2012年01月29日

(1)今後の地震予測の記事の書き方 (2)私の地震予測の流れの解説

■前回と前々回は、突如として地震予測の記事を書いてしまいましたが、今後も、日本国内の震度5弱以上の中・大規模地震を知人の自閉症者・解離性障害者や私などが事前に察知した場合、(書く時間があれば)このブログに書くこともあるかと思います。(そして、該当の地震と思われる地震が起きたあとは、今後の研究のためにも、自分でメモを溜めるなり、どこかサイト内に別のページでも作るなりして、予測の精度を検証していこうかと思います。)

 ただし、書きっぱなしも良くないので、

(1)今後地震予測のブログ記事を書く上での私なりの注意点や私の考え
(2)そもそも中・大規模の地震の前日や前々日に私にそれが分かる方法・経緯

について、一通り書いておきます。

 ちょうど今日も、「昨年の大地震の恐怖の余韻の残る中、地震の予測情報を岩崎さんのブログに載せることの是非」というような話が集まりの中で出ましたし、自閉症児のお母さん方などともこのことを議論しましたので、その皆さんがご覧のこのブログでも、それについて少し書いてみます。

 元より私のライフワークは、「共感覚学者・地震予知学者などになること」ではなくて、「私の目から見て確かに自然観察力を持っていると信じさせてくれる自閉症者・共感覚者・精神疾患者・動物たちなどのことを、私なりの視点や責任で世に問うこと」だと思っています。

 地震の予測の話題も、その一環としてごく自然の成り行きで関心を持っているものです。そして、私が、「災害が起きてから人(被災者)の命を救済すること」以上に、「普段から動植物全体・地球全体の生命の躍動を見守る人間であること」のほうがよほど大切で心温かい姿勢だ、後者が日頃からできていない人に前者が務まるはずがない、という考えを持っている人間であることには、今も変わりはないと言えます。


■(1)

 何よりもまず、哲学的な話ですが、「地震を含めた広義の自然現象の予知・予測」という概念は「これらを体感として予知・予測している人」には存在しない、という認識論・存在論上の命題を、自分の身体だけを用いた「地震予知・予測」経験のない多くの人々が理解しておく必要があるのではないか、と私は思っています。

 もちろん、「地震」という語を「地面の震動」と厳密に読めば、万人にとって「震え始める」時点は同じですから、「まだ地震は起きていない」ことになりますが、ある意味で、「体で予知している人」にとっては「すでに地震は起きている」、すなわち「予知」ではないわけです。

「予め(あらかじめ)知る」や「予め測る」という言葉の裏には、常に「まだ私(自己)の意識と身体にとって未生起・未到達・未存在の現象や事物」との含みがあるのであって、「予知」とは常に「予知する身体を持たない人の側の認識論」であり、「予知する身体を持つ人には思い付かない認識論」と言えます。

 この後者の最たる姿が自閉症児や動物である、というのが、もうずっと以前から変わらない私の意見であるわけです。自閉症児や動物に対する私の敬意や感謝が、そのような彼らの自然観察力のすごみから来ているということをこうしてブログで言うのに、何の恥ずかしさもないくらいです。

 その意味で、前々回の私の記事に書いた、私の知人の自閉症男児による地震察知や、私自身の高周波察知感覚や共感覚による地震察知などは、「予知」を書いているというよりは「現在の地震現象の報告」を書いているにすぎないとも言えます。

 逆に考えると、昨今の気象庁の「緊急地震速報」が、「地震“予知”情報」や「“近未来”地震警報」という名称でない理由は、多くの地震学者の知性において「すでに地震が起きている」ことの確証がとれたためであると言えると思います。

 そうでない認識論の構造を持つ文明や社会においては、「緊急地震速報」の内容そのものは擬似科学であり得ることになります。これを疑似科学とする信念は、「今の緊急地震速報には誤報がかなり多く、テレビや携帯電話で速報を受けた国民が混乱することがある」といった現実的な「精度」の問題とは無関係に盛衰するものだということを心に留めておく必要があると思います。

 そのような文明や社会が精度の高まった未来の「緊急地震速報」を目の前にしてもなおこれを信じなかったとしても、その心は、自閉症児たちや動物たちや地震雲たちの一週間前から数日前までの地震予知を目の前にしてもおそらく今後もしばらくはこれらを信じることができない我々現代日本人の心と、何の違いもないことになります。

 自然科学と我々の心とは常にそういう危険をはらんでいて、逆に言えば、将来的に私の前々回の記事のような内容がもっと正確になれば、それはごく普通に「緊急地震速報」という真っ当な名称にもなり得るわけです。

