2011年05月31日

拙著『私には女性の排卵が見える 共感覚者の不思議な世界』について

 新しい拙著は、26日あたりから店頭には並んでいたようですが、一応、昨日が発売日でした。すでに色々なご感想を頂いています。ありがとうございます。

「女性の生理現象が分かる私自身の共感覚を、共感覚や閃輝暗点、さらには日本文化や私の人間観などと結び付けて語る」という、相変わらず非常に扱いが難しい話題の本ですが、この本の担当編集者は聡明な女性でありまして、最初から「女性の目線・チェック機能」が入って上梓されたということで、それは良かったことだと思っています。

 タイトル決定の動向についても、興味深く見守っていました。「タイトルをこれにします」との連絡を頂いたときには、自分でも「ああ、本当にこれで行くのだろうか」と、さすがに動揺しました。

 しかし、色々と天秤にかけて考えた末、私が原案で出した『隠されない排卵 ―ある共感覚者男性の独白―』、『共感覚と人間 ―私の対女性共感覚・ミラータッチ共感覚を中心に―』などの変に凝ったタイトルよりも、いっそのこと、ここは『私には女性の排卵が見える』と言い切ってみるべきだろうと、OKを返しました。いずれにせよ、一度出版してみなければ分からない、という類のテーマだと思います。

 私がこの本でやりたかったことは、自分のこの感覚を披露することではなくて、もっと大きなこと、人間存在の根本についての思索の大切さを語ることですし、逆に言えば、私の共感覚や精神疾患の探究の目標はそれ以外にはありません。

 ただし、これを語るなら、何か他人の共感覚にかこつけて本を書くより、自分の感覚と昨今の性愛の問題に寄り添いつつ本で語るほうがよいだろう、と感じました。

 私の人生の目標と言いますか、生きているうちにやりたいことは、「共感覚」の語や概念を広めることや、ましてや自分の共感覚を広めることでさえなく、むしろ「共感覚」というテクニカルターム無しで先験的に「人間とはそういうものである」、「人間存在はメランコリーである」と感じる心の大切さを語っていくことですので、この本の内容も、性愛と共感覚という一つのテーマでありつつ、私の人生全体の目標にかかわっています。

 性愛や共感覚の問題というのは、大変に感性的でデリケートなもので、またメランコリックな性質を元々帯びているものだと私は思っています。現在の日本の共感覚研究者のほとんどが、心理学者・神経科学者・認知科学者・精神病理学者・医者など自然科学方面であるのは、「とりあえず共感覚の実在を検証・確認し、共感覚者を守るためには、共感覚が元々帯びる感性的性質(メランコリーやエロスや文学的感性)を語ることを回避する分野でしか、共感覚を扱えないから」だと、私は前々からそう思っています。

 それはそれで必要な研究だけれども、もう一方の側面も、どうしても同じくらい今の日本にほしいと、私は日々感じて生きています。人間が持ちうる豊かな感性をそのままストレートに語る人がもっといてもいいのではないかと思います。性愛の問題を共感覚に広げたり、鬱病やひきこもりや自殺問題に広げたりして語ることは、私にとっては大変に自然なことであると感じられます。

 もっとこれらの問題に多くの日本人が取り組めば、社会はもっと温かいものになるだろう。私はそう思って、この本を書いてみました。
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2011年05月28日

共感覚などをめぐる私の動向(模式図)

 共感覚などについての私の動向は、以下のような感じです。ほぼ関東圏、全て国内の活動なのですが、分かりやすく描こうとしたら、何だかいかにも人脈が広いかのような自分中心の僭越な図になってしまいました・・・。実際は、もっと小ぢんまりしています。頭の中を整理するために描きました。

 この図を見ながら今回の新著を読んでいただけると、より分かりやすいかもしれません。(余計に分かりにくくなったら申し訳ないです・・・。)

http://iwasakijunichi.net/atama.htm
(共感覚などをめぐる私の動向)
タグ:共感覚
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2011年05月26日

拙著が出版されます

 拙著が5月30日に出版されます。

http://www.gentosha.co.jp/book/b5124.html
『私には女性の排卵が見える 共感覚者の不思議な世界』(幻冬舎・新書)

