2011年11月21日

私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その二)

(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50386486.html
承前。

 さて、(その一)の(A)から(F)の分類について、私がここ十数年ほどの和歌生活で知る限りのことを、もう少し詳しく書こうと思う。

 本来は、「和歌」とは「漢詩」に対する語であり、「短歌」とは「長歌・旋頭歌・俳句」などに対する語であるが、ここでは、(その一)でも書いたような理由で、「和歌」を「伝統和歌」、「短歌」を「近現代和歌(特に戦後和歌)」の意味で使いたいと思う。


■唯一「実践」できなくてもかまわないとされる伝統芸が和歌

 日本語が初めて文字記録として書かれた時(『万葉集』など)にはすでに身分の貴賎なく詠まれていた「和歌」は、今でも、「紙とペンと自分の頭」さえあれば誰にでも詠めるという点は、非常に興味深いと思う。

 この点で、高額な道具代と見習い代がかかるゆえに今後の格差社会においてますます富裕層や旧華族層だけの高級な骨董趣味・道楽になりかねない他の伝統芸能(華道・書道・琴・着付・日本舞踊・弓道など)やピアノ・バレエなどとは一線を画している。和歌集などの古典文献購入費を入れても、数十倍は違う。

「実際に詠んでいるかどうか」が重要なのではなく、「誰にでも詠める潜在性があること」が重要だと思う。和歌を十数年詠んできて、心からそう思う。

 和歌は、現在の格差社会において最も流行しておかしくはなかった伝統芸能であると言える。それでも、親の多くが「ウチの娘にはピアノか琴をやらせよう」とは思うけれども、「ウチの娘には和歌を詠ませよう」とは思わないようである。思ったとしても、和歌を教える指導者もあまりいないから、仕方がないことでもある。

 今や和歌は、独学以外にあり得ないとも言えそうだ。しかし、独学するのに、最もお金がかからない芸道である。実に興味深いことだと思っている。

 (A)から(E)の全体に言えることは、これら現在の巫女・神職女性・芸妓・舞妓・(または、日本には存在しないことになっている娼妓・遊女・枕芸者)などの職に就くのに、神楽・日本舞踊・着付・笛・琴・茶道・書道・小唄などの伝統芸能の「実践」はそれなりに必要で、被養成期間・見習い期間においても一通り習い、必修の科目まであるが、唯一和歌のみが自分で詠めるようになる必要がなく、「鑑賞」にとどまるということである。戦後の芸妓養成施設の科目を郷土資料などで見ると、見事に和歌だけが消えている。

 今の巫女・芸妓・舞妓というのは、和歌が詠めなくてもなれてしまう。特殊な巫女であった賀茂神社の斎王のなごりである「斎王代」も、京都ゆかりの一般女性から選ばれるが、和歌が詠めるかどうかとは無関係である。

 つまり、今でも伝統和歌会をひらいている巫女・芸妓・舞妓さんたちは、現在の上司たる宮司・神職・他の巫女や芸妓や舞妓たちとは全く別のところでそれをひらいているということである。ナントカ神社の巫女さんとカントカ神社の巫女さんが巫女の仕事とは別に、旧社家の一般女性をも含め、(F)の我々と一緒にひそかに歌会をひらく、という具合である。


■御製が「和歌」から「短歌」になったことの利点と、そうとは思えない点

 今ご入院の最中におられる今上陛下は、(その一)やこの記事の冒頭で書いた(旧宮家のご婦人・ご令嬢の日常語としての)「和歌」と「短歌」の語の定義において言えば、史上初めて「和歌」ではなく「短歌」を日常としておられる天皇であり、こうして「普段の話し言葉」と「歌に用いる言葉」とが天皇・皇族と国民の双方において東京標準語として均質化したこと自体は、日本が先進国として立つことに貢献したと思う。

 そもそも、文語と口語、歌語と俗語、などが近代化以前のようにバラバラのままなら、(陛下がご入院中にもお使いだという)パソコンのソフトの製造や文字コードの作成が不可能または膨大になる。

 先進国として立つための条件が、「自国の伝統を少なからず崩す覚悟で、少なくとも首都標準語を頂点とする簡易な公用語を持つこと」であり、アメリカ英語を頂点とするグローバルスタンダード言語の現代においては、「できれば英語や西洋語を公用語にすること」であるという皮肉な法則は、今後もしばらくは変わらないだろう。実際に、英語を公用語化している国が旧大英帝国・アメリカの植民地とは限らないし、日本では一部の大企業までが英語を社内公用語にし始めている。

 だから、前近代までの和歌というものは、悲しいかな、何らかの革新が加えられない限り、それ自体が「反グローバル的」なものであったということだけは言えてしまう。

「御製の短歌」と「冷泉家の短歌」と「サラリーマン川柳」とに同じ今風の日本語のフレーズが登場する一方で、(その一)の(A)旧宮家のご令嬢・(C)神社の巫女・(D)京都の芸妓・(D)金沢の芸妓・(F)一部の和歌愛好家などが伝統和歌をお詠みになるのを拝見する今、伝統和歌を愛する私としては、自分が生きている時代は和歌史上、最も面白く興味深い時代なのではないかと思えてくる。


fushimiinari.jpg■(A)と(C)の関係について

 現在は、全国の神社の国家による管理や社格制度、国教制度というものは法律上はないが、実際には、「神宮」・「宮」・「大社」・「大神宮」・「皇大神宮」・「天満宮」などを社号に持つ大神社の巫女(C)は、旧宮家・社家のご令嬢(A)より選ばれることが多く、その意味では、(A)と(C)の歌会どうしは同じ出自であることがある。また、(A)や(C)には、一生結婚せずに巫女・和歌生活に生きる女性も、ごく一部だが存在する。

 また、皇居内にある宮中三殿の賢所に詰める「内掌典(ないしょうてん)」の女性の方々の一部も、伝統和歌をお詠みになる。内掌典経験者の女性お二人に伺ったところ、いずれも伝統和歌しかお詠みになったことがないという女性でいらっしゃったが、その歌会は、神宮・大社級の巫女の歌会、そして以下に述べる花街の芸妓・舞妓、地方のひらいている歌会(D)ほどの規模ではないようである。

 現在では、「天皇」と「神道・神社」とは法令上は別概念であり、前者が憲法に象徴天皇制(立憲君主)としての規定を受ける一方で、後者の多くは宗教法人としての教団である神社本庁とその地方組織である神社庁が統括しており、また、かつては天皇の勅許を必要とした「神宮」号などを、今は神社が自由に名乗れるようになった。

 従って、「神宮」・「大社」などの上級社号を名乗る神社であったり、それなりに大きな神社であったりしても、巫女の大半が「好奇心から道楽や暇つぶしとして入ってきた」女子大生・女子高生アルバイトであるような神社が増えており、その場合は、伝統和歌会という以前に、巫女・神道という伝統そのものが廃れつつあるのだと思う。

 むろん、私としては、「多くの巫女の被雇用形態がアルバイトという時代になったこと」などは全く問題とは思っておらず、「巫女や和歌の心が廃れゆくこと」を問題にしているだけであるが。

 私は、戦後の日本の神社観・神道観・八百万の神々観には、極めて大きな不満があるが、ともかく、(その一)の(2)(3)(5)のご参加者には、すばらしい和歌を詠む、小さな神社のアルバイト巫女さんが数名いらっしゃる。


■御製短歌と旧宮家(A)・旧公家(冷泉家(B)など)の和歌の関係

 ちなみに、今上天皇は北朝の血統でいらっしゃるが、南北朝時代の13の勅撰集のうち10を独占したのは南朝の二条派歌道であった。さらに、今上陛下と、戦後に廃絶となった旧11宮家との、共通の男系祖先天皇は、今から20世代・650年以上前の北朝第3代崇光天皇であり、「伝統和歌の歌会が残っている」と私が(その一)から書いているのは、主にこれらの旧宮家、つまり「北朝の傍流のうち、北朝天皇とは違って南朝天皇文化を抵抗なく受け入れた家柄の宮家」である。