 いつか、「緊急地震速報」が二週間も前から出される超高度科学技術時代は来るかもしれません。ただし、それは、我々の流す汗水そのものが感知したものではなく、我々が汗水を流して生み出した地震予知機器類が感知したものであるでしょう。人間は地震予知機器類の予知結果のただの報告者となると思います。極論を言えば、我々人間の目や耳は、ほとんど何の役にも立たないものとなっていくのかもしれません。

 それでも、やはり私としては、これまでにも優先的に心打たれてきたし、これからも優先的に心打たれていくのは、我々人間の、そして我々人間もその一員にすぎない動物の汗水が直接に地震を感知する力のほうであると感じています。

 さて、心に留めておかなければいけないこととして、「地震予知」をサイトで扱うというだけで、昨年の大地震を経験された被災者の方々などに不安感・恐怖感を与えるおそれがあるということがあると思います。

 そうかと言って、現在の日本の「緊急地震速報」のような直前情報や、海外ではかなり進んでいる地震前の電磁場の動きの研究などに、意味がないかと言うと、これはこれで意味があり、人の命を救うことがあるわけです。「緊急地震速報」を出すときに、気象庁の職員が、「我々の速報が日本国民を驚かせ、どこかの田舎の高齢者の心臓を止めたらどうしよう」などとは考えないわけです。

 これは、いつも私が自閉症や共感覚を持つ子どもや動物たちの行動を見ていて、感動するときに思うことなのですが、先ほども書いたように、我々がこれらの情報を「意味がある」と判断できるのは、「情報が真である」ためではなく、「人の命を救いたいと思う心が情報を真にする」ためだと私は考えています。

 非常に難しい話で申し訳ないですが、私の哲学の認識論上の思考過程を、自閉症児・発達障害児のお母さん方の読者も多いこのブログで分かりやすく書く方法が、私には自分の説明力の未熟さゆえに分かっていないだけだと思います。

「情報の内容」いかんに関係なく「情報の受け取り方」は人によって違うということを、我々は昨年痛感しました。情報を一回耳にしただけで冷静で丁寧な対応をとった人もいますし、何十回と耳にしてもそれを聞かずに独断で行動して津波に飲まれた人もいました。

 これは、どちらが正しいか間違いかの問題ではなさそうです。自分の愛する船を放っておいて高台に逃げるのと、愛する船をそばで見ながら津波に飲まれるのと、どちらが漁師にとって幸せか、これを他人が判断することは良くないことであると思います。

 すでにネット上には個人レベルで地震予知体感情報を発している学生や主婦の方々のサイトが多々ありますが、どの情報を信じるかは、受け手側の責任や好みなのだろうと思います。私や自閉症者・共感覚者の地震予測も、きっとそうだと思います。

 そういう意味もあって、読者・被災者を怖がらせることになるか安心させることになるかといったことを情報発信者のほうで気にすることの是非自体に、答えがないと私は思うので、特に気にすることなく、ただ淡々と記事を書こうかと思っています。

 そもそも、地震予知というものは、外れたほうがありがたいわけです。外れたら外れたで、当たったときと違って誰一人死なないのだから、予知の当人・予報の当人は、恥じて謝るよりも、喜ぶべきではないでしょうか。謝る必要がないと言うよりは、謝ることができないとも言えそうです。なぜならば、「地震を完璧に言い当てる」ことは、物理学の上でも原理的に不可能なことだからです。

 ただし、今現在は、昨日紹介した産経新聞のように、「予知」という言葉には、どうしても疑似科学的な響きが伴うようですので、「予知」よりも「予測」を好む人も多いようです。しかし、これも「言葉の綾」にすぎないと私は思いますので、私の場合は時と場合により使い分けています。


■(2)

◆震度5弱以上の揺れが予測される地震について、その地震の前々日から数時間前までに、(ブログを書く時間があれば)次の内容を書こうと思っています。
●予測されるマグニチュード、震度、震源、実際の体感

◆私の周りで地震予測を自分の体だけを使っておこなっている人には、次のような人がいます。

●私がサイト開設以来出会ってきた人(特に重度自閉症・重度解離性障害・重度統合失調症・言語障害を持つ子ども・男性で、報告は主にお母さんなどご家族から来る)
●私の勉強会のメンバーや知人で、地震予測体感のある人(ほとんどが女性。男性の場合、「地震予測できている可能性のある人」は「言語障害を抱えている人」であることが多く、前記の分類に含めた。)
●私が参加している共感覚自然感知研究会・日本共感覚協会・日本的共感覚人間学研究会などのメンバー
●私自身