目次

■序 この本で告白する私の感覚

■第一章 この性的感覚の特徴
●感覚が最も鋭かった幼少期
●五歳頃から十二歳頃まで、「二重人生」の始まり
●「美しさと表裏一体の苦しさ」に悩んだ十三歳頃から十八歳頃まで
●十九〜二十歳頃、女性の色を書き留め記録を始めた
●「共感覚」という概念に出会った二十一〜二十二歳頃
●他者と共有できるようになった二十三歳頃から現在まで
●子孫を残してくれやすい年代の女性に対して発揮

■第二章 この性的感覚の探究に向けて
●この感覚を何と名付けようか
●この性的感覚を証明するとしたら
●「共感覚」との出会い
●幼児における共感覚の普遍性について
●目視のみで女性に触ってしまう感覚の扱い
●オーラ・ブームに対処した日々
●「排卵」「性器」という言葉がない時代
●「昔の日本女性にできていたこと」に頼ってみよう
●私が自分の性的感覚に対して持っているべき姿勢とは

■第三章 男女の体の仕組みから私の性的感覚を考える
●私は女性の何を感知しているのか
●想像妊娠
●動物のオスの性的能力
●周期排卵と交尾排卵
●卵胞波
●初潮の低年齢化と精通の高年齢化
●フラットなオス
●性同一性障害や同性愛と私の性的感覚との対比
●性染色体との関連
●「共感覚」の概念にも少し不満を持った私
●一般男性がこの性的感覚を得るとどうなるのだろう

■第四章 昔の日本男性の女性観から私の性的感覚を考える
●和服と私の性的感覚との心地よい関係
●上古代日本の女性の装身具・身体加工の意味
●ネイティブ・アメリカンと鳥居
●「人を思いやる」とはどういうことか
●歌舞伎の女形・和歌の代理詠
●日本文化研究者による「共感覚」研究の質の高さ
●「一脳一自我」の不安定さ
●自由意志
●ラプラスの悪魔
●禅と私の性的感覚

■結 私の性的感覚のこれから

■主な参考文献
posted by 岩崎純一 at 18:17| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項

2011年05月22日

「疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD-10) 第V章 精神及び行動の障害」とスラフォーリアとの対応表(2011年5月版)

 以下の表を有志の方々の協力により制作し、サイトに掲載しました。

◆「疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD-10) 第V章 精神及び行動の障害」とスラフォーリアとの対応表(2011年5月版)

 なお、スラフォーリアは現在、言語名の変更を計画しています。正式な言語名が決定し次第、本表のタイトルにも反映します。
タグ:ICD
posted by 岩崎純一 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語論

2011年05月15日

単純な顔のかわいさ

 最近、久々に「ピングー」(ペンギンのアニメ)のDVDを見ていたら、その夜に「ピングー」や「ミッフィー」や「リラックマ」などのキャラクターが勢ぞろいして遊んでいる夢を見た。「何か意味があるのか」と思索に耽っていたら、気づいた。「どれも顔が単純」。

 最近、共感覚の関連で、相貌失認の人と話したこともあって、「顔」について少し考えた。

 単純な顔の筆頭と言えば、「ミッフィー(本当の名前:うさこちゃん)」だと思う。輪郭線と二つの点とバッテンだけから成る単純な顔。男性の僕にとっては、時に単純すぎると思えたり、「僕でも目を閉じて十秒で描けるミッフィーちゃんに、何十年もかかって生み出された交響曲などの芸術作品と全く等価な著作権が生じるとは何事か」などと思えたりするけれども、よくよく見てみると、やはりかわいいし、どうして世の女性と子どもがこれを好きなのかは分かる。

 ともかく、ミッフィーの顔は顔文字(・×・)に匹敵する単純さである。と言うよりは、顔文字そのものである。

 ミッフィーは、服装も単純で、およそファッションセンスというものが度外視されている。多くの日本女性がファッションにあれやこれやと悩む中、このうさこちゃんは、それを横目に、「完全に欠落したファッションセンスによる単純なかわいさ」によって人気を独り占めしている。