 南朝は、御亀山天皇が北朝の御小松天皇に三種の神器を渡す形で、半ば非対等合併し、衰退した後も、実際には「御南朝」として抵抗を続けた。要するに、この南北朝時代や、天智・天武両天皇の争いの時代、そして宮家の乱立に象徴されるように、そもそも「正統とされる天皇」と「正統とされる和歌」とは、互いにほとんど無関係に動いていることに注意する必要がある。

 南朝の二条派の流れは、主に東氏(とうし・武家)や三条西家(さんじょうにしけ・公家)に伝わったが、むろん、『玉葉和歌集』・『風雅和歌集』の二つの名勅撰集を生んだ北朝の京極派歌道も、折口信夫や岩佐美代子といった研究者によって見直されており、今では和歌をまじめにやっている人なら、和歌の優劣に北も南もなければ、歌道ごとの優劣もないことはご存じだと思う。

 この二条派と京極派、そして(その一)で書いた(B)の北朝の冷泉派とを合わせた三歌道は、藤原定家の子為家の子孫らが生んだいわば「三大歌道」である。私はこれら全部の歌風の歌を学んだり詠んだりしてきたが、結局のところ、歌学以外の日本史学で言われるようなケンカ争いはなく、特に「京極派」と「冷泉派」については、「家」の名の違いであって、歌風には大差がないというのが、歌学の通説になりつつある。

 これら三歌道とも、明治天皇や旧宮家に伝わり、旧桂園派を中心とする御歌所派が明治天皇の元で栄えた。主に三条西家が保存してきた和歌の古文書の多くは、現在は早稲田大学が所蔵している。

 この伝統保守的な歌道の流れを、そのまま今上陛下・皇族も受け継がれる予定であったが、結局、「御製」としてお詠みになるのは、「和歌」ではなく、国民の日常語彙(各短歌賞と同様の語彙)による「短歌」であり、天皇の血筋の中で、和歌集や古文書にあるような和歌をお詠みになるのは、旧宮家・旧公家・旧華族の、しかも一部のご婦人・ご令嬢に限られ始めた、という時代になったわけである。


800px-Kanazawa_higashi_yama_2006_03_03.jpg■(C)と(D)と(E)の関係、及びその内訳・地理的分布

(その一)では、「特に大坂の花街においては、(D)芸妓・舞妓の花街と(E)の娼妓・遊女の遊廓とが融合していたばかりか、(C)巫女までも芸妓・娼妓をやっていた傾向が他地域よりもあった」ということを書いたが、どの程度そうであったかの詳細は、今となっては誰にも分からない。

 しかし、そういった地域差とは関係なく、ともかく、室町末期までずっと続いていた天皇・皇族・公家・貴族・武家たちによる和歌の謳歌生活(歌合、勅撰和歌集・私撰和歌集の編纂など)の伝統、和歌から派生して室町時代に栄えた連歌・連句を経た民衆の俳諧・俳句の謳歌生活は、明治・大正・昭和戦前にどこに行ったかと言うと、(C)(D)(E)の世界に滑り込んだわけである。

 俳諧・俳句・川柳については、発祥時期がある程度新しいこともあり、現代俳句・川柳になっていくまでのルートが比較的目に見えて辿りやすい。また、ずっと民衆に近い文化あるいは民衆の文化そのものであるし、短歌よりも字数が少なく簡易であるがゆえに、先に発祥した短歌よりもかえって先に「サラリーマン川柳」などの文学賞形式に利用されることとなった。

 その点、「戦後の俳句の変容」はそのまま「戦後日本人の言葉や興味の変容」とだいたい同じであるように思う。だから、「戦後の俳人のどれほどが、伝統和歌の歴史全体をしっかりと勉強してから俳句を詠んでいるだろうか」といった批判をしたい私のような変わり者にとっては、かえって簡単に批判しやすい状況にある。

 一方、伝統和歌(特に京都の和歌)の場合は、(その一)で書いたように、「担い手の変化」かつ「担う土地の移動」であるため、かなり追いにくい。

 それらの変化や移動とは、「天皇から色々な土地の低身分の者までが連続体として詠んでいた『万葉集』の時代」から、「(その一)で書いた10万人ほどの限られた身分・地域・ネット上の担い手に点在的・局在的に縮小する時代」までの経緯である。このうち、(F)一般の和歌愛好家以外の歌人の現在の分布を見てみる。

(D)における和歌の現状だが、京都の花街においては、上七軒・祇園甲部・嶋原・先斗町・宮川町には伝統和歌を日常としている芸妓・舞妓または一般女性がいるが、祇園東については、私個人としては不明である。

 東京の花街においては、深川・柳橋・新吉原・向島にはいるようだが、新橋・赤坂・板橋・品川などについては、もはや現代的な風俗・コンパニオンの街であって、和歌と関係のある伝統的・日本的花街ではないことは自明である。

 金沢の花街だが、金沢は能楽堂の数からして全国一であるように、和歌の伝統も最もしっかりと継承している芸妓・舞妓・一般女性のいる土地であって、主計町・にし茶屋街・東山ひがしの金沢三花街に和歌の伝統があり、これらと金沢の(F)一般女性の和歌愛好家の方々は、(その一)で書いた(2)(3)(4)(5)の全てに関係・詠進している。

 そして、(E)について。現在はもちろん、娼妓・遊女などは日本に存在しないことになっているが、和歌の伝統の一部は、結局のところ、現在でも旧遊廓の娼妓・遊女と仕事内容を同じくする女性が生活する土地に滑り込んでいる。

 特に私の関心を惹いたのが、三重県志摩市の海に浮かぶ渡鹿野島で、ここは現在は美しい伊勢志摩国立公園に属する一方で、戦前までは、島まるごと「遊廓島」さながらの状態を呈し、住民のほとんどが江戸と大坂を結ぶ菱垣廻船・樽廻船の船乗りを相手した遊女であった。

 現在でもそのなごりがあって、国や自治体の人口調査で、周辺地域のうちこの島のみ「サービス業に従事する女性」の数が突出しているが、ここの一部には明治以降、京都の伝統和歌の風習が潜り込み、教養ある娼妓・遊女は、戦後まで和歌を詠んでいたようである。

 もちろん、多くの実質上の娼妓・遊女は、芸妓・舞妓との掛け持ちである「枕芸者」として、先に挙げた本土の旧花街や、地方の旧花街に分布し、そこで和歌をお詠みであるが、いわゆる島嶼部、特に離島は、京都の伝統和歌が生き残る「最終上陸地」のようなものらしく、隠岐諸島(島根県隠岐郡)や佐渡島(新潟県佐渡市)などにも、戦後少しまでは伝統歌会があったようである。

 この二つは、承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇と順徳上皇がそれぞれ流された島であり、二人にゆかりのある歌会の風習が生き残っていたことも功を奏したと思われる。特に隠岐は、後鳥羽上皇が死ぬまで『隠岐本新古今集』を編集し続けた土地である。

 こうして、和歌の伝統が残ったまま、江戸時代の海路の発達によって、これらの島々が船乗りの休憩地として機能し、そこに(C)(D)(E)の兼業女性が集まり、和歌が教養となり、本土のあからさまな近代化の影響を免れて和歌が生き残ることができたというわけである。

Ibuki_Island.jpg 一方、香川県観音寺市の沖に浮かぶ伊吹島は、(D)(E)の世界とは関係のない、いわば普通の島であるが、平安末期から鎌倉にかけての伝統和歌の風習が流れ込んだ形跡がある。伊吹島の高齢者が話している方言は、単語・文法もそうだが、特にアクセントについては、平安末期の京言葉のアクセントをほぼそのまま保っているようである。