 私が見てきた限りでは、ここに挙げた人たちは、緊急地震速報などが捉えている疎密波であるP波・S波よりもっと前の疎密波や電磁波を体で捉えていると考えられる点で共通していますが、重度の自閉症児は震源地域を当てる傾向があり、私のように言語障害のない共感覚者・離人症者・アスペルガー症候群者は地震の規模を当てる傾向があります。

 そして、重度の自閉症児が規模までを当てることはあっても、逆に私が震源地域を当てることはほとんどできません。このように、それぞれに得手・不得手があるため、色々な方々の情報を組み合わせているわけです。


 地震予測の時系列を描くと、だいたい以下のようになります。

★地震の一週間〜数日前

 まず、重度自閉症児が、震源と思われる方角を指差して「わーっ」と泣き叫んだり、部屋の中を走ったりして、それを見たお母さんが私にメールを送って下さいます。この段階では、私自身が単独で地震を予知することはめったにありません。

(言語障害があるお子さんばかりで、その時点では地震とは別件である可能性もあるので、「お子さんが地震予測したら、メールを頂けるとありがたいです」ではなくて、「何かお子さんの様子が変化したら、色々な分野で勉強になるので、メールを頂けるとありがたいです」という言い方をしてある。)

 中には、「ガラス窓に向かって走って突っ込んで、ガラスが割れた」、「ここ最近、夜驚症が激しい」といったお子さんの状況を報告してくるお母さんがいらっしゃいます。元々、急に走り出して物に突っ込んだり、夜驚症を発症したりするのは、自閉症児・その他の発達障害児・多動症児によくある特徴ですが、地震の前にはより大きな症状が出るようです。

 また、この段階で重度自閉症者以外に電磁場の変化に反応していると思われるのが、昨日の産経新聞にもあったように、動物で、イヌ・ネコのほか、鳥の飛び方や虫の動き方の変化の報告もあります。動物の地震予知行動を真剣に研究していない先進国は日本くらいで、欧米はもちろん、中国でさえ「オカルト科学」扱いしておらず、きちんと研究報告を出しています。

(国民がそれなりの人数でもって「ある」と言っているもののうち、国民と国を救うかもしれない「感性」や「能力」をまじめに研究しない手はないと思います。こういうところが、日本の学術研究の発想が世界に比べて遅れているところだと思います。)

 ↓ ↓

★地震の数日前〜

 次に、中重度のアスペルガー症候群や解離性障害者の子ども・生徒さん(主に私の勉強会に来て下さった人)や一部の一般女性が、当人たちが「お化けの足音」、「ヤマタノオロチみたいなもの」、「電波っぽいもの」、「超音波らしきもの」などと表現するものを感知し始めます。

(このような文学的表現を、私の知る自閉症児の行動情報と組み合わせると、震源などがより正確になっていくわけです。この段階で私が単独で地震を予知できている場合もありますが、大体はまだ人に頼っている段階です。)

 ↓ ↓

★地震の前々日〜前日

 軽度の自閉症・解離性障害者や、私をはじめとする一部の共感覚者などが、めまい・吐き気・悪寒などを感じ始めます。

(ここで、共感覚による地震感知とはどういうものかというと、「震源方向から来る電磁場の変化を体感している」という敏感な五感に加えて、「震源方向の時空に付いている色が変化している」などの実感が出ていることを言います。例えば、前々回の記事の「自動ドアやネズミ駆除器の超音波がいつにも増して極めて不快に感じられた」といったことに加えて、「日本の東側の共感覚色が紫色か青紫色を帯びた」といったことを体感するわけです。

 さらに、いわゆる「地震雲」という独特の雲がはっきりと出るのもだいたいこの段階で、地震雲を逐一ブログで報告している人も多いです。私は、この地震雲を見つけるのも得意な人なので、自分の高周波察知や共感覚と合わせて、より精度を増したいと思います。)

 ↓ ↓

★アメリカ・ヨーロッパ・日本など先進国に設置してある、主にアメリカの研究機関・米軍の手による地震予知・気象変化予知機器類が反応する。

(ここからが、現在「実質的には確証されている」自然科学的な地震予知に当たると思われます。多くは書きませんが、世の中には色々と恐ろしい技術があるようです。本当は、二週間ほど前から反応している形跡があります。)

 ↓ ↓

★日本の研究施設の同機器類が反応する。

(ここからが、現在「表向きは確証されている」自然科学的な地震予知に当たると思われます。気象庁は、この時点を「地震発生」と呼んでいます。)

