2012年02月27日

人の命についての雑感(その二)「凶悪事件について」

(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/54042245.html

(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/57076517.html

(その四)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/57105432.html

承前。


■光市母子殺害事件について

 凶悪犯罪の話題と言えば、先日、1999年4月に起きた「光市母子殺害事件」の被告の少年の死刑が確定した件が、記憶に新しい。私は1982年生まれで、私が高校二年生の時に起きた。犯人の少年は私より二つ上である。

 この年の生まれの少年による凶悪犯罪には、神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)(1997年)、西鉄バスジャック事件(2000年)、宇治学習塾小6女児殺害事件(2005年)、土浦連続殺傷事件(2008年)、秋葉原通り魔事件(2008年)などがあり、凶悪犯が密集する生まれ年として報道されたが、犯人が二つ違いの光市の事件が起きたところ、今度は少し幅を広げて、凶悪犯が密集する世代と位置付けられて報道された。

 そんな報道に違和感を覚えてきた私も、こうした凶悪犯罪が起きるたびに、思わず「ひょっとして、また自分と同じ年か、自分と何歳違いか」と真っ先に確認するのが習慣になってしまった。

 それはさておき、光市の事件の遺族である本村洋氏の発言は、色々と印象に残っている。まずは何よりも、死刑判決が叶わなかった一審判決(無期懲役)後の「自らの手で犯人を殺す」旨の発言である。

 これには、気持ちは分かるという意見もあれば、死刑廃止論者を中心に批判もあった。確かに、近年に家族を殺害された遺族の中で、自分の手で同じことをやり返したいという報復感情をあからさまにテレビ画面上で言葉にした人は、極めて珍しいと言える。

 それが今では、法廷に入る時にも周囲の人々に深々と頭を下げ、非常に綺麗な日本語で話し、おまけに「前妻や我が子のような被害者が今後出ることのないように願っている」と付け加えるまでに至っておられる。いったい、我々男一匹にそういう心理・言動の変化が可能なものだろうかと、感心すると共に、敬意の念を覚える。

 ところで、生前・事件前の妻の私生活・私信・日記をご著書で赤裸々に公開した本村氏や出版社の行動には、当初から多くの批判的な世論があり、私も関心を持ってご著書を読んでみたものだった。

 テレビでの本村氏ではなく、著書での本村氏を知っている人ほど、批判的意見に傾いているようである。確かに、生前の知人関係を実名で書くなどの態度が、多くの読者や他の類似の事件の遺族を悲しませた面があるのかもしれない。

 殺された前妻の私信などを「著書」という形で世に出すことを選んだ一方で、再婚にまで至ったこの一人の男性の心境がどういうものなのか、私もついに把握しきることができずに終わったが、それでもやはり、男性ならば同じ状況に置かれたときに本能的に発し得るかもしれない「自らの手で犯人を殺す」という発言は、純粋に人間論として考察する意義があると思う。

 今回の記事では、本村氏の行動に対する批判は扱わず、この光市の事件を、ただ「人の命」や「人の心」について考えさせてくれたものとして語るに留めたいと思う。


■戦後の凶悪強姦・殺人事件

 昨今の少年・若年者による凶悪犯罪事件のうち、光市の事件と似たもので言えば、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」(1988〜89年)、「名古屋アベック殺人事件」(1988年)、「名古屋妊婦切り裂き殺人事件」(1998年)、「市川一家4人殺人事件」(1992年)、「大阪・愛知・岐阜 連続リンチ殺人事件」(1994年)、「北九州監禁殺人事件」(2002年)などは、ごく普通の男性・人間ならば、報復感情なしに耐えきることは難しい内容であろうと思えるくらいである。

 これらの事件は、あまりにも凄惨であるため、テレビで扱われるとしても、小さな番組の隅のほうで扱われるし、地上波民放ではほとんど扱われない事件だが、今回再び「光市母子殺害事件」が話題となったことで、関連付けてこれらの事件の存在を改めて発言した著名な学識者たちがいたことには、少なからず感心させられた。

(とは言え、これらの事件も完全に風化していたわけではなく、例えばコンクリート詰め事件に関しても、若い芸能人をキャストとする映画『コンクリート』が公開されており、私も見たことがある。)

 もちろん、だからと言って、光市の事件がコンクリート詰め事件よりも凄惨でなかったなどという単純な比較の話にはならないと思うし、これを機に、過去の多くの凄惨な事件をあえて表に出して、我々国民一人一人が意識して自分の意見を持っておくのも良いのではないかと思う。

 皮肉なことに、これらの事件は全て、被害者数、殺害に至るまでの強姦・虐待・監禁日数などが光市の事件の場合を圧倒的に凌駕していた事件であるが、犯行時の犯人の年齢が18歳未満であったために、死刑判決が出ず、すでに犯人が出所を終えている事件もあるし、未解決事件もある。


■犯罪の凶悪性の心理的な定義も時代により変遷

 前回の記事とも関連するが、実際には、「我が子殺し」事件、強姦事件、虐待事件、家庭内暴力事件、殺人事件などのいずれもが、戦前のほうが多かった。今とは家族形態や生計を立てる手段が全く異なっていた(大家族、狩猟、ムラ社会的共同体など)ために、例えば、ある村の1ケタの年齢の女児や10代の女性たちを連続強姦した事件、女性を強姦したのちに猟銃で射殺したり井戸に放り込んだり火あぶりにした事件、近所の子どもを殺して回った事件、村どうしの見栄の張り合いのために相互の村の女性を強姦競争した事件、決闘事件など、今では考えられないタイプの事件が存在した。

 また、明治から戦前にかけて、今と違って多かったのは、小中学生の男児による幼女・若年女性への強姦・強殺事件であった。しかも、これについて善いとか悪いといった判断や意識自体が、地方の庶民層にはあまり存在していなかったようである。

 我々が今用いている近代用語・概念としての「殺人」や、「ばれないように遺体を隠す」という発想自体が自我意識に生じていなかった庶民が、まだ無数にいた時代だからではないかと思う。

 ちなみに、近年は、『戦前の少年犯罪』(管賀江留郎、築地書館、2007)のように、統計的には正しいデータが積極的に掲載される本は増えたものの、それはあくまでも統計データであって、それを文化人類学・民俗学・哲学などの視点から考察している人は少ないようである。

