2011年04月30日

拙著『音に色が見える世界 「共感覚」とは何か』について

 私のこの初著は、(読者の方々からの報告も合わせて)確認できる限り、日本で初めて共感覚者本人が自らの共感覚を告白した本のようである。それと同時に、私は共感覚を日本文化論と結びつけて書いてみたのだった。今後、日本で自分の共感覚を自分で論じる人が出てくるかもしれない。だから、私の経験を書いておきたい。

 この拙著は、和歌研究者・日本文学者・日本史学者・言語学者・小中高等学校教諭などからは比較的好意的に受け止められ、授業のテキストとしても用いられている一方、現在の自然科学系方面の共感覚研究者においては、懇意な知人関係にある大学などの先生方に取り上げられることはあるが、それを除けば、あまり取り上げられておらず、「非科学的である」という評価を頂くことも多い。

 前者の分野を専門とされている方々の中には、すでに「古典分析の結果、日本人は古来共感覚者であったと言える」という私と同等の主張をしている方々もいらっしゃる。実際に、日本で初めて「共感覚」という語を用いたのは、心理学・神経科学分野ではなく、日本文学、とりわけ和歌の分野なのであった。(特に二冊目の拙著内でその事実を紹介している。)

 前者の方々にとっては、このたび、共感覚者である私が本を書き、同じ主張を展開したことによって、かえってそのような先人の説が強化される結果となったと受け止められたのかもしれない。大学での私の講義も、ほとんどが文系学生に対するものである。

 一方で、私の共感覚の実在を科学的に証明するには、すでに欧米の共感覚研究で用いられているような高価な実験機器や施設を用意する必要があるし、これについてはさすがに私個人の力では用意できないものであるので、どこかの大きな研究機関で実験が行われるようなことがあれば、参加したいと思っている。

 現在、東京大学などの先生方や医師・研究者などに、自分自身の共感覚を科学的に証明するために、実験・検査を受け、血液・遺伝子データ・脳データ等を提供する心の準備は少なからずある旨をお伝えして回っているところである。

 さて、私が挑戦したかったことは、一部の学識者向けの論文を書くことでもなく、大衆全体に受けの良い「共感覚獲得のための自己啓発ノウハウ本」を書くことでもなく、学識的な共感覚論をごく一般の読者に投げかけることだった。「共感覚とは、音に色が見えることです」という解説書は、私が書いても悪くはないけれども、それよりは、共感覚専門家のうちテレビへの露出なども多い学者が書いたほうがよいと感じていた。

 ただし、それに該当する入門解説書は日本にはなかったから、私は「共感覚」の生理学的入門的解説のために多くのページを当てることにした。しかし、自らの共感覚論もなるべく多く残したつもりであるし、むしろ、それを主にした本だと言える。

 それから、このことがどの程度重要なことかは分からないのだが、興味深いことがあった。何度か書き直して、様々な出版社の方々に読んでいただいているうちに、ようやく五社目のPHP新書にて出版が叶ったわけであるが、PHPだけが違った点は、私の原稿をお読み下さったのが女性であったという点である。ちなみに、二冊目『私には女性の排卵が見える』の編集者も女性であった。

 共感覚者が女性に偏って多いことを考えれば、こと共感覚については女性のほうが理解が早いとは言えるのかもしれない。あるいは、理解が深いという言い方でも、とりあえず差し支えはないかと思う。

 これについては、結局は確率論であるとは言っても、ある程度は深刻に考えたほうがよい点だと私は思っている。私に限らず、多くの共感覚者が同じことを訴えていて、男性の精神科医や大学教員、知人、何よりパートナー、夫から共感覚を精神疾患と誤解されて暴言・暴力に遭ったり、よりいっそう苦悩が高まって本当に精神疾患にかかってしまった女性が、私のサイトを多く訪れている。

 自分の共感覚を誰かに伝えようと試みる時、まず入口のところで男性に当たると、どうしても「共感覚が本当にあるのか」という議論で止まってしまうケースは、そこかしこで耳にしてきたが、ただし、拙著の男性編集者の方々は、共感覚にかなり理解が深く、非常にありがたい思いがしたということも、ここで付記しておきたい。