 私は岡山県出身で、香川県本土の方言にしか詳しくないが、ともかく、伊吹島の風習は、民俗・風俗的な見地よりも日本語学の見地において興味を持たれているようである。

 なぜこのような島嶼部ばかりに和歌の風習が生き残るかについて、私なりにもう一つ理由を挙げてみたいと思う。それは、私が二冊目の拙著で書いたような「女性の性周期や出産」と関係があるのではないかということである。

 例えば、先の伊吹島では、女性は出産すると、一か月間は「出部屋(でべや)」と呼ばれる部屋に入って休まねばならず、子どもや他の女性たちと一緒に暇つぶしに和歌を口ずさんだ、だからこそ和歌が生き残った可能性がある、というわけである。そもそも、京都であろうが、江戸であろうが、地方であろうが、月の最中や出産前後に離れ小屋や別部屋に入るというのは、日本女性の普通の風習であった。

 島嶼部に限らず、和歌がなぜ、聖俗・貴賎の別なく、旧宮家のご婦人やご令嬢・巫女・芸妓・舞妓・娼妓・遊女・枕芸者など、女性の世界にばかり生き残るかということには、「女性の月経期間や出産、孤独や苦境における、心の拠り所としての和歌」という理由があるのではなかろうか。

 もしそうだとすれば、今では和歌が陸においても「陸の孤島」である理由の説明が付くように思う。それに、(「性に関する特殊な仕事」とは無縁で、主に洋服生活をする)一般国民に限れば和歌愛好家の男女数は同じくらいであることも、説明できそうである。

 もっと言うと、和歌は古来、胎教にも用いられた可能性があると思う。だからこそ、かつてよりは和歌が行われていない現代においても、女性どうしの歌会のほうが、より古式の和歌の風習をよく残しているのではないだろうか。

 それに、伝統歌会に関係している女性の方々に伺ってみたところ、今でも多くの女性が、日常生活においても伊吹島と似たような日課・習慣を繰り返していらっしゃるようである。内掌典や神宮の巫女は、月経期間中は蛇口を手で触らないようにして、触るときには手の甲で触っていらっしゃるし、地方の中小神社の一部の巫女にも、月経期間中は蛇口に触らず、和歌を詠み歌って体を清めている方がいらっしゃる。

 ともかく、こうして現在、かつての和歌(特に京言葉)の伝統は、宮中に集中的に残るほかは、瀬戸内海の島々や山陰・近畿地方の民家や一部の中小神社など、京都の周辺地域に流れ込んで消えつつあるわけである。

 もちろん、先に挙げた内掌典や神宮・大神社の巫女などは、(D)(E)の世界とは全く無関係で、遊女と同じ仕事内容を行うことは絶対にないのであるが、それ以外の(C)大規模神社の巫女、中小神社の巫女、(D)芸妓・舞妓、(E)娼妓・遊女の四者のうち、(D)と(E)とは兼業している場合が最も多く、戦前までは地域によってはほとんど同じものであり、ここに中小神社の下級巫女の一角が加わることがあり、これら三者と最も関係が薄いのが(C)である、ということは言えるようである。

 さて、東北地方はその頃どうだったかと言うに、少なくともこれらのうち、最大都市であり記録も豊富な仙台には、おそらく江戸時代には花街というものが存在しなかったと思われる。換言すると、花街ができる前から、(歌風は京都宮廷のそれとは少し違っただろうが、)伊達氏をはじめとする武家・民衆の和歌の伝統があった。

 もっと前には奥州藤原氏の文化もそうであった。あるいは、花街と呼べるものがないだけであって、巫女と芸妓と遊女とが未分離であるような女性の歌詠みは点々といたと思われる。土着の和歌文化もあった上に、京都の和歌文化も、東海道側と北陸側のいずれのルートからでも接触できた。

 いわゆる芸者の置屋が仙台に立ち並ぶようになるのは、明治4・5年あたりからのようで、それまでは、芸妓になりたいと思った仙台の女性は江戸に出ていた。つまり、仙台はじめ東北の都市は、「和歌の伝統があって花街がない」という特徴を持っていた。

 ただし、一つ言えるのは、明治・大正・昭和戦前までの京都の和歌文化は、ひょっとしたら東海道側よりも北陸を西から東へ抜けるルートを通って仙台や山形に達していたかもしれないということである。今でも、滋賀県北部、福井県、石川県、富山県、新潟県の一部では、いわゆる関西弁というよりは、京都言葉のイントネーションが行われている地域がある。

 天皇の居住地がほとんど瞬間移動のように東京へ移り、東京を中心に太平洋沿岸が近代化される一方で、取り残された京都の和歌文化は、近代化の力に南東から押されながらも、その場で頑張るか(定住)、先ほどのような周辺地域・島嶼部へと行き着き、それまでの巫女・芸妓・遊女や一部の一般女性の教養・芸道の一つにおさまって細々と生き残るか(南下かつ西進)、北陸へと流れた(北上してから東進)と考えられる。

 京都言葉が日本海側で生き残っていく様子がよく分かる例として、「おんな」という言葉の復活ルートを考えてみるのも面白いと思う。おそらく、そのルートは、近代化以後の京都の和歌と和歌に伴う巫女・芸妓・舞妓の風習の生き残りルートとほぼ同じである。

『万葉集』、『古今集』、『新古今集』などの歌集に限らず、他の古典を見てもそうだが、実は「おんな」という言葉のほうが「おなご」よりも古い言葉である。一時期は、九州・大坂・京都・江戸・仙台とも、「おんな」と「おなご」が対等か、「おなご」優勢となった。(「をみな」、「をんな」、「をんなご」、「をなご」の順に変化。)

 江戸時代には、江戸には「おんな」が復活してこれが主流となり、一方の京都・大坂では「おなご」が主流のままだった。しかし、近代化によって、この後者のほうが北陸を通って仙台に抜けることになる。

 江戸の「おんな」の語は、意味は「おなご」と同じで、要するに「女性」のことだが、これらの語は戦後に至って奇抜な変化を見せる。すなわち、現在、「容疑者の女」・「被害者の女性」と言うように、和歌に使える大和言葉の「おんな」は、マスコミ・ニュース用語としては蔑称・卑称であり、「じょせい」は敬称である、という使い分けがなされることになった。

 このように、近代化以降に仙台・東北地方に新設された花街文化は、高い確率で北陸を経由した京都・金沢の花街文化の一派でもある可能性が高い。ただし、仙台・東北の場合、もし日常的に和歌を詠んでいるような巫女・芸妓・舞妓さんが生き残っていらっしゃるとすれば、「元から和歌と一体化した花街があった」ことは歴史的にあり得ないため、逆に「近代化以降にできた花街が、南西からやって来た和歌の生き残りの受け皿になった」ことになるのだろう。

 そもそも、金沢や佐渡にあれだけの能楽堂が生き残っているのも、京都文化の北進と何らかの関係があるかもしれない。

 和歌もおそらく同じことで、北陸の芸妓・舞妓さんたちに伝統歌会が残っているのは、はるか遠くの東京や南の大阪・名古屋の急発展への「最後の抵抗」といったところかもしれない。そして、北陸の娼妓・遊女・枕芸者も、和歌や伝統芸能の保持という重大な役割を、ひそかに負うことになったわけである。

 そして、現在ではネットも発達し、和歌の広がりの地域差というものは一気に薄れたが、逆に、和歌愛好家が全国に点在的(特にネット利用者)かつ局在的(特に花街)に残るようになったということだろう。


■和歌の未来

 先ほども書いたように、「和歌の心」とは、高貴な人々のお家騒動、血統争い、ケンカ争いとは案外無関係に動いているのであって、天皇・皇族・公家・貴族・武家のものであるのと全く同等に日本の民衆のものであると言える。『万葉集』の時代から、そうであった。