 私としては、「戦後の日本のほうが犯罪が減って良かった」という解釈はよろしくないだろう、と考えている。

 前回の(その一)で書いたように、「かつては人間の命の価値を動植物の命や自然風物の価値と同等に見ていた」という現実の分だけ、凶悪性を差し引く必要があると思う。さらに、「庶民一般レベルで近代的な善悪の意識が芽生えていない前近代社会・近代の黎明期の社会における犯罪は、当事者である庶民たちにとって凶悪でも非凶悪でもあり得ない」という我々人間の認識・認知上の命題をも差し引かなければならない。

 そのような「ものの見方」こそ、真に客観的な観点なのではなかろうか。

 ともかく、戦前・近世の日本のような時代と社会においては、被害者側も加害者側の時代意識に呼応する、つまり、「やり返し方、報復の仕方」も、前近現代性を帯びるしかないわけである。だから、「自らの手で殺し返す」報復方法も普通にあったし、このような「報復的美徳」を「普遍的に間違いである」とすることはできないというのが私の意見である。

 それと同じく、例えばイスラム社会の一部に残る「名誉の殺人」などを、何の思慮もなしに頭ごなしに「普遍的に人間として誤った行為である」と解釈することもおそらく危険であり、そのように解釈した時点で、その我々の自我意識もまた一つの民族的・宗教的・学術的立場に立っている、と私は考えている。

 私も、この「名誉の殺人」には強い嫌悪感を覚えるし、目の前で起きたら全力で止めようとするが、その理由については「私が断固としてそういう感じ方や考え方をする人間だから」としか思っておらず、「名誉の殺人が普遍的に人間として誤った行為であるから」などとは思っていない。

 かつては日本にも、「強姦された妻を殺害しない夫を死刑とする」などの密懐法規定があり、このような規定は武家の家訓に非常に多く見られたが、これを「女性の人権侵害かそうでないか」と議論する我々自身がすでに、別の文化圏の人々やかつての日本人から見れば、偏向した「宗教者」であるということを十分に意識する必要があると思う。

 強姦・殺人・児童虐待事件は戦前のほうが多いのも現実である上に、それに対する前近代的報復が多いのも、また戦前だということ。戦前であれば、もし妻や娘や姉が今回の光市のような被害を受けた場合には、夫や父や弟は猟銃を持ち出し、撃ち殺して報復することも、ごく普通であった。普通すぎて、今では一面記事になるようなことが、当時はベタ記事にしかなっていない。

 前近現代的性格を持った日本の犯罪に、いきなり近現代西洋的法治主義による裁きをかぶせたらどういうことになるか、それは明治・大正時代の新聞や記録が物語っている。いつ爆発するか分からない抑圧された個人的な報復感情ばかりが密かにひしめく社会が形成されるわけである。

 そういえば、今や尊属殺人罪が残る先進国も、フランスくらいしかなくなっている。


■極端な優しさは極端な報復感情に似ている

 さて、前置きが長すぎたが、本題に入る。私は独身者であるが、もし既婚者として本村さんと同じ目に遭ったとしたならば、十年後でも百年後でも、初期段階の本村さんのように「自らの手で殺す」と言って回っていそうな人間だという気がする。私などは、本村さんの「物事の耐え抜き方」から学ぶべきなのだろうと思う。

 私は、このブログ・サイトを始めて以来、鬱病者・自閉症者・解離性障害者・統合失調症者・PTSD罹患者などに出会い、「全くの赤の他人」から「友人・知人関係」となった方々も多いが、その中で今でも解決していない問題というのがある。もちろん、本村さんのようなケースとはレベルの違う小さな悩みで、実に申し訳ない気分だが。

 それは、「自閉症児に不当な暴言・暴力を加えた親や教師に対して、それを知った第三者が似たようなことをやり返すことは、不当か」、あるいは、「登校拒否に陥った我が子を虐待する親に対して、それを知った第三者が制裁を加えることは、善行であるか」あるいは、「鬱病のために仕事に来られなくなった部下を罵倒した上司を、それを知った第三者が罵倒することは、人として正しいか」、そういった問題である。つまりは、苦しんでいる人を救うためのいわば「代理報復」は許されるか、ということである。

 特に精神障害者との出会いについては、その方々が自分で精神障害に陥ったのではなく、その精神障害に至らしめた加害者がいる限り、その加害者の姿が私の脳裏に付いて回ることがあるわけである。これは、人との闘いというよりは、自分の正義感との闘いかもしれないが。

 本村さんは、「自分の愛する妻、自分の愛する我が子が殺された場合に犯人を殺すことは、正しいことであるか、妻や子のためになるか」という究極の大問題を提起した。私の対処法はいつまで経っても、本村さんの初期段階の「自らの手による報復発言」と同じままではないかと、年々冷静さを取り戻してゆく本村さんを拝見していて、ハッとさせられてきた。

 鬱や解離性障害を患った人には、実に優しい人が多く、稀に見る人格者であると言ってよいと思えるケースもあり、「やられたら、やり返そう」と考えない人も多い。ただし、やり返さないうちに命に関わるような大ケガでもしたら、自分も「命」というものを大切に扱っていない人間、自分に対する虐待を放置している人間、つまり加害者と同じ次元の人間ではないかという、かえって滑稽な問題になってくる。誠に歯がゆいものである。

 私としては、そのような滑稽な事態に陥らない程度に、自分が守りたい自閉症児や解離性障害者などのために、一番適切な方法を考えて行動しているつもりではある。


■優しさや思いやりとは何か

「どうしてあんたは周りの子よりも頭が悪く生まれてきたのよ!」と親にひっぱたかれた発達障害児と出会った私が、およそ二十歳差の友だちでもあるその子を暴言から防衛するために、ある程度厳しい反論(言葉による親への叱責)に打って出ることは、不当であるかどうか。私がブログを始めてからずっと考えていることは、ともかく、こんなことである。子どもを殺した親には出会ったことはないが、もうそろそろ子どもを殺すのではないかと感じられる親は、私の周りにいる。

 私は、死刑に関しては、非常に前近代的な意識から抜けられておらず、「自死刑創設論者」かつ「仮釈放なき無期懲役刑導入論者」かつ「死刑執行方法の選択論者」(処刑ボタンを刑務官が押すか、遺族自らが押すか、死刑囚自らが押す自死刑とするかを、遺族が選択できる。ただし、罪刑法定主義の範囲内で規定する)だと言えるが、その考え方の裏には、誤解を恐れずに言えば、「人間の本性、男性の本性(人への優しさや思いやりから来る真の報復の美徳)が法を越えることまでもが許されなくなった今の時代」への寂寥感のようなものがあるのかもしれないと思う。

