2010年11月25日

感受性豊かな人間が好きである

kame.jpg 原爆を日本に落としたのが、アメリカの「狂気」ではなくアメリカの「理性」であるように、放っておいたら暴走するものは人間の「理性」のほうであるだろう。

 最近、私の身の回りでも、DVやいじめなどを目にする。これらの加害者が失ってしまった大切なものは、むしろ「狂気(狂おしいほどの気持ち)」や「感性」や「感受性」のほうだと僕は感じる。

 僕の身勝手な考えでは、DVやいじめ、自殺問題などをうまく乗り越えるには、もっと日本人が「感受性」や「狂おしい気持ち」を取り戻す以外にないと思う。あとは、政策よりは自分たちの本能に任せてみることのほうが、よほど重要だと僕には思える。

 鬱病などの「心の病」を抱えた人は、「感受性」や「狂おしい気持ち」を持っている人かもしれない。それは、僕から見れば、救いだ。なぜそんなことを思うかと言えば、僕自身が「感受性」を信頼して生きている人間だと思うからだ。

 いや、そもそも、「感性」「本能」「先天性」と「理性」「知性」「後天性」とを分割して、恋愛・親子愛などは前者に属し、仕事・職業・契約関係などは後者に属し、これらのそれぞれは社会学者テンニースの言うゲマインシャフトとゲゼルシャフトの契機となるだろう、などという仮説は、西洋哲学においてさえ、五十年以上前までに出尽くし、批判もされたのだった。

 本当は「感性」と「理性」の区別というものは存在しないのかもしれない。この「感性」と「理性」の混合状態は、例えば、「感受性」や、数学者岡潔の言う「情緒」といった言葉で表した方がよいのかもしれない。

 僕が最も好きな人間とは、「感受性」や「情緒」や「狂おしい気持ち」が豊かな人間のことだ。そういう心を話題として僕のところに持ち込んで、僕と交流して下さっている人達のことが、僕はとても好きだ。

(写真は自分で撮影)

2010年11月24日

スラフォーリア研究会サイト更新

スラフォーリア研究会のほうに「思想体系」や「文法解説」を掲載しました。メンバーの方にはパスワードなどをお送りします。

文法解説と言っても、言語学だけでなく、哲学・国語学・東洋思想・和歌・精神疾患など、僕の頭の中にあるものを色々と含めた膨大な解説になっていますので、きっと読んだら疲れます。(!?)

たった一人だけ、スラフォーリアを「ほぼ完璧に」使いこなせる重度の解離性障害者で、現代の標準日本語によるコミュニケーションが苦手な方がいらっしゃいますが、この方はかなり哲学的な問いを僕に考えさせてくれます。

つまり、この方が他者に向かって、「私は今の日本語は話せないし、苦しいけれど、スラフォーリアなら話せる」という主張をしようと思ったら、現代日本語ではできなくてスラフォーリアでやるしかない、ということです。普通の言語学ではこんな問題は起こりません。だから、僕のやっていることは言語学ではなくて哲学なのだろうということです。

人間にとって「他人に自分の気持ちを伝えるとはどういうことか」ということを、これからも考えていきたいです。

鬱病や解離性障害を負った方々となぜそんなに会話したいかと言えば、やはりそれは僕の情熱や執念がそうさせているのだと思います。「こういった方々がなぜ言語障害を負いやすいか」を、感受性と論理性の両方から語っていくことが重要なのではないかと僕は思っています。
posted by 岩崎純一 at 19:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語論

2010年11月05日

人の悩みをそのまま受け止めてみている

サイト内に先日設けた以下のページや、私の普段の「精神病理観」について、興味深い質問を頂いたので、答えてみますね。

http://iwasakijunichi.net/seishin/

「医師でもカウンセラーでもない岩崎さんが皆さんの症状を目にすると、なぜあんなに医師やカウンセラーの診断やモノの考え方とズレがあり、解決の仕方(心の病との向き合い方)も違うのですか?」

これは厳密には、僕自身にも言葉ではうまく言えないのです。

結論から言うと、僕と同じような考え方をする医師やカウンセラーもいれば、そうでない医師やカウンセラーもいる、としか言えないと思います。

ただ、この重大な問いをこの回答だけで済ませるのもおかしいので、以下に詳しく書いてみます。

僕がやっている作業をそのまま書くと、「いわば皆さんの感覚や心の症状のお話を聞かせていただいたときに、その感覚や症状がグニャっと僕にめり込んできて、僕もそれをそのままズサッと受け止めて、スルメのように噛んでみて、和歌や将棋や武道のように僕がワザを返して、しなやかに答えを出そうと試みたら、上記のページの僕の判断になった」ということだと思います。