 さて、この書籍にはいくつか私自身のミスがあることをお詫び申し上げたい。例えば、86頁「自我は言語よりも早くからあった」という表現があるが、この「自我」の意味は極めて俗的な意味を帯びていて、哲学的用語としてはミスである。最初の原稿では何の問題もなく響いていた気がするが、この本だけを読むと、「自我」は「記憶」とでも直されるべき部分である。これは、編集作業のミスではなく、私のミスである。

 また、私はこの本を出すよりもずっと以前から、サイトで共感覚を告白してきたが、その中での経験が頭にあり、私はこの本を出したあとの新聞やテレビ局の反応を恐れていたことは否めない。すなわち、いわゆる教育ママやスパルタ方式の学習塾からの共感覚教育の依頼や、超常現象・スピリチュアル・新宗教ビジネスの方面からの協力依頼などが来ないように、入口のところからしてガードを固めた文体にしなければ、のちのち痛い目に遭うかもしれない、世の共感覚を持った子供たちにも迷惑がかかるかもしれない、といった過剰な不安があった。そのため、文体がかなり厳しくなりすぎたきらいがあると思う。

 日本の自然科学系の共感覚研究者の視点については、私は少なからぬ不満を感じるものの、そこまで悪いとは思わない。けれども、全体として、研究者に対して私が感じる心配事が一つあるとするならば、「日本の共感覚研究者は世の親たちを甘く見過ぎている」ということだと思う。

 私には、絶対音感教室や書道教室をやっている知人が何人かいらっしゃるが、これらの方々は、元気にはしゃぎ回る子供たちへの対応ではなく、その子供たちを連れて来る親たちへの対応のほうに大変疲れているようだ。

 子供たちに習い事や学習塾通いを強制している親は多い。時には、どうすれば子供に共感覚を植え付けさせることができるかという相談が、私の元にも来る。本著が出版された後でも、その状況は特に変わっていない。

 このような親たちに対する先の知人たちと私の意見は同じである。共感覚の生理学的側面が明らかになったとして、どういう未来が予想されるだろうか。

 多くの親が言うかもしれない。「ウチの息子、まだ受精卵なんですが、今からこの子に共感覚を身につけさせる方法を教えて下さい、先生」と。つまり、かつて日本で尋常ならぬ絶対音感ブームが起こったときと同じことが起こる可能性は捨てきれない。

 遺伝子を操作して共感覚やサヴァン的能力を有する天才児をデザインする「人間製造キット」のような、アメリカではすでに登場している発想が日本で登場するのは、まだ先だろうが、しかし、いわゆる「試験管ベビー」の増加の動向を見る限り、確実にそのような時代が来ることは間違いないと思う。

 共感覚、特に自分自身の共感覚について自著を持つ(持とうとする)人間は、このような話題に対して態度が曖昧であってはならないと思うし、何かしら自著に書いていなければならないとさえ思える。

「子供の感性や能力は、親の所有物ではない」

 この考え方が、私自身の人生の重要な基盤の一つであるがために、単に「共感覚」と言っても、どうしてもそれを紹介するだけでは済まないという思いが出てしまう。

 さて、この本の帯には、脳科学者でテレビでもおなじみの茂木健一郎氏が紹介文を書いて下さった。「共感覚は、岩崎純一さんの独創の始まりに過ぎなかった」という氏のコメントは、この本の出版後に受けることになったテレビ局からの超常現象・スピリチュアルブーム関連番組への出演・協力依頼や、霊能業界関係からの拙著の利用に対して毅然とした姿勢を貫く上で、一つの支えになった。

 それを踏まえた上で、あえて一つだけ書いておこうと思う。

 今や、どう客観的に見ても、その茂木氏がせっかくご活動の最たる場としていらっしゃるテレビ業界自体が、先ほどのような世の多くの親たちと共に、脳ブーム・スピリチュアルブームを率先して形成している主体の一つであることは否めない。

 テレビ番組が実質的に大衆扇動効果を生み、脳ブーム・スピリチュアルブーム関連本の売り上げを伸ばし、出版社に利益をもらたしている現状は否めないと言える。

 拙著とて、そのような世相に組み込まれかねないとも言えるし、実際に組み込まれつつある現状は見えるわけで、それを私は非常に心配している。つい最近も、再び右脳ブーム、血液型占いブーム、パワースポットブームなどが巻き起こっており、その中で、私が意図しない形で拙著が使われるようなことがないか、本当に不安である。しかし、本を出した以上は、じっくりと動向を見守っていきたいとも思う。