 今のところは、我々日本人の誰もが、本村氏のような目に遭った時には、「自らの手でやり返す」以外の方法で人生を耐え抜かなければならないように、法律や社会通念ができている。

 「自らの手でやり返す」という結論が、実は人間の心理・日本人の犯罪心理を常人よりも緻密に分析した結果として自分の胸の内に導かれた知的な結論であったとしても、それは常人から見れば「感情論」だということになるのが関の山であるところが、今の日本の法体系のむなしさであると思う。

 それを考えると、いかに日本の「切腹刑」(鎌倉武士の自死としての切腹が、江戸時代の死罪としての切腹刑に採用されたもの)が、日本の犯罪、日本人の心理に適合したものであったかということを、私としては思うのである。私は個人的に、江戸時代の刑罰体系や明治帝国憲法下の刑罰体系は、今の少年法などよりも現実の社会に適合し、庶民の心に寄り添っていたと感じている。

 私が身勝手に実現を妄想している「自死刑創設(事実上の切腹介錯刑)」などというものは今後もあり得ないので、考慮する余地もないとは思うのだが、それはともかく、そもそも「日本人の犯罪心理」と「死刑の是非の議論」とは相容れないところがあることを知っておくことは大切だと思う。

 永山則夫のような男が一人現れただけで、死刑判決が出たり無期懲役判決が出たり、ブレてしまうのが、戦後日本の法体系(というより、日本人全般の自我意識・外界認識システムの構造)なのだと言えると思う。

 もし本当に、妻や娘や恋人を殺され、犯人に対し報復殺人をおこなって、しかも「私なりの考えがあって行動した」と発言し、法律家や犯罪心理学者などと遜色ない知性を持っているような遺族の男が、今後日本に現れたら、今の日本の法体系はどういう対処をするのだろうか。興味深いところである。

 余談だが、本日、日弁連が首相や法相に対して死刑廃止検討の要請をおこなったようである。
posted by 岩崎純一 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2012年02月18日

人の命についての雑感(その一)「児童虐待死亡件数、過去最悪を更新」

(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/54188238.html

(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/57076517.html

(その四)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/57105432.html

 何だか毎年記録を更新しているような気がするが、2011年も児童虐待事件の摘発件数が過去最多を更新したようである(384件。実際の児童相談所での児童虐待相談対応件数は5万5千件)。

 うち、直接の虐待行為で死亡した児童は39人、その他に、出産直後のトイレ遺棄などによる死亡が33人。加害者となった保護者は409人、うち実父・養父・実母の恋人や内縁の夫が276人(67%)で過半数を占め、次いで実母が119人(29%)、計395人で、全体の97%を占めている。

 つまり、現在の日本の「児童虐待問題」とは、ほぼイコールの関係で「親による我が子への虐待・我が子殺し問題」であるという現実がある。

 婚前出産した若い夫婦ばかりが起こしているのではなく、我が子を殺したのが看護師などの社会的地位にある人である場合もある。つい先日も、客室乗務員の女が長男を絞殺しようとしたとして、殺人未遂容疑で逮捕され、長男死亡のため、殺人容疑に切り替えられた。(神戸市東灘区の事件)

 この他に、表沙汰になっていない児童虐待死亡事件、我が子を殺しかけたケース、殺しかけて障害者にしたケース、殺そうと思ったケースなどを合わせると、おそらく四ケタ・五ケタでは済まないと思う。児童虐待欲求は、「個人の病」でもありながら、本当は「社会の病」でもあると思う。

 特に、いわゆる「白雪姫コンプレックス」など、母親による娘の美貌・若さ・学力などに対する嫉妬・憎悪を発端とする虐待死亡事件は、特にバブル崩壊期以降に特徴的な事態で、1990年代から現れるようになった。つまりは、「娘」が「女」になる前に虐待・殺害しておこうという発想である。

 一世帯当たりの人数が多かった昔は、自分のお母さんやおばあちゃん、近所のおばちゃんというのは、(各家庭によって違うだろうとは思うものの、おおよそ)幼い女児・若い女性が目指すような存在として認知されていたと思うが、それがある時から逆転して、「母親が娘を目指す」というベクトルに変化している。男親ら(実父・養父など)による娘への虐待は、それよりも前、戦後直後からすぐに増えているようである。

 ただし、考えてみるに、「虐待」や「殺人」といった概念は、実に曖昧なものである。そもそも、人が人を傷つける、人を殺すということは、どういうことなのか、どのようにすればそれらが成立したと我々は確証できるのだろうか。あるいは、我々は、我々の日常生活における一挙一動が他人の死につながっていないという確証を、どうして得られるのだろうか。

 私は、小学生の頃に、友人から「日本人が鉛筆の芯を一回折るごとに、アフリカ人が三人亡くなるらしい」などと聞かされ、「さもありなん」と思ったものである。

 もっとも、友人は私をびっくりさせようと思って「嘘をついた」つもりのようだが、なぜか私は、昔から風変わりな素養の持ち主だったのか、これを、誇張はあるものの、「重要な教訓」や「現実の忠実な言明」ととらえたのだった。「確かに、僕の鉛筆の黒鉛を鉱山で採ってきてくれるのは、きっと外国の、しかも貧しいアフリカの人たちで、そのおかげで僕は文字を学べるのだろう」などと子ども心に考えたのである。

 これは極端な話だが、ともかく、人間というものは、ただ生きているだけで誰か見ず知らずの他人の死や心身の傷に関わっているということがあり得る。昨日、私があまりに帰路を急いだために、道端で倒れた人がいるのを見落としてきたかもしれない。誰かがレストランで偶然残した残飯に従業員が触れて、手を口に持っていったために食中毒を起こしたかもしれない。

 そんなことは誰にも分からない。分からないということを知って生きることが、自分を善人にも悪人にもしない代わりに、最も人間らしい人間、人間臭い人間、他人から見て魅力的な人間にすると私は思う。

 そう言えば、よく勘違いされる仏教概念に、「悪人正機説」というのがあって、「悪人・犯罪者ほど本当は救われる!」などと間違って解釈されるのであるが、「悪人正機説」の「悪人」とは、今言ったように、「自分は、誰かを道端で見捨ててきた悪い人かもしれない・・・」などと逐一考え込んでいる「効率の悪い」「善い人」のようなものだと理解すれば分かりやすいと思う。(相当に簡略化した説明になってしまいましたが・・・。)