 ↓ ↓

★地震直前

 緊急地震速報発表

 ↓ ↓

★実際の揺れが発生

(気象学などの術語を知らない我々国民が一般に「地震」というと、だいたいはこれを指している。ただし、「緊急地震速報」は「地震発生後」に出されるもので、「最初の主な揺れ」は「主要動」と呼んでいる。)

≪気象庁の参照ページ≫
http://www.seisvol.kishou.go.jp/eq/EEW/kaisetsu/Whats_EEW.html

 そこで私は、まず重度自閉症児のご家族や、軽度の自閉症・解離性障害者などから来た数通のメールを見て、「ああ、(台風でも大雪でもなく)地震だな」と判断できた場合には、その子・その人たちの行動をメモしておき、その後に本当に私自身にも地震の予兆が共感覚の色や音などで感じられたり、他の知人にも同じようなことが起きたりすると、そこで地震をほぼ確信して、ある程度マグニチュード・震度・震源などを予測して記事にしようと思います。

 ただし、「地震が起きます」とは書かずに、先日のように「地震に警戒」という表現を使おうと思います。

昨夜分の地震予測結果

■一昨日の地震予測記事に対応する地震は、昨日の朝から続いている群発地震のようである。

 私自身も、地震の事前感知の要素を帯びた共感覚(空や文字に見える色がいつもと違う、など)を持ってはいるし、私以上にその予測能力のある自閉症者・解離性障害者などとサイトや勉強会で交流している。

 普段から色々な方からの地震感知報告をメモしてはいるが、今後も今回のようにブログに書く機会があると思うので、ブログにおける地震予測記事の執筆方針を、後で自分でまとめてみたい。

順に、情報発表日時 発生日時 震央地名 マグニチュード 最大震度
平成24年01月29日16時51分 29日16時46分頃 山梨県東部・富士五湖  M4.7 震度4
平成24年01月28日08時07分 28日08時04分頃 山梨県東部・富士五湖  M4.1 震度3
平成24年01月28日07時51分 28日07時46分頃 山梨県東部・富士五湖  M4.1 震度3
平成24年01月28日07時48分 28日07時43分頃 山梨県東部・富士五湖  M5.5 震度5弱
平成24年01月28日07時44分 28日07時39分頃 山梨県東部・富士五湖  M5.0 震度4

■昨夜の地震予測
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/53332430.html

■産経新聞より

「イヌ、ネコは震度5以上で予兆行動…地震予知最前線 動物の感知能力を探る」

大地震発生の前後に動物や魚などがとる異常行動を分析し、地震予知につなげようという研究が、専門の研究者らによって進められている。地震学者の間では、動物の行動を地震の予兆現象につなげるのは非科学的だとする意見がある一方で、謎が多い動物の感知能力の解明に期待を寄せる声も大きい。これまでにイヌやネコは震度5以上の地震に事前反応するとのデータも得られており、東日本大震災後は「未科学」といわれるこの分野への関心が高まっている。

●上記新聞記事への感想

 震度3か4でもイヌやネコは事前に反応していると私は感じるし、地震感知の共感覚を持つ人もそのくらいの地震の直前に反応する場合がある。ただし、震度5以上かどうかに関係なく、そもそも動物の地震感知を、否定するか、疑似科学とする地震学者が多い現状ではある。いわんや人間をや、といったところだと思う。重度の自閉症児には、イヌやネコとほとんど同時に感知する子もいる。そのことについて、我々が素直な心で感動するという姿勢が必要だと思う。

2012年01月27日

【地震に警戒】何人かの共感覚者・自閉症児の行動に変化【M6〜M8級】

 東北・関東方向(日本の東方向)に赤紫や紅色を感じた共感覚者、知人の自閉症の男の子の行動がおかしいというお母様からのメールがあるなどしたので、一応、書いてみた。

 私の共感覚その他の感覚にはそれほど変化はないが、近所のスーパーマーケットの自動ドアやネズミ駆除器のキーンという音がいつもよりも苦しい、という変化は出てはいる。もしかしたら、東京なのだろうか。

 本記事の予測よりも「前に」発生した付近の地震一覧
01/27 13:19 千葉県東方沖 M5.1 震度3 深さ10km
01/26 05:42 宮城県沖  M5.1 震度4 深さ50km
01/23 20:45 福島県沖 M5.1 震度5弱 深さ50km

2012年01月23日

日本人男性にとっての母子関係について思うこと(小説や映画を例に)

 この私のブログ読者には、登校拒否児童・ひきこもりの学生さん・成人のニートの方々、そして、何よりその親御さん方もいらっしゃる。時々、読後の感想をメールで送って下さり、非常にありがたく思っている。

