2011年10月27日

なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応(その二)

401px-Die_protestantische_Ethik_und_der_'Geist'_des_Kapitalismus_original_cover.jpg(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49231797.html

(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49662507.html

承前。

 さて、前回は、現代人の「宗教」観を大雑把に四つに分け、このうち多くの戦後日本人は「(3)宗教的であるが、宗教とは何かを脳が認識していない人間」に該当するだろうと書いてみた。

 縄文・弥生時代よりあった「日本的アニミズム・八百万の神々信仰」、その後に輸入された「仏教」、そして、「如来・菩薩・明王・天」などの仏教概念を借用する形で「八百万の神々」が「アマテラス」を中軸として再編成・体系化された「神道」及び「神仏習合」は、そもそも「宗教(religion)」に該当しないものだということが、明治期の知識人には正確に理解されていたと思う。

 現在、「宗教」の定義は星の数ほどあるにせよ、「宗教」の原義が「唯一神と人とが(re)再び新たに(ligion)契約すること」である以上、厳密に言えば、「神道」や「仏教」は「宗教」ではあり得ないことになる。

 一方で、「旧約聖書だけでは物足りず、同時に、後世のコーラン(クルアーン)は不必要であるとする世界観」、すなわち「神との新契約(religion)が描かれた聖書(新約聖書)を重点的に信奉する世界観」にこそ、まずは正当に「宗教(religion)」なる呼称が与えられることになる。

「宗教の中にキリスト教やイスラム教や仏教や神道がある」のではなく、「宗教とは第一に、西洋のキリスト教によってキリスト教自身に与えられた正当性・優越性のことである」という歴史的経緯を意識しておくことは、非常に重要なことである。

 逆に言えば、本来、西洋にとっては、「新契約(religion)」に拠らない世界解釈は「宗教」ではないのだから、軍事行動によって他文明に「宗教」を啓蒙しなければならないという発想が生まれることになった。これが、十字軍や西洋列強の帝国植民地主義が「キリスト教布教」と一体化していた仕組みそのものであることを理解する必要があるだろう。

 そして、私は前回、戦後日本人は、そのような歴史的経緯と「宗教」観を(義務教育の段階から)知識として持ち得ていないにもかかわらず、結局はそれらを無自覚のうちに都合よく利用してきた可能性がある、という主旨を書いてみたわけである。

 先に書いたような積極的な「religion」への顕在意識が国民レベルで存在しない先進国は、ほとんど日本だけであると思う。そのことがなぜ今の一部の日本人の鬱病や対人恐怖症、社会不適応者の持つ疎外感につながっていると考えられるのか、これを今から説明してみたい。

 そもそも、「鬱病」や「社会不適応」といった精神疾患概念は、もっぱら近代西洋のキリスト教世界と戦後日本にしかないものである、ということを知る必要がある。

 私の周りにも、稀に、学校や職場で明らかないじめ・パワハラ・セクハラなどを受けたわけでもなく、日常生活で家族や知人の死や離別の悲しみを体験したわけでもないのに、ほとんど先験的・自発的に、自らの心身の何らかの機構のみによって鬱病や対人恐怖症、社交不安障害を発症する日本人が存在する。

 あるいは、就学前・就業前からそのような心境となり、登校拒否・就職拒否に陥り、現代日本社会において「生きる」こと自体に非常に苦労していると訴える一定数の日本人が存在している。

 いわゆるアスペルガー症候群者には、そのような感性的過敏者や社会不適応者が多いと言われるが、私もその説を大いに認める一人であるにしても、ここではともかく、「特定の他者からピンポイントでいじめ・批判・攻撃を受けた心的外傷体験の有無にかかわらず、自発的に精神疾患(いわば「心的内傷」)を呈してしまい、だからと言って、先述のような定義としての宗教(religion)や新宗教にも全く頼らない日本人」に見られる「鬱」や「社会不適応」を中心に扱う。

 このような場合、発症原因としての具体的事件(いじめ・被暴力体験・戦争被害など)が、過去の人生のどこを探しても全く(あるいは、少ししか)存在せず、茫漠とした「生きる営み」自体についての苦脳だけが鬱々と自覚されるのであるから、西洋医学としての精神科・心療内科による診断能力の蚊帳の外にあり、むしろ哲学書や芸術に拠り所を求めたり家に閉じこもったりして心的防衛体勢をとることになる。

 このような日本人が一定数いるということについて、私は非常に好意的な感情を持って観察している。なぜならば、本来ならば、あらゆる戦後日本人の心身に、元より出生時からそのような心的内傷性・メランコリ気質・感覚過敏性が普遍的に備わっている可能性が、浮かび上がってくるからである。

 特に対人恐怖症(TKS)が日本人の脳神経系に固有の「文化依存症候群」であるとされているように、日本人の鬱気質・敏感気質というものは、世界に類を見ない平和的特色を持っていると言ってよいはずである。

 ところが、実際にはこのような精神性は、「伝統的日本人の特色」であって、「戦後日本人(特に平成日本人)の特色」ではなく、「一部の日本人に残された日本人性」と述べるのが正しいようである。

 ある文化圏・民族圏・宗教圏にのみ極端に偏向して観察される心的様態・精神疾患というものは存在すると見るのが、真に客観的な姿勢だと私も思うけれども、しかし、現代の日本は、そのような心的内傷性を日常的に抑圧して意識の傍流に追いやり続けることが、「職業としての労働」において暗黙のうちに要求されている社会であると思うのである。

 ならば、このような心的様態が日本以外にあるのかと言うに、「アブラハムの三宗教」であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教を比較すると、非常に興味深いことが観察される。

◆ユダヤ教・イスラム教圏・・・アメリカ精神医学会の定義する鬱病や社交不安障害、社会不適応などの近代的精神疾患概念が存在しないか、定義から大幅に外れた症状(日常的苦脳)や行動(ジハードとしての聖戦など)が見られる。

◆キリスト教圏・・・宗教としてのキリスト教自体が、鬱病や社交不安障害、社会不適応などの近代的精神疾患概念創出の主体であって、アメリカ精神医学会の精神疾患分類の作成にカトリック教会、プロテスタント教会などが関係しており、その精神疾患分類のグローバル化とキリスト教の布教活動(特に近現代プロテスタンティズム)とが渾然一体化している。

 まず、資本主義・新自由主義大国であるアメリカで見られる精神疾患の傾向は、ほとんど戦後日本と同じである。むしろ、日本がアメリカの新自由主義的な社会・経済システムをそのまま自国に輸入・転用し、特に小泉政権以降に格差が極端に広がってきたのだから、そこから生じる精神的ひずみ、及び精神疾患分類がアメリカ的であるのは当たり前だと言える。

 例えば、日本と欧米における鬱病者や社会不適応者に見られる感性過敏者は、アメリカの心理学用語において、「HSP(Highly Sensitive Person)」と呼ばれる。アメリカの心理学者エレイン・N.アーロン氏らによって提唱された、「心が敏感すぎる人」とでも訳される概念で、アメリカにおいても、鬱気質・敏感気質の人ほど現代特有の資本主義・新自由主義経済体制から取り残されていく可能性が、心理学レベルで緻密に分析・言及されている。

 ところが、まさにムバラク政権やカダフィ政権が打倒されるなど、緊迫した情勢が続くイスラム教圏において、日本の「鬱病」や「対人恐怖症」や「敏感気質」、アメリカの「HSP」や「社交不安障害」に当たる心理学・精神医学用語と概念とが存在するかと言うに、ほとんど存在しないのである。

 コーランは、そもそも神がムハンマドを通じてアラビア語でアラブ人に与えたとされるが、中東全域に渡るアラビア語のみならず、シーア派圏・イランのペルシャ語においても、心理表現用語(「苦しい」・「悲しい」・「悩む」など)は存在するにせよ、精神疾患としての「鬱病」や「社会不適応」という概念自体が存在しない。

 ユダヤ教圏・イスラエルのヘブライ語も、(イスラム教圏・アラビア語よりも圧倒的にアメリカ式精神医学の息がかかっているとは言っても、)ほぼ同様の様子を呈している。

 ここで言う「疾患として存在しない」というのは、「疾患が定義する症状」については彼らの脳神経機構において知覚・認識されていないという意味である。あくまでも「鬱病」が存在しないということであって、「鬱」が存在しないというわけではない。だから、「非先進国の多いイスラム教圏では、まだ欧米の先進的な心理学・精神医学・宗教学などの発展がないから、鬱病などの概念が生じていないだけだ」という分析も、誤っている。

 さらに言えば、彼らにとっては、イスラム教という考え方そのものが、「鬱の解消法」及び「社会適応」なのであって、それがアメリカや戦後日本人にしてみれば「国際常識不適応」であるというだけにすぎない。いわば、イスラム教の中に過激な原理主義があるというよりは、イスラム教はそもそも正当な原理主義なのだ、そして、過激なテロリズムはイスラム教一派の特殊な思想なのだということを、私は感じるのである。

 その原理主義の実践こそが、「ジハード(本当の神の道に従うための人生における努力)」なのだろうと思う。「ジハード」は本来、テロ行為などではない。いずれにせよ彼らには、アメリカ的価値観の圧迫によって「鬱」や「社会不適応」(というよりは、「対世界鬱」や「世界不適応」と言うべきものだろう)に陥ったときには、その「前宗教的な唯一神アッラーフ」に頼るという道が担保されているわけである。