 これから先、自身の日常的なメディア露出を避けて学術行為に専念するタイプの他の脳科学者らによる、茂木氏やテレビ業界関係者への様々な評価をも全く同時に勉強していくことが、共感覚当事者のあるべき姿であると、改めて深い思いを致すところである。
posted by 岩崎純一 at 09:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の共感覚

2011年04月26日

勉強会・交流会

 数人ずつ集まって、私の本や共感覚についての質問を受けたり、言語学などの話をしたり、共感覚・鬱・対人恐怖症・解離性障害などの心の症状について語らうなどします。場所は東京都内中心になりますので、ご了承下さい。

 詳しくは以下をご覧下さい。

http://iwasakijunichi.net/benkyokai.html
posted by 岩崎純一 at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項

2011年04月22日

原発と日本人

 原発の話題に乗じて、久々に元素の周期表というものを眺めた。僕は高校に入ると完全な文系人間となり、化学・物理学はほとんどやらなかったが、大学に入り、哲学・言語学・宗教学、特に存在論・認識論との関連で、また取り組むようになった。逆に言うと、哲学などと関連付けないと、理系学問があまり頭に入ってこない。

 僕は元素の周期表も共感覚的な感覚で覚えていたので、当時の理科の教科書も割とよく思い出せる。元素の周期表は、だいたいが教科書の裏表紙の固い紙のところに載っていた。

 今現在は、最も詳しい教科書で原子番号118番のウンウンオクチウム(IUPACによる命名規則に準拠)まで載っているようだが、僕が小学生の頃は、最後は103番のローレンシウムまでだった。中学三年生のときの教科書は、最後は109番のマイトネリウムだった。マイトネリウムは当時、まだ仮称でウンニルエンニウムと呼ばれていて、「ニュルニュルした気持ち悪い名前だな」と思っていた。

 その後、高校一年生のときには112番のウンウンビウムまで載った。これには、2010年にコペルニシウムという正式名が付いた。「世界を変えたコペルニクスにちなんで」名付けたそうだが、元素名にしても、生物の学名(ラテン語がベース)にしても、基本的には東洋人を排除して西洋白人種の意向に沿うように名付けられている。それが嫌でたまらず、教科書に「原子番号300番ナラン(奈良ン)」「ニッポニウム」「ヤマトタケリウム」などと勝手に元素を書き足していた。

 この子ども心なりの試みは、一見するとふざけているように思えるけれども、実際はプルトニウムよりも大きい元素については、もともと僕の発想と大して変わらず、ほとんどが欧米の化学者による捏造という形で「発見」され、その後に自然界で本当に発見されるか、人為的に作り出されることで、ようやく存在した。

 一般の日本人は、得体の知れない元素やオバケや妖怪とは、頭で徹底的に想像して「ひょっとしたらある(いる)かもしれない」とは思うけれども、そういう物質や生き物を実際に人為的に作り出そうとはしない。

 そして、多くの日本人にとっては今でも、「自然界に存在しない元素や物質、人体組織などを本当に人為的に作り出す」ということに深層意識で抵抗があり、このいわば前近代的・前科学的な抵抗感を「とりあえずは無かったことにし続ける」ということが、日本の高度成長の陰にあった必須要素だと僕は思っている。

 素粒子・量子といった概念は、結局、我々日本人の流行への追従生活と一体のものとなってしまっている。パソコンのハード・ソフトの構造はもちろんのこと、「コラーゲンを摂取すれば美人になれる」といった幻想に至っては、「粒子観の捏造」であると言い切ってよいものになってしまった。

 そういう中で原発も作られた。だから、ほとんどの日本人にとっては、原発とは、「よくわからないけれども、ともかく電気を供給してくれる、ありがたい何ものか」でしかない。それが今になって、放射線への得体の知れない恐怖感となって、再び日本人を襲っている。

 だから、原発国家アメリカやフランスから見れば、日本は相当に原始的ムラ社会に見えているはずである。そういう古き良き日本人の姿というのは、津波で亡くなった人たちを感傷的に思い出すのには適切だけれども、原発の対応には全然向いていないのであった。それが日本人なのであろう。
タグ:元素 原発
posted by 岩崎純一 at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論