 職に就かずに「哲学的なこと」を考えておられる無職男性もいらっしゃるし、「絵描きになりたい」という無職女性もいらっしゃるし、学校に行けなくて寝込んでいる学生さんもいらっしゃる。私と同世代の無職男性で、お母様に引き連れられて私とお会いした方もいらっしゃる。

 一応、私のサイトにある「勉強会」の名目ではあるにせよ、だいたい母・息子さんひと組ごとにお会いしている。私は、自分で言うのも僭越ながら、わりと親子の問題を見抜く目はあるほうだと思っているので、記事にしてみる。

 最近、親子関係について考えさせられることが芸術の世界でいくつかあって、ノートにメモしておいたことがあるので、書いておきたいと思う。父親と娘の関係にも同じことが言えると思うが、ここでは主に母親と息子の関係を書いてみたい。

 私も明確な答えは出さないところで文章を止めたいと思うので、私の記事に反応して何かを「心で考えて」いただけるだけでも嬉しく思う。


■最近、芥川賞を受賞した田中慎弥氏。幼少期に父を亡くし、高校卒業以来、一切のアルバイトにも正業にも就いたことがなく、小説を書き続け、母親が婦人服の販売で田中氏を養ってきたとのことである。

 受賞会見での態度・言葉遣いなどが話題になっているが、母校の恩師などがインタビューで「あれは照れ隠しで、本当は優しい人」だと応じていた。「受賞を最初に誰に報告したか」という問いについても、田中氏は「母です」と穏やかに即答していた。

 ところで、今書いた「幼少期に〜」の一文は、最近話題になっている「ひきこもり」や「ニート」や「スチューデント・アパシー」の大学生や成人(多くが男性)が社会に出るためにいち早く脱却することが望ましいとされている親子関係(母親と息子の関係)の条件を満たしている。「母親との関係が密接であること」、「場合によっては、父親が死去しているか両親が離婚していること」、「母親が息子の無職を許していること」など。

 しかし、いち早くこの条件から脱却していたら生まれなかった芸術もある、ということを知っておいて損はないと思う。

 母親と田中氏との関係について、「すばらしい親子関係。田中氏も母親思いで優しい人だ」という意見から、「受賞して小説が売れたことが全てであって、もしそうでなければ、ずっと母親のお金で食べているのだから、本来は自立心がなく許されない生き方だ」という意見まで、色々と見られた。ともかく、それだけ注目されているということだろう。


■ところで、昨月半ばにテレビで『借りぐらしのアリエッティ』の放映があったので、見た。この宮崎駿氏の一連の作品について、「宮崎氏自身の母親への思慕の情が作品に投影されている」と見る分析は、今では、氏の作品を社会学的・文化人類学的な観点から見るファンの間では、しばしば見られるものとなっている。

『アリエッティ』においても、一部のファンから「マンネリ化した」と言われるほどに、それまでの宮崎氏の監督または脚本作品と同じく「少女性(幼い女)と母性(大人の女)への並行的な愛好」の構図がとられており、宮崎駿の理想的な女性像の体現である小人アリエッティは、最後に涙を流しながら、人間である翔(しょう)の指を自分から抱きしめる。どちらかと言うと、宮崎氏の描く少女は皆、一瞬は自分から男を誘っているように見える。

 ところが、宮崎氏にとって、「女は男よりも弱いもの、男が守ってあげるもの(いわば手弱女=たをやめ)」としての設定でなければならない(それこそが女性の自然な姿として描かれる)ので、アリエッティは「わんぱくで勇敢な少女でありながら、翔よりも力弱く」作られている。女性の「力弱さ」が、こと『アリエッティ』においては、「物理的な小ささ(小人)」という設定で明確に示されたのは、興味深い。

 ともかく、宮崎氏は多くの作品で、「実質的には恋愛感情でありながら、登場人物本人たちにはそれが恋愛感情であると気づかせない」ような作り方をし、本人たちがそれに気づく直前に話を止めている。いわば、宮崎氏の描く男女はいつまで経っても「初心」、すなわち「初恋」そのものを繰り返しているのであって、その後ろには「母親像から連続する女性像」というものがあるのだろう。

 何より、宮崎氏自身が、母親の面影と映画作品内の少女たちとの不可分性を、今までに何度も告白している。

 我々男性にとって「初恋」というものは、母親への思慕の情を引きずりつつそこから離れようとする「あはひ・あひだ・ま(間)」の情に他ならないのかもしれない。


■小説で言えば、この私のサイトの「好きな本」のページに、川端康成の『片腕』を挙げているが、どういう話かと言うと、女性が自分の腕を肩から一本もぎ取って渡してくれたので、その片腕を家に持って帰って、それと一夜を過ごすという話である。