「キティー」も単純で、ミッフィーと重ね合わせてみると、耳の長さ、ヒゲとリボンの有無、鼻の形(マルかバッテンか)が違うだけである。不謹慎だが、自分でミッフィーとキティーを紙に書いて切り取り、耳など異なる形のところだけを福笑いのように並べ替えると、ちゃんと入れ替わる。

 それから、「たれぱんだ」というのがいる。「君はダリの絵画から出てきたのか」と聞いてみたくなるような、溶けかかって垂れた単純な形をしている。

「リラックマ」も単純。これも、全て基本的な幾何学図形の組み合わせだけでできている。リラックマは、手足の形が女性と子どもに好かれそうなところが、注目ポイントだろう(勝手な解釈だが)。

 僕が個人的に好きな、「くまのがっこう」に出てくる「ジャッキー」も、単純な顔である。顔のパーツが中央に寄っているが、その悩み深き表情に惹かれるのかもしれない。

 いずれにせよ、画像処理ソフトでリラックマの顔のパーツをつねって中央に寄せ、耳を外へ引っぱって大きくすると、たちまちジャッキーになる。

 もちろん、これらのキャラクターの著作権や意匠登録、商標登録は、全てお互いに別々である。それにしても、偶然に落書きしたウサギの絵がミッフィーそのものになってしまった、などということは十分にありうるほどの「単純さ」なので、その場合、法的にどういうことが起きるのかに関心がある。

 おそらく、過去にはミッフィーやリラックマを生み出した人が千人くらいはいて、千体のミッフィーやリラックマが消えていったのではないかと思う。

 しかし、結局は「かわいければ、それでいいかな」と思う。
posted by 岩崎純一 at 14:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2011年05月07日

震災復興の奇抜な方法(「ふるさと志向」対「ハイパービルディング・アーコロジー」)

babel.jpg 僕は、自分が共感覚を持って生きているからかどうかは分からないが、「人間の五感・感覚」と「都市計画・国土利用」との関係に関心がある。特に日本人におけるそれに関心がある。

 僕自身は、根は田舎好きの人間だし、建築についても日本家屋や城郭、神社仏閣が好きだが、大都市の街並みも好きだし、こうして実際に大都市東京に住んでいる。いわば「田舎の風景」以外の「日本のほぼ全て」を見ることができる点が、東京を好きな理由である。

 バブル期の日本には、冗談半分、本気半分で、信じがたい都市計画があった。バブル崩壊後は、破棄された計画もあれば、そのまま放置されている計画もある。僕は、日本人が自分たちの心を見直す良いチャンスだという肯定的な意味で、「平成時代は鬱の時代」だと思っているのだが、一方で戦後昭和・バブル期の日本は「躁の時代」だったと言えそうだ。

 そのバブル絶頂の「躁病」時代に日本人が行き着いた都市計画の果ての一つとして、「東京バベルタワー」が挙げられる(右写真)。山手線の内側全域を底面とする、高さ10kmのハイパービルディングで、いわゆる「アーコロジー(生産・消費活動が自己完結した人口過密型の巨大建築)」と言える。早稲田大学の尾島俊雄研究室が構想したもので、実際に1992年の地球サミットで発表されている。

 底面の取り方によっては、皇居・赤坂御苑・新宿御苑・六義園・上野公園といった重要な場所を取りつぶす予定だったのだろうが、一応は、それらをまたぐような空洞を多用した設計になっているようだ。

 また、これ以外にも多数の「自己完結型の人口密集超高層ビル」の建設がバブル期日本で計画されていて、スカイシティ1000(竹中工務店)、エアロポリス2001(大林組)、X-Seed 4000(大成建設)などがある。

 見事に泡がはじけ飛んだ現在は、中東のドバイなどがハイパービルディング都市になってしまっているが、それでもバブル期の日本が想定していた「巨大建築国家日本」からすると、ミニチュア版でしかない、ということになる。

 これらのハイパービルディングは、9.11テロを経験した現在では、心境的にも建設が難しい。しかし、「心境的」と言っても、そもそもこのようなハイパービルディングを建設しようとしていた日本の「心境」とは何だったかというのが、僕の関心である。

 なぜなら、家族との語らいも、インフルエンザなどの病気も、鬱病などの心の症状も、学校の宿題も、全てこのハイパービルディングの内部で経験しなければならなくなるのに、そういう社会を作り上げようとすることに抵抗がなかった時代だからである。