 これがおそらく、イラク戦争が全くうまくいかなかった原因そのものだと思われる。アメリカがイラク戦争を起こした背景には、戦後日本の占領統治の成功があるに違いないと思う。イラク戦争を失敗させたのは、巡り巡って、マッカーサーの姿を前に感動のあまり大泣きした戦後の多くの日本国民の付和雷同性格にあると思う。

 戦後日本の占領統治は、その一でも少し書いたが、日本人男性の崇敬対象たるアラヒトガミ(現人神)が天皇からマッカーサーにすり替わること、日本人女性の性的陶酔対象が夫からマッカーサーに移行すること、家族内での夫の妻に対する性的地位と子どもに対する父権的地位が崩落し、代わりに「会社に心と体どころか一生を捧げる」という「性的実践的宗教心」、「会社との契約」という「顕在意識化しない新約聖書性・一神教性」が常識化することで、簡単に遂行できたのだと思う。

 すなわち、戦後日本人はアメリカの占領統治を、「新約(religion)」という「宗教性」を「実生活の無意識下」において獲得することで、乗り切ることができた。それが「意識上」ではなく「無意識下」に起こったのは、その一の「宗教」に対する態度の四分類における(1)と(3)に共通する「無意識性」という良さだけは、日本人全般に残されていたためだと思う。(1)から(3)に突然飛び乗ったというわけである。

 アメリカはおそらく、イスラム教圏においても、このような占領統治と民主化が可能であると甘く考えたと思う。ところが、アメリカから見た「イスラム教圏の後進性」を克服させる「民主化」・「近代化」という概念を絶対神との「新約(religion)」に結び付けることがアメリカの狙いである以上、また、それが(その一)で述べたように半ば(4)の顕在意識による目論見である以上、イスラム教は「(2)前宗教的な宗教」の立場として、強大なアメリカ市民型キリスト教(資本主義的・新自由主義的プロテスタンティズム)に対抗しようとする。

 結果として、(2)は(4)を翻弄できることが分かったわけである。ところが、(3)である戦後日本には、簡単に(4)側の社会・経済システムが侵入できたわけである。

 さて、「キリスト教」とひとくくりにしていた「新約(religion)としての宗教」について、もう少し丁寧に考える必要があると思う。

 そもそも、ソ連崩壊以降、レーガン政権やサッチャー政権にその萌芽を見ることができ、資本主義が行き着いた果てである「新自由主義」は、結局のところ「キリスト教」全般と言うよりは、「アングロ=サクソン型の現代版プロテスタンティズム」と言った方が、より正確に違いないからである。

 何よりも、アメリカの社会・経済を象徴する資本主義というものが、紛れもなく「ローマ・カトリック圏からは出ず、プロテスタント圏から出たイデオロギーである」ことを見る必要がある。すなわち、アメリカがイスラム教に対置して正当化しようとしている「キリスト教」とは、多分に「現代版プロテスタンティズム」の響きを持っている可能性について、見る必要がある。

 もし、テロリストに限らず、イスラム教全般の「前宗教的性質」の立場から違和感を覚える相手が、本当は神を同じくする「キリスト教」自体ではなく、「現代アメリカ的プロテスタンティズム」であるということが言えるならば、そのアメリカ型の社会・経済システムを輸入・転用してきた戦後日本において初めて生じた今の鬱病者や社会不適応者の心境とは、「現代アメリカ的プロテスタンティズム」なるものに対する違和感であり得る。

 先にも書いたように、日本人の脳神経機構においては、ちょうど「日本的アニミズム」が具体的な「仏教用語」を用いて初めて「神道」として体系化されたのと同じく、「神との新契約(religion)」としての「一神教」・「宗教」という概念は、「GHQへの追従」や「会社への忠誠」や「マッカーサーへの性的恋慕」といった極めて具体化された心境として理解された。

 ゆえに、その中身に大きな誤りがあったとしても、逆に気づかなくなるように思う。これがまさに、我々ほとんどの戦後日本人の陥った(3)の宗教観であるのかもしれない。

 しかし、戦後日本人の中に一部、(1)または(2)のような宗教観を「平和的に」持つ人間がいるのであり、それを「鬱」や「社会不適応」と呼ぶのであるというのが、私の考えである。

 それら「鬱」や「社会不適応」は、「平和的(非暴力的・非テロ的)」である点でイスラム原理主義の一派とは異なるが、「一神教的な神との新契約(religion)自体の現代アメリカ型宗教化への拒否反応」である点でそれと似ている、というのが私見である。

 そして、その一でも書いたように、そのことが日本においては、「国家理念」など国民全体の宿命を背負う抽象概念よりも、「学校」・「労働」・「職業」・「世間体」・「ご近所関係」といった個々人の実人生を担う具体概念に現れる。だから、「ジハード」性は、「テロ」や「クーデター」ではなく、子どもの「登校拒否」、学生や社会人の「鬱病」などの形で現れるのだと考える。

 これらは、「一神教的な神との新契約(religion)自体の現代宗教化への、無意識的・非暴力的だが実践的な拒否反応」であると定義付けることができると思う。

 では、今のアメリカや日本の新自由主義型の資本主義を担保する「現代アメリカ的プロテスタンティズム」とはどういうものだろうか。日本においては、その「プロテスタンティズムへの拒否反応」が一部の人のみの「就学・就労の苦痛感」として顕在化するのは、どうしてだろうか。

 もしかすると、イスラム原理主義者にとっては自らの宗教が近代西洋・アメリカの言う「宗教(religion)」ではないのと同様に、戦後日本の鬱病者や社会不適応者にとっては、「自らの持つ労働・就業精神が、アメリカ及び現在の日本の新自由主義型の労働・就業精神ではない」と自覚されている可能性があるのではないか。

 なぜならば、今の日本において「就労」・「就業」と言われる時、それはすでに「戦後日本独特の官僚社会主義的資本主義」と「プロテスタンティズム(ないしカルヴィニズム)」とが歪んだ形で融合した「宗教儀式としての労働への参画」の響きを持っているように思われるからである。

 過去には、技術と商業の発達及び資本の蓄積が充分であるにもかかわらず、「労働」があって「職業」が存在しなかった社会、「資本」があって「資本主義」が存在しなかった社会がたくさんある。中国の春秋時代、ヘレニズム時代、産業革命前までの西洋社会、そして中世・近代のイスラム全域などがその典型だが、ともかく以下の時代と地域において数多く見られる。

◆古代のエジプト・メソポタミア
◆古代のギリシャ・ローマ・ヘレニズム
◆古代・中世のインド・中国
◆古代・中世のヨーロッパ
◆中世・近代のイスラム教圏
◆古代・中世・近世の日本

 ここから分かることは、「資本の蓄積があること」と「資本主義が芽生えること」とは全く異なっているということである。このことは、「労働している自己」と「職業としての労働をしている自己」とはそれらの脳神経系における発生機序として全く異なる、という命題にそのまま対応しているように思われる。

 技術と商業の発達及び資本の蓄積がありながら「職業」・「就職」といった概念が存在しなかった過去の社会に共通して見られることは、次の二つである。

 一つは、「労働とは宗教儀式である、という考え方が存在しない」ことである。むろん、ここで言う「宗教」とは、これまでに述べてきた「キリスト教」のことである。二つには、「目的合理的な生き方が存在しない」ことである。

 つまり、「資本主義」そのもの、あるいは、その資本主義における「職業(Beruf=天命)」・「就学」・「就業」という概念は、「労働(学業)とは目的合理性を持った宗教儀式である」という精神が共有されている社会でなければ、絶対に出てこないのである。

 むろん、このような考え方をなぜ当時の西洋の大衆が持ったかと言えば、カトリックに対する自分たちの正当な「キリスト教」を新設しようとしたためであった。それが「プロテスタント」である。

 非常に身近な話をすれば、私の周りにも、登校拒否の我が子を学校に行かせよう、鬱病の人間を社会復帰させようと尽力している人がいる。そもそも、現在の日本で見られるそのような社会復帰支援活動のほとんど全てが、文字通り「支援」という「他者に手を差し伸べる博愛精神」を顕在的または潜在的に行使している。

 ところが、そのような他者への「はたらきかけ」自体が一つの「宗教(religion)的行為」であることに気づかないのが、戦後日本人の非常に摩訶不思議な特徴である。これがすでにキリスト教的宗教儀式であるということを理解していないのは、ほとんど戦後日本人だけであると思う。

 逆に言えば、登校を拒否している子どもが再び登校し、社会不適応者が社会復帰・社会適応するためには、何らかの絶対的・超越的理念との再契約という「宗教(religion)精神」が必要なのである。

 この「絶対的・超越的理念」を、「一神教的な神」ではなく、「会社」・「年功序列・終身雇用」という理念にすり替えることができたのが、多くの戦後日本人であったのではないかと思う。

 先にも書いたように、現在のイスラム世界(特に原理主義・テロリズム)とアメリカの新自由主義型資本主義との戦いは、(2)と(4)の戦いだと言える。互いに自らの世界観を「アブラハムの宗教の正統」として争っているが、それは実態としては「前宗教的アブラハム性」と「宗教的アブラハム性」の戦いであると言える。