 まずは漢民族には漢詩を、朝鮮民族には郷歌・郷札を、西洋人にはソネットを守っていってほしいと私は思うが、それと同様に、和歌はまずは我々日本人が守っていかないとどうしようもないものであると思う。ただし、和歌が或る身分・血統・家柄において衰えそうになったなら、どこか別のルートに乗って、日本人の手によって保存される以外にないだろうというのが私見である。

 その和歌保存の担い手の一角が、「旧」宮家・神社・花街・遊廓の女性たちであったという点は、非常に皮肉な精神的打撃を我々に与える一方で、私個人としてはこれは「人間存在の聖俗未分離性」という日本的美意識の良さが生んだ皮肉であるとも考えている。

 もちろん、私としては、近現代的・法治的な主権国家の国民の一人であることを免れ得ないのだから、今後も、「戦後の人権意識で戦前の日本の心を和歌にすることができるか」という大問題に挑戦するしかないし、その姿勢で和歌を詠んでいきたいと思っている。だから、いくら伝統的で懐かしいものであっても、現代的な女性の人権に差し障りがあることに自ら身を投じる女性たちの集会に残る和歌や伝統芸能を、無条件に称賛するわけにはいかない。

 しかしながら、多くの花街・遊廓研究者の発言を改めて待つまでもなく、戦前までの花街・遊郭の姿が、現在のような伝統芸道不在の性産業の姿とは全く異なるものであったことは、忘れてはならないと思う。

 近現代西洋社会から見れば事実上の「立憲君主制の国家元首」と見なされている天皇でさえ、ごく普通に「和歌」ではなく「短歌」をお詠みになる時代なのだから、反対に私は、呼吸をしたり、咳をしたり、寝たり、風呂に入ったりするのと同じ感覚で、ごく普通に「和歌」を詠んでいければと思っている。

「一人の日本国民として、風呂上がりのつれづれに詩を書いてみたら、なんと伝統和歌となっていた」

 そのような境地が今の目標である。


■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E3%81%B2%E3%81%8C%E3%81%97
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%90%B9%E5%B3%B6
伏見稲荷大社の写真は自分で撮影。
posted by 岩崎純一 at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論

2011年11月14日

私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その一)

■私の和歌ページ(参照)
http://iwasakijunichi.net/waka/

(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50713456.html


732px-Rikugien3.jpg■現在までの和歌詠進先のおおまかな分類

 私が古語を用いた伝統和歌を詠み始めたのは、厳密には中学生の頃で、その頃から、「自分の母語である日本語の美意識」や「日本人の自然観・動植物観」というものに懐古や憧憬のようなものを感じており、「ならば自分で和歌を詠むしかない」と勝手ながら思い立ったのであった。

 中高時代に、「なんだか岩崎君は和歌が好きそうだから、やりなさい」というだけの理由で、教師から「校内百人一首大会運営委員」なるものに就かされ、司会ばかりやって札取りに参加できず、「司会は嫌だが、和歌は好きだ」と思った経験も今は懐かしく、気づけば十数年が経った。

 私は現代短歌も詠むが、これまで詠んだ短歌の9割以上が伝統和歌であり、現在、私が伝統和歌を詠進している歌会は、おおまかに分けると以下のようになる。

(1) ネット上の短歌コミュニティサイトへの詠進(「詠進」というよりは「投稿」だが。)
(2) 和歌愛好家どうしで詠み合い・返歌のし合い、和歌愛好家作成の和歌専門サイトへの詠進・投稿
(3) 神社の巫女の私的歌会への詠進
(4) 花街の芸妓・舞妓などの私的歌会への詠進(いわゆる旧遊廓としての花街の娼妓のことではなく、芸道を伝承する芸妓などのこと)
(5) 自分で理想のミニ伝統和歌会を開催


(1) ネット上の短歌コミュニティサイトへの詠進

 私も、大抵のサイトは眺めたり登録したりしてみた。

 特徴としては、その全てが近現代短歌のサイトで、かなり気軽に登録・利用できる点である。これ自体は、短歌文化が広まるための利点であると感じるし、賞を開催しているところもあるが、「57577形式であること」以外に「ルール」と呼べるものを設けていないため、いわば「mixiの短歌バージョン」のようなサイトが乱立、多くの場合、商業化・ゲームアプリ化している。つまり、短歌に関する文学上の議論が主眼ではないサイトがほとんどだと考えられる。

 登録者における伝統和歌詠進者の割合が最も高いのは、「うたのわ」というサイトで、ここではネット上で良質の歌会を開催できるが、それでも、あくまで気軽さがコンセプトだと言える。


(2) 和歌愛好家どうしで詠み合い・返歌のし合い、和歌愛好家作成の和歌専門サイトへの詠進

 伝統和歌に限れば、「投稿」の形式をとるものは、(2)のような趣味の高じた個人作成の和歌サイト以外には存在せず、ほぼ全てが、学者・研究者向けに大学等が運営する「閲覧・鑑賞・研究のための和歌データベース」の形式になっている。つまり、本当に和歌を詠み合うなどの人的交流は、もっぱら在野の和歌愛好家の活動に任されている。

 むろん、有名な和歌集(万葉集・古今集・新古今集など)の多くは電子データ化・公開されており、一応は国民が誰でも閲覧できるようになったのは有意義だと思う。

 ただし、データベースの中には、大学等の学術機関やプロの和歌研究者が共同で「ライスワーク(ricework・職業)」として作成したものよりも、個人の和歌愛好家たちが骨身と自費を削って「ライフワーク(lifework)」として作成したもののほうが質が高いと感じられるケースがあり、私は両者を参考にしている。

 現在では、和歌研究者であっても、ライフワーク・人生として和歌を詠む人は皆無に近いと考えられる。また、現代短歌を生業とする人は存在するが、伝統和歌を生業とする人は皆無と思われる。

 前者であっても、短歌の詠進そのもので生活しているわけではなく、流行の言葉を用いた短歌の出版物など、自作短歌を売るための商業的発想に乗って新風を起こさない限り、短歌だけで胃袋を満たせるとはいかないようである。ただし、多くの場合、職業は「歌人」と名乗ることになる。

 完全に在野の和歌研究者の作成で、私が特に気に入っているサイトの一つが、水垣久氏の「やまとうた」というサイトで、私も以前、「海松純」の雅名で氏のネット歌会『花筵百首題』に参加し、私の詠進歌100首が水垣氏によって以下に掲載されている。水垣氏の歌会は、それぞれ1000首近くを集めている。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/bbs/ju_h100_sp01.html


796px-Ishikawa_Kanazawa_Kazuemachi00.jpg(3) 神社の巫女の私的歌会への詠進
(4) 花街の芸妓・舞妓などの私的歌会への詠進

 (3)(4)については、私が著書・サイト・ブログに書いた「和歌と共感覚」の話などをご覧になったのをきっかけに交流の始まった、今も日本の伝統文化と深い縁のある生活をされている神社の巫女さんや花街の芸妓さんなどの歌会への詠進である。

 これらの歌会は、神宮や大社、その他いわゆる明治の「近代社格制度」において上級の官社に位置づけられた神社の巫女さんや、かろうじて東京・京都・石川などに残る花街の芸妓たち(旧遊廓の娼妓のことではない)が、普段の巫女・芸妓の仕事とは別に、完全な趣味サークルとして伝承・開催するもので、質の高さは(2)と同様に大変高いものがある。

 場所は、ご自身たちの神社の境内や花街の伝統茶屋とは限らない。神社近辺・ご自宅・日本庭園・区市民会館などの公共施設でもおこなわれる。

 そもそも和歌は、巫女・芸妓の教養というより、公家・貴族・武家の男女両方の教養であったし、さらに現在は、「神社への奉仕精神」と「和歌の教養」との関係は昔よりも希薄になっているため、「今の自分たちの和歌は、高じた趣味という以外に言い方がない」とおっしゃっていた。