 児童虐待の場合、加害者と被害者が「暴力」や「ネグレクト」という形で互いに直結していて、加害・被害関係が分かりやすいから、一見すると「勧善懲悪」が成立するかのように我々に思えてしまう。

 しかし、児童虐待に関わっていないはずの多くの我々日本国民全般が日本の子どもたち全般・日本の虐待問題全般に対して負っている責任が、虐待事件を起こした親が我が子に対して負っている責任と全く異なると言うことは、どうやら原理的に難しい。

 我々人類の歴史上、似たようなことは常に起こっている。黒人の誰々さんが白人の誰々さんから差別されたということが特定できない(数学的な単射や全射として説明できない)のに、黒人全般が白人全般から差別されたことだけは動かしがたい史実であることに、似ているとも言える。あるいは、鬱病者が医者から「どこの誰に傷つけられて鬱病になったのか」と聞かれても答えが存在しないのに、その患者の茫漠とした鬱の存在だけは疑いようがないのと、同じことであると思う。

 我々の日常の一挙一動が見ず知らずの他人の命に影響しているとは思えなくても、それが事実であるようなことがある。今、仮にそれをまとめて、「我々はいつでも人を殺しうるどころか、すでに人の死に関わっているかもしれない」、あるいは、「今を生きる日本人の中には、虐待予備軍である人がたくさん隠れている」と思っておく突拍子もない勇気が、もしかしたら子どもたちを救う可能性さえあると思う。

 私には、最近の日本の政府・自治体やNPO法人などによる児童虐待防止策の内容を見ていて、どうしても歯がゆく感じられることがある。それは、今現在は、「子殺し」についての連綿とした日本の歴史を「勧善懲悪の判断なしに直視する」ことが、いくら「子ども思いの良心的な」人間や団体であってもできない時代なのだろうということである。

 どういうことかと言えば、「子殺し」の件数だけを見ると、江戸時代や戦前のほうが多かったわけである。大都会江戸・大坂や、子どもが増えすぎた地方の村落などでは、生まれた直後に子を「間引き」する風習は半ば「常識」のようでもあった。

 江戸時代よりも前の時代は、残っている記録・文献の多くが、文字文化を中心的に担った支配層の手によるものだから、正確な研究が難しいが、貴族・武家社会よりも農村社会のほうが「間引き」や「子殺し」や「生け贄(いけにえ:十代や二十代の女性を川の真ん中に立たせて洪水を鎮めるなどの風習)」が顕著であった可能性もあると思う。

 ただし、注意すべきなのは、当時は例えば、「自分が食べた魚や獣の命」と「自分が産んだ子の命」を同等に見ているなどということが普通であったわけだ。だから、当然、大人の側も、自分や他人の命を魚や獣の命と同じ価値だと思っている。魚や獣の墓などというものが、水子供養の墓と同じ丁重さを持って扱われている。

 私の地元岡山や山陽・山陰地方の田舎の伝承でもそうである。昨今の、どこか自分の命のほうが大切で、自分の欲求のために我が子を殺す「虐待」とは、やはり違うと感じる。

 ここでの「命の価値を同等に見ている」というフレーズの主旨は、「近代的自由意思で見ている」のではなくて、「命の大切さの差異というものが脳の認識にない」、あるいは「近代的な人間という概念がない」ということのつもりである。それはそれで、一つの平和であったと思う。

 さらに、それと合わせ見なければならないのは、いわゆる民俗学や文化人類学や歴史人口学の分野だろうと思う。そういうことに本能的に関心がある人間である限り、「間引き・生け贄」と「虐待・殺人」の違いも、本能的に分かる人間でいられるように思う。

 本当に「味のある」「日本の子どもたちのための」虐待対策をしていくなら、そういった我々の過去を愛して勉強している大人たちが知恵を絞ってやらないとどうしようもないと思う。そこには、「子ども思いの良心的な」対策だけではなく、「日本思いの野心的な」対策も必要だろうと思う。

「子殺しが悪行である」ということを証明できる人は誰もいない。逆に言えば、「子殺し対策をすることが善行である」ということも、同じくらいに証明できず、正しいことかどうかが誰にも分からないはずなのだが、誰にも分からないということを分からないまま対策をするのは、非常に危険でもある。

 本当の虐待対策というのは、自分たちのやってきた社会、歩んできた歴史を丁寧に辿ることだと私は思う。表面だけを見て、「間引き」を全て「虐待事件」にすり替えてみれば、とんでもない解釈になる。「今の虐待事件の件数なんて、大したことはない。我々日本人の人権意識は向上した」と。

「近現代的な善悪や道徳の概念が芽生えていない時代や社会における子殺し」と、「それらが芽生えたあとの時代や社会における虐待」とは、全く様子が違っている。冒頭に挙げた多くの加害者たちは、おそらく、「今の世の多くの人間は、児童虐待をいけないことだと考えている」ことを、頭では知識として知っているのだと思う。

 だから、「虐待は、人としてやってはいけないことです」といった街中で見るポスターのキャッチフレーズは、正しいようでありながら、実はかなり無力であると感じる。

 このようなキャッチフレーズの無力さは、例えば、「動物をペットとしてお金で売り買いしたり、ペットの犬や猫に洋服を着せたりすることは、悪人のやることです。終身刑に処します」という法律がある国に我々日本人が行ったら、「何と前近代的で愚かなルールなんだ」と思うのと同じ程度のものかもしれない。

 それよりは、案外、日本の街中いたるところに、「人生は不可解なり」、「人を傷つけない日はない。人に傷つけられない日はない」、「死ぬまでは生きよう。だが、生きるまでは死なない」などと哲学的・文学的アフォリズムを散りばめたほうが、虐待事件や殺人事件の減少に効果があるのではないか、と身勝手ながら思うわけである。

 そういう、一見すると「わけの分からない」アフォリズムは、児童虐待などとは無縁の「良識的」人間から、児童虐待に明け暮れる世の親たちまで、全ての人を一瞬にして対等にすると思うからである。
posted by 岩崎純一 at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2012年02月16日

『新純星余情和歌集』現代語訳について

110216.jpg■私が公開している自分の和歌(『新純星余情和歌集』)の現代語訳と解説に、古典にお詳しいブログ読者様や私の和歌仲間が協力して下さるということで、昨日と今日(以下)、試しに載せてみました。