 前者イスラム世界の人々(特にテロリスト)の実人生においては、「いざとなれば戦闘行為に身を投じる覚悟」が、「義務教育」・「就学」・「就業」といった欧米的輸入概念と全く対等に意識されている。「対欧米・対キリスト教・対アメリカ型プロテスタント」の意識それ自体が、幼少期から人生の一部なのである。

 ところが、多くの戦後日本人は常に(3)のような世界認識であるために、「義務教育」・「就学」・「就業」それら自体が「キリスト教的・プロテスタント的宗教儀式」であることに気づいていないように思う。それらを「無意識下の脳神経系のはたらき」のまま成し遂げて、いつのまにか(1)から(3)になったというところに、一種の恐ろしさを感じるわけである。

 もっとも、このような資本主義的職業社会の人間の持つ特質に、最も天才的なひらめきによって言及したのは、マックス・ヴェーバーにほかならない。

 むろん、ヴェーバーは戦後日本の姿を見ることはなかったが、今私が書いてみた「戦後日本人に見られる一定の特色」と同じものを、ずっと早くから近代資本主義社会の西洋人のうちに見て、正確に指摘していた。(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』など)

 ヴェーバーは、近代資本主義がプロテスタンティズム(特にカルヴァンの予定説に代表されるカルヴィニズム)的な「世俗内禁欲性」と「目的合理的生活」とによって担保される、ということを見い出した。極めて具体的な例で言えば、今の資本主義経済体制における「会社の利益追求」という欲求は、我々人間の「近代的な禁欲性」という倫理によってしか担保され得ないと考えるのである。

 私も、「会社の利益を禁欲的に追求することを倫理とする人間になどなれない」という「非宗教(religion)的・非カルヴィニズム的な精神性」は、今の日本においては、そのまま精神疾患としての「鬱病」や「社会不適応」として現出されていると考える。

 ヴェーバーが不安と不満を覚えた近代西洋の姿と同程度に歪んだ姿を、アジア極東において体現しているのが、まさに今の日本であると私は思う。

 現在の一部の日本人の鬱病や社会不適応は、「神に対してでなく雇用主・会社に対して要求される、無意識下における一神教的な禁欲と忠誠」という「極めて摩訶不思議な宗教儀式としての現在の日本の労働形態」への、「正当な批判」として生じたと、私は見ているわけである。

続く。

■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Die_protestantische_Ethik_und_der_%27Geist%27_des_Kapitalismus_original_cover.jpg
posted by 岩崎純一 at 00:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論

2011年10月24日

なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応(その一)

549px-Info_box_collage_for_mena_Arabic_protests.jpg(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49405339.html

(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49662507.html

 先日のカダフィ大佐の死についてもそうだったが、中東情勢全般について、日本のメディアや専門家たちが「日本は無宗教社会であるから、中東情勢は理解しにくい」と解説しているのをよく耳にする。

 確かに、欧米や中東のように明確な一神教を持たない日本社会であるから、それぞれの超越理念たる絶対唯一神を賭けた他宗教・他宗派・権力への敵対心、血を流し合うあのような動乱というのは、(石原都知事が述べるように)北朝鮮から東京にミサイルでも撃ち込まれない限り、起こり得ないのかもしれない。

 しかし、この「日本人は無宗教」という響きは、厳密に言えば、単に「日本はアブラハムの三宗教に該当する一神教を意識的に持たない」という意味しか今後も持ち得ないだろう、と私は考えている。

 メディアや専門家がそこまで考えて言ったか言わないかは分からないが、ともかく、少なくとも明治期においては、「religion」の訳語としての「宗教」という概念を自我意識がとらえていた可能性があるのは当時の知識人たちのみで、一般国民は理解していなかった点を見ても、半永久的に先の意味しか持ち得ないと私は思っている。

 むしろ、「日本人は、ほとんど戦前まで無宗教であったが、戦後に宗教的になった(無意識的一神教性を帯びるようになった)」という言い方が正しいのではないかと私は見ている。

 それはなぜかと言うに、例えば、明治期の日本の知識人、及び現在の仏教学・宗教学界においては、「宗教(religion)」が元来「唯一神と人とが(re)再び新たに(ligion)契約すること」である以上、「仏教を本当に宗教(religion)と呼んでよいか」という議論があった(ある)にもかかわらず、戦後の多くの日本国民はそれを議論せずに生活できたという気楽な現実を、いつも私は考えてしまうからである。

 すなわち、戦後日本人の自我意識・脳神経機構には、「仏教も宗教の一つである」とか「仏教とキリスト教とイスラム教の違いは、宗教の違いである」といった文脈で認識されているのではないかということを、如実に感じてしまっているからである。

 むろん、現代日本の(いわゆる「葬式仏教・戒名商売仏教」になってしまった)宗派仏教などは、「宗教」であると私も思う。私は心境的に、そのいずれもに対して、今のキリスト教やイスラム教に対する興味よりも小さな興味しか持ち得ていない。

 私の死生観・宗教観は、基本的に、かの白洲次郎と同じく「葬式無用、戒名不要」の一点に象徴されると自分で感じているし、いわば原始日本的な諦念そのものだと言えるけれども、ただし、仏教分析においては、10月3日〜12日の記事で紹介した原始大乗仏教としての禅・中観・唯識などは「religion」としての「宗教」には該当しない可能性が高いという見解をとっている。

 また、これは今のところ、我ながら極めて客観的で冷静な仏教分析ではなかろうかとも思っている。その意味では、私は「仏教徒」というよりは「仏徒」であるという見方もできなくはないと思う。

 しかも私は、江戸・明治期の日本の知識人は、今とは比較にならないほど賢明だったと感じるのであって、例えば彼らが、「カミ(神)」という語を従来の八百万の神々の呼称としてそのまま残し、キリスト教の絶対的超越理念に相当する主体のほうは「デウス」の音と結び付けて「天主(テンシュ)」「天帝(テンテイ)」と訳し、非常に正確に区別した点などは、実に賢明だったと思うのである。

 それがいつのまにか、西洋人自身が世界の宗教を「一神教」と「多神教」とに分け、横並びに優劣を比較して前者を「優れた文明的宗教」と規定したために、この考え方が日本にも伝わって、「神」の語はむしろ「天主」の響きとなり、「日本の自然信仰・神道や東洋の仏教と、西洋のアブラハムの宗教との違いは、神様・仏様の数の違いである」、そして、「神を一つに絞ることと近代化とは同義である」という、二重の勘違いが生じた。

 さて、ここまで説明したところで、私は、戦後の日本人ほど「宗教的でありながら、宗教的であることを自覚していない」民族は、世界のどこを探してもいないのではないかと思うわけである。ここで言う「宗教的」の意味は、ほとんどそのまま「近代西洋のアブラハムの三宗教的」という意味に等しく使っているつもりである。

(厳密には、ユダヤ教でもイスラム教でもカトリックでもない、「近代プロテスタンティズム」を指している、というのが正確なのだが、その説明は後にしたい。)

 ここで、「religion」としての「宗教」に対する態度は、四つあることになる。

(1)「宗教的でなく、宗教とは何かを脳が認識していない人間」
(2)「宗教的でないが、宗教とは何かを脳が認識している人間」
(3)「宗教的であるが、宗教とは何かを脳が認識していない人間」
(4)「宗教的であり、宗教とは何かを脳が認識している人間」

 (1)は、もちろん有史以前の人類が挙げられる。いわゆる自然信仰・アニミズムや世界各地の多神教信仰全般である。あるいは、前回三回分の記事に挙げた(キリスト教側からの侮蔑用語としての)ペイガニズム全般も挙げられる。これらは、「宗教」を標榜する十字軍や帝国植民地主義国などから攻撃を受ければ簡単に壊滅するものの、平時においては最も平和的な社会・信仰形態と言える。

 (2)は、インドやタイやブータンなどの禅修行者、アフリカの比較的都市化した地域の先住民族や、中国国内の異教先住民族などが挙げられる。

 彼らは、土着の自然・動植物信仰を今でも持っており、宗教学的体系としての「宗教」を持っているとは言えないにもかかわらず、しかし「宗教」としてのキリスト教・イスラム教の征服地域、あるいは中国共産党という事実上の独裁体制の地理的内部に居住しているため、「宗教」の威圧感、「宗教」に対する危機感というものを肌で理解していると思う。

 (4)の筆頭は、言うまでもなくアメリカであるだろう。湾岸戦争においても、イラク戦争においても、キリスト教を標榜することだけは忘れなかった。あるいは、ルネサンス・大航海時代から産業革命、帝国植民地主義に至るまでの西洋列強の姿も、まさに(4)であるし、その成功は「宗教」の意図的利用によるところが大きかったわけである。

 そして、(3)の筆頭こそ戦後日本人ではなかろうかというのが、私の考えだと言える。しかも、(3)というのは、どうやら四つのうち最も危険な宗教観に思えてならない。「危険」というのは、戦争を起こされやすいだけでなく、実は原理的に戦争を起こしやすい宗教観でもあるという意味で書いたつもりである。

