2011年01月31日

スーパーマーケットの超音波vs僕

arumise.jpg 以前、超音波発生装置について書いたのだが(以下の記事参照)、ついに昨日、そのスーパーマーケットに入店さえできなくなった。冗談だと思われそうで嫌だけれども、入口のドアをたった一歩入ったところでギブアップ。

 イチゴ(この日だけ安売り)を買おうとして、入口を入りかけたら、すぐに頭と体に不調をきたして、あえなく入店できず。最近は、すでに別のスーパーを見つけて、そこで買い物をしているので、食料品には困らないのだが。

 いつも声をかけてくれる、人の良いレジのおばさんに、「最近、このスーパーの天井と壁に取り付けた機器のメーカーと機種名を店長さんに聞いてきてよ」と言おうとしたが、そのおばさんにも辿り着けずに終わって、苦笑した。おばさんが店の外にいるときを見計らって尋ねるしかない。

 それとも、店に直接投書でも出そうか、とも思う。そのほうが勉強・研究にもなる気がした。むしろ、これから生活に密着した共感覚の探究をやっていくなら、こういう投書こそ、堂々と出すべきかもしれない。

 もちろん、レジのおばさんたちは一生懸命だから、こういう問題はなかなか公言できないのだが、私の場合は、このスーパーの入口を入ったところで吐き気がするのである。

 自動ドア・防犯・ネズミよけ・ネコよけ・ゴキブリよけ・駐車場の入口などに使われる超音波発生装置の音波としての波動がどのようなものかと言うと、よく海で溺れた人が必死で泳いでもがいて、それでもなかなか船に辿り着けないというあの状況が、空気中で再現されている感覚である。

 商品に手を伸ばそうとしても成し遂げられず、頭と胸のあたりが悲劇的な不快感に陥る。しかも、僕の場合、それが共感覚を使って「色」で見えるのだから、困るのである。この気分の悪さは長く持続するので、生活にも影響する。

 もし僕以外にも僕ほどに超音波感知共感覚を持っている消費者がいたら(いるだろうが)、確実に売上に影響を及ぼしているはずで、店としても困るはずなのだ。今回のように、客が気づいて店長・店員が気づいていない場合、こうして知らず知らずのうちに客が去っていくのであった・・・。

 何でもかんでも横着して、無人デジタル方式任せの社会にするのではなくて、ネズミ除去くらい、誰か勇気ある男性店員がしっぽをつまんで放り投げて逃がしてあげたらいいだろうとは思う。

(そんなことを言ったら、「衛生上問題がある」というのが世論かもしれないが、そもそも人間が土や動植物に触れなくなったことも、ある意味では不衛生だと思ってしまう。)

 ところで、ネズミのしっぽを追いかけてつまむ遊びは、僕が少年期にやっていたことで、おかげさまで今でもネズミとは友達である。

 それにしても、人員削減や防犯のために店側が設置した機器類が、客の外界知覚に悪影響を与えて売上・消費が鈍化する、などという研究は、多分誰もやったことのない研究かもしれないので、お金のある研究者にやってほしい。僕にとっては、ずっと以前から抱えている問題点と言うのか、視点なのである。


(参考記事)

僕が歩けない場所
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/40907339.html

超音波を感知する共感覚についての考察
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/40961480.html

2011年01月20日

動物園・植物園・庭園など

110120.jpg 今年は特に計画を立てていないが、昨年と一昨年は、よく一人で都内や関東圏の庭園や植物園に行った。これまた共感覚と関係があると思うが、僕にはどうも、一日中何もせずにボーっとしたり哲学的なことを思索したりする時間が必要のようで、自宅以外だと日本庭園や植物園が居場所としては一番いい。

 有名な小石川後楽園、六義園、旧古河庭園から、神代植物公園、殿ヶ谷戸庭園、板橋区立赤塚植物園など、全て一人で巡ったし、水戸の偕楽園から横浜の三渓園まで、一人で昼食と夕食を挟んだ旅の計画を立てて行った。交通費はかかるけれども、入園はせいぜい数百円か無料であり、最高に贅沢な時間の使い方だと自分では思っている。

 もちろん、道中も一人、食事も一人、券を買うときも一人。食事の注文時や券の購入時には、むろん言語コミュニケーションは必要だが、敷地内に入ってしまえば正真正銘の「一人」になる。(他の人と一緒に行くのが嫌いなわけではないから、あえて「独り」とは書かない。)

 写真は、神代植物公園の年間パスポートで、これだと5回分の料金でその年は何度も行ける。だから、春に共感覚で黄色に見えていた植物の周りの空気が、秋に行ってみたら、やたらと紅色になっていて、「おい、どうした?」と焦ったら、夏の間に木が数本移植されていたりする。

