、という考えになっている。

また、僕が自分の持つ「女性の性周期を察知できる共感覚」と付き合うのに反面教師的に一通り見てきたマルクス主義界隈においては、今でも「女性の公有」というものが、盲点でありながらも議論されることがある。「女性公有化」の発想は、マルクス主義者たちの絶望から来ていると思うが、上記の女性たちは、マルクス主義をさえ通り越した「優秀なアナーキスト」であると僕は思う。「私が愛する理想の男性の上に立つ国家などあるはずもない」という彼女たちの「真剣な妄想」は、僕にとっては「正常な日本女性に特有の感性が一気に発散されたにすぎぬもの」に思える。


●結婚が「女としての恥じらいの放棄になる可能性」への反発

「私たち女性というものは、私は誰と性行為しています、なんてことは公に語ってはいけない。そんなことは語らないという恥じらいがないといけない。結婚するということは、それを周りの知人や隣近所に、無言にして一気にしゃべるのと同じことになる。だから、私のように、自分が周りの女性以上に遠慮がちで、人付き合いが苦手で、控えめな女性だと知っている女性は、結婚せずに大好きな一人の男性と性行為していけるような人生を送ったほうが、自分の性格に合っていて、幸せかもしれない。今の日本女性の多くにとって、結婚とは、一見すると収まりの良い言葉に聞こえるけれど、それまでに何人か付き合って性行為してみた男性との関係を帳消しにするための言い訳がほんの少しでも入っているのだとしたら、私が結婚するということは、私にも過去に結婚相手以外との性行為体験があったと勘違いされる要因にもなりかねない。だから、現代日本において真に家庭的な女は、結婚に向いていない」

▲これは何人かの解離性障害の女性に共通していた主張をまとめたものだが、これこそ、「一部の日本女性の疎外感」を端的に表していると思う。解離性障害の女性は、自らの運命を呪って同性攻撃に走るのではなく、むしろ周囲の同性に対する無批判を保ち、淡々と社会を分析した結果として心身に防衛態勢を張っている場合が実際はほとんどである。稀に、単一の自我による防御能力を大幅に超える社会的外圧・心的外傷を受けると、解離性同一性障害を引き起こす。先の「私の性格に合っていて、幸せかもしれない」「勘違いされる要因にもなりかねない」という言い回しにも、「攻撃性」よりは「人柄の良さ」が感じられる。


◆一つ気づいたことは、今現在、鬱や対人恐怖や強迫性障害にかかっている若い日本の女性には、「周りの女性との性観念の違いによる焦燥感・圧迫感・絶望感」を持っている女性も多いということだった。女性の社会進出が叫ばれる中、女性どうしの性観念格差もかなり広がっているようである。

周りの人たちにとっては他人事、ささいなことだと感じられることについても大変な深さで悩んでいる女性は、それなりにいるということだと思う。そして、その当初の悩み自体は、異性である男性から見ても大変に美しいものだと思えていたものが、あまりに悩みすぎると、自分だけが時代にそぐわない女性なのではないかという錯覚や妄想に陥り、なかなか気分の回復が難しいところまで行き着いてしまうようである。

例えば、僕のところに来た質問で、「私の大学の親友が、バイトで水着になったり、少し脱いだりして、写真まで撮られてきました。それで私はめまいがして倒れそうになりました。世に自分の水着姿を売る、自分の裸を売る、というのが、今の女性の普通の感覚で、私のほうがおかしいのでしょうか?」というものがある。

もうこれだけで、この女性にとってみれば、自分以外の女性全員が親友のようなタイプの女性に見えてしまうのだと思う。ただし、親友のことが本当に好きだったからこそ生じた衝撃や悩みであることは、間違いないと思う。

それに、このような質問は、「本当の質問」でもあるだろうが、「私のほうがおかしくない女性だと言ってほしい」という願望から出た質問でもあると共に、「私は親友みたいな女性にはならない」という意思表明を誰かに同意してほしいという願望から出た質問でもあると思う。こういうことについて、かえって同性よりも異性に相談しやすいと感じる女性もいるようである。

この後、この女性が親友との関係をどうするかといったことは、どうしてもこの女性自身が頑張って考える以外にないと思うのだ。

どこからどこまでを「普通一般の女性の常識・社会通念」と呼ぶかによっても違ってくるけれども、悩みの主たる要因が「性的なこと」である場合を今は考えたい。

女性による女性の性的疎外、つまり、「私ばかりが周りの女性から取り残されている。でも、やっぱり私は周りの女性の性観念について行けない」という感覚を覚える女性について、僕は社会学的見地からも非常に関心を持って見ている。「私ばかりが」という部分は確かに思い込みすぎかもしれないが、「取り残されている。ついて行けない」という感覚は、「取り残されたくない。ついて行きたい」という心境ではなく、「取り残され、ついて行けないと、女性として生きる意味がないのだろうか」という心境である限り、その女性個人の問題として終わらせるわけにはいかないからだ。