 今のブログの雰囲気(共感覚・人間論・社会論・精神論などが中心)を考えると、訳をブログにコピーして載せるのはやめるかもしれませんが、以下の和歌ページには今後も載せていく予定です。

http://iwasakijunichi.net/waka/


■私の夢としては、「私の和歌を紹介する」と言うよりは、「私の和歌と、皆様による現代語訳とが、どちらも合わせて美しい芸術・純文学・詩編・短編小説の世界になっている」という状態にしたい気持ちもあり、基本的に間違いがない限り、どんな文体の現代語訳でも結構で、和歌の知識や技巧について間違ったものがあったときだけ、私が訂正させていただいています。

 特に、恋の歌などは、私も人間ですから、自分で現代語訳すると、無意識に格好つける可能性もありますので、別の方が翻訳したほうがよいとも感じます。


■ところで私は、大学時代に、東京は神保町の古本街を血眼で探し回った結果、多くの古典和歌集の原典コピー本を(図書ではなく自分の蔵書として)持っているのですが、逆に私が持っていない『雅言集覧』や『俚言集覧』などの江戸時代の古典語辞書を持っていらっしゃる方が協力して下さるとのことで、ありがたい限りですし、解説にも間違いがなくなるでしょう。

 私が持っているのは、『新撰字鏡』、『和名類聚抄』、『類聚名義抄』、『色葉字類抄』などです。


■最近は、私も和歌の現代語訳全般に興味があります。右上の画像のような、元歌と訳の両方が載った和歌集は、和歌の初心者でも読みやすく、古典の世界に自然に入りやすい気がします。


■今日は、例として、『大江戸往来恋歌合』を載せておきます。

●寄橋恋
渡りこぬ遠きけしきを眺めしは夢に夢見し夜半の玉橋
(わたりこぬ とほきけしきを ながめしは ゆめにゆめみし よはのたまはし)

【通釈】
恋人がこちら側まで渡って来ない景色を眺めて終わったその場所は、それでも渡って来ることを夢見た夜中の美しい橋でした。

【語釈】
◇本歌取 「久方の天の川に上つ瀬に玉橋渡し・・・」(『万葉』)


●寄舟恋
ひとりきくまた漕ぐ舟の波の音水棹かすむる明星の空
(ひとりきく またこぐふねの なみのおと みさをかすむる あかぼしのそら)

【通釈】
私は独り、舟の上で聞く。独りで漕ぎ続ける波の音を。舟の櫂を奪い取って漂流させ、私の操をかすめ盗るのは、夜明けの金星の空。

【語釈】
◇掛詞 「水棹×操」
◇参照 「あるが上に又脱ぎ懸くる唐衣操もいかがつもりあふべき」(大江匡衡)


●寄車恋
暮れ合ひの浜の小車朽ち果てて沖見し朝の潮風ぞ吹く
(くれあひの はまのをぐるま くちはてて おきみしあさの しほかぜぞふく)

【通釈】
夕暮れ時、二人が最期に乗り捨てた浜辺の車は朽ち果てて、入水前に共に沖を見た朝と同じ潮風が吹く。

【語釈】
◇参照 「―小車の簾動かす風ぞ涼しき」(『風雅』)


●寄関恋
降る雨も霙にかはる冬の関また逢坂の契りへだてて
(ふるあめも みぞれにかはる ふゆのせき またあふさかの ちぎりへだてて)

【通釈】
降る雨も冬の霙に変わりゆく逢坂の関。再びあなたと逢うとの約束を隔てて。

【語釈】
◇歌枕 「逢坂の関」
◇掛詞 「また逢ふ×逢坂」
◇縁語 「関、逢坂、へだつ」
◇参照 「これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも相坂の関」(蝉丸『後撰』)


●寄追分恋
契り来し袖の移り香かれゆきてただ追分に春雨ぞ降る
(ちぎりこし そでのうつりが かれゆきて ただおひわけに はるさめぞふる)

【通釈】
約束し合ってきた袖の移り香は涸れ、二人は離れ離れになり、ただ街道の別れ際に春雨が降っている。


●寄落合恋
今日かけて待ちし涙は落合の誰がいつはりも知らぬ川波
(けふかけて まちしなみだは おちあひの たがいつはりも しらぬかはなみ)

【通釈】
今日まで心にかけて、あなたと落ち合うはずの場所で待ってきたのに、それも叶わないで私の涙は落ちる。その涙が誰のついた嘘のせいかも知らないのでしょうね、二つの川の落ち合いに立つ波は。

【語釈】
◇掛詞 「落ち×落合」


●寄宿場恋
恋あまた行き交ふ宿に見る空もかへぬならひのかへるさの月
(こひあまた ゆきかふやどに みるそらも かへぬならひの かへるさのつき)

【通釈】
恋の叶う模様が多く行き交う宿場町の宿の中から見る空にも、私にとっては、「あなたの心は他の女性に向いていて、あなたはちょうど今その帰り道にある」ことと取り換えることはできないという、古歌にある通りの習わしの、明け方の月が出ています。

【語釈】
◇本歌取 「帰るさのものとや人のながむらん待つ夜ながらの有明の月」(定家)
posted by 岩崎純一 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 『新純星余情和歌集』

2012年02月15日

『新純星余情和歌集』現代語訳>平成新詠天徳内裏歌合(2010)

120120.jpg■私の詠んだ和歌(サイトに掲載)の通釈・語釈の試みです。私自身による解説も他の歌人様による解説もあります。リクエストがあった順に載せ、サイトにも載せていきます。

 今回は、2010年に詠んだ歌からです。夏の題も多いので、しばし歌を鑑賞されて、最近の寒い毎日を忘れていただければ幸いです。


●霞
 さびしさは秋の枕に同じかな春や霞の夕暮れの果て
(さびしさは あきのまくらに おなじかな はるやかすみの ゆふぐれのはて)

【通釈】
 その寂しさは、枕に寝て感じる秋の季節に同じものだ。果てなく霞んだ春の夕暮れは。


●鴬
 うぐひすは心の声に聞こえつつまだ梅が枝に影もとまらず
(うぐひすは こころのこゑに きこえつつ まだうめがえに かげもとまらず)

【通釈】
 鳴き声は我が心にのみ聞こえて、まだ現実の梅の枝に鴬はとまらず、その姿は目にもとまらない。

【語釈】
◇掛詞 「(枝に)とまらず×(目に)とまらず」


●鴬
 声はなほ我がふみまよふ霜ぞなく今日うぐひすの春と思へど
(こゑはなほ わがふみまよふ しもぞなく けふうぐひすの はるとおもへど)