 ただし、生涯の趣味に伝統和歌を選ぶようなことは、初めからそのような一定の出自の人以外にあり得ない、とも言えそうだ。巫女・芸妓の歌会は、最初から意識が違っており、平安や江戸時代の歌合の形式に従い、判者の判定のもとにおこなわれている場合が多い。

 私は、そのようないくつかの巫女・芸妓・和歌愛好家の私的歌会に詠進しているが、今はほとんどがメールや封書でのやり取りである。このうち、概要の掲載を許されたものだけを、冒頭のリンク先に載せてみた。

 また、『新水無瀬恋十五首歌合』については、詠者・判者・講師となった巫女・芸妓・舞妓の方々に許可を頂けたため、以下に恋の和歌全45首と現代語訳・判の模様を全文掲載している。

http://iwasakijunichi.net/waka/minase.pdf

 最近も、『新詠建久百首和歌』という、神社の見習い巫女さんや見習い芸妓さんの歌会に詠進した。『江戸川橋恋二帖』や『八丁堀桜川恋歌合』は、私が歌会のタイトルを付けたのだが、京都平安の味よりは、江戸下町の味を出してみたつもりである。


(5) 自分で理想の伝統和歌会を開催

 (5)については、私自身が、あくまで個人的な思いで和歌の伝統を味わうべく、(1)(2)(3)で知り合った伝統和歌詠者の方々に呼びかけて、ほとんどネット上でおこなっているものだが、「(2)(3)(4)のような伝統的教養・風格を、(1)のような現代の自分の日常において実践してみよう」という、いわば趣味人の勝手な試みなので、うまく成り立っているかどうか分からない。

 ただし、「俗語・漢語・英語・和製カタカナ英語などは使わない」、「枕詞・縁語・掛詞の教養を積極的に取り入れる」、「結句の四三調は避ける」といった、古今集以降の伝統和歌の品格や規範にはなるべく忠実に従うようにしている。


■平成日本において伝統和歌をライフワークとする日本人の分布

 ところで、私が自分の和歌人生で一番興味を持っているのは、和歌を通じて「人間とは何か、生きるとは何か、日本の心とは何か」を探究することに他ならない。だから、そもそも今の日本において、伝統和歌を詠んでいらっしゃる日本人がどこにどれだけいるのか、ということも、伝統和歌そのものと同等に関心がある。

 よく「俳句人口は1000万人」などと新聞などに書かれている。「近現代短歌・俳句・川柳人口」が「伝統和歌人口」を圧倒しているのは間違いないにしても、あまりに水増しのしすぎであり、日記を書くように作歌・作句を続けている人口だけをわざと多めに見積もっても、前者は約300万人、後者は10〜20万人、残る1億人超は「作歌・作句経験はあるが、それが人生・日常ではない」というところだと思う。そして、それはそれでかまわないと私は思うわけである。

 私がここ十数年で知る限り、上記の10〜20万人、すなわち、「万葉集・古今集・新古今集から江戸時代末期、そして明治・大正・昭和戦前までの純日本語(やまとことば)で和歌を恒常的に詠んでいる日本人」の分類は、以下の通りである。

(A) 旧宮家(旧皇族)とその歌会
(B) 京都の冷泉家とその歌会
(C) 神宮、大社、その他旧社格の高かった神社の巫女とその私的歌会(稀に、寺院の家柄の私的歌会)
(D) 花街の芸妓・舞妓とその私的歌会
(E) 旧遊郭の娼妓・遊女と同等の内容を生業とする女性たちとその私的歌会
(F) 伝統和歌愛好家どうしのネット交流:(F)だけで(A)〜(F)の95%強を占めると思われる

 まず、私が関係するのは、多くが(F)で、あとは(C)と(D)だけ(稀に(A))である。というより、私を含めたごく普通の伝統和歌愛好家が近づける機会が、それ以外にあり得ないだけであるが。ともかく、先の(2)は(F)に、(3)は(C)に、(4)は(D)に当てはまり、(1)は(A)〜(F)とは無関係の世界で、(5)は(1)の一部と(3)((C))・(4)((D))の一部を融合してひらいているわけである。


(A) 旧宮家(旧皇族)とその歌会

 (A)について、何よりも重要なのは、今上天皇はじめご皇室・現宮家の方々とその歌会(歌会始など)、及び旧公家・旧大名身分の方々とその歌会は、伝統和歌の系譜に入らないということが、旧宮家の方々の口からは普通に聞かれることである。

 私も、和歌を詠むようになり、何人かの旧宮家(旧皇族)のご婦人・ご令嬢の方々に和歌観をうかがう機会があり、興味深かったのが、「現在の宮中での歌会(歌会始など)の歌は短歌であって、和歌ではない」という言い回しが、ごく普通に聞かれたことであった。これは、(事実であるにせよ、そんなことを口にしてよいのかという意味で)私には驚きだった。

 つまり、本来は、「和歌」とは「漢詩」に対する語であり、「短歌」とは「長歌・旋頭歌など」に対する語であるのに、現在の一部の旧宮家のご婦人・ご令嬢の方々の日常語としては、「和歌」と言うと「伝統和歌(古典の短歌・長歌など)」、「短歌」と言うと「現代和歌(現代短歌)」を指している。

 これは、伝統和歌としての「和歌」に対して根岸短歌会・アララギ派・アララギ系の歌を「短歌」と呼ぶのと同じ論理が伝統和歌としての「和歌」の内部にも行われたもの、すなわち、「和歌」のうちにも「和歌」と「短歌」の別ありとの意識によるものと考えられる。この感覚に従うと、確かに、現在の天皇陛下はじめ皇族の方々は、短歌はお詠みでも和歌はお詠みにならないということになる。

 ただし、かえってこれによって、私が冒頭のリンクページに載せた伝統方式による歌会は、現在の皇室においては取り行われていない一方で、旧宮家(特にご婦人・ご令嬢)のごく一部においては現在でも取り行われ、伝承されていることを知った。これはこれで、非常に心が躍った。

 現在では、一般国民にひらかれている天皇陛下の歌会始に応募・詠進するときには、伝統和歌ではなく、現代短歌を詠まなければならないことは広く知られている。実際に、宮内庁のサイトも、「短歌」の語を多用して「和歌」の内容を解説するというトリッキーな歌論を展開している。この内容は、現代短歌寄りの方向性へと書き換えられ続けている。

 今後も、天皇・宮内庁主催の歌会に国民が詠進する際に、(C)〜(F)が伝承している和歌の伝統性を崩して詠まなければならない傾向は強まっていくと考えられる。

 それに、天皇陛下や皇族の方々ご自身が、俗語・漢語・英語・カタカナ語などを多用した現代短歌をお詠みになっている現在において、我々一般の和歌愛好家が伝統的規範を守った和歌を詠進してよいものか、かえって不敬や無礼に当たるのではないかという意見が、神社の巫女さん・芸妓さんたちや我々和歌愛好家の間で出たことがある。

 この気持ちが何となくおしなべて広がっているからか、それら知人の和歌愛好家の多くは歌会始に詠進していない。

 一方で、興味深い詠進実験をおこなっている和歌愛好家の有志の方がいらっしゃり、かつての天皇・貴族が詠んでいたような本格的な古今調・新古今調の和歌を毎年の歌会始に詠進し続けた結果、このような伝統和歌が必ず落とされるということを確認なさっている。

 実験と言っても、まじめなもので、その方にとっては、「そもそも現在の天皇個人だけでなく、過去の天皇と日本人と日本の自然・動植物の全てに敬意を払うからこそ、伝統和歌を詠進している。あくまでも“現在の”宮内庁から落とされているだけだと理解している」とのことである。この心境だけは、私にも深く分かったものだった。