 一番風変わりで面白かったのは、高島平にある熱帯環境植物館で、30メートル四方くらいのドームの中に熱帯地方の植物が色々とそろえてあった。植物に向かって「お前、面白い形してるな」などと一人で勝手に会話して、植物をからかっていた。

 動物園や水族園もいいが、こちらは誰かと一緒に行く方が気楽なのである。僕は昔から動物と共感覚の色などで会話していることがあると自分で感じていて、動物は大好きなのだが、そうであるがゆえに、動物園でライオンかトラが「ガオー」と雄たけびを上げようものなら、次の瞬間、自分も動物に化けて檻に入っていそうで、どうも動物園には精神的に一人で行けないのである。(半分は笑い話で、半分はまじめな話。)

「文字に色が見える」という以前に、動植物が好きな共感覚的感性を持った人なら、この感覚は何となく分かるはず・・・。

 ちなみに、僕が最も好きな動物はキリンである。草食であるところは、僕が基本的には肉よりも野菜、洋食よりも和食が好きなところに似ているし、首が長いところは、文字通り僕が色々なことを「首を長くして待つ」ところに似ているし、そうかと思いきや、戦闘態勢に入ったら、相手の動物界での地位にかかわらずライオンなどを一撃で蹴り倒すあたりは、実は肉食好きで、やたらと一本筋が通りすぎていて、あまり幼い頃から哲学や思想などが変わらず、自分の感性の方を優先して生きてきた自分に似ていると思う。

 おまけに言うと、キリンは、心臓から何メートルも上にある脳に血液を押し上げるために異常な高血圧であり、これに耐えるため、細身のわりに屈強な血管を持っており、これも少し細身で少し高血圧気味な僕に似ている。これを初めて聞いたとき、「ここまで似ていると、僕がキリンのマネをしているのか、キリンが僕のマネをしているのか、どちらかな」と思った。

2011年01月07日

三砂ちづるさんの考える「オニババ」について

41XCM8W1N4L__SS500_.jpg『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』(光文社新書 2004)を改めて読んだ。

 出版された時点で読んでいた本ではあったのだが、最近著者の三砂(みさご)ちづるさんとお会いする機会があったことと、自分の「女性の排卵・月経などが察知できる感覚」と関連付けることができる点を探してみようという思いがあったことから、以前よりも精読した。(僕自身は便宜上、この感覚を共感覚の一つと見て「対女性共感覚」と名付け、初著でもそう書いた。)

「オニババ」というタイトルを見た当時は、「挑発的なタイトルだな」と思ったものだった。

 しかし、読み返してみた今、「ヤマンバルック」や「汚ギャル」という言葉が流行したくらいだから、本来の女性らしさを失っている(と三砂さんや三砂さんに賛同する女性自身がお思いである)日本の女性を「オニババ」と呼んでみたところで、何か女性に対して失礼に当たるような響きは感じられなかったし、むしろそのような響きはもはやあまり効果を持たない世相だろうという気さえした。

 さて、『昔の女性はできていた ―忘れられている女性の身体に“在る”力』(宝島社 2004)というご著書の中では、日本女性や太古社会の女性にできていたと三砂さんがお考えになっている習慣(自分の月経や排卵が察知できる、月経血を溜めてトイレに行って出す、など)が細かに挙げられている。

 もちろん、これらの能力の全てを持っていればそれで良いとは限らない。昔と今とでは食べ物も違う上、身長も平均で十センチ伸びているから、安易に比較はできない。

 ただし、昔の日本女性にそのような能力があったとするなら、それに対応する男性の能力も昔の日本男性にはあったはずだというのが、そもそもの僕の考えでもある。僕の「対女性共感覚」は、三砂さんのような教育者の女性や医療関係者の女性、巫女さん、主婦、お年寄りの女性などが注目して下さることが多い。

513BKWP7V0L__SS500_.jpg 三砂さんのように、和服をお持ちで、それで日常生活を送ることなどは、今や一部の女性にしかできないことだとは思う。和服で通ってよい学校や職場などほとんどないし、和服を買うお金があるなら明日の食費に使うというのが、ほとんどの女性の正直な心境だと思う。そのような女性の行動だけをもって非文化的・非教養的・非日本的な生活であると言うことはできない。

 このような不況下で「私はそうではない」と断言できる女性が大多数であったなら、むしろ不自然だという気がする。

 それは確かにその通りで、日本的なモノを所有することが日本的なヒトであることだとは限らない。ただし、そのことは差し引いて考えるにせよ、ともかく、廃れていっている日本の男性・日本の女性の特質があるとするなら、そのことには寂しさを感じるというのも、また僕の正直な心境である。

 三砂さんの著書には今でも賛否両論ある。実際、三砂さんの著書を読んで反発を覚えた女性は多かったようだし、Amazonのレビューにもむしろ傷ついた女性からの切実な悲鳴と批判が見られることや、僕の周りでも「三砂さんの言葉は、私にはちょっときつい・・・」という感想を述べた女性がいることには、僕も注目している。この点ばかりは、三砂さんの論理が勝利しているわけではなく、反三砂派の女性にもかなりの分がある。