 日本人は、つい1945年8月までは、異口同音に「鬼畜米英」と叫んでいた。ところが、その数か月後には、マッカーサーやGHQに宛てて「マッカーサー様、GHQ様、あなた方は私たちの希望の星です」などという数十万通の手紙を送り付けている。戦後日本はここから始まったのだ、これが近現代の日本人であるということを、我々は今一度、意識の上に引っ張り上げてみるべきだと思う。

 男性は、それまで天皇に対して注いでいた崇敬の念を、そっくりそのままマッカーサーに移した。当時の60代や70代の高齢男性らも、マッカーサーに骨董品を送り付けるなどしている。若い女性や主婦たちは、半ば性的欲求・性的陶酔に近い感情を吐露した手紙の数々をマッカーサーに送り付けた。

 こうしてマッカーサーは神格化された。見ていると、敗戦後の日本人女性たちのマッカーサーへの性的陶酔は、ドイツ人女性たちがヒトラーに対して引き起こした性的陶酔に似ていたことが観察される。

 性的陶酔への言及を控える代わりに、滑稽さを加味した一般向けの本には、例えば、袖井林二郎氏の『拝啓マッカーサー元帥様』がある。マッカーサーにハニワをプレゼントしたり、マッカーサーの肖像画を皆で刺繍したり、摩訶不思議で滑稽な日本人の行動が記録されている。

 マッカーサーらGHQ一同は、このような日本人の行動を観察した結果、これはふざけているわけではない、単に彼らは脳が十代の子どもかサルのそれであるからそういう行動をとるものと考えられる、と結論付け、大統領と連邦政府・議会に報告した。

 このような心境と行動に始まる戦後日本人の姿を一つの宗教体系と見て、「戦後日本教」と名付けてもよいようなものを、名付ける気がないのも、また戦後日本人であるからではないだろうか。だからこそ、表向きは「日本人は無宗教である」という言い方になる。

 そういう言い方のままで、我々は戦後を営んできた。これがいかに一つの「宗教的」行動であるか、しかも冷静で知的とは言えないそれであるかということを、どうしても私は個人的に感じるのである。

 私は、GHQに対してとられたこのような「無意識的宗教性」としての日本人の心境と行動とが、それ以前の明治期や江戸期、ましてや上古代の時期から日本列島民の固有の特質としてあったかと考えるに、無かったと考える。

 このような心境と行動とは、実は「日本人的ではなく、戦後日本人的であり、そのまま戦後日本人性の始まりである」、すなわち、先の「宗教」の定義に絡めた言い方で言えば、「日本人は、戦後に初めて宗教というものを脳に獲得した」と考えている。

 これは、憲法においても、同じことが言えると考えている。義務教育がそのようなシナリオになっているから仕方ないかもしれないが、帝国憲法というのは、それがそのまま天皇主義と軍国主義を保証した、あるいはそれらと一体化した憲法だと、多くの日本国民に思われているように思う。

 ところが、それは憲法学的に見ても誤りであるし、もし当時の知識人だけでなく、国民(皇民)が帝国憲法をきちんと読んでいれば、この憲法をうまく使って悲惨な戦争を防げたか、または最小限に食い止めることができた可能性があると、私は考えている。

 ことに「宗教」という観点から見ても、帝国憲法は、伊藤博文ら当時の知識人の手によって「日本的自然信仰・アニミズム」(無意識の世界)と「近代西洋的知性」(意識の世界)とが半分ずつ組み込まれた立派な憲法であったと思う。そこにあるのは、「宗教性の無条件輸入」ではなく、「日本という前宗教性との調和」に他ならないと思う。

 つまり、帝国憲法が悪法であったのではなく、その解釈をおこなった国民の脳のほうに、実は「鬼畜米英」と呼んだ相手であるはずの欧米の「宗教性」が無意識に準備・担保されていたために、その「宗教心」の相手を天皇からマッカーサーにコロッと変更することができたのではなかろうか。

(ちなみに、どのような軍隊をどのように持つかということが憲法に書いていないのに事実上の軍隊を持っている国は、そのことが憲法に書いてあってそれ相応の軍隊を持っている国よりも、他の国から見て危険であるということを、戦後日本人は考えなくなってしまったと思う。今の憲法は、平和憲法ではなく、むしろ他国に失礼な憲法であるだろうと私は感じている。今の日本人の宗教観のままだと、有事の際には、突如としてまた「鬼畜米英」を掲げて現憲法をさらに軍国主義的な憲法に改憲するとともに、軍備増強国家になる可能性を秘めている。だからこそ、平時の今、いわゆる「選び直し」によって全く同じ内容の憲法に改定した後でもよいので、再び安全保障条項について考えていくのがよいと思う。)

 そして、「対アメリカ無意識的追随教」とでも呼びたいような戦後日本人のそのような「宗教性」は、時が経つにつれて、「安全保障」や「天皇」といった「国家理念」の問題よりも、むしろ「労働」「職業」といった「日常生活」の問題において如実に現れるようになったと感じている。

 その最たるものが、「会社に一生を捧げる」というフレーズなのだと思う。私はこれについては、一種の性的陶酔であるという分析が可能だと考えている。

 そして、この感覚を生じている際の脳神経系のはたらきをそのまま西洋一神教圏、特にアメリカの宗教学に持ち込んだら、「宗教」という名が付くであろうにもかかわらず、どうして我々日本人はそこに気づかないのか、摩訶不思議だといつも思ってしまう。自分たちは基本的には無宗教であるという自己分析になるのは、どうしてだろうか。

 そこで、この「宗教」の問題とセットで考えることができると私が最近感じているのが、今の日本の鬱病や各種不安障害、適応障害などの精神疾患の問題である。

 換言すると、今論じたような「無意識的宗教性」という戦後日本人の特色を持つに至らなかった一部の日本人に、「宗教儀式としての職業」への非暴力的・非クーデター的反抗としての「鬱病」が生じているのではないかということである。

 これがどういうことかについて、より詳しく説明したい。

続く。

■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Info_box_collage_for_mena_Arabic_protests.png
posted by 岩崎純一 at 00:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論

2011年10月17日

メインサイトのレイアウト更新

 メインサイトのレイアウト・デザインを変え、コンテンツも色々と更新しました。

主な変更点
●「私の好きな本・趣味など」のページを設置。
●「過去の主な記事」のページを設置。
●「人物評論」のページを整理。
●「私を扱う講義・活動」のページを設置。
●「共感覚関連リンク」のページを充実。
●一般掲示板を削除。(利用頻度が低いため。ログは保存。)
●「開催歌会・歌合」のページを整理。
●「岩崎式日本語によって記録した症状」のページを設置。
posted by 岩崎純一 at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項

2011年10月12日

自閉症・現代物理学・仏教哲学・日本の心についての一考(その三)

(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48297838.html
(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48359342.html

続き。

■自閉症者の世界認識

 さて、これまで、古典物理学・ニュートン力学というものが内包する「因果律的決定論」のいわば「人類史上における特殊性」について、自閉症・サヴァン症候群診断に多用される「心の理論」などを例に述べてきた。

 そして、このような決定論がなぜ生じたかを分析する際に、「我々人間自身にそのような決定論を正当であると感じさせるような五感様態を我々自身が有するようになったため」であるとするのが私の見方であることも書いてみた。

 自閉症者たちの世界観は、一見すると確かに不可解である。「心の理論」問題にはうまく答えられない。ところが、先の例(色のカード、足への接触)のように、健常者が解釈をこじつけるところでは、かえって「緑を見たのは過去でも現在でもある」などと、「ありのままを正しく」答えることがある。

 あるいは、自閉症者は「時間と空間の区別が分からない」と訴えることもある。ところが、時間と空間が「同一概念の別称化」にすぎないという「物理学的事実」を体感していたのは、自閉症的傾向を持っていたであろう物理学者アインシュタインその人であった。

 先の私の対女性共感覚も、例えば(3)(1)(4)(2)などという順序で私に体感されることがある点などを見れば、まさに「自閉症的世界知覚」であると言えそうだ。これもまた、相対性理論的・量子力学的に(そればかりか科学全般的に)「正しい」可能性を秘めていると私は考えている。


■岡潔の言う「浅い心」と「深い心」

 さて、久松真一が『東洋的無』において述べた「愛をも絶する」境地としての「東洋的無我」というものに、(自閉症的傾向を持っていたであろう)日本人の物理学者や数学者がいかにして達してきたのかについて、私が最も好きな数学者である岡潔を例に述べてみたい。

 今の私の人生29年間の仏教観は、『中論』や『成唯識論』が基軸であり、かつ「唯識」を「中観」のレトリック、「禅」を「中観」の実践と考えているが、どうしてそうなるか、その詳細は省きたい。

 ともかく、仏教哲学(ここでは、私なりに、主に禅・中観・唯識思想を指す)が最初から一貫してニュートン力学的な因果律的決定論(あるいは、アインシュタインでさえ陥ったそれ)を退けている点が、自閉症者やサヴァン症候群者にとって親和的にはたらくのではないか、という私の考えを書いてみたい。

yuishikizu_wiki.jpg ここに順に、本来的な唯識思想の模式図(最初の二つ。二つ目は、鎌田茂雄著『華厳の思想』より)、岡潔が晩年に達観したと主張した「西洋と東洋の心の構造の違い」の図、私の作成した「西洋と東洋の心の構造の違い」の図を掲げる。