【通釈】
 今なお鳴っている音と言えば、自分が踏み歩いている霜が砕ける音のみだ。今日から鴬の鳴く春だと思ったのに。


●柳
 柳原いと細き夜のしだれ糸葉を縫ふ雨の音ぞ重なる
(やなぎはら いとほそきよの しだれいと はをぬふあめの おとぞかさなる)

【通釈】
 しだれ柳の野原。実に細い柳の葉に、夜のしだれ糸である雨の音が重なり、雨が葉どうしを重ねて縫うようだ。

【語釈】
◇掛詞 「いと×糸」
◇縁語 「柳、しだれ、葉」「細き、糸、縫ふ」


●桜
 白妙のたつけしきより桜花霞の衣の裏の山裾
(しろたへの たつけしきより さくらばな かすみのきぬの うらのやますそ)

【通釈】
 春の白い霞が立ったすぐそばから、その霞という着物の裏側に隠れた、山のふもとの桜。

【語釈】
◇掛詞 「立つ×裁つ」
◇縁語 「白妙、裁つ、衣、裏、裾」「立つ、霞、山」
◇枕詞 「白妙の→霞、衣」


●款冬
 春風のひとへに過ぐるかをりよりやへに花咲く山吹の色
(はるかぜの ひとへにすぐる かをりより やへにはなさく やまぶきのいろ)

【通釈】
 春風がひたすら薄く過ぎてゆく香りよりもっと、何重にも濃く見える山吹の黄色。

【語釈】
◇掛詞 「偏に×一重に」
◇対句 「一重に、過ぐる、かをり=八重に、咲く、いろ」


●藤
 紫の色より暗く空更けて夜にも見ゆる屋戸の藤波
(むらさきの いろよりくらく そらふけて よるにもみゆる やどのふぢなみ)

【通釈】
 紫の色よりも暗く空は更けたはずが、その黒き夜にも見えるのは、庭先に植えてある紫の藤の花。

【語釈】
◇参照 「恋しけば形見にせむと我が屋戸に植ゑし藤波今咲きにけり」(万葉、山部赤人)


●卯花
 桜色の弥生の月のなごりかは白みは果てず咲ける卯の花
(さくらいろの やよひのつきの なごりかは しらみははてず さけるうのはな)

【通釈】
 桜の咲き誇った弥生三月のなごりか。真っ白にはなり果てず、桜色を帯びて咲く卯の花。

【語釈】
◇「弥生」→「卯月」、「桜」→「卯の花」


●郭公
 風薫りあつさは遠き静けさに夏を定むる山ほととぎす
(かぜかをり あつさはとほき しづけさに なつをさだむる やまほととぎす)

【通釈】
 夏の風が薫っても暑さはまだ遠い静けさのようであったが、いよいよそこに夏を決定付ける、山のほととぎすの一声。


●夏草
 刈るからに道の行く手にあらはれてかき分けがたく繁る夏草
(かるからに みちのゆくてに あらはれて かきわけがたく しげるなつくさ)

【通釈】
 刈るたびに道の行く手に現れては、かき分けて進むのがうっとうしく繁る夏草。


●恋
 桜花しだれ柳を重ねても袖の契りは次の折の名
(さくらばな しだれやなぎを かさねても そでのちぎりは つぎのをりのな)

【通釈】
 春の桜や夏のしだれ柳を重ね重ね眺め、それらをあしらった着物を重ね着しても、袖の約束は次の季節の名前でございます。つまり、あなたの心は私に「秋(飽き)」が来たのでしょうね。

【語釈】
◇掛詞 「重ね×襲(かさね)」「次の折の名(秋)×(飽き)」
◇縁語 「重ね、襲、袖、折り」


■本記事の各歌は、『天徳内裏歌合』(960)にならって詠んだもので、まとめて『平成新詠天徳内裏歌合』(へいせいしんえいてんとくだいりうたあわせ)とした。960年当時の題も「春」と「夏」の動植物・風物および「恋」で、衣装の色でチーム分けし、左方は赤基調の春の桜重ね、右方は青基調の夏の柳重ねとするなど、視覚的にもこだわったようである。
タグ:和歌 和歌集
posted by 岩崎純一 at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 『新純星余情和歌集』

2012年02月10日

私の個人的な発想メモ「電磁気哲学や量子自閉症学の提案」「心と体の話」など

 たぶん、難しめの記事です。どちらかと言うと理系向け。

■2014年8月16日追記
 以下の新しいブログ記事も合わせてご覧下さい。

疑似科学にまつわる懸念 ― 疑似科学ではない超音波知覚と疑似科学である動物駆除超音波装置を例に ―
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/102454374.html


■心と体の密接な関係

 前回の記事では、「地震の数日前から行動が変化する自閉症児の体には、本当に地磁気の歪みが見えているのではないか」という主旨のことを書いたが、地震の話題に限らず、一般に「人体と磁気の関係」は「人体と電気の関係」よりも「実感として分かりにくい」から、ましてや言語障害のある自閉症児と磁気の関係などは、今後も話題にはのぼりにくいと思う。

「人体と電気の関係」ならば、特殊な知覚能力を持つ自閉症者や共感覚者に限らずとも、ドアノブを触ったときに静電気が放電されてバチッと来るなどの嫌な体験のように、普通の五感で体験できる。

 いや、実は、自閉症者や鬱病者や強迫性障害者では、静電気や街中の人工的な音に対する不安感が増すとか、本当に静電気に反応しやすい体になっているといった報告は、海外でもあるようだが、日本でそれを言うと、今でもオカルト科学扱いされる可能性があるから、これ以上は言わないでおこうと思う。

 今のところは、自閉症・共感覚などに関心があり、自身も共感覚を持って生きる岩崎という一人の人間が持っている、自閉症児たちへの敬意や親しみなどの個人的な思いを、いかめしく学問的に語っているのがこのブログ記事だろう、という程度に読まれるだけでも十分ありがたいと思う。


■磁気感知についての二つの仮説

 さて、「自閉症児には磁気の歪みが感じられる」ことが本当ならば、二つのことが考えられる。

 一つは、自閉症児も同じ人間である以上、生物・有機体としての分子・原子組成は一般健常者とほとんど同じなのだが(従って、本当は人間は皆、潜在意識で磁気を感覚していて、地球・家電製品・金属製品などのN極やS極に引っ張られているが)、一般健常者だけが磁気感知能力(というより、ここでは自我による磁気認識)を失い、自閉症児ほどその能力が残っている可能性。