800px-Reizeike.jpg(B)京都の冷泉家とその歌会

 (B)は、藤原定家の子孫の公家の家系である冷泉家のことである。この冷泉家は、定家の子孫の別の歌道(二条流・京極流)が廃れる中で生き残って、冷泉流歌道を継承しており、文字通り和歌の流派としての風格を保っている。

 定家の子孫の多くの家系そのものが断絶したことと、冷泉家以外の公家の家系及び天皇・皇族は、漢語・英語などを多用した現代短歌を詠まれていることから、今の我々和歌愛好家が「伝統歌会」と耳にすれば、ほぼ冷泉家のことを思うのが通例で、伝統歌会の勉強は、書籍だろうが何だろうが、まずは冷泉家のことを勉強することになっている。

 ただし、現在のご皇室の歌会は冷泉流歌道と深い関係にあり、我々一般の伝統和歌愛好家の中には、すでに冷泉流歌道もこれまでの伝統和歌とは別の道を歩み始めている、ととらえる人も多い。


800px-KamiShichiken.jpg(C) 神宮、大社、その他旧社格の高かった神社の巫女とその私的歌会
(D) 花街の芸妓・舞妓とその私的歌会
(E) 遊郭の娼妓・遊女とその私的歌会

 (C)と(D)については先に述べた通りだが、ともかく、今の日本で、私のようなごく一般の国民にすぎない和歌愛好家にとって、立場的に参加・詠進可能な伝統歌会の上限は、(C)と(D)だと思われる。(A)や(B)はあり得ない。私の知人和歌愛好家の何人かも、(C)と(D)の私的歌会には詠進していらっしゃる。

 私にとって最も興味深いのが(D)と(E)の関係で、これもこの十数年間の和歌人生の中で色々と関心を持った。

 いわゆる花街(東京では深川・柳橋・新吉原・向島など、京都では祇園・上七軒・嶋原・先斗町など、金沢では主計町・にし茶屋街など)に、今でも伝統和歌を人生としている芸妓・舞妓がおり、これについても共感覚の方面から交流を始めた数人の芸妓・舞妓の、ある歌会への詠進によって知った。

 ただし、「和歌が人生」と言っても、和歌が芸妓見習いや芸妓学校の必修項目であることは現在はなく、芸妓が自主的に一般の伝統和歌サイトを通じて学ぶしかない状況だとのことである。

 私は大阪には全く縁のない人間(むしろ、大阪の空気に似合わない性格!?)なのだが、もしかしたら飛田・今里・松島など大阪の花街にも何らかの伝統歌会文化が残っている可能性はある。ただし、これらの街に関しては、色々と複雑な歴史を考慮してみるに、簡単に伝統和歌などと結びつけて語るような場所ではないと感じている。

800px-Pontocho_by_Wolfiewolf_in_Nabeyacho,_Kyoto.jpg ただし、少なくとも私の知る東京・京都の花街の芸妓は、あくまで芸妓であって、娼妓ではなく、旅館や料亭の女将さん・工芸品売り・書家・伝統楽器奏者などとして花街に残っている方々である。

 巫女(神社)と芸妓(花街)と娼妓(遊廓)とが同じ土地に共栄した傾向が他地域よりも大きい大坂においては、「和歌・生け花・書・裁縫などの教養」と「体を売る覚悟」とに区別があまりなかったことは十分に考えられ、その意味では、(どちらが良いか悪いかの問題ではないが、)私個人の探し求めている歌道は、江戸・京都・金沢のものであるのかもしれない。

 聞きづらいことに、「いわゆる赤線・青線地域と伝統和歌の関係とは、どういうものですか」と伺ってみたところ、「それらはそもそも別物で、最初から伝統和歌会の伝承と結び付いていたのは芸妓の方だと思う」との答えだった。

 それはともかく、私が詠進したことのある歌会において、東京・京都・金沢の芸妓・舞妓の詠んだ和歌に用いられた歌語・雅語は実に優美で、私は個人的にこういうことに日本らしい懐かしさを覚える。

 その懐かしさとは、「日本人が和歌の知識を持たなくなったことへの不満から来るもの」ではなく(知識がないのは、単なる環境によるのであって、和歌の精神を知る日本人は残っている)、むしろ、「神宮・大社・官社級の神社の巫女の心と、俗世間の花街の芸妓・舞妓の心との両方に、全く同じように守っていきたいと思わせる和歌とは何なのか、という面白さ」から来るものだと言える。

 例えば、リンク先の歌会では、職業巫女と花街の芸妓が同時に参加するなどしているが、(一見すると聖俗分離という常識に反していそうな)この優雅な度胸のようなもの自体が「和歌の精神である」ということを、私は思うわけである。「聖俗の別を人の一生に設けない境地」が「和歌の精神」であると、私はそう思っている。

 それで、旧宮家の方々に和歌観をうかがったのと同じように、旧花街である向島の隅っこの方の、「本当の向島」を伝承している芸妓・舞妓の方々に、どうして歌語・雅語というものをそんなにご存じなのかを尋ねたところ、これがまさに私のような(和歌だけ詠んで花街は歩かない)無知な男の盲点で、いわゆる「源氏名」というものを考える時に、ひそかに源氏物語や和歌集から言葉を引っぱって来るのだ、だから勝手に頭に残るのだ、とおっしゃったのを聞いて、なるほどと感じた。

 私が何を言いたいかというと、「和歌の精神」は「和歌の技術・歌語の知識」をいつでも醸成するということである。つまり、和歌を詠んだことがないが和歌の精神を持つ日本人は残っているのだし、一方で、上級公家や神宮の巫女や花街の芸妓の世界でさえ和歌を詠む人が極めて少数になっている時代だからこそ、それらの身分の区別なく、むしろネット事情に長けた一般の伝統和歌愛好家のサイトに集まるしかすべがない、ということにすぎない。

 その芸妓さんが教えて下さったことで、興味深かったのが、それなりに上級の出自である今の若い見習い舞妓に古語で日本語を書かせたところ、「携帯にてカレシにメールしたれども、返信来ざりければ、超悲しかりけり」といった文章になったそうである。しかし、これを頭ごなしに笑ったり怒ったりすることも、また良くないことである、和歌・芸道の精神ではない、とおっしゃっていた。

 私も同じ意見で、「古語の優美さへの欲求」がかえって如実に現れている日本語であると感じた。今の我々日本人の皆が、このような文章を書いてしまう可能性を持っていると言える。

 しかし、ここから先、「現在の流行語や若者言葉、ハイテクIT用語に千年前の助動詞をくっつけることへの違和感」がそのまま「日本人としての恥じらい・たたずまい」であるのだ、ということに、自分で身をもって気づくかどうかが大切なのではないか、という会話になり、私も大いに共感できた。


■平成時代において和歌・短歌をライフワークとする日本人およそ300万人の分布
(自分で詠んでいない限り、和歌研究者等は除く。)

 さて、まとめると以下のようになる。これは、実際に旧宮家(旧皇族)及び花街の芸妓から聞かれた「和歌」・「短歌」の語の定義・使い方に基づいている。

 今は、かつての天皇・公家・貴族・武家などが詠んでいた伝統和歌の流れは、先述の(A)(B)に継承され、さらには(C)〜(F)に継承されているということだと思う。そして、最終的には、天皇陛下・皇族の方々がお詠みになる短歌は1億人の一般国民の詠む短歌と同じものになり、かつての伝統和歌はかろうじて(C)〜(F)においてのみ詠まれるような、そんな時代が来るのかもしれない。


★「短歌」の詠み手の分布(「短歌」とだけ言うと、普通は「近現代短歌」を指す。)

 天皇・皇族・いわゆる「歌人」と呼ばれる職業歌人・一般国民およそ300万人(系譜としては、ほぼ全てが根岸短歌会・アララギ派・アララギ系で、「写生・実景描写」と「題詠・空想」とを厳然と区別した上で前者を優越させる短歌観・文学観を有する。さらに最近では、サラリーマン川柳など娯楽性を追求する人口が増加していると考えられる。)