 なぜ一部の若い日本女性がそのような反応になるのか、(個人的には三砂さんの著書の内容の大半に賛同できることを断った上で、)今回はあえてそういった日本女性の味方をして書いてみたい。

 三砂さんの「女は、男から愛され、恋愛・結婚・妊娠・出産することが幸せなのだ。それを忘れている今の日本の女はオニババになるのだ。ナプキンなんて本当はいらないのだ。おおらかに和服生活をして、女性の性の喜びを味わって生きるのが本来の姿なのだ」という主張は、むしろ、「心から愛し愛される男性に出会うまではそれらの機会(結婚・妊娠・出産)を大切に後々までとっておく」という慎重で丁寧な女性にとっては、逆に心の傷になる可能性があるということだと思う。

 三砂さんの文章を引用しておく。

「結婚において相手をこと細かく選ぶようでは、だめだと思います。誰かとともに暮らすことを第一にして、とにかく縁があった人と、誰とでもいいから結婚するというぐらいが、大事だと思います。」(『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』 p184)

 一部の若い女性が言うように、三砂さんのこの「恐るべき」「のんきな」主張は、「三砂さんが恋愛・結婚・妊娠・出産・離婚を経験され、大学教授という社会的地位に就かれ、日常生活で和服を着るだけの余裕をお持ちだったからこそ、できた主張」であるかもしれない。

「女は、男のように社会に出てがつがつと働くべきではなく、結婚し、自分の体と向き合い、控えめに生きるべきだ」という控えめでない主張を世に広めるだけの力は、確かに、すでに男性と対等な社会的地位を有する女性か、精神的・経済的に余裕のある女性しか持ち得ないのが事実だろう。

「今から私も、すてきな恋愛をして、すてきな仕事を見つけたい」と思っている若い女性は、むしろ「今の女は、男のように社会に出ないと大変なことになる。私も焦らなければ・・・」と思うばかりで、三砂さんのような主張をおこなったり受け止めたりする余裕さえないのが現状だと思う。ただし、三砂さんご自身もこういった問題には気づいていらっしゃると感じた。

 今後は、三砂さんと同じ感性や問題意識を持っているがゆえに、かえって一生涯子宮を使わない女性も増えていくはずである。しかし、それでもよいではないかと僕は思う。

 三砂さんは、『オニババ化する女たち』の中で、生理や生理に伴う暗い気分のことを「卵子のかなしみ」と呼んでいる。これは僕がとても好きな言葉だが、しかし、その「かなしみ」が分かる心を持ってさえいれば、「女性らしい女性」だと言えると僕は思うが、いかがだろうか。

 これだけの格差社会だからこそ、子宮に子どもを宿したことが無くとも、「この女性は子どもを産んだら、良い母親になるだろうな」と男性に思わせるような女性であるというだけで、妊娠・出産は擬似体験したことになるのではなかろうか。

 もし三砂さんと全く同じ感性や問題意識(いつまでもいい女でいたい、恋愛していたい、子どもも欲しい)を持っていたとして、実際にそれが実現できているかどうかを女性に問うのは、かなり酷なものがあると思う。

「周りの同世代の女性ができちゃった婚・離婚を繰り返すのを見て、自分は社会の風潮・流行から遅れているのではないかと苦悩しながらも、それでもやはり長続きする結婚生活を求めて慎重になっている女性は、オニババの定義から外すべきである」という、僕がいつも主張しているような内容は、三砂さんの著書には、なるほど、確かにはっきりとは登場しない。

 おそらく、三砂さんの著書を読んだ「まじめな」女性は、その点に屈服させられ、傷を負った可能性があると思う。僕は、三砂さんの著書が図らずも巻き起こした皮肉な世論をそう読み取った。

 その意味では、「結婚・妊娠・出産の喜びは、実際にそれらをやってみない女性には分からない」という、三砂さんの世代以上の女性によく見られる言い回しは、かなり残酷でもあると思う。

 せっかく女性を元気づけるために発せられたはずのこの言葉は、むしろ三砂さん自身と同じ感性と問題意識とを持っているはずの一部の未婚の日本女性の耳には届かず、届いたとしても浅からぬ心の傷を残し、逆に、早々と「カレシ」を作って妊娠していった奔放な女性の耳に「勝利感」として先に届く可能性が高い。また、残念ながら、実際にそのようになっているようである。

 だから、これからの課題は、三砂さんのような社会的地位や恋愛・結婚・妊娠経験のない日本女性がどうやって「心の救い」を見つけるか、ということではなかろうか。そして、そのために男性がやるべきこともあるのではないか。