 日本には、「間(あいだ・あいま・ま)」という概念がある。プライベート時空間とパブリック時空間との間に緩衝地帯を置く。特に「縁側(えんがわ)」などは、神々のいる場所でもあった。他にも「簾(すだれ)」「襖(ふすま)」「障子(しょうじ)」などは、「外(そと)」と「内(うち)」とを分ける「柔らかい」場所であったけれども、バブル期のハイパービルディング構想では、こういう「ノスタルジックなもの」は考慮されるどころか、切り捨ての対象にすぎなかったようである。(それとは打って変わって、平成の世は「日本回帰ブーム」となっている。)

 世帯ごとに区画があるにしても、「一つのハイパービルディング都市という巨大住居に住んでいる」との意識は常に頭のどこかにあるはずで、このハイパービルディングに「緩衝地帯」なるものがあるとしたら、ハイパービルディングとその外部の広大な自然(動植物界)との間にしかない。

 東京バベルタワーが想定していた居住人口は3000万人(日本人口の4分の1)だから、このたびの被災者数とは比べ物にならないが、それでも、もし「躁状態」のバブル絶頂期にこのたびの規模の震災が起こっていたら、日本人は簡単に東北地方の「ふるさと」や「地元」といったノスタルジーを捨てて、大都市移住に邁進した可能性も捨てきれない。

 このたびの震災で、過去の津波の到達地点に書かれてある「これより下に家を建てるな」という地元の先人の教えを守らなかった人々の行動は個人的には疑問に思うけれども、「また地元に戻りたい」という被災者が多いのは、見ていて安心ではある。

 東京や埼玉という都会に避難してきても、都会の便利さに溺れないのは偉いと思う。「心のベクトル」は「ふるさと東北」に向かっている。ただし、実際の日本の人口分布の変遷を見ると、今は東京への一極集中が加速している。

 被災地域では、復興のやり方について、自治体ごとにそれぞれの思惑があると思う。むろん、津波に耐えられる街づくりをするという点では、全ての自治体が一致しているけれども、方法は様々である。

 防波堤・防潮堤建設に力点を置く自治体もある。「これより下に家を建てるな」という先人の知恵をそのまま守り、巨大な防波堤やビル建設は省いて昔ながらの町の再現の余地を残そうとする自治体もある。いっそのこと伝統的風景を犠牲にしても、頑丈な現代建築を多用して新しい都市建設をしようとする自治体もある。

 確かに、ハイパービルディング・アーコロジー構想の目的の一つには、「周囲の平野を農地として解放したり、森林を手つかずのまま残す」ということがあった。東京バベルタワー計画など東京のハイパービルディング計画でもそれは謳われたようで、東京都心や東京湾上にハイパービルディング・アーコロジーを建設することで、関東平野や東北の山地・山脈を開放するという目的もあった。

 しかし、これでは大自然保護どころか、人間と動植物の共存地帯が消滅し、大都市も大自然も共倒れになる可能性も高かった。

 今となっては、「この東日本大震災を機に、東北沿岸の市町村を全て取りつぶして大自然に還し、東京湾上にハイパービルディングを建設し、そこに被災者を一極居住させる」などと考える人がいたら、「この人はおかしいのではないか」「人道的に問題だ」などと言われるに決まっている。

 しかし、浮かれ狂ったバブル期には、地震が起こらないうちから、日本の多くの建築専門家や建築業者が本当にそんな「躁状態」にあったわけで、僕には今でもそのことが信じがたい。

 冒頭でも述べたように、「鬱の時代」の今こそ、日本人が自分たちの心を見直す良いチャンスだと思う。鬱には鬱なりの意味があると思う。


【画像出典】
http://www.ojima-lab.com/tokyo-babel-tower.html
posted by 岩崎純一 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論

2011年05月05日

ビン・ラディンにとっての神「アッラー」

 ウサマ・ビン・ラディンがついに殺害されたらしい。「“ビン・ラディン的な思想は、表に出さないだけで、実は自分の中にもある”と感じている日本の男性は、けっこういるのではないか?」などと、突如僕の言いたい結論を書いたら、不審に思われるかもしれないが、明日東京がテロ攻撃に遭い、僕とて死ぬ運命にあるかもしれないわけだし、感じたことは書けるうちに書いておきたいとも思う。