だから僕は、論理的に判断しているのではなく、ある意味では横着し、サボっているのだと思うのです。

僕は、自分の共感覚や上記のページの方々の精神疾患と向き合うときに、本心では「ただ人間として温かくありたい」ということしか考えたことがないのです。でも、「温かい感じって、どんな感じ?」と人から聞かれたら、やはりそれなりに論理で答えられた方が、よりカッコイイのだと思いますね。まだまだその力が足りない僕ですが。

確かに、僕にはなぜか、およそ生理学的に定義されている共感覚や精神疾患の中で、頭と体で理解できないものが、ほぼ一つもないです。それは、幸か不幸か、とても苦しいのですが、ある意味ではアドヴァンテージかもしれません。(いや、アルコール・タバコ・酒への依存だけは、頭でも体でも理解ができないのですが・・・。)

「皆さんから相談されることは、僕の中に先験的に準備してあり、体験から一つずつ取り出して見れば、それほど間違えることはないだろう」という横柄な矜持はあります。「ああ、あの症状なら、僕の体のこの辺に入ってるよ」と感じて、「皆さんのお話から感じたことを、最もそのまま受け止めて、答えをはじき出したら、こうなった」ということになるのです。

しかし、それだけでは非論理的な言い訳なので、少し論理を詰めて考えてみますね。こういう場合は、「精神科医」や「心療内科医」とはどういう仕事なのかを考えてみるのがよいのではないかと思います。

上記のページに限らず、普段皆さんがテレビや精神科・心療内科で目にする精神疾患(鬱病、社交不安障害など)の名前が色々とあると思いますが、これらは日本人が考え出したものではありません。

現在のそれらのほとんどは、世界的に権威のある精神疾患のリストに載っているもので、リストには、DSM-IV-TR(アメリカ精神医学会)やICD-10(世界保健機関)と呼ばれているものがあるのですが、これらに共通しているのは、「操作主義」というモノの考え方です。特に前者はそれを徹底するために改訂されたようなものになっています。

操作主義自体は、心理学・哲学・物理学など、どの学問体系にもありますが、ことに精神医学において、かなり簡単にまとめると、「思想や立場の異なるいかなる他者(医師・第三者)であっても、患者の精神病状を診断する際、定められた操作(観測)によれば必ず最後には同じ“〜障害”という病名に達する」ことを前提とした精神病理観のことを「操作主義」と呼ぶのです。

皆さんが精神科に行って症状名を診断されるのも、操作主義によってそうなったのであり、また日本の社会福祉士・介護福祉士・作業療法士などの履修過程・資格試験も操作主義的に構築され始めているので、これらを目指す人は、知らず知らずのうちに患者さんや他者を操作主義的に見る目を訓練されているということでもあります。

もちろん、その手本はアメリカにあります。もっと言うと、アメリカの支配層に多いアングロ=サクソンとユダヤ人の混血人種が(一神教的な意味での)「神」概念をどうとらえているかというところから「操作主義」の定義を説明する必要があるのですが、それは大変に難しい話ですので、省略します。

操作主義を取り入れた精神病理学に全く利点がないわけではありません。むしろ当初は、それまでの時代の精神病理観を是正しようとして生まれたものだと言えます。

「私は心の病かもしれない」とネットで自己診断した人は、見覚えがあると思いますが、精神疾患における操作主義の最も簡単なものは、いくつかの条件(1〜10番など)が書かれていて、「このうち6つに当てはまった人は〜障害である」といった「誘導」を伴う診断基準として現れます。

つまり、突き詰めると、将来は理論上、医師がやっても素人の主婦が自己診断しても同じところに行き着くような診断基準が構築できるという立場に立っているのが、今のアメリカの精神医学や、それに追随する日本の精神医学です。

これを別の視点から、分かりやすく説明してみますね。

「操作主義」とは、「その患者の元来の性格や精神症状が起こるに至った原因への考慮を放棄しても、そこになお残る客観的観測を先に信用する」、つまり、「表面上に現れた病状だけを操作的に観測し、診断基準に合うか合わないかの判断以外の判断を排除する」という立場でもあることになります。