 その女の片腕は、勝手に指で這って動いたり、しゃべったり、自分の本体である女の体のことを心配したりするのだが、川端康成が自らの頭とペンと紙だけを使ってこのような物語を生み出せる男であったということが、いかに彼が現実の犯罪的少女性愛に手を染めずに済んだかということを物語っているように、私には思える。

 そして、その原点にもやはり、川端康成の中の「母親像」というものがあったようだ。よほど歪んだ男性でない限り、自分の母親に対して犯罪を犯そうとは思わない。だから、「母親像」を現在愛する女性に重ねることのできる男性は、世の中に出て、他の女性を前に魔が差しそうになったとき、犯罪を犯す前に必ず立ち止まる。あるいは、犯罪と同じことを芸術の中で解消できる。女性をジロジロと見たあと急に我に返ることが多かったらしい川端康成に、私としてはそのようなギリギリの世界を垣間見てしまう。

 いずれにせよ、川端康成にはこのようなギリギリの芸術創作ができていた。おそらく田中氏にも、高校卒業以来、これができていたと思う。このことは私が思うに、とても男として「カッコイイ」ことである。おてんとさまやご先祖様に見られているのと同じように、自分の父親・母親に我が人生を見られているという感覚は、本来、人間のみならず動物にとっても、おそらく大切であると思う。


■そういう意味で、宮崎駿が『もののけ姫』や『アリエッティ』その他の作品の少女たちに持たせた清純な美少女戦士としての役割と、川端康成が『片腕』に込めた女性へのグロテスクでサディスティックな解体・破壊願望とは、紙一重、あるいは全く同一のものであると言ってよいのではないかと、そう私は感じるわけである。

 川端康成の『眠れる美女』も、次から次へと女を部屋に連れ込んでは夜の床を試していくグロテスクな小説であるが、川端康成は、この『眠れる美女』と『片腕』とのわずか四年の間に挟む形で、私が自分の和歌にも時々美しい日本語を拝借している『古都』を書いていることは驚きである。

 ところが、これらの作品について「対極的な違いを見ること」、そしてそれに「驚くこと」は、あくまでも「我々の勝手な解釈」に違いないのだ。川端康成は、その間もずっと「川端康成」だっただけのことなのだろう。

 私は時期的に、『古都』のあとにこのグロテスクな二作品を読んだので、初めは少々驚いたが、「もしやこれは、現代日本における正当で健全な母親像・女性像の成果ではないか」と思うようになったものだった。


■ところが、どうも今の日本では、「男らしさ」(母親にとっては「息子の自立」)というものは、「母親像から脱却すること」(母親にとっては「脱却させること・自分から突き放すこと」)とほとんど似通ったものととらえられているようだ。

 このような視点は、このブログに来て下さっているニートの息子さん方ご自身よりも、そのお母さん方のほうに共通して見られる、かなり固定化された価値観であるということに、私は関心がある。

 むしろ、意外にも息子さん方の中には、私と同じような人間観・社会観を持っている方がいらっしゃるようである。一方で、お母さん方の持っている価値観のほうこそ、「ニートではない息子さん」のいる今の多くのお母さん方にもごく一般的に見られる「価値観」であることが多いようである。

 だから、お母さん方の疑問文の書き方としては、「私の息子は、今も無職で家にいて趣味の芸術やら考え事やらをやっていて、学歴もないので、将来的に社会に出たり恋人を作ったりできないのではないかと心配しています」という「流行の」書き方になる。この「ので、」の前後には、本当は一切の論理的結合性がないにもかかわらず、なぜか無意識に結合させて我が子や他人を分析してしまう。

 そういう姿勢を持つことは良くないことだということに気づけば、我々はもっと心優しい人間になれるのではないだろうか。

 もちろん、そこに気づかない要因は、家庭の事情だけに収まるものではなさそうだ。「お母さんを思う気持ち」というものを男性が(親子が)恥ずかしがらずに堂々と言っても馬鹿にされずに逃げ切れる世代は、先の田中氏の世代で終わったのではないかと思う。田中氏の世代は、団塊世代の最年長層の子供世代。「いつかどうにかなるか分からないが、とりあえず芸術なんかをやっている無職」の男が母親と気兼ねなくコタツで一緒に過ごせた最後の世代でもあると思う。

 ちょうどこの後に、いわゆる厚労省や内閣府の「ニート」の定義や、精神病理学における「スチューデント・アパシー」の概念などがあからさまに世に主張されるようになって、これに当てはまる若者たちが根負けするようになってしまったと思う。