 もう一つは、自閉症・発達障害と呼ばれる一連の症状を生み出すような特定の分子・原子組成やDNA構成、電磁気的な状態の揃い方や乱れ方というものがあって、それが彼らの磁気感知(磁気認識)を実現しているという可能性。つまり、自閉症児や我々のような共感覚者というのは、体の作りが現代の一般多数者とは本当に異なる可能性。

 両仮説のうち、前者のほうは、「人体が磁気に反応すること」と「自我が磁気に反応すること」とを別概念としているが、いずれにせよ、電磁気学的には、「人体が磁気に強く反応する」ためには、「人体に磁場をかけたときに、その人体のうちに多かれ少なかれ磁気モーメントを一定方向にそろえるような機構」が存在していなければおかしいことになる。

 つまり、こういった反応を、自閉症児たちの体は地震予測などにおいて本当にやっているのかどうか、という話になる。とりあえず、自閉症による地震などの自然現象感知だけを例にとるとしても、元々自閉症児が、鉄やコバルトのような強磁性体質を持っていることはあり得ない。

 かと言って、自閉症児の体温は、一般健常者と同じく摂氏36〜37度が多いため、自閉症児の体内の特定の器官の構成粒子がネール温度を超えて、磁場をかければ自由に磁化するような体質になっているわけでもない。

 むろん、鳥類には、実際に体の磁気モーメントが変えられることによって地磁気の乱れを感覚したり、元いた場所に戻ってくることができたりする種が存在するが、自閉症児についてのそのような報告は今のところ聞いたことがない。


■自我・人体と磁気の関係

 電子はマイナスの電荷を帯びているが、電子の軌道運動による磁気モーメント、及び電子自身のスピン磁気モーメント、これらがいわゆる「磁気」の根本にある。我々の自我・自意識というのも、本当はこれらに基づく脳神経系の電磁気的発作を起源としている。

「電場」や「磁場」の「場」というものは、文学表現が嫌いな物理学者には怒られるかもしれないが、本当は、日本語で「間(あひだ・あはひ・ま)」と表わされるような、「空気感」の展開する「場」の意味でも追究可能なものである。電気と磁気は、相互不可分の関係であって、お互いがお互いを生み出すものである。

 ただし、我々の自我を生み出す脳神経系のはたらきは、電気的な視点からは大いに語られるが、磁気的な視点からはあまり語られない。だから、「我々の体は電気に反応する」と言うと、すぐに静電気などを思い浮かべるのに、「我々の体は磁気に反応する」と言うと、途端にオカルト科学じみた不審な発言だという錯覚が起きるようである。

 しかし、もし自閉症児たちの素晴らしい自然観察能力が、一種の電磁誘導のようなものだとしたら、あるいは、反強磁性やほとんど磁化を持たない一種のフェリ磁性における超交換相互作用の崩れへの「気づき」のようなものだとしたら、我々人類が、近現代化の過程で失ってきた我々自身の身体の磁化能力を利用した自然観察力がどのようなものであったかが、本当に分かるのではなかろうか。

 時々、テレビの超能力番組などで、色々な金属を体にくっつける磁石人間などが登場するが、あれが本当かどうかは知らないものの、普通は人体というのは、そんな強磁性体ではあり得ない。

 一方で、私が持っている共感覚を調べるのにもよく使われるMRIという装置は、核磁気共鳴(NMR)を用いた生体内部の画像化の方法である。MRIから出てきたときに、頭がふらついたという精神疾患者や共感覚者を、何人か知っている。(これらの私の知人は、医者から不審に思われたり、逆に医者に迷惑がかかったりすることを心配して、ほとんど誰もそのことを報告していないようである。)

 昨今は、いわゆるリニア新幹線(正式には中央新幹線)が話題だが、これは超電導磁気浮上式リニアモーターを用いたものである。私としては、東京から大阪までどんなルートで走ることになるか、などという政治的な駆け引きよりも、むしろ自閉症児・解離性障害者・我々のような共感覚者がリニア新幹線の車両内などの強磁場空間に入った際に、身体や知覚様態にどんなことが起きるのか、そういったことのほうに関心が深いのである。


■心の悲しみは体の悲しみ

 少し横道にそれる。「心が痛いのは体が痛いから」だとか、「体が痛いのは心が痛いから」だと言うと、一笑に付されるのではないかと不安なのだが、私は、知人・友人である自閉症児の素晴らしい自然観察力、鬱病者や解離性障害者などの綺麗な心を見ていると、どうしてもそのような考えや人間観に至る。

 もっと言うと、「ある人の心が優しいのは、その人の心臓や肺や腸が優しいから」だと思うし、「人の悲しみを一緒になって泣ける美しい人は、きっと血や骨や細胞が美しい」のだろうとも思うのである。

 この「綺麗」とか「優しい」とか「美しい」とかいうのは、何も「タバコを吸ってないから肺が綺麗だ」とか、「髪をきちんと洗っている」とか、「トマトをよく食べるので血がサラサラだ」とか、「美人だ」などという意味で言っているのではない。そうかと言って、心臓や腸や骨を擬人化して言っているのとも違っている。ともかく、いわゆる哲学用語の「純粋直観」のような直観で、このようなことを思うわけである。


■アニミズム的・汎神論的な電磁気学・量子論の提案

 この私の考え方は、言葉を変えると、「究極のアニミズム」とか、「究極の汎神論」とも言えるかもしれない。だから、私にとっては例えば、量子論を理解するのに、普段親しんでいる和歌文学の心を取り入れてみたらうまく理解できた、というようなことが成立している。私の高じた物理学趣味は、文系人間の果てにあるものとしての物理学であると言えそうだ。

 例えば、「心が優しい人であるのは、その人の体の分子・原子の動きが優しいから」だと思うし、「人の悲しみを一緒になって泣いてあげている人の体の中では、きっと分子・原子も一緒になって震えて、涙を流している」のだろうとも思うのである。

 ここまで来ると、いよいよ本当におかしな人だと思われそうだが、私の言っていることは、私の知る自閉症児たちにとっては、案外、人気と言うのか、安心の薬になっているようなので、むしろ、書くことをやめるわけにいかないというような類のものだと身勝手ながら思っている。