 実際に僕は、一部の日本人の内面にある鬱屈した感情が暴発しない理由は、単に「日本にはアッラー(アッラーフ)のような全知全能の唯一神を認める土壌がないから」だけであると思っている。

 一言で言うと、僕にとっての関心事は、「ビン・ラディンにとってアッラーとは何であったか」、「人間の男一匹がそんなに夢中になれるものがあるのか」ということ。いや、そういう問いの答えは、自分の日常生活の中で用意してあるのかもしれないが、一応は改めてそういう問いを投げかけてみたい。そのような人生のテーマを僕にももたらしたテロリストが、ついにアメリカに殺された。

 アメリカはビン・ラディンを暗号名でジェロニモと呼んだ。ジェロニモとは、アメリカ白人による一連のインディアン殺戮作戦(ナバホ族全滅作戦など)に抵抗したアパッチ戦争(対白人抵抗戦)で、最後まで抵抗したインディアンの戦士の名前である。歴史に興味のある、インディアン好きな日本の男の子なら知っている、おなじみの戦士である。

 ともかく、それはそれとして、ナバホ族やアパッチ族などの研究で確認されているところでは、アメリカは、インディアン(ネイティブ・アメリカン)を殺戮するときに、まずターゲットのインディアン部族A・Bのうち、Aを狭い土地に追い込んでおき、それが別のインディアン部族Bの勢力拡大のせいであるという話を作り、行き場のなくなったAの闘争心を鼓舞させてAに武器を与え、AにBを襲わせてBの力を吸っておき、今度はBを襲ったAを「略奪を繰り返す危険部族」と見なして全滅させ、さらに力を失っているBをも同時に全滅させるという方法を取っている。

 インディアンを捕らえたあとに行われた処置は、アメリカ支配層の歪んだキリスト教観を如実に物語っていると思う。例えば、その部族の3分の1は殺し、3分の1は拷問・強姦などをし、残る3分の1はキリスト教に強制改宗させるという方法が見られる。

 不可思議だが、インディアン殲滅作戦を(アメリカがやったことではなく)キリスト教がやったことだと暗に主張することを(避けるどころか)むしろ心がけているのが、アメリカの大陸征服の特徴であった。

「三位一体」ならぬ「三法一体」のこの方法を、厳密にはオバマ大統領や米軍も免れることはなかったと思う。イラク戦争で起こった事態は、過去と全く同じであった。肌の色の違うオバマ大統領が、すでに内面は白人に成りきって、あえて「ジェロニモ」と「イスラム教」という用語を同時に使って戦争を遂行し、勝利を宣言したことは、重大なことであると思う。この両用語がどのようにして有機的に結び付くかを考えてみたい。

 冷戦、9.11、イラク戦争という一連の動向において、アメリカ(及びそれに追随した日本)は、先のAをテロリスト(ビン・ラディンないしアルカイダ)、Bをソ連と位置付けたと言えるだろう。

 アルカイダは、元を辿れば、ソ連のアフガン侵攻に対抗するためにアメリカが作った組織で、ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)から成る傀儡テロ組織の拡大版であるけれども、大半の日本人の意識においては、Aにイスラム教という宗教への負のイメージが組み込まれてしまっている。だから、確かに日本人は、イスラム教自体を「放っておけば自らアルカイダのような武装組織を作り出す宗教」だと思いがちではあると思う。

 しかし、アメリカが、あるいはオバマ大統領やブッシュ大統領が、ビン・ラディンをかつてのインディアン戦士ジェロニモと同一視してそう名付けたという事実は、奇しくも、アルカイダの原型の結成と重武装化がアメリカの尽力によってなされたという現実を、僕のような遠い日本の一若者にさえ簡単に思い出させてしまう。ただし、アメリカは、「日本人は、そんなことまで思い出す国民ではないだろう」と考えたと思う。

 日本のマスメディアはビン・ラディンを「容疑者」と呼称・記載しているけれども、アメリカが若きムジャーヒディーンに武器を供与し、ビン・ラディンとアルカイダを利用していたことを、僕ら日本の若者は忘れるべきではないと思う。