 岡潔は、(私が氏の仏教論や自伝的な書を読む限り)あからさまなアスペルガー・サヴァン症候群的な性格の持ち主であるのはもちろん、散歩中に突然石で地面に数式や言葉を書き始めるなど、奇行の数学者として知られる。

 私にとって岡潔の興味深いところは、「自分が数学者になったのは、著名になるためではない。西洋人のものの考え方を知るためである」とそこかしこで述べている点である。

kegonnoshiso104.jpg 岡潔によれば、なんと(西洋の学問である数学を自ら究めた結果として、かつ、自分の日本的情緒から出る直観的な結果として、)「西洋人の心は浅く、東洋人の心は深い」という結論に至ったという。しかも、西洋人の浅い心を「第一の心」、東洋人の深い心を「第二の心」と名付け、戦後日本人は「第一の心」ばかりを見てきた(日本的な日本人ではない)としている。

 さらに興味深いことに、岡潔は、(日本的な)日本の心の構造を数学と直観の両面から調べた結果、日本の心の規定を成す「情(情緒)」の深さの前には、同じ東洋の思想たる仏教でさえ無力で不十分だと述べ、「真情」としての「日本の心(情)」なるものを図の一番底に置いている。

 岡潔は、「日本の心は人間全般の心」である、すなわち「日本は世界である」と言わんばかりである。岡潔によると、近代西洋人には「真情」というものがないらしい。そういうことを自らの数学と日本的情緒から見い出したと岡潔は述べている。


yuishikizu_okakiyoshi.jpg■岡潔の唯識思想への私なりの注文点

 実は私は、岡潔の「脳局在論に基づく因果律としての日本的情緒」の考え方には、かなり異論があると言える。なぜなら、岡潔は、前頭葉を自我意識、側頭葉(今の右脳・左脳に対する岡潔の呼び方)を機械室と呼び、「戦後日本は機械室ばかりを教育し、日本的情緒をないがしろにしてきた」と批判し、日本的情緒というものは前頭葉によって側頭葉をコントロールすることで発生すると見ている。つまり、岡潔は、前頭葉以外の脳部位を前頭葉に対して従属的・補助的に扱っている。

(私が読む限り、岡潔の脳局在論の主張と図とは、あまり合っていない。むしろ、図の方が正しいように思える。)

 これに対して私の場合は、「脳や内臓の各部位どうしには、ニュートン力学的な因果関係・上意下達関係は存在しない」と考える。

 自我意識・知性の座たる前頭葉とそれ以外の大脳部位、さらには脳とそれ以外の身体部位とに機能差がないと達観すること。すなわち、随意的思惟・意識と不随意的五感・感覚とが同時に脳と身体の全体に確率分布しているのみであると知ること。我々が大脳の前頭葉を「観測」した瞬間、そこに自我意識が収束・可視化されるのみであると悟ること。

 私の場合は、こういった考え方を、脳で成すまでもなく、内臓で体感している「情態」を、「日本の心」と言うのだと考えているし、仏教の真如(真理)に向かう考え方だと考えている。「懐かしさ」や「はかなさ」や「恋」などもそこから出てくると考えている。

yuishikizu_iwasaki.jpg 私の場合は、たとえかなり譲歩して「脳局在論」を認めたとしても、岡潔が「日本的情緒」と呼んだ情感は、前頭葉ではなく、むしろ側頭葉(聴覚そのもの)や頭頂葉(体性感覚そのもの)や視覚・味覚・嗅覚、あるいはそれらの五感と前頭葉の融合感覚(共感覚)こそが、日本的情緒や非西洋的先住民族文化を生み出したと考えている。

 本来の禅・中観・唯識思想も、岡潔のようなことは言っておらず、私の主張の方に近いと言える。唯識ではどう考えるかと言うと、「五感は意識であり、思惟である」と考える。つまり、「五感(五識)」(知覚)は「意識」や「思惟」の下位プロセスであるという考え方を拒否する。

 だから、正しくは、岡潔の図の「五感」と「意識」とは横並びでなければならない。これが私の唯識思想分析から見た岡潔の図への注文である。(巷の唯識思想の解説においても、意識を五識の真下に置く図が見受けられるが、これも同じ理由で「悪くはないが不十分」だというのが私見である。)

「日本の心を説明するには仏教(日本にとっては外来の思想)でさえ不十分であると感じられる」のは、岡潔も私も同じだが、その理由として、岡潔は、「仏教の識(岡潔による図のマナ識やアラヤ識。意味の解説は後述)よりも縦方向(鉛直方向)に深いのが日本の心であるから」と考えている。

 私は、「仏教が説明している同じ心は元々縄文・弥生的自然信仰(アニミズム・シャーマニズム)にもあったので、わざわざ仏教用語で説明すると、悪くはないが野暮になってしまうから」と考えている。

 事実、仏教が初めて輸入された時、「日本」という国号も概念もまだなく、「一つのヤマト文化を共有する民族共同体」という意識を持つ人々のいた地理的範囲は今の日本の国土の半分以下であった上に、唯識思想が法相宗(南都六宗の一つ)の教義として日本に広まるのはさらに後世であるなど、唯識思想と岡潔の言う「日本の心」とは、元より歴史的に別々の動きをしているのだから、唯識思想の図の中に一要素として「日本の心」を描き込む岡潔の行為には、かなり無理な奇抜性があるだろう。

 さらに私は、岡潔のように「西洋人は東洋人・日本人よりも心が浅い」という趣旨の主張をする東洋人・日本人有識者を見る際、その有識者が「今の」や「昔の」といった修飾語句をきちんと用いているかどうかを分析する態度を忘れないように留意している。

 どういうことかと言うと、「今の日本人は、昔以上に価値観が西洋人と大差なくなっている」とか、「岡潔の言う深い心を西洋人が持っていた時代も昔はあった」という言い方をするだけで、随分と知的で冷静な(それこそ科学的な)目線でいられると感じるからである。


■岡潔の達観

 しかし、ここで強調したいのは、岡潔のそんな些細な世界史・仏教史上の知識ミスではなく、岡潔が気づいた、洋の東西での「心の構造要素の積み上げ方」の違いである。数学という西洋人のものの考え方を知り尽くしたこの日本人が、数学と仏教の両方を人生をかけて精査した結果、「西洋の心は浅く、東洋の心は深く、しかも日本の心は仏教でさえ達し得ない深さにある」と言ったのは、それなりに切実で、看過しがたい重みがある。

(こういう発言は、例えば松下幸之助の「水道哲学」を批判して松下幸之助本人に仏教論を持ちかけた中で言うなどしたため、奇行の一種としてもとらえられたようである。)

 西洋では、おおまかに分けただけでも「感覚・知覚・認識・認知・思惟・感情」といった段階説をとり、これらを下から順に積み上げ、逆に上から順に欠けていくのを「アスペルガー症候群」や「自閉症」や「動物」とする。だから、西洋の精神病理学や量子脳理論によれば、「自閉症者は、五感があって感情がない」とか「動物は、かろうじて認知能力はあるが思惟しない」という分析になる。

 先の「心の理論」の無理解者としての自閉症が西洋の論文で用いられた場合は、「五感があって思惟・思考がない人間」のことを指している。岡潔の図に同じことを言わせると、西洋では「自閉症者には、友だちどうしでケンカをする本能的な競争心はあっても、知識に乏しく、感情はもっと乏しい」ことになる。むろん、岡潔も私も、このようなものの見方に異論があるわけである。


■現行の未分化的体感としての唯識

 唯識思想では、これらの要素は全て現行(げんぎょう)(五感プラス意識=六識)として刹那滅(せつなめつ)の原理の元に阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)を反復していると見る。

 阿頼耶識というのは、我々の身体に宿る、素粒子・アメーバ・霊長類時代から今の身体に至る全ての記憶の「薫習(くんじゅう)」された「場」で、本能である末那識の底にある。五感や自己意識というものは、自己の身体によるこの阿頼耶識の参照であると見なす。

 このようなことが「ごく普通に」起こっている身体が、自閉症者やサヴァン症候群者の身体であろう、というのが私の考えである。彼らは、どの情報を採ってどの情報を切り捨てるか、ということを意識・思考しない。

 その一の記事の交通事故の例で言えば、「事故車両は走行中に時間が遅れ、これを構成する量子としての素粒子の位置と運動量が同時に確定できない」という量子力学的事実と、「今事故を起こした人物はこの人で、事故車両はこれである」というニュートン力学的事実の両方を「知覚」してしまい、いずれが近現代的五感に立脚する法治国家における交通事故処理にとって「正しいか」が判断できない。

 自閉症のサヴァンには、「今見た情報」どころか、「西暦何年何月何日に見た情報」なども写真のように覚えていたりする(カレンダー記憶など)人もいる。

 だから、彼らにとっては、「五感で知覚」したものがそのまま「思考・思惟・意識」であると言えるのではないだろうか。「外界の情報」をそのまま「受け取る」ということは、「素粒子は粒子性と波動性の両方を持つ」などということも最初から「見えて」いるかもしれない。これが自閉症者たちの世界認識であると、私は見ている。

