2010年10月28日

身を焦がらしの、木枯らしの風

東京でも一昨日から木枯らしが吹き始めた。昔の日本人が木枯らしをどうとらえていたかを知るには、和歌を見るのが一番分かりやすいと思う。

和歌の世界では、「こがらし」という語は、「木枯らし」と「焦がらし」の掛詞として多用される。掛詞というよりは、「こがらし」という音は元よりそのような意味として生じたと言った方がいいかもしれない。

以下は代理詠(男性が女性の心を詠んでみせたもの)の二首。

●消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露(藤原定家)

消えわびぬ(=消えてしまいそうな私。)
→(季節が冬へと)移ろう秋の色に(木々の)実を木枯らしの森の下露
→(他の女性へと)移ろう(あの)人の飽きの色に(私は)身を焦がらしの漏りの(私の)下露(=涙)

●思ひ入る身は深草の秋の露頼めし末やこがらしの風(藤原家隆)

(今でもあなたに)思ひ入る(私の)身は深く(・さ)、京都は深草に広がる草の(上の)秋の露(のようだけれど、あなたは私にもう)飽きの露。(さんざん)頼みにさせた末に吹くのは、(私の)焦がらし(の身に)木枯らしの風。

これらは、順番に初句から詠んだと言うよりは、三十一個のマス目を書いて、そこに綿密に一文字ずつ入れていったと思われるほど、非の打ちどころのない歌となっていると思う。


●秋の空に胸をこがらし吹く夜半の人知れず霜になるる身の果て(岩崎純一)

「秋の空の下で、(あなたの)飽きの(心)に胸を焦がらし、木枯らしが吹く夜半の、人知れず霜に熟るる(柿などの)実の(朽ちる)果てのように人知れず霜に慣るる(私の)身の果て」

これは僕の歌だが、掛詞というものは、字面上は言葉遊びのようなものだから、ある程度までは古語の訓練のみで詠めるようになる。

しかし、本当の和歌の能力とは、先の歌で言えば、「頼めし末にこがらしの風」でもなく、「頼めし末はこがらしの風」でもなく、「頼めし末やこがらしの風」こそはピッタリであると直観できる能力なのだろう。

こちらの能力は、訓練の内容や歳月、年齢という問題ではなく、日々の生き方、人間性、人格、人生観から滲み出て来て到達できる能力で、この「や」も、そのような能力で紡ぎ出された境地としての「や」なのだと思う。私は、まだその能力と境地に自分が達していないと感じているので、精進したいと思う。

一昨日発表されたような、「はい、今日吹いたのが木枯らし一号です。昨日までの風は木枯らしではありません」といった、今の気象庁が設定している風速の境界や「一号」という概念は、和歌では考えなくてよい。だから、今の気象専門家にとっての木枯らしと、和歌に詠んで自然な木枯らしとは、違っている。

面白いことに、梅雨入りや梅雨明け、春一番、木枯らし一号などは、後で気象庁が修正することがあるが、あの修正後の方が、古来の和歌に詠んである梅雨や風の感覚に近いことがある気がする。昔の日本人は、目で観測していなくても、答えが最初から体で分かって詠めたのかもしれない。
posted by 岩崎純一 at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論

2010年10月15日

サイトに新しいコーナーを設けました。

サイトに新しいコーナーを設けました。これまでに交流を持ってきた共感覚や精神疾患の方々について書いています。

http://iwasakijunichi.net/seishin/

ずっとノートに付けてはいますが、いざこうしてみると、色んなことが判明します。例えば、共感覚者が精神科・心療内科・神経内科などに行って、「文字や音に色が見える」と訴えた際に、医師やカウンセラーも共感覚を知らなかった場合、どういう対応をしているか、その傾向がわかります。それもあって、載せてみたのです。

「どの文字や音が何色だ」という訴えが、幻視・幻聴と受け取られた場合は「統合失調症」、「玄間のカギは何度も確認しないと気が済まない」などと同じく「この文字はこの色でなければ気が済まない」という強迫観念と受け取られた場合は「強迫性障害」と診断されていることがわかります。
posted by 岩崎純一 at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項

2010年10月04日

僕の共感覚を理解していただく上で

以下は、僕の共感覚を理解していただく助けになる良い文章だと思っています。数年来交流のある、松本孝幸先生の文章です。僕の親世代の男性です。

僕は、特殊な感覚を持った人間として、色々な研究者・専門家から関心を持たれています。けれども、嬉しくない場合は一つもないと言っても、最も嬉しい形での関心の持たれ方というのは、僕にもあります。

心をこめて人に接し、平易な日本語で丁寧に書く作業が、いかに知的で深遠なことかを、以下の文章は教えてくれるように思います。

●『音に色が見える世界』  岩崎純一
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/09yonhon10.html

●エロス核と対女性共感覚
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/kokoro9.html

●嗅覚と共感覚
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/watoson100.html

●心的現象論と共感覚
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/ryoukai29.html

●アフリカ的ということ(10)
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/indian107.html

●「視覚で考える」という記述(1)(2)(3)
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/utigawajihei337.html

●「共感覚で考える」ということ
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/utigawajihei338.html

●共感覚と自閉症
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/utigawajihei339.html


2013年10月17日 追記
 この松本孝幸先生の文章へのリンクは、以下のページにまとめました。

http://iwasakijunichi.net/joho/index2.html
posted by 岩崎純一 at 13:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の共感覚