 今では、母親に面倒を見てもらっていた幼少期・児童期・学生期からいかに早々に脱却できるかが、いかに「男性の自立」であり、いかに「母親以外の女性への正当な興味の芽生え」であるかのように、すでに学校教育の時期から強調されている気がする。


■日本人男性の自己・自我から「母親像」を無理に奪い去ろうとした場合に何が起こるかをもっと端的に物語っている小説には、例えば、水上勉の『越前竹人形』があると思う。

 喜助は玉枝を嫁に迎えながら、玉枝に指一本触れず、一対の夫婦をかたどった竹人形を作る。人形には、喜助の中にある母親の面影が投影されていた。喜助は、玉枝が重病になってから初めて玉枝の手を握った。

 このような母・息子関係は、元々個人主義を基本理念とする欧米社会(特にアメリカ)では、なかなか理解されがたいものであるかもしれない。しかし、社会に出るためや妻を得るために自らの自我から「母親への思慕の情」や「母胎内への回帰願望」を抹消しようともがいたとき、あるいは、親や社会や教育の圧力によってそのような「作業」を暗黙裡に要求されたとき、今でも喜助のようになる日本人男性は多いと思われる。

 なぜそんなことになるかと言うと、自己責任を基盤とする個人主義的な女性観を西洋文明化の中で要求された男性の典型たる喜助や、母親から「早く自立しなさい」と迫られている今の日本のニートたちは、「母親の愛や面影や金銭的援助から逃れられていない自分」を「男らしくない」と自分で決め込んだがために、「女性の手を握る気力」が起きなくなったためではないか。

 つまり、ニートや鬱病者、特にスチューデント・アパシーの男性に対して、「母親像」や「母胎内的な温かさ」を脱却させるような作戦はほとんど無効であることが多く、かえって「母親である自分の中に息子が一種の女性性を見ることを許す」ことが、実は健全・有効な手であるかもしれない、ということである。

 そして実は、このような作業をきちんと経ずに飛び越して社会に出てしまっている親子のほうがあまりにも増えているだけの話ではないか、ということを私は思うのである。


■そこで、田中慎弥氏や宮崎駿氏らの「強さ」とは何かと考えてみるに、母親への感謝や母親からの影響を世間に公表することを全く恥ずかしがらない「堂々とした姿勢」であるという見方があってもよいと思う。

 これは、まさに一種の「強さ」、あるいは「男らしさ」だと私は考えている。このような「強さ」を持ったひきこもりやニートの男性は、実はすでに「社会人」と言えるのだと思う。

 田中氏は著名人になられたばかりなので、とりあえず除くにしても、宮崎駿にしても川端康成にしても、「自分の母親像から連続しない独立した個性としての女性像」を描こうとしない点は共通している。

 逆に言うと、私が今、特に関心を持っているのは、「いつから(なぜ)日本人は、“母親像から連続しない独立した個性としての女性像”を確立することが、男性の自立であり、結婚実現への近道だと考えるようになったか」ということである。

 しかも、とりあえず真っ先に「自立した男性」との評価を得てしまう男性とは、つまりは「経済的に自立した男性」のことだから、問題はもっとややこしくなる。しかし、そのような経済的自立が本当に全て精神的自立かどうかは、疑ったほうがよいと思う。

 かつて、息子のために、隣村から妻のみならず妾までも連れてきて息子に与えたのは、ほかならぬ母親であるケースもあった。それは余談だが、「我々男性が生きていく中で思い描く女性像(少女性・母性)の中に先験的に自分の母親像が潜在しているような実存」というものが、なぜ「マザコン」という否定的概念にすり替わったかということは、非常に興味深いところである。

「母親の面影のない女性を男は選ばないものだ」という、過去の西洋の哲学者たちの間でさえ使い尽くされてきた、おそらく真理であるこのフレーズを、今は我々自身が理解できていない時代であるのかもしれない。

 基本的には、「母親の面影」というものは、「男性の自立の障害物」になるものと考えられるようになったようである。しかも、このような価値観は、むしろ「ひきこもり」や「ニート」男性(息子)側よりも、母親側の世代によって強く共有されているのが非常に不思議であると私は思っている。

 若い時期から息子を自分から突き放そうとするからこそ、息子の中に「自分が拠って立つ(基盤とする)女性像」が抜け落ちてしまい、喜助のように(女性から求められているのに)女性に全く手を出さなかったり、逆に性犯罪に走ったりしてしまう。

 この構図が本能的にきちんと把握できている母親のもとで育った男性は、たとえ鬱病のために無職やひきこもりになっていても、どこか目が生きている。私の勉強会でお会いしてもそうである。