 自分にどのくらいの教養があるか、世界情勢を見る目がどのくらいあるか、こういうことは自分では分からないものだけれども、アメリカが正義で、ビン・ラディンが悪であったという分析は、少なくとも僕には本能的にも理性的にも受け入れがたい。

 大川周明や井筒俊彦のような、僕が魅力を感じるイスラム研究の大家は、今後の日本に現れるだろうか。彼らイスラム専門家だけではないが、少なくとも彼らは(「日本は東洋に属する」とのアイデンティティを主張する文脈で)「東洋」と「西洋」という用語を普通に使い、いわゆるイスラム教徒の中に東洋精神を見ていたと思う。

 大東亜共栄圏構想は、目が覚めてみれば一部の軍部の誇大妄想であったにせよ、その最大版図は、日本民族(大和民族)・漢族・朝鮮族・満州族・蒙古族の他に回族(イスラム教徒)を含み、イスラム国家インドネシアを通り、さらにはサウジアラビアやエジプトに達し、ひとえに西洋列強のキリスト教圏を除いていた。

 このことは、同じ人間としての心の問題の上では、「イスラム教義は東洋精神・東洋的実存に親和する」という認識が日本の教養人にはあったことを示している。大東亜共栄圏は、五族協和・王道楽土の満州国に組み込みきれないイスラム東洋精神を組み込むための理想主義的措置、という側面があったわけである。

 特に井筒俊彦は、日本からイスラム世界を経由してギリシャをも含む東洋精神の構築を夢見ていた。大川周明も、「中国・朝鮮・東南アジアを征服すること」ではなく、「イスラム教を仲間に引き入れること」を念頭に置いていた。僕自身の中にも、なぜか「東洋」なる言葉の中にイスラムまでを含める意識は、井筒俊彦の『意識と本質』を読む前からあった。

 むろん、このような直観においては、「西洋」とはほとんど「キリスト教世界」を意味するのだが、三島由紀夫が「カトリックは世界で最もエロティックな宗教であり、あの荘厳な雰囲気は大切なものだ」と述べたように、大川周明や井筒俊彦にとっても、実際の「敵」は、キリスト教自体と言うよりは、「西洋列強の帝国植民地主義」であり、「東洋人蔑視」であった。

 ならば、どうして「西洋」という語に「キリスト教」の響きがするかと言うに、「西洋人」自らが「西洋」や「欧米」や「ヨーロッパ」という語の中に「キリスト教」の響きを入れて言葉を発するからであろう。

 このたびのイラク戦争でも、オバマ大統領が同じ方法を用いたのは印象的だった。オバマ大統領は、イラク戦争中も、「これは決してイスラム教に対する戦争ではない」と念を押して述べ続けたが、ビン・ラディン殺害作戦成功の宣言の際にも同じコメントを発したのが放映された。

 そんなコメントをあえて世界に向けて言わなければ良いところを、こうして暗黙のうちにアメリカ市民宗教型キリスト教の勝利を宣言するとともに(アメリカの共時態的勝利)、さらにビン・ラディンを「ジェロニモ」と結び付けることで、過去のアメリカの大陸制覇の正当性の宣言(アメリカの通時態的勝利)をも同時におこなうという、かなり凝りに凝った宣言の仕方をしている。

 僕は別に英語が得意なわけではないが、オバマ大統領の英語に特徴的なのは、「神(God)」とは言っても「キリスト」とは言わないということである。これは、対内的にはユダヤ教徒に、対外的にはイスラム教徒に配慮したものだと思われるし、「市民宗教社会アメリカ」を安定的に作り上げていくためのレトリックだと思う。

 ここで、僕の個人的なエピソードを書いてみたい。僕は官僚でも公務員でも何でもない、五足ぐらいのわらじを履いて生きる自由人だが、昨年から仕事の関係で、内閣府をはじめ官公庁の文書に触れる機会がある。