例えば、「過去に体に暴力を受けたがために、Aさんは何度も体を洗わないと気が済まない強迫性障害になった」とはとらえず、「他者がAさんを観測すると、何度も体を洗わないと気が済まない症状を呈している。これを操作的に診断すると、DSM-IV-TRにおける強迫性障害というものである。強迫性障害者の脳を調べると、ドコソコのナントカ物質がおかしいから、それを薬で是正すれば、原因に言及しなくとも、原因をとらえて駆逐できていることになる」ととらえるわけです。

これは、「診断」の主体が「人間(医師・家族など)」から「記載されている診断基準そのもの(非人間)」へと移ることを意味します。これによって、セロトニンなどの脳内物質を薬で制御して精神疾患を快方に向かわせる考え方をすることが許されることになります。もし快方に向かえば、原因が判明しなくても(例えば、精神疾患罹患者が告白しにくい過去のレイプ被害などを医師が聞き出さなくとも)、原因に正しく対処したことにしてしまいます。

つまり、実際の治療などの際に、「過去に体に暴力を受けた」といった個々人の原因やトラウマ・性格に目を向けることが理論上は放棄されていくわけで、それら個々の要因とは無関係に、「この症状を呈するものには、セロトニンを注入すれば回復し、それ自体が病理の原因に作用して原因の解決にもなっている」とする考え方が可能になったわけです。

操作主義を推進する立場の人たちは、「この考え方は、客観的な診断基準をも完成させると同時に、むしろ、個々人の性質や原因を従来以上に見つめることになる」という言い回しで非難を回避しています。

厳密にはこれが、操作主義者からすると、論理実証主義の受動的な態度と一線を画する論理になるのだろうとは思うのですが、僕の目には少なからずレトリックに映ってしまいます。

このような具合ですから、操作主義では「神経症」という概念が放棄されることになります。案の定、日本もそれにならって、「神経症」を「障害」などに言い換え、「体を何度も洗わないと気が済まないAさんの症状」は、「強迫性障害」であって「強迫神経症」ではないとされる時代になりました。

「神経症」とは、鬱病や統合失調症とまでは言えない軽度の精神症状で、脳や体の器質的・先天的な異常によらないものを言っていた概念です。

例えば、日常会話でも「私は神経質な人間です」とか「神経が鋭い人だね」と言いますが、本来の「神経症」とは、この程度の「良き」曖昧さを保っていましたが、操作主義によって定められたアメリカのDSM-IVは特に顕著にこの「神経症」の考え方を放棄しました。

「不安神経症」は「パニック障害」などに分離・整理されました。これらは単なる名前の違いではなく、モノの考え方、人間観の違いに拠ります。「解離性障害、適応障害、摂食障害、身体表現性障害」なども、従来の「神経症」や「ヒステリー」などを放棄して生まれました。

これが放棄されたということは、つまりは、「元々、器質的にセロトニンが少ない人には、その性格や精神疾患の原因にかかわらず、セロトニンを入れてやれば、原因が何であれ、原因を駆逐していることになる」ということになって、操作主義的な目線が徹底されていくことになります。

ただし、僕は、「私はどうやら強迫神経症らしく、手や体を何度も洗わないと気が済みません」といったご相談を頂いたようなときは、「そのまま」の言葉を受け止めます。

その人の専門用語の知識とは無関係に、その人は自分の症状を他者である僕に対して述べるのに、「キョーハクシンケーショー」という言葉と音の響きで訴えたい、叫びたいと「感じた」からそう言ったのであり、それがその人の生きる姿なのであって、そこを否定するモノの考え方を、僕は批判したくなるのです。

僕としては、「これら“素人なりの直観力”を否定してしまったモノの考え方が好きになれない」と言い続けたいと思っていて、その一環として、上記のページを書いてみたのです。

僕は、「日本人の鬱その他の精神疾患は、日本人自身が、しかも日本人の中で本当の心の分かる日本人が語るべきである」という考えの持ち主ですが、少し甘く見るとしても、今のアメリカの人間観を輸入して使っている日本の精神医学界よりも、ドイツの精神病理観などを参考にしていた頃の昔の日本の精神医学界の方が、ずっと日本人の性質に合っていると思っています。