 このように、「あらゆる情報」を知覚してしまい、現代社会生活になじめないことが自閉症の特色だが、この「あらゆる情報」を唯識思想の「現行(げんぎょう)」だと考えれば、自閉症とは「五感が意識に同一である状態」、「内臓感覚がモノを考えている状態」を言うことになり、これを私は「古代人一般の標準的外界認識」であったとするわけである。

 私の対女性共感覚も同じことだと考えていて、私は、「女性の排卵を知覚する」ことと「女性の排卵を思惟する」こととが同一であることが(人間を含めた)動物のオスの共有本能(本有種子(ほんぬしゅうじ))であり、ほとんどの現代人男性の「現行」が阿頼耶識を参照していないだけにすぎないと見なすので、先の(1)から(4)の前後関係が「逆転する」ことの方が「科学的真実」であるのは当たり前だと感じられる。


■西洋ペイガニズムへの懐古

 実は、キリスト教文明が世界制覇する以前の原始キリスト教、あるいは西洋にキリスト教が誕生する前のアニミズム(いわゆる侮蔑表現で言う「ペイガニズム」)にも同じ世界観があったと見ている西洋人はおり、動物行動学者のジェインズなどは、「今の統合失調症者の精神構造は古代人一般の精神構造に同一である」などと主張したことがある。

 実際のところ、宗教としてのキリスト教が他宗教を排撃するための侮蔑表現として「ペイガニズム」や「アニミズム」といった用語を生み出した歴史的経緯があるにもかかわらず、イエス・キリストそのもの、聖書そのものは、極めてペイガニズム的、アニミズム的な要素を含んでいるように見える。

(キリスト自身は、何も世界の宗教を一神教と多神教とに分別したわけではない。分別したのは宗教としてのキリスト教である。)

 私も同じような発想をしており、「現代の自閉症者やサヴァン症候群者の世界認識の方が、西洋原始人及び近世以前の日本人全般の通常の世界認識であった」と見ている。これは、解離性障害についても同様で、古代日本女性の通常の世界認識が今の解離性障害であり、また日本女性の全員が「巫女」と呼ばれていた時代があったという折口信夫や中山太郎の説を私は支持するものである。

「人間以外の動物はエピソード記憶を持たない」という脳科学全般の合意がある。例えば、自分の子どもがいつ生まれたかということも、動物の母親は覚えていない「かのように観察される」。

 ところが、私はそうは思わない。実際には、重度自閉症者や動物というのは、外界で生起しているあらゆる物理現象(相対性理論的・量子力学的・不完全性定理的な現象)と「現行」とが一致している境地、すなわち、「切り捨てているエピソード記憶や物理理論が一つもなく、全てが無意識の深層(阿頼耶識(あらやしき))に保存される」(現行薫種子(げんぎょうくんしゅうじ))と考えるわけである。

 本来の唯識思想家は、「切り捨てない主体」が「人間の脳」であるとは限らず、動物の脳であってもよく、植物や岩石であってもよく、さらに素粒子一個が主体となるような「五感(感覚)」や「意識」があると考える。さらにそこから前戻って、素粒子が量子として二重性(粒子性と波動性)を持つのと全く同様に、人間の自己と身体も実体性と非実体性の二重性を同時に持つと考える。


■「愛をも絶する」愛としての禅的中観の境

 ここに「中観」なる境地が生じてくることになる。「中観」とは、量子力学的な「真空」状態に「仮観」としての素粒子の「はたらき」を持たせることを指す、というのが私の言い方である。

「中観」の言う「はたらき」を持たせる主体が、唯識思想家に言わせても、西洋の一神教的な超越理念としての神には当たらないとする点、すなわち、アニミズム的・「ペイガニズム」的・多神教的自然信仰の全ての体験と記憶とを薫習する阿頼耶識だとする点は重要である。

 言い換えると、「中観」とは、その「人間や動植物や素粒子などの自己や身体や構造が実体性と非実体性の二重性を同時に持つと考える自己(識)だけは実在すると見なす境地(唯識無境)」を最終的に「空」と諦観しつつ(空観)、「仮」の実体としての他者・自然界と関係して(仮観)生き続ける境地のことである。

 すなわち、「中観」の「中」とは、「中庸」の「中」でもあり、かつ「的中」の「中」でもある。「有る」に対して「無い」と言う時の「無」は、「空(くう)」とは異なっている。だから、「本来の唯識思想は必ず中観を志向する(境識倶泯(きょうしきくみん))」というのが、私の考えである。この「中観」の実践に当たるものが「禅」であると私は考える。

 このような禅的境地としての「絶対無」こそ、先の『東洋的無』(久松真一)においてうまく説明されているものだろう。彼は、「東洋的無我」は「愛をも絶する」と述べている。まことにその通りだと思う。

 先にも書いたが、重度の自閉症者・サヴァン症候群者には「心などない」と言われてきたし、マニュアルにもはっきりとこの言葉遣いで書かれていた。ましてや、「愛などというものは一生知らずに終える」と思われているかもしれない。ところが、ここで言う「愛」とは、岡潔の西洋の図の最上部の「情」であって、東洋の図の「情」ではないだろう。

 私の考えでは、自閉症者には「現代の人間愛」がないだけである。非常に分かりやすく言って、「最重度の自閉症者は、相対的に人間への愛が希薄だと観察されるほど有り余る動植物・自然界への愛のために、本能的に西洋近代的な自己を閉じているのである」としてもよいと思う。

 有り余る愛は、絶された愛に同じであり得るだろう。「人間愛」や「隣人愛」を超えて、いや、超えるのではなく人間の原点に前戻る形で「中観」される「動植物愛」や「素粒子愛」や「宇宙愛」のことを、久松真一は「愛をも絶する」「東洋的無」と言い、岡潔は「戦後日本人がどこかに捨ててきた」「日本の心」と言ったのではないだろうか。

 そして、私は、「数学は西洋の学問として発生したが、やがて西洋の心の浅さに対する日本的情緒の深さが実際に数学的に証明できる」と岡潔が主張していたのと同じ原理で、「いわゆる鬱なる精神様態は日本的真情の表明であって、それがそのまま人間普遍の心理であった時代が過去にあることが、物理学的・数学的に証明できる(むしろ、それが物理学的・数学的に正しい)だろう」というような直観があってもおかしくないだろうと思う。

 私には、岡潔は紛れもなく『中論』と『成唯識論』に書いてあることに、数式を持って帰ってきた、極めて少ない日本人自然科学者の一人であると感じられる。そして、もっと重度の自閉症者たちは、いわば数式を持たずに禅的境地・中観の境地のうちにひたすらとどまる。彼らは、禅的境地・中観の境地に至るまでに、唯識思想というレトリックさえ必要としていないと、私には感じられる。

■参考文献
『岡潔集』 学術出版会、2008
『情緒の教育』 岡潔、燈影舎、2001
『情緒と創造』 岡潔、講談社、2002
『春宵十話』 光文社、2006
『情緒と日本人』 岡潔、PHP研究所、2008
『華厳の思想』 鎌田茂雄、講談社、1988
『東洋的無』 久松真一、講談社、1987

■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/6251/kouen.html

2011年10月07日

自閉症・現代物理学・仏教哲学・日本の心についての一考(その二)

toyotekimu.jpg(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48297838.html

(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48435988.html

■「心の理論」

 以上、(その一)で書いたことをまとめると、こうなると思う。

 いわゆる現代物理学を生み出してきた物理学者たち、例えばアインシュタインは、(今の義務教育の算数・数学から始まってニュートン力学までを習得するという)初歩的知識の積み上げの順を追って相対性理論を「発明した」のではなく、相対性理論を「五感で元々知っていた」から「発露できた」のではないか。「発露」のために足りない「言葉」が物理学用語であったというだけではなかろうか。(実際にアインシュタインは、初歩の物理学・数学能力に問題があったらしい。)

 そして、現代においてアスペルガー症候群・サヴァン症候群などと呼ばれる世界認識様態がアインシュタインらにあったと考えれば、それよりもさらに重度の自閉症者・サヴァン症候群者などは、相対性理論のその先(量子力学・不完全性定理など)さえ「体感」として持っていると考えることができるのではないか。

 しばしば自閉症者・サヴァン症候群者について、「心の理論」が理解できない人たちだという言われ方をする。以下の「サリーとアン課題」が有名である。

1.サリーとアンが部屋で一緒に遊んでいた。
2.サリーはボールをカゴ(中が見える)の中に入れて部屋を出ていった。
3.サリーがいない間にアンがボールを箱(中が見えない)の中に移した。
4.サリーが部屋に戻ってきた。
質問:サリーはボールがどこにあると思うか?