 その中で、ユダヤ・キリスト・イスラム各一神教、すなわちいわゆるアブラハムの宗教の「神」と、天皇の現人神(アラヒトガミ)性としての「神」の違いを、ひしひしと感じることが増えた。これは、官公庁の正式文書が元号で書かれていること、そして現在は一世一元制が採用されていること、という、いわば「天皇と神概念」についての思考を戦後に停止した日本人の「ダブルスタンダード」が原因となって生じている問題であると思う。

 これまでに目にした中で、日本政府及び官公庁の日本観について、最も強い不満と滑稽さを覚えたのは、「平成2000年」などという記述であった。これは、ある官公庁において実際に交わされた書面の一部に記載されたものであるけれども、常識的に考えて、平成2000年に今の天皇陛下が何歳になっておられるかを考えてみれば良い。

 官公庁の文書や法令には、天皇陛下に、まるでアブラハムの宗教の言う唯一絶対永遠の命を強要する書式が見られる。

 ところが、日本の天皇の伝統において、「永遠(えいえん・とわ)」「千歳(ちとせ)」でありうるのは、「万世一系」のことであって、天皇陛下個人の命、細胞や内臓などの生命活動ではない。天皇陛下御自身が後者の永遠を主張したこともない。

 その天皇陛下個人の生命の限界のほうに元号を合わせることにしたのに、様々な文書を元号で書こうとしている。だから、平成300年とか平成2000年という書き方が登場するのだが、これは、実際に政府機関から民間法人に対して「そのように書きなさい」と指示が下された実例である。

 このような日本観においては、天皇が「人間宣言」をしようがしまいが、天皇の「現人神」性をむしろ両極から否定しうる。簡単に言うと、日本の官公庁は、天皇という存在を、ヤマトコトバが指す「カミ」とも、アブラハムの宗教的な「神」とも扱っておらず、新種の神概念を作り出して問題を乗り切っており、なおかつ天皇を、まるで「聖書を身勝手に解釈して自分を神と同一視した歴史上のローマ教皇」のような存在として解釈していると言える。

 立場は色々あるとは思うが、もし「天皇は現人神である」と信じるならば、つまり「天皇は人間の姿をした神である」と信じるならば、天皇の肉体は、アッラーと違って人間そのものなのだから、我々と同じく生老病死の運命にあるはずである。

 もし天皇陛下に現人神性を認めて、尊崇の念を払うならば、次の二つの方法があると僕は思う。一つは、「平成23年+○○年」と書くこと。もう一つは、日本国の公文書をキリスト教圏の暦(グレゴリオ暦)である西暦で書き、これによって、天皇の持つ性質を三島由紀夫の言った「統治的天皇(政治的天皇)」と「祭祀的天皇(文化的天皇)」とに二元的に分けて、前者に西暦、後者に和暦を付帯させ、日本の公文書を天皇の持つ統治的権威(government)とのみ親和させることで、天皇の穀物神としての祭祀的権威を独立させて守ること。

 これで、アメリカの主権国家観やキリスト教とは全く異なった天皇の位置付けが上手に保存されるのではないだろうか。

 これが絶妙な形で実現されていたのが「日本化された律令制」の時代で、「行政・立法・司法など全ての統治的権威」は太政官が担うけれども、天皇の祭祀的権威をバックボーンとして動く神祇官に対して、太政官は口出しができないように独立させられていた。

 しかし、現在では、官公庁の正式文書が一世一元制に縛られた元号を採用しているから、逆に天皇は遺伝子操作でもどんな大手術をしてでもなるべく長く生存し続けなければならないかのような記載になっている。そんな理不尽な現状は、天皇への不敬・冒涜にはならないだろうか。

 以上のことを、少し機会があったので官僚相手に指摘してみたら、サッと交わされて「若者なんだから、そんな難しいことを言わずに、国の言うことと法令に従うように」と言われた。しかし、僕にはこういうことが関心の対象なのである。こういう議論を停止して戦後を過ごしてきた日本のあり方を、個人でできる範囲で是正してみたいと思ってしまう。

 時系列的には、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の順に誕生したのに、なぜユダヤ教は安定的な国家を持つことができず、イスラム教はもはやその宗教自体がテロリズムの温床と思われ、帝国植民地主義という概念はキリスト教とのみ親和・結託したのか。これは、僕個人にしてみれば、人格神というものをどうとらえるかにかかっていると感じられる。