★「和歌」の詠み手の分布(「和歌」とだけ言うと、普通は「伝統短歌」を指す。)

 旧宮家・旧公家のうち主に女性の方々のごく一部、神宮・大社・旧社格のある程度高い神社の巫女の一部、花街の芸妓・舞妓の一部、旧遊廓の娼妓・遊女の一部、演歌歌手・詩人などの一部、ごく少数の一般国民の和歌愛好家有志(私はここ)

★「和歌」から「短歌」への過渡期にある「短歌」の詠み手の分布

 冷泉家、多くの旧宮家、多くの旧公家など、かつて天皇の直属・直下・家臣の地位にあった家柄の人々

(その二)へ続く。


■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%BE%A9%E5%9C%92
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A8%88%E7%94%BA_(%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%B8%82)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%AE%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E3%81%AE%E8%8A%B1%E8%A1%97
posted by 岩崎純一 at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論

2011年11月01日

なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応(その三)

(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49231797.html

(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49405339.html

承前。

 今回の(その三)は、以下の模式図と照らし合わせながら読んでいただけると分かりやすいと思います。

http://iwasakijunichi.net/ronbun_ippan/utsu_to_shokugyo.htm

 さて、ここまで、「今の一部の日本人独特の鬱・社会不適応性・不登校などは、“職業としての労働(学業)とは目的合理性を持った宗教儀式に端を発する”という(社会科学的・宗教学的な知識を必要とするはずの高度な)知見を、すでに敏感に分かっているのではないか」という主旨のことを書いてきた。

 もう一度書いておくと、ここ二回の記事で話題にしている鬱病者・社会不適応者・不登校児などは、いじめ・パワハラなどの心的外傷体験を持たずとも、現代の日本に生まれたその自己の身体だけをもって社会不適応性を自発的に生じるタイプの日本人のことを指している。

 つまり、職業としての労働をする中で誰にでも生じうる「人間関係の悩み」や「仕事の忙しさ」などによって生じた「気分の暗さ」は除くのであり、現在の日本の「職業」概念そのもの、「就業」そのものへの違和感や批判としての「鬱」を指す。

 そのような鬱・社会不適応性は、現在の日本の場合、ほぼ必ず「経済的自立」の問題と関わっているのが興味深い。つまり、鬱病者側は「経済的に自立していない自分」に誰から言われるともなく自省的に思いを巡らせることが「鬱」そのものの原因である傾向があり、社会側はそのような鬱病者を「社会に出す」ことを職業にしている(自治体やNPOなどによる鬱病者の社会復帰の支援など)場合さえある始末である。

 ところが、今「誰から言われるともなく」と書いたが、実際には「社会から無言で言われている」と言えなくもないと感じる。

 もし経済的に自立していなかったり学校に行けなかったりしても、そのことを自分で気にせず、平然と過ごしていたり、他人や他国のせいにして暴動やテロリズムに走れば、「鬱」にはならない。この状態が、まさに前回までに書いたイスラム教圏(ないしアフリカや南米、東南アジア)の若者たちであると言える。

 その意味で、今の日本人の鬱・社会不適応は、むしろ、あまりに人への配慮・責任感・社会性・協調性を持った一部の日本人において発生していると言えそうである。すなわち、鬱・社会不適応であることによって、戦後日本・今の日本の社会構造に対して、何らかの正当な批判を全く非暴力的に表出していると考えられる。

 そのことを示すため、我々人類の脳神経機構に「職業」や「資本主義」、「精神疾患」という概念がどのようにして発生・認識されるに至ったかを図示及び箇条書きして、この話題を締めくくりたいと思う。このブログを読んで下さっている鬱病の方々などにも見ていただけるとありがたいし、束の間の知的な安息にでもなればと嬉しく思う。

 今の日本においては、厳密に「職業」と言えば正規雇用のことを言い、パート・アルバイト・契約職員などの非正規雇用は「職業」とは見なされないケースがある。

 このことからして私はおかしいと思うが、ここで図示した「職業」の概念とは、少なくとも正規・非正規問わず、今の我々日本人がごく普通に「就職活動」や「労働者」や「仕事に行ってくる」などと言う時の「職」・「職業」・「労働」・「仕事」(英語で言うところのwork、job、labor、occupationなどの訳語に当たる日本語全て)を指している。

 このような近現代的「職業」概念が我々人類の脳神経機構に発生・認識されるために歴史的に必要であった条件を、以下に挙げておきたい。逆に言えば、これらの条件がなかった社会・文明圏には「職業」概念が生じなかった。

 こうしてみると、「職業」という概念は、西洋キリスト教社会の大衆が既存の堕落勢力(教会・聖職者)に抵抗する中で、順を追って醸成された概念であることが分かる。

 日本の場合、一般大衆が前近代的労働観で動いていた明治初期には、その分、新政府を形成した旧下級武士や知識人たちが、きちんと「意識の上で」西洋一神教圏の労働観の宗教儀式性を慎重に吟味してから取り入れた。また、その労働観の輸入は、日本の植民地化を防ぐために、仕方なく実行せねばならないものだった。

 しかし、戦後には、(国・官僚・会社・国民を問わず)日本人全体がこの「一神教的労働観」をほとんど無思考・無意識のうちにアメリカから輸入し、常識化させてきたように思う。

 心的外傷体験の有無に関係しない一部の今の日本人の鬱・社会不適応は、このような「無意識的一神教的労働観」への論理的反駁であろうと、私には思われる。


■まず、「職業」・「資本主義」概念の発生条件を示す。これらは、マックス・ヴェーバーらの社会学分野やマルクスらの経済学分野だけでなく、宗教学分野からも興味深いものだと思われる。我々が平気で使っている「職業」という概念は、千数百年の時を経てやっと生じているのである。

●ユダヤ教が発祥すること

●堕落したユダヤ教に対して新約聖書が提示され、キリスト教が発祥すること

●キリスト教信仰が自己目的化すること

●唯一神と人との新契約(religion)をもって「宗教(religion)」概念とすること

●パウロやアウグスティヌスの(あるいは、本来のキリスト教の根幹思想である)予定説の変容を誘発するようなローマ・カトリック教会の腐敗が横行すること

●教会の腐敗を批判するロジックとして、予定説の解釈が「人が救われるのは、人の能力ではなく、神の意志による」から「自分が神に救われるか滅びに至るかは、神によってあらかじめ決められている」に変容し、従来の農作業・商業などの労働の苦悩とその経済的成功とが「自分が救われる者であるかどうかの確証・証拠」であると考えられるようになり、「宗教儀式としての労働精神」と「神に向かって前進する目的合理的精神」とが自己に宿ってプロテスタンティズムが確立すること

●プロテスタンティズムの労働精神と利潤追求精神が自己目的化し、宗教的動機によらずとも利潤増大のための労働を自己が欲するようになること

●「神に救われない者に対する、神に救われる自分自身の利潤追求は、天命としての職業(Beruf)であり、神の望む善行である」との意識が芽生え、ここに「労働」と「報酬追求(生活費獲得)」の一致としての近代的「職業」概念が発生して、資本を元に自由競争による利潤追求をおこなう資本主義のイデオロギーが確立されること


■以上、ここまで、近代的「職業」概念の発生経緯である。
 ここから先は、日本の明治期の頃に世界で見られた動きであり、明治期の役人や知識人ならば把握していた動きである。もはや「真摯な宗教儀式性」が欠落した資本主義の発展となる。


●プロテスタンティズムを契機として生まれた資本主義が、経済体制としてのイデオロギーを有するに至って、「資本主義国」と呼べる主権国家が誕生し、国内の他宗教の大衆の労働を縛るようになる。