最後になりますが、要するに僕は、この「アメリカ型市民社会にのみ通用するような操作主義的な人間観のグローバル化」に以前より疑念を抱いています。

とにもかくにも、上記の僕のページでは、診断結果もズレていますが、そもそも人との向き合い方・モノの考え方自体がズレている可能性はあります。だから、上記のページは、精神疾患を語ったページと言うよりは、単に岩崎純一という人間のモノの考え方をそのまま書いたものにすぎないと思っていただけるとありがたいです。

僕は例えば、「人の心の傷が分かる人物が、精神疾患に陥った人のそばにいて、手を取り合って話を聞けば、二人の知らぬ間にセロトニンが脳内で勝手に増減して快方に向かうことはあり得る。それでもなお効果がなかった場合に初めて、薬で治すことを考えたほうがよい」ということを本気で信じている人間なのです。

2010年11月01日

就活よりも生き方が大切だと思う

今日も不況・就職難のニュースをテレビで見たが、就活をしている新卒(見込み)の学生たちが、「早く内定をもらえるよう頑張ります」、「将来のため、老後の安定のために、正社員の座を勝ち取りたいと思います」と言っているのを毎日のように見ると、僕も一瞬は、「大人たちと不況が彼らを苦しめているのだ」という同情が生じるのだが、一方で、本当にそれだけかな、とも思う。

よく考えてみると、人間にとっての「将来」、「ゴール地点」とは、「老後」(リタイアした後の人生)ではなくて、「死」である。「安定のために就職せよ」と言う人がいるが、自分の墓場に持って行けないもの(お金など)は、元来、全て不安定である。不安定なものばかりを必死で追い求めることは、親孝行ではないと思う。

人生の中で唯一安定しているもの、親を安心させられる唯一のものは、「自分はこう生きたい、こう死にたい」という心でしかないはずだ。そして、そのことに親子そろって気づいていないケースが非常に多い気がする。

卒業を間近に控えながら、「就職活動が苦しい」と感じ、「正職につかずに、のんびりとバイトしたい」、「今は仕事せずに、本でも読みたい」という目標を持つに至った人は、本当は将来や他人のことをよく考えている人だと思う。

普段は、「好きなことばかり言ってないで、就職すべき」という圧迫を周りや社会から受けているから本人が気づかないだけで、実は「生活の安定」という「人生の途中」への投資ではなく、「死」という「人間にとっての究極の将来」に投資する勇気があると私は感じる。

もちろん、最初から「自分はこの会社に勤めたい」という目標があって夢が叶った人や、苦しいけれども仕方なく現在の職場を選んだ人は、それで構わないと思う。

そもそも、「安定した生活」というものは存在しない。本当は、この世に「定職」というものは無い。普遍的に安定しているのは、「人間は死ぬ」ということだけだ。

どれほどお金があっても、死ぬ瞬間にはその無力さを知り、「自分の人生、これでよかっただろうか」という思いだけが残るはずだ。それでは、とても「安定」のために生きたとは言えない。そんな生き方は、「安定志向」どころか「不安定志向」の生き方であり、むしろ「親不孝」ではないか。

大学在学中から就活(就職活動)に走る今の日本の現状は、「生活の安定」や「親孝行」をスローガンにした、「本当の意味での将来」である「死」からの逃避行動でもあると思う。

逆に、「周りの友人が皆就活を始めているのに、自分だけがその流れに乗ることができなくて、苦しい」と感じている人は、就活から逃げているだけであって、将来や人生から逃げているわけではない。

そこを、もっと周りの家族や社会が分からないといけないと思う。そして、さらに「就活で自分だけ出遅れたのかな。でも、自分は就活よりも、こういう生き方がしたい」という思いにまで至った人は、実はエゴイズムとは程遠い人であり、同時に、自分の将来すなわち「人間はいつか死ぬ」という事実を、最も真剣に見据えている人でもあると思う。

これに対抗する価値観が、盛んに言われる「即戦力」というものだと思う。もちろん、元は軍事用語である。今すぐに「戦績」を叩き出せる力(しかも、自分が生きる力ではなく、自分が勤める営利企業を生き残らせる力)は、遠く自分の死や命と真剣に向き合うような、深みのある力とは対極にあると思う。

僕は個人的には、たとえ就活に乗り遅れていても、即戦力が無くても、お金が無くても、深みのある人とは交流していたい。なぜなら、そういう人くらい、安定した人、見ていて安心できる人、将来が保証された人はいないと思うからだ。
posted by 岩崎純一 at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論