 僕は、シーア派やイスラム神秘主義については、自分の日本人観や日本観と親和するものとして分析したことがあるが、ともかくスンニ派だろうとも、イスラム教で最重要であるのは、「ありとあらゆる目に見えるもの(被造物)を神としない」ということである。

 ところが、これは「あらゆるものをアッラーとしない」ということであって、ヤマトコトバとしての「カミ」としない、という意味ではない。だから、極端に言えば、「アッラー」を「神」と翻訳している日本のイスラム書物は、ビン・ラディンどころか穏やかなムスリムにとっても悪書でありうる。

 従来の日本の八百万の神をそのまま「神」、外来のアブラハムの宗教の「God」を「天主・天帝」と翻訳したかつての日本人は賢い。アッラーはアッラーであって、「神」ではない。それを大川周明も井筒俊彦も分かっていた。アッラーは人格神とされるけれども、「アッラーは人格神か否か」という問いを立てたのはキリスト教で、アッラーの姿は今までもこれからも偶像化されない。

 逆に言えば、イスラム教は、「汎神論」ならぬ「汎アッラー論」でありうるかもしれない。ムハンマドは、預言者・使徒・開祖・軍事指導者などとは呼ばれるけれども、「アッラー=ムハンマド」ではないから、キリスト教のような「三位一体説」、「神とキリストの父子関係」といった概念もありえない。

 むしろ、日本国民のほうが日常生活で宗教を考えなかったり、世界情勢に無知であったりするだけであって、大川周明や井筒俊彦は、イスラム原理主義勢力や神秘主義勢力のアッラー観が日本人の汎神論者性と親和する可能性があることを見抜いている。

 少なくとも、ビン・ラディンが「アッラー」と言ったとき、それは日本の官公庁にとっての「平成2000年」的な間抜けな「神」ではなかっただろう。ビン・ラディンは、そんな間抜けな矛盾を許すような人間でなかったということだけは、確かだろう。ビン・ラディンが背負っていた「アッラー」とは、そんなナマ易しいものではなかっただろう。

 少なくとも、オバマ大統領が、自分がブッシュ大統領から継承した戦争行為の結末の正当性を担保したものを、市民宗教としてのキリスト教だと暗に主張した一方で、前教皇ヨハネ・パウロ二世がキリストの名を背負ってイラク戦争にノーと言った以上、二つの別の宗教が同じキリストの名を冠しているとしか思えない。

 このうち、三島由紀夫の言う「世界で最もエロティックで荘厳な宗教たるカトリック」を一宗派に持つキリスト教が後者であるとすれば、ビン・ラディンが攻撃したのは前者のキリスト教であろう。ビン・ラディンにとっては、おそらく日本の天皇が現人神であろうともなかろうとも、頓着しなかったと思う。

 日本の天皇の現人神性・祭祀的権威は、アッラーとはぶつからないものであり、ぶつかるかどうかという問い自体が存在しないかもしれない。天皇が現人神として担保していたものは超越的理念ではないが、教皇が担保しているのは超越的理念である。天皇が現人神であるかないかに一喜一憂するのは、むしろ今でもアメリカであり、平気で官公庁文書に「平成2000年」と記述する日本の官僚や政治家であるかもしれない。

「先の大戦で日本が勝ったとしても、日本刀で戦って勝ったのならまだしも、西洋の軍事技術を駆使したのだから、勝ってもほとんど喜べなかったであろう」と三島由紀夫が述べたのと同じで、ビン・ラディンとテロリストたちは旅客機を使って勝ったとしても、確かに喜べないのである。

 そこに現代テロリズムの空しさがある。ただし、少なくとも僕にとっては、ビン・ラディンの思想やイスラム原理主義がアメリカ市民宗教社会型キリスト教よりも横暴であると断言する勇気は、ないのであった。

 戦前及びバブル崩壊・湾岸戦争までの日本のイスラム研究家が、なぜ「日本の多神教的・東洋的実存は、アッラーとは親和するが、イエス・キリストとは親和しない」として、イスラムを「東洋」の版図に入れたか、肌で理解できる日本人は、今は多くはないと思う。私自身も理解できていないのだろうけれど。
posted by 岩崎純一 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論