 現代の定型発達者(健常者)にとって正解は「カゴの中」だが、自閉症者たちの最も一般的な回答では、「分からない」や「ボールは消えた」が多く、次いで「箱」、そして「カゴ」となる。

 ところが、少しミクロの世界(例えば、脳神経系のふるまい)になっただけで、健常者とて自閉症者を笑っている場合でなくなることは、その一の記事に示した通りである。「緑と赤、どちらを先に見たか?」「同時です」。「まずどちらの足に触れられたか?」「右足です」。これら「本当のような嘘」が、現代の「自閉症でない」健常者の「正しい世界認識」とされる。

 先に述べたように、現代の健常者は、決定論やニュートンの運動方程式の方がどうしても「五感・体感」として「自然に感じられる」ために、「心の理論」や先の例(色のカード、足への接触)に対してニュートン力学的に理由を与えようとする。

「心の理論」のように、自分たちの五感・意識にとって自明的な「正しさ」については、これが理解できない相手方を「自閉症」と名付けている。一方、先の例のように、自分たちにとって不可解な現象については、自分方に都合のよい解釈を考える。

 それが、「経験の繰り上げ(下げ)」や「時間の繰り上げ(下げ)」と言われるものだ。色のカードの例だと、「赤を見てから緑と赤を一緒に意識に上げた」という解釈が主流である。先に挙げた私の対女性共感覚についても、おそらく「経験と時間の繰り上げ(下げ)説」が適用されることになるだろう。

 これらの「表向きは健常な回答」は、「ニュートン力学的・常識的な五感と意識において正しい」だけであって、「量子力学的・自閉症的・共感覚的な五感と意識においてはそうとは限らない」ことに、もっと目を向けたいと私は考える。

 前者の「正しさ」は、例えば、「自己(回答者)」と「他者(サリー・アン)」が全て別個の物理的実体・独立の素粒子結合体であるという「量子力学的には特殊な事態」を我々現代人の脳のニューロンが仮に幻想し、かつそのことが幻想であることを意識するためのニューロン活動が淘汰され停止していることのみによって、保証されている。

 ところが、「ボール」を「素粒子一個」に置き換えてみれば、たちまち自閉症者たちの答えが「名答」となる。自閉症者たちは、いわば本能的に「シュレーディンガーの猫」や「コペンハーゲン解釈」を「心で」議論しているのだと思う。

 むろん、量子力学は、そのようなミクロの世界に適用するのが一般ではあるが、これから述べる禅・中観・唯識では、いかに巨視的・可視的な物理現象であっても、実体的実在を問えない東洋的絶対無の境地があると見る。

 現代の定型発達者の五感が「古典力学系」であるのに対して、自閉症者の五感が「量子力学系」であるというのは、さらに詳しく見ていくと、どういうことを意味するのだろうか。前者は、あらゆる物理現象を絶対時空間内の因果律・決定論で見る習慣が付いている。だから、外界の情報が、我々の感覚神経から脳のニューロン発火、そして意識に達するまでの過程を、「感覚・知覚・認識・認知・思惟・感情」などに分けて段階説をとっているとも言える。

 量子力学は完全に「思惟」や「知性」の問題と思われ、「体感」としてはどうしても西洋的・古典的因果律に落とし込まなければ気が済まないという「感じ」が頭にあるのが、現代の定型発達者だと言えるだろう。


■東洋的無我と量子力学

 無意識のうちにニュートン力学的五感に合わせて世界をとらえようとするこの「感じ」を人間が覚えるようになったのは、人間史上において近現代にすぎない、しかも西洋人から順にそのようになった、という私の考えは、ずっと一貫しているつもりである。

 ある意味で、「古典力学」の「古典」という用語は正しくないのではないか。「古典力学」は、有史以降の人間の脳が自閉症的・サヴァン的共感覚を失った結果として得た、後天的に限局された「物事の見方」であると私は考える。

 そう考える私としては、むしろ、「なぜ人間の感覚や意識は、外界の過去や未来を正しく見ていないのか」ではなく、「なぜ人間の感覚や意識は、過去や未来という概念を生み出したのか」という問いの方が重要な問題だと感じられる。あるいは、後者の問いしか残らないとも言える。こういうところに、一種の禅的・仏教的な観点から自閉症者の世界認識を考える意義を感じる。

 実際のところ、自閉症者の世界認識では、およそ先のような因果律というものが崩れている。「崩れる」とは、「この世界・宇宙の物理現象を、西洋的自我ではなく、東洋的無我として達観する」ことだと私は考える。

 もっとも、そう言うからには、「世界をありのままに認識する」という全人類に普遍的であるはずの概念がなぜ「自閉症的である」ことになるのか、また「自閉症的である」という無国籍的な概念がなぜ「東洋的である」ことになるのか、また「東洋的である」ことがなぜ「世界をありのままに認識する」ことになるのか、これが論理的に説明できなければならないと思う。そして、この「論理」に当たるものが唯識思想であろうという考えに基づいて、私は唯識思想を見ているつもりである。(この説明については、その三の記事で試みた。)

 禅・中観・唯識思想を一通り学んだ仏教愛好家が皆そういう境地や意見になるかどうかは、私は詳しく知らないのだけれども、少なくとも私としては、「近現代人は相対性理論・量子力学・不確定性原理・不完全性定理への先験的な理解を系統発生・個体発生過程のどこかで切り落としてきた」と考えており、「現在はそれらを西洋的な脳機構によって奪還しようと試みている時代にすぎない」と考えている。

 ところが、ここからが重要で、自閉症や共感覚や自由意志や素粒子を研究している一般の量子脳理論学者や素粒子物理学者が普通はそのような考え方をとっていないことには、留意する必要がある。

「相対性理論的・量子力学的現象は、自然界や我々の身体・脳神経系で起こってはいるが、古代人の五感が知らなかったのはもちろん、現代人の脳にも理論化・数式化して初めて認識されたことで、元々人間の感覚能力を超えた真実を解明するのが物理学や数学だ」と普通は考えるようである。

 換言すると、人類が存在せずとも、この宇宙・この世の中には素粒子という「状態」(量子の粒子性と波動性という二重状態)が成立すると考える。人類が存在せずとも、時空は相対性理論や量子論の通りに変容すると考えるようである。

 むろん、いわゆる「科学(自然科学)」自体の推進力となっているのがこのような考え方であることは、確かだと思う。本当はアインシュタインも、そういう世界観(因果律的決定論)の持ち主であり、そのことがボーアとの論争に関係していることは、よく知られている。

 この点、ボーアは少し違って、量子力学と東洋思想とが渾然一体となった世界観を持っており、素粒子の姿を達観するには「仏陀・老子などの東洋思想家が昔に直面した認識論の問題に立ち返らなければならない」などと述べており、実際にこの世界観がアインシュタインの理論の欠陥を言い当てるまでの正しい道筋となったから、興味深い。

 その一で挙げたニュートリノの件に限らず、私が相対性理論と量子力学、また「場の量子論」と「超ひも理論」、あるいは私自身の共感覚・対女性共感覚などを考える時に、必ず立ち返るところがあり、その一つが、久松真一の『東洋的無』の一節で、そのまま引用しておく。

「私が東洋的無と称しまするものは、限定をも矛盾をも絶する此の現存者であります。而も是は私自身と別にあるものではないのであります。若しも別なものでありまするならば、それは最早現存者ではないのであります。併し、かかる私は既に私とも言へぬ私であります。無我とは斯かる私に外ならぬと思ひます。汝と我とを区別する立場に於ては東洋的無我は成立たないのであります。東洋に於ける無我は、有の立場の否定に於て甫(はじ)めて成立つものであります。通常の愛としての無我は尚有の立場を出でないものであります。東洋的無我は愛をも絶するものと言はなければなりませぬ」

 この東洋的絶対無の境地、そして(私がこれと渾然一体であると見なしている)自閉症的・サヴァン症候群的境地というものは、いわゆる「大統一理論」の構築にとっても欠かせない世界解釈となっていくのではないかとさえ思う。

 もしかすると、未来の物理学や数学の主流は、言語障害ギリギリの自閉症者やサヴァン症候群者や統合失調症者が担っているかもしれない。あるいは、そうであってほしい。私はそう思っている。

 実際に20世紀には、(少なくとも私から見ると)軽度のアスペルガー・サヴァン症候群は持っていると見られるアインシュタインやペレルマンなどが登場したから、21世紀の物理学と数学の発展は、より一層「東洋的・自閉症的無我の懐古」と渾然一体化するかもしれないと私は思う。

 湯川秀樹も自らの理論構築に禅哲学を用いた形跡が多々あるけれども、日本人数学者のうち私が最も好きな岡潔と仏教哲学との関連についての私見を、次に書きたい。そして、最後には、「愛をも絶する」境地としての「東洋的無我」とはいかなるものかについての私見も述べてみたい。

続く。

2011年10月03日

自閉症・現代物理学・仏教哲学・日本の心についての一考(その一)

480px-Einstein1921_by_F_Schmutzer_2.jpg(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48359342.html

(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48435988.html

質量のある素粒子の光速超え

 9月23日に、ニュートリノ振動検証プロジェクトOPERAのチームが、素粒子ニュートリノが光速を超える速さで移動したことが実験で確認されたと発表した。(2012年7月10日追記:実験方法に不備があったことから、2012年6月8日に実験結果を正式に撤回した。)

 研究チームは、測定誤差の可能性を排除して1万5千回の実験を行い、ほぼ同様の結果となったことを強調しており、もし結果が本当ならアインシュタインの特殊相対性理論と齟齬が出るということで、話題になっている。(理論上は、ニュートリノが未来から現在にやって来ることがあり得ることになるから。)