2011年04月14日

今回の地震についての疑問をいくつか

 ここ最近、テレビ・ラジオなどを見聞きしていると、被災者の口から「ウチの家(町)はこんなに被害を受けているのに、あの家(町)はもう直りかけている」などといった嫌味なニュアンスの発言がポロポロと聞かれるようになってきた。人間はそういう生き物なのだと改めて思う。

 さて、いくつか気になる点を。◆マークが現状、★マークが僕の意見。


■津波警報

◆津波警報には、「津波の津波警報」と「大津波の津波警報」の二種類がある。いずれも「津波警報」の一種であり、「大津波警報」という用語と概念はない。ただし、多くのマスメディアは、国民に報道する際には、「津波の津波警報」を「津波警報」、「大津波の津波警報」を「大津波警報」と呼んでおり、事実上は「津波警報」は前者のみに限定されているが、気象庁より「津波警報」が発令された際には、それが「津波」か「大津波」かに注意しなければならない。

★いやはや、用語のややこしさに気を取られているうちに津波にさらわれて亡くなった人もいるかもしれないと思えてくるような問題である。「大津波警報」という用語があっても良さそうな気がするが、なぜ駄目なのだろうか。早く是正した方が良さそうだ。


■地震と震災

◆「東北地方太平洋沖地震」・・・日本の太平洋三陸沖を震源として発生し、東日本大震災をもたらした地震。
 「東日本大震災」・・・日本の太平洋三陸沖を震源として発生した東北地方太平洋沖地震によってもたらされた災害。
 同様に、「関東大震災」をもたらしたのは「大正関東地震」。

★実際には、ほとんどの国民は区別していないどころか、政府要人たちも混用している。地震と震災とを明確に分ける意識が人類に生じたのは、近代以降の地震観測技術の向上によって遠方の地震まで観測できるようになったからだろう。

 つまり、理論上は、「東北地方太平洋沖地震」が起こっても、「東日本大震災」が起こらない可能性を追求することができるのが、現代の我々である。ただし、人間の力で止められる可能性があるのは、半永久的に後者であり、前者ではないだろう。


■原子力安全・保安院

◆「安全」と「保安」の間に「・(テン)」が入るのが正式である。テレビを見ていると、発音の際には、アナウンサーによって「アンゼン・ホアン」と区切ったり「アンゼンホアン」と続けたり、バラバラである。

★僕は「・(テン)」が気になってしょうがないのである。僕だけではなくて、多くの人が気になっているようである。塵も積もれば山となる。この「テン」でいちいち区切る息つぎを十回ほど繰り返すと、五秒くらいになる。五秒もあれば、津波や放射線から逃げられるぞ。

 というわけで、もう少し良いネーミングはないものか。

 原子力以外のエネルギーの保安も管轄していると言っても、これだと「安全を保安する」という日本語に聞こえ、「頭痛が痛い」と同じで、「原子力頭痛・痛い院」のように聞こえるから、気になるのだと思う。

 このネーミングの理由が、「原子力以外のエネルギー保安も管轄しているから」ではなく、「単に日本語の上手なつなぎ方を考えるのがちょっと面倒だったから」だということは、この機関の英名が「Nuclear and Industrial Safety Agency」であることからも窺われる。

 そこで、僕が考えた名称候補。

「原子力産業保安院」「原子力産業保全院」「原子力安全院」「原子力安全保護院」「原子力安全監視院」「原子力安全警衛院」「原子力機関保全院」「産業保安院」「原子力保全庁」「原子力エネルギー保全庁」

2011年04月05日

今年度の活動

 地震の後で、まだ落ち着かない日々ですが。

 今年度は、共感覚者の会、心の病について考える会、言語学・スラフォーリア研究会などを、こまめに開く予定です。

 本当は、話題どうしに厳密に境界線を引けるわけがなく、全ての話題をまとめた会にしたいし、哲学論議でもしたく思うけれども、それだと岩崎純一の会になってしまうおそれがあり、何だか怪しい(!?)ため、一応、名目上は分割させて、話題ごとに「〜の会」とするのです。人数は、相変わらずほんの数人(2〜5人くらい)ずつですが。

 それから、私の共感覚についての二冊目の著書が、もうすぐきっと出版されます。これは、「女性に対する共感覚」を説明し、そこから「他人を思いやるとはどういうことか」などを語っている著書です。
posted by 岩崎純一 at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項