●「技術・商業の発達と資本の蓄積が過剰になると、社会主義革命が誘発されて資本主義は倒壊する。これら経済の動きが下部構造となって、上部構造(芸術・文化・宗教など)を規定する」というマルクス・エンゲルスの唯物史観に基づき、欧米の過剰な資本主義発展に対する社会主義思想・マルキシズムが登場する。

●無神論を内包する革命イデオロギーとしてのマルキシズムが自己目的化し、その実現の準備として、膨大な資本の蓄積、資本主義体制過多の実態を作り出すため、ソ連が五か年計画を実行に移し、一時的に大国化する。

●実際には、西側諸国の資本主義経済は「キリスト教・プロテスタンティズムに基づく(前期的資本ではない)近代的資本の倫理的運用」によって達成されていた(宗教は経済の下部構造である)にもかかわらず、経済の方を下部構造と考えたマルキシズム・社会主義体制を敷いたソ連が崩壊する。


■一方で、この間、明治期から戦後までの日本の動きは以下のようであった。

●武士・大名階級が廃止され、倒幕を成し遂げた旧下級武士が新政府に多く入ったため、近代的法治主義ではなく、前近代的な人間関係と武士道精神が日本独特の官僚組織を形成した。

●地主階級はそのまま残されたため、地代などを現物(米)で納入する独特の封建的資本主義が形成された。

●ここに欧米の近代法体系・実力試験制度(科挙の体制、一高・東京帝大を頂点とする官僚養成体制)・資本主義経済を見かけ上輸入・適用したため、「官僚・公務員は国家の公僕である」という欧米資本主義の倫理意識が徹底されないまま、前近代的な人間関係と武士道精神・地主精神で国家そのものが私的財産のように運用・運営される。

●日本の資本主義における資本は前期的資本であるために、国家の財産と官僚の正当な報酬とに区別のないまま資金を軍需産業に投入し、戦争を遂行。

●戦後、アメリカによる日本の対共産主義・対社会主義陣営防波堤化や朝鮮特需によって、急速に経済が発展する。軍事力・国土防衛をアメリカに委ねる代わりに、日本の官僚は経済成長に有利な産業に資金を投入し、高度経済成長を達成。官僚が見かけ上の依法官僚制によって企業に命令を下す、事実上の家産官僚制の社会主義体制である。


■ここから先、社会主義陣営崩壊後の動向である。

●一極勝利したアメリカの新自由主義型資本主義に、日本政府が追随。

●見かけ上の依法官僚制によって家産官僚制的命令を受けていた企業(会社)が、社会主義陣営崩壊(1991年)から同時多発テロ・世界金融危機にかけて、それぞれ見かけ上の依法的経営に基づく事実上の家産的経営によって防御を図るようになる。

●欧米型資本主義のように宗教的必然性を通過していない日本の企業の経営者は、経営維持・不況打開の足かせが、法律上の非社員(会社員・従業員)であると考えるようになる。

●「明治期に倒幕を担った下級武士階級の武士道精神」や「地主階級の小作人との信頼関係」がそのまま明治新政府の官僚組織や財閥に入り込んだことが多少は功を奏したように、伝統的な「家」制度に基づく人間関係の効果を頼みとする意識は現代まで残されていたため、世界金融危機以降、日本の企業は、長期的忠誠心を担保・確認できる者(正社員・正職員)に私的信頼としての報酬や給与を優先的に回すようになる。

●企業が「雇用形態は、そのまま企業と従業員との人間関係や従業員の人間性を表現している」と考えるようになる。また、社会が「各人の雇用形態は、そのまま個人の人間性・信用可能性を表現している」と考えるようになる。すなわち、「雇用形態」が「人間評価」に直結する日本独特の人間観・労働者観が形成される。

●「倫理性・忠誠心の低い者から順に非正規雇用に回す」という欧米資本主義に見られる能率的・合理的雇用対策ではなく、日本においては「非正規雇用者は倫理性・忠誠心が低い。ゆえに非正規雇用とする」という無限ループが生じる。

 さて、ここまで、長々としたタイトルへの回答に達するべく長々と書いてきたが、おおよその回答は示せたのではないかと思う。

 ちなみに、カナダやフランスなどでは、非正規雇用者や精神疾患の無職者などは、不安定であるがゆえに手厚く保護されており、実はここにも、近代の「職業」概念・「資本主義」概念が生じたときと全く同じく、キリスト教的博愛精神がはたらいていると考えられる。

 逆に言えば、そのような手厚い社会保障体制は、完全に近代的社会契約論の延長でおこなわれるもので、日本的な「主君との武士道精神的連帯」や「地主と小作人の信頼関係」や「ムラ社会的なご近所関係」が崩壊した後に生じたものであると考えられる。

 日本においては、これらの前近代的ないし戦前的人間関係がそのまま「雇用者と被雇用者(正社員・正職員)との信頼関係」に不当に滑り込んだのだから、間違いなく、これからも「しばらくは崩れない」ものであると思う。

 鬱病などに陥って社会不適応とされた一部の日本人(非正規雇用者・無職者など)がそのような関係の内部に再び割って入る余地や機会は、なかなかないと思われる。本当は、そのような一部の日本人の中には、ひとたび職の機会を得たなら、人並み以上の和魂洋才(前近代的武士道精神と近代的公僕精神)を持って良い働きをする人が多くいるに違いない。

 しかし、実際には企業側は、前期的資本を(法律に基づきながらも)私的・家産的に運用するという、事実上の社会主義国家(ソ連)企業に似た経営体制をとっているのだから、正規雇用は死ぬまで正規雇用、非正規雇用は死ぬまで非正規雇用、という見事に綺麗な構図が完成されつつある。

 しばしば、テレビで、企業側が「正社員になりたかったら、まずは人としての信頼を勝ち取れ」と主張しているのを目にする。つい最近も、日本の財界のトップの一人が、「非正規雇用であろうとも、雇ってやっていること自体を恩恵と思え」と発言していた。

 これこそ、まさに「近代欧米型資本主義を前近代的日本精神によって運営するという、戦後日本人らしい過ちの果て」に出た不当な発言だと、私には思えた。これらは、主君を不当に裏切った江戸時代の武士に向かって言うべき言葉であって、食べるため・生きるためにもがいている非正規雇用者・社会不適応者に対して言うべき言葉ではないと思えた。

「恩恵」と言っても、日本には「恩恵」を与える主体が伝統的に不在だったわけである。西洋には、キリスト教の唯一神という圧倒的な超越存在が「職業」という概念を保証したからこそ、キリスト教自身の横暴によって引き起こされた弊害は、キリスト教自身の博愛精神によってカバーされた。

「国家」と「国民」、「雇用者」と「被雇用者」の関係というのは、西洋社会においては、延々とキリスト教精神の反復なのである。そのような経緯を、日本の政治家・官僚・企業人・経営者たち、そして社会を構成する我々日本人皆が、ほとんど勉強してこなかったのではないかと思える。

 ここまで見てくると、私がその二で次のように書いた理由も、八割方は説明できたのではないかと思う。

「登校を拒否している子どもが再び登校し、社会不適応者が社会復帰・社会適応するためには、何らかの絶対的・超越的理念との再契約という“宗教(religion)精神”が必要なのである」

「現在の一部の日本人の鬱病や社会不適応は、“神に対してでなく雇用主・会社に対して無意識下に成される、一神教的な禁欲と忠誠”という“極めて摩訶不思議な宗教儀式としての現在の日本の労働形態”への、“正当な批判”として生じた」

 そしてまた、そのような「宗教精神」を持つことに本能的に苦痛を感じる一部の日本人の心とは、本来は全うな伝統的日本精神なのであって、これを今の我々日本人がいかにも異端らしく「鬱病」などと呼称しているにすぎないというのが、私の意見である。
posted by 岩崎純一 at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論