 このえも言われぬ「日本人の世代間の価値観の齟齬の残酷さ」について語り、解決の糸口を見つけていくことが、僕が自分の冒頭の「対女性共感覚」を告白したときから思い描いている最終目標でもある気がした。将来的に、結婚・妊娠・出産を望みながらも叶わず精神的に傷ついた女性の層と、すでに社会的名声を得て自由に女性論を主張できる三砂さんのような女性との間に入って、うまく仲裁するような活動でもできたら本望だ。

 あともう一つ。就活(就職活動)と恋愛とを同一視したら怒られるだろうが、少しくらい、以下のような考え方も許されるだろう。

 恐ろしいことを書くけれども、ここ最近の統計の動向から言って、来年度に就職する新卒の4割近くの人は3年以内に(2014年までに)その職場をやめるか転職することになる。

 その3年の間にやることと言えば、上司の顔色を伺いながら懸命に仕事を覚えることであって、心に余裕を持って散歩に出かけることでも、文学に親しむことでもない。しかも、3年後に優先的にその職場で上の地位に上がっていくことができるのは、「仕事ができるが控えめな性格の女性」ではなくて、「仕事ができる社交的な性格の女性」であると思う。

 もし、娘に「どこでもいいから早く就職しろ」とけしかけている母親がいたら、娘に「どの男でもいいから早く一緒になれ」と言うかどうか考えてほしい。物事というのは、一見すると違うようで、かなり似ていることがあるのではなかろうか。

 せっかちな人は何事もせっかちであるし、落ち着いた人はいつも落ち着いているものだと、僕は感じる。落ち着いた恋愛を求める女性が就職にせっかちであろうとすることは、せっかちな恋愛を繰り返す女性が落ち着いた就職をしようとすることと同じくらい、困難で不自然なことではないだろうか。それは、男性にも言えることだと思う。
posted by 岩崎純一 at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2011年01月03日

講演します

 一般参加可能ですので、どうぞご参加下さい。日本質的心理学会の研究会です。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaqp/kenkyukai.html

(引用)
◆感覚の「異文化」から見る〈からだ〉と〈ことば〉〜共感覚、自閉症、幼児の体験世界〜

 人間は〈ことば〉の世界を生きている―これが現在の質的心理学の「常識」であり、多くの分析手法もこの前提に基づいている。しかし、元来、人間の〈ことば〉は〈からだ〉の働きに基礎を持つものとして発展してきたものである。また、どんなに〈ことば〉の世界が発展したとしても、人は最終的にはこの〈からだ〉でもって生きるほかない。そうした事実を忘れ、〈ことば〉の世界にのみ研究者の目が向くとすれば、それは人間の生に迫ろうとする質的心理学にとって大きな危機ではなかろうか。
 当企画では、〈からだ〉と〈ことば〉がいかなる関係にあるのかを改めて問い直し、人間の生を捉えるためにどういった視点が重要なのかを、3人のパネリストの講演を手掛かりにして考えていく。3人に共通するのは、〈からだ〉と〈ことば〉が特異(非定型的)な結びつき方をしているように見える人々(共感覚、自閉症、幼児など)の独特の感覚世界を参照しつつ、思索を進めていることである。
 〈からだ〉のいかなる働きから〈ことば〉が生まれ、いかにして我々の世界を作り出していくのか、さらにはそのことが〈からだ〉にいかなる作用を及ぼすものなのか―感覚の「異文化」との接触を通して、そうした問題への糸口を模索していく。

【日時】2011年3月5日(土) 13:00〜16:30(予定)
【会場】キャンパスプラザ京都 4F第4講義室
    http://www.consortium.or.jp/
【内容】
<登壇者>
・岩崎純一
文字や数字に色を感じる、音・味・匂いに色や形を感じる、風景に音を聴くなど、さまざまな共感覚を持つ。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。
・西村多寿子
翻訳者兼ライター。「身体的側面から見た言語習得」の探究をライフワークの一つとし、多方面で活躍。書評、論文等多数。
・村上靖彦・・・大阪大学大学院人間科学研究科。専門は現象学、精神病理学。
精神分析学にも精通。著書に『自閉症の現象学』(勁草書房)など。
<指定討論者>
・浜田寿美男
幼児、自閉症、供述分析などの研究を通して〈からだ〉と〈ことば〉の関連を探究。『私と他者と語りの世界』(ミネルヴァ書房)など著書多数。
<司会>
・大倉得史(京都大学大学院人間・環境学研究科)

【参加費】学会員  無料
     非会員 500円
【主催】日本質的心理学会研究交流委員会、京都大学人間・環境学研究科質的心理学研究会
【申込方法】上記学会のサイトをご覧下さい。
posted by 岩崎純一 at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項

2011年01月02日

謹賀新年

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。
タグ:年末年始
posted by 岩崎純一 at 16:48| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項