(日本語プレスリリース)
http://flab.phys.nagoya-u.ac.jp/2011/wp-content/uploads/2011/09/PressReleaseJPlast20110923.pdf

 私が思うに、もし本当だとしても、今後生まれる新理論の相対性理論に対する関係は、相対性理論のニュートン力学に対する関係に同じだろう。

 つまり、相対性理論は極値においてニュートン力学に近似(ニュートン力学を内包)するように、極値において相対性理論に近似(相対性理論を内包)する新理論が生まれるということであって、普通はこれを「相対性理論が間違っていた」という言い方はしないし、(アインシュタインをはじめ様々な科学者たちの意に反して)原爆や原発を生み出した「張本人」であるこの理論が簡単に崩壊することはないと考えられる。


強度共感覚者や重度自閉症者の先験性は科学的先見性

 私は、根っからの人文系人間である上に、自分の中に「共感覚」や「解離感」、「天体や素粒子のふるまいを頭の中で立体的に描く幼少期からの遊び」など、いわば特異な「宇宙」があるものだから、現代物理学(相対性理論や量子力学)についても、まずは自分の身体や仏教哲学(禅・中観・唯識)から入ることの方に面白味を感じる。

 ただし、私が言っているのは、特定の宗教・宗派としてのそれらではなく、前宗教的な仏教哲学としての「仏法解釈」のことで、いわば、釈迦本人、龍樹本人の人間性から出た「物の考え方・世界観」とでも言うべきものを指している。私自身は特定の宗教の信者ではなく、自分のことを「日本的なアニミズムの持ち主、自然信仰者」とだけ思っている。

 そこで話題にしたいのは、勝手な発想ながら、相対性理論の祖アインシュタインや量子力学の祖ハイゼンベルクやボーアといった人たちには、自閉症とまではいかなくとも、共感覚・サヴァン症候群・アスペルガー症候群・離人症などと言えるような感覚や感性があっただろうということである。

 量子力学などの用語(波動方程式など)をあえて使わずに、私のなけなしの日本語能力で大雑把に説明することが可能かどうかは分からないが、以下に、物理学・自閉症論・仏教哲学を内包する私の世界観を説明してみる。

 突然だが私は、強度の「共感覚」や重度の「自閉症」というのは、「現代人の一般的五感」プラス「相対性理論・量子力学」のようなはたらきを持っていると考えている。

 重度自閉症者たちの「身体」は、両理論を基礎として主に現代物理学者が「論理的思惟」によってやっとの思いで手に入れてきた量子脳理論学や素粒子物理学の「物理理論」の役割を元より備えている、すなわち、重度自閉症者たちにおいては「科学的先見性」は「非科学的先験性」に同一である、という考え方である。

 もっと分かりやすく言うと、全ての人間の子どもや動物というのは、元より相対性理論的・量子力学的境地を先験的・前数式的に持って生まれるのだが、便利な科学技術を身体の外に有する近現代人の脳と体だけが「無くとも生活に困らない感覚(共感覚など)」を失っていき、成人の頃には決定論や運動方程式を基礎とするニュートン力学しか「自然だと感じられない」脳と体が形成されるのではないかという仮説である。


現代人の五感のニュートン力学性

 いわゆる「現代人の健常者」の持つ五感・感覚というものは、古典物理学、その中でもニュートン力学の範囲内でしか世界を「見て」いないことは確かだと思う。ここでの「見て」とは、量子力学的な「観測」ではなく、ただの五感的な「目視」「目撃」「聴解」などのことである。それを超えた量子力学などの知的世界は、「思考」「思惟」によって到達するものだと考えられている。

(ニュートン力学は決定論や運動方程式に特徴付けられ、量子力学は確率解釈や波動方程式に特徴付けられる。)

 例えば、道の両側から車どうしが走って来てぶつかった時、警察はわざわざ「自分の目には、自動車及び車内の運転手の人体を構成する素粒子が進行方向に収縮し、素粒子の時間が遅れたと観測されたため、事故の発生時刻及び運転手の年齢を特定できない」などとは考えない。

 つまり、近現代の「常識」や「社会通念」や「法律」、さらに「自己と他者との関係」などの概念は、近現代人の五感とそれに基づく学力・想像力が実は「ニュートン力学程度でしかない」ことによって、うまく機能している。

 量子力学的には「事故車両を構成する素粒子にはアリバイがあり得る」のに、ここでは「事故車両は特定できる」ということの方が「正しい」のだから、ニュートン力学は「現代の先進国民の分裂した五感」において「正しい」、とするのが物理学の在るべき「正統」な姿である、と私も考える。

 同じく、ニュートリノが超光速であったとしても、相対性理論は「現代の先進国の物理学者の分裂した五感による知覚と思惟」において「正しい」とするのが「正しい」、ということに変わりはない、とも考える。冒頭で書いたのは、そういうことのつもりである。

 つまり、「相対性理論が正しいから原爆や原発を作ることができた」のではなく、「原爆や原発を作ることができたから相対性理論は正しい」とする世界観は、後に述べる仏教的境地においてとても重要な世界観だと思う。

 我々現代日本人の五感とそれに基づく学力・想像力が基本的には「ニュートン力学でしかない」という例は、いくらでも挙げることができる。それは、「我々の感覚・意識は、本当はニュートリノを含めた素粒子の確率論的・不確定的ふるまいと全く同じふるまいをしているのに、それが(物理学者から教えられない限り)分からない」という点に如実に現れる。

 例えば、被験者の脳の視覚野を刺激して視界の真ん中に穴が空くようにしておき、穴の周りの背景部分に「青、緑、赤」の順に色のカードを見せると、緑を見たと同時に穴の部分に赤が見えることがある。いわば、緑を見せた段階で赤という未来が見えたことになる。

 また、右脳の体性感覚野の左足をつかさどる部位を直接刺激し、そのまま今度は右足の皮膚に手で触れると、後者の方が「皮膚、感覚神経、左脳」という順に一定の移動時間を要するはずなのに、意識の上では、左足よりも右足を先に触られたと自覚する。いわば、過去と未来の逆転が起こる。電子などの素粒子のふるまいは、もちろんそれら素粒子が構成する脳や神経系のふるまいを形作るわけである。

 これらは、いずれもベンジャミン・リベットをはじめ自由意志研究や量子脳理論学・素粒子物理学の分野で得られた知見である。

 ところが、現代の我々は、「普通に考えてそんなことはあり得ない」とか、「あったとしても信じられない」とか、「あくまでも知識として知った」という「感じ」を受ける。


自閉症やサヴァン症候群(や私の共感覚)の量子力学性

 ところが、そのようなことが「あり得る」ことが「信じられる」「感じ」を最初から持っている「現代人」がいる。例示したようなこと(交通事故や神経系の変化)が起きたときに、それらのあらゆる情報を知覚してしまうために、重要な情報だけを取り出して他は切り捨てるという抽象能力に立脚する現代の社会生活が送れず、パニックを起こす人のことだ。これを我々は「自閉症」や「サヴァン症候群」と呼んでいると私は考えるわけである。

 私の共感覚にも、「自閉症」や「サヴァン症候群」と似たような性質を持つものがある。二冊目の拙著で「対女性共感覚」という私の共感覚を紹介した。

 私が女性の排卵を共感覚で遠方から感知する「感じ」というものは、ニュートン力学を超えてアプリオリに相対性理論的であり、(相対性理論を含めた広義の)古典物理学を超えてアプリオリに量子論的である。そのような時空観・素粒子観を、私の身体だけを用いて体感できる共感覚の筆頭が、対女性共感覚であるのだと考えている。

 実は、この私の自閉症観と同じことをおっしゃっているのが、二冊目の拙著を「動物と感情」などの観点から分析して下さっている松本氏で、以下に一つ、氏による拙著への言及を挙げておく。

「動物と感情」について
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/masson63.html

 この対女性共感覚について、私の神経系や自我のふるまいを波動関数(波動方程式)レベルで考えるとはどういうことかと言うと、「女性の身体から素粒子レベルで排卵情報が発せられた時刻(1)」と「素粒子レベルでの女性の排卵情報が、私の皮膚なり網膜なりに達した時刻(2)」と「女性の排卵情報が素粒子レベルで私の感覚神経・脳を動かし始めたと思われる時刻(私の脳の電位の発生など)(3)」と「女性の排卵情報を素粒子レベルで感知したと私の自己意識が自覚した時刻(4)」とを、今回のニュートリノ実験ほどの精密さで測ってみると、(1)(2)(3)(4)の順番になっておらず、(1)よりも(2)、(2)よりも(3)、(3)よりも(4)が早い場合があるということである。

 多くの自閉症の男性も、現代人の五感にとって常識的な順番になっていないことの方が自然であると体感される身体を持って生きているだろうし、そしてその体感は、相対論的・量子論的にも全く正しいというわけである。

 これは、最終的に「異性とは、いつでも波動関数的・確率論的に立ち現れる他者である」という「東洋的な無我や日本的なはかなさ」を語るのに、絶好のテーマだと私は思っている。この「体感」を、古代日本語で「恋(こひ)」と呼んでいたというのが、私の和歌・古典解釈の態度でもある。

続く。

■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Einstein1921_by_F_Schmutzer_2.jpg