■またいつもの通り和歌の話になるが、和歌における男性の女性観というものは、基本的に「宮崎駿」的、「川端康成」的なものであると言えると思う。むしろ、「少女性(幼い女)と母性(大人の女)への並行的な愛好」というものが、恋の歌の叙情の基礎を形成しているように思う。

 私はいわば、川端康成の『雪国』や『古都』(男性の手が入らない清廉な女性のいる風景)と、『眠れる美女』や『片腕』(男性の手が入ったあとのグロテスクな光景)との、「あはひ・あひだ・ま(間)」を詠むという能力が、和歌には必要であると考えている。

 常々その精神性を保つように心がけながら、和歌を詠んだり、小説を鑑賞したりしている。
posted by 岩崎純一 at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2012年01月20日

年末年始の和歌整理、そしてサヴァン症候群への関心

『新純星余情和歌集』
http://iwasakijunichi.net/waka/

120120.jpg 年末年始にかけて、自分の過去の和歌を色々と掘り返して入力し、『新純星余情和歌集』のほうに入れていった。

 私は今でも基本的に、右のようにごく普通の大学ノート(Campusノート)に手書きで詠んでおり、「ノートの色分け」などという少年のようなのん気な遊びまで一人で楽しんでいるが、一度はデータ入力しておかないと、将来的に自分で自分の和歌を五十音順に並べ替えたり語句を検索したりしたいと思ったときに困るのではないかと思っているので、こまめに入力している。

 例えば、和歌を並べ替えるときに、ノートだけだと、最初から全く同じ和歌を、「あいうえお」順、「年月日」順、「春夏秋冬恋雑」順など別々のノート群に全て書いておかないと調べようがないが、パソコンソフトで入力しておくと、クリック一つで様々な順番に自動的に並べ替え可能となる。便利なものだと思う。エクセルにも並べ替え機能があって便利である。

 ただし、「春夏秋冬恋雑」などの季節感別・意味別の自動的な分類だけは、コンピューターにはおそらく半永久的にできない人間の特権的能力であるから、とりあえずノートは最初からこの分類で書いている。

 こんな思考を楽しんでいると、よく出てくるのが、「筆と紙しかなかった昔の日本人は、いったいどうやって膨大な和歌集を制作・編集できたのか」という疑問で、こういうことはまさに私のサイト・ブログ・著書などがテーマとしてきたことだが、要するに「昔の日本人は、頭が一種の百科事典かパソコンのようだった。パソコンが必要ないくらいの記憶メカニズムが脳と体にあった」という見解を私などは採るわけである。

 かつて、アイヌ語を我々日本人(ヤマト民族)が研究しようとして、まず膨大なアイヌ文学(ユーカラなど)を仮名文字で記録しようとしたとき、「どうして頭で覚えているものをいちいち文字というものにするのか」とアイヌ民族から不思議がられた記録が色々と残っているが、まことにその通りで、昨年末にブログに書いた新古今時代一つ採っても、後鳥羽院・藤原俊成・良経・家隆・定家など、皆、頭の中に恐るべき数の和歌の記憶と索引機能があったことが見受けられる。

 つまり、わざわざ文字にしたのは、「物忘れ防止のため」というよりは、「他人に伝達するため」、「後世に残すため」であったようである。このような能力は、おそらく今で言う一種の「サヴァン症候群」のような能力、あるいは一部の「アスペルガー症候群」に特有の「羅列的暗記」の能力であると思う。

 私も昔から、高度に現代的な抽象概念の記憶よりは、膨大な羅列的記憶(和歌集、日本史・世界史の年表、一等星の名前と位置、恐竜の名前、城郭の名前、鉄道の駅名、国産車のヘッドライトの形状と車名の対応など)のほうが圧倒的に得意であり、このことが私の和歌の感性的側面に影響していると自分でも感じている。

 例えば、なぜか道を歩いていて、急に「今の目の前の雪の光景は、あの和歌集のどの和歌に詠まれたどこそこの風景に近いので、感動するなあ」などと思っているようなことがある。

 ただし、私が私自身の和歌を全首記憶しているかと言うと、これがどうも怪しく、危なっかしいので、今でもノート(手書き)とパソコンソフト(データ入力)に二重に記録している。それはそれで楽しい作業なので、満足だが。

(ともかくも、一応ほとんどの歌を記憶していることは確かなので、現代語訳してほしい歌があったら、ご遠慮なくメール下さって構いません。)
posted by 岩崎純一 at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論

2012年01月04日

謹賀新年

 明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い申し上げます。
タグ:年末年始
posted by 岩崎純一 at 17:43| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項