そして、こういう不安を抱える女性に話をよくよく聞いてみると、男性だけではなく、女性の友人や同僚からも、「あんたは彼氏もいないし、男性経験もなさそうだし、ホントにつまらない女だね」などといった言葉の暴力、セクハラ、パワハラを受けている女性が少なくない。

「男性が女性を解離性障害などの症状に陥らせる」のはいとも簡単で、性的暴力がその主たる方法に当たり、多発していることは確かだが、実は「女性が女性を精神疾患に陥らせる」陰湿ないじめ、セクハラ、パワハラなども進行しているというのも、また現実なのだと思う。

自分が原因で生じたのではない(同性からの威圧によって感じざるを得なくなった)性的な悩み自体が鬱や対人恐怖や強迫性障害や解離性障害の主たる要因になっている女性が、表に出ない形で確実にいるということを、しっかりと心に留めておきたいと思う。

このような神経症的な症状に陥っている女性に対してとるべき姿勢とは、「目の前の女性の症状を治して、“正常な”女性に戻してやる」という姿勢ではなくて、「目の前の女性が鬱や対人恐怖症や強迫性障害であることは、それ自体が“人間的な人間”であることの一つの証であり、話は思いきり聞いてあげる」という姿勢ではないかと思う。

昨日は久々に東大に行って、自分の感覚や自閉症観・精神病理観などについて話をしてきた。プレゼンではなく、先生との対談のような形になったが。途中、女性の体の状態(排卵、生理など)を察知することがある僕の共感覚の話から、エロティシズムとは何か、自己と他者とは何かについて、哲学的な議論になったのが面白かった。
posted by 岩崎純一 at 18:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2010年07月09日

人生は「賭け事」

お久しぶりです。あまり更新していなくて申し訳ないです。まだ少し忙しいです。時間的にというよりは、精神的にですが。

色々と陰で活動しているので、またご報告申し上げます。

そういうわけで、今まで通り、鬱や対人恐怖や強迫性障害などの心の話や、共感覚の話や、自閉症の話など、何でもメール相談は受け付けています。


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●さて、世の中はどうなっているかと言うと、大相撲や参院選の話題で持ちきりですね。私は今28歳ですが、大相撲は3歳くらいからテレビで見ていました。かれこれ25年間、大相撲ファンをやってきたことになります。

子どもの心には、ただ単に「あのお相撲さん、すごいぜ!」という感慨だけが焼き付けられるわけで、私の脳裏にも、貴闘力、霧島といった名力士の姿は焼き付いているわけです。まさかあの力士たちが、今毎日のように頭を下げて謝罪している大嶽親方、陸奥親方になろうとは、夢にも思わなかったわけです。私の中での大相撲は、厳密には十年前で止まったままになってしまっています。


●秋葉原で無差別殺傷事件を起こした犯人の男性は、私と同年齢、誕生日は私より5か月遅い男性でありました。彼は、2008年6月8日(当時25歳)に秋葉原にトラックで突っ込んでいます。

彼と私たちとの間には、「今の20代男性」として共通点があることも確かです。自分だけが浮いているのではないかという違和感、自分の人生だけが他の社会人と違うのではないかという猛烈な葛藤と共に20代後半まで生きてきたこと。そして、それは本当だろうと思います。しかし、そこから先の対処が違う気がします。彼は「やはり自分は負けている」という結論に至ったのでしょう。

私は男なので男のことしか言えませんし、男の世界である大相撲の話を出してしまったので、男のことだけ書きます。

「勝ち組」などという言葉をやたらと聞きますが、それは目先の栄誉や利益のことを言っているにすぎないと思います。目先の賭け事で得られる「勝ち金」に似ていると思います。そういう生き方をする男もいるのだと思います。でも、少なくとも私は、人生そのものが賭け事のようだと思いますし、競馬などのギャンブルをやったことがあるか否かにかかわらず、そもそも人生という賭け事に生きる男を最も強い男だと感じます。

そもそも男は、「死ぬときに勝っていれば、それでよい」と思います。「勝つ」相手は、他人ではなく、「自分が人間であることの実存苦への執着」であり、「人生を勝ち負けで判定する軽率な思考」だと思います。「わしの人生、これにておしまい。良し」と死ぬ瞬間に言えた男こそが、自己自身に対する真の「勝ち組」だと私は思います。

秋葉原の犯人や、先月の22日に広島のマツダの工場で自動車暴走による通り魔殺傷事件を起こした犯人は、「人生という賭け事に生きること」を諦めた男性の「典型的な末路」だと思います。決して男性の「珍しい異常な末路」だとは思わないほうがいいと思います。

彼らは、人を殺す直前までは、周りの男性の誰よりも立派な人生哲学者になれただろうし、極めて健全に現代日本社会の病理を見抜いていたかもしれないものを、人を殺すところから先は、やはり私とは違うタイプの人間なんだな、という思いを抱いたものです。
posted by 岩崎純一 at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論