 私の場合、「自閉症児の心がなぜか分かる(見える)」とか「原子核や電子の震えを共感覚で実感する」といった私自身の「純粋直観」が先にあって、その後でマクスウェル方程式やシュレーディンガー方程式などを理解したという経緯がある。

 例えば、電子が磁気を帯びる要因には、軌道運動による磁気モーメント、及び電子自身のスピン磁気モーメントがあるが、これらの揃い方や乱れ方の一つ一つの積み重ねが、我々の「自我」であって、自閉症や鬱病というものは、本当は人体の変化が追いつかないほど急速に発展する現代社会に対する「正当な」電磁的・量子的状態であるという方向から、私は電磁気学や量子論を理解した。

 こういう感性、こういう物事のとらえ方は、元を辿れば、私が小学生だった頃からあった気がするし、僭越ながら、こういう感性があるからこそ、私は自閉症児・発達障害児の心に非常に親しみを感じたり、彼らとすぐに仲良くなれるのではないかと思っている。

 しばしば、電車の中などで、「将来的に、電磁気哲学や量子自閉症学といった分野を作れないだろうか」と、ふと考えている自分がいる。ただ、自閉症・発達障害・共感覚などの分野における私の主な夢は、基本的に「語り合う」ことであって、しかも、文系学問を中心に語り合うことであり、難解な理系学問の土俵に持って上がることではないから、基本的には「高じてしまった趣味」として、物理学をやっているという状況ではある。これからもそうだと思う。


■自閉症児の感性の証明

 それにしても、大震災後になって焦ったかのように「絆、絆」と言い始めた我々をよそに、元より大自然との「絆」を黙って持っていた自閉症児たちから、自分は学ぶところがまだあると考えている。けれども、学問的(特に自然科学的)態度としては、残念ながらそれだけではまずいことになるとも感じている。

「自閉症児は本当は素晴らしい感性の持ち主である」と、たとえ自分では思っていても、それはこのサイトに来てくれる自閉症児たちや特殊な心身の感性の持ち主と私との間の関係であって、このような文学表現を伴う自閉症観をあまり良くは思わなかった学者とも将来的に対等に渡り合っていくには、どうしても、私が学者に自分の共感覚を説明するときに通過してきた色々な苦労や思い出と同じことを経験する必要があるとも思っている。つまり、「自閉症児の自然観察力は素晴らしい」という曖昧な文学表現を論理的に説明するだけの神経学的・理論物理学的知性をこちらも持たなければならないと思っている。

 これは、私が実際に叶えたい夢でもあるし、既存の学者に対する礼儀でもあるかもしれない。

 一概には言えないが、かなり大まかに言えば、天体や地球の動きなどの巨視的・大局的な視点においては、世界を記述するものは物理学であって、これはアインシュタインの相対性理論に代表される。そして、地球上に住む生物・有機物・我々の人体などの記述は、まずは化学的な文脈によって行われるものである。

 ところが、さらに微視的な視点が精神医学や認知心理学などの分野にも適用されるようになって、私としては、人間は自分の体が電磁気的・量子論的に、つまりは物理学的にいかなる状態のときに暗い気持ちになるのか、嬉しい気持ちになるのか、人を愛するのか、人を嫌いになるのか、とも考えるようになった。


■人間の原初の姿としての自閉症

 私は、これまでにも何度も書いてきたが、「我々人類は、文法言語や近代的自我を持たなかった時代には、皆がそれなりに自閉症的であった。このことは、電磁気的・量子論的にそうであった」という考えを持っている。

 いわば、電磁相互作用が束縛している原子の「乱れ方」に対する認識能力のうちの一番強いものを、我々は逆に「障害」と見なして「自閉症」と呼んでいるにすぎないのではないか、ということである。

 そして、その自閉症のさらに昔の彼方に、我々人類と動物との接点があると考えている。むろん、これは証明済みでも何でもなく、私の「純粋直観」のようなものにすぎないが。しかし、我々人間の自我というものを、電磁気学的・量子論的な一瞬の乱れ、いわば超交換相互作用の一瞬の破綻などを始原として記述できるような、ある種の部分関数のことである、としてみた上で、私はこれからも自分の発想を楽しんでみたいと考えている。

「自閉症や発達障害は、動物としての人間の原初の姿である」という私のような人間観・世界観を持っている人、そして、その考え方を公表している人が、日本にどれだけいらっしゃるかは詳しく知らないが、少なくとも私はこの考え方や思いで歩んでいければと思っている。


■補足

 ところで・・・、前々回の記事で、地震予測をブログに載せてみようと書いたが、載せるのではなく、将来のためにデータとして溜めていこうと思う。ただし、震度6弱以上の大地震が予測された場合は、なるべくその旨をブログに載せようと思う。

2012年02月03日

地震予測法のアイデアメモ(重度自閉症児・強度共感覚者の能力と地磁気観測計データの併用)

■この記事は、自閉症(ICD-10分類コード:F84.0)を抱える日本の子どものうち、中・大規模地震の前に特殊な泣き方・行動を見せる一部の子どもに対する私的な関心から、書いたものです。地震学・気象学・地球電磁気学などにお詳しく、もし当記事に誤りなど見つけられた読者がいらっしゃいましたら、ご教示下さい。


■冒頭

 東日本大震災以降、稀にマグニチュードや震源をおおまかに言い当てることがある私自身の地震予測体感(共感覚や離人症状による電磁波や音波の察知など)を活用できないかと、色々と試しているが、「試す」というのは、つまりは体が異変を察知したらメモする、目をつぶって地面を感じてみる、といったことにすぎない。

 そういうわけで、地震予知学者になるつもりはないが、今回は、私の共感覚とは別に思い付いた、「自閉症児の能力」と「地磁気観測計データ」との合わせ技のような予測法の入り口部分を書いておこうと思う。

 昨年末に思い付いたが、前回の記事でも書かずにおいたものである。しかし、知人の共感覚者や私の共感覚のみによる自力での地震予測以上に、自閉症児に頼るこの予測のほうが精度が高い傾向があるため、書きたくなった。

 先日の1月28日の朝の山梨県東部・富士五湖を震源とする中規模地震を例にとる。

●【地震に警戒】何人かの共感覚者・自閉症児の行動に変化【M6〜M8級】
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/53332430.html

●昨夜分の地震予測結果
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/53342886.html

●(1)今後の地震予測の記事の書き方 (2)私の地震予測の流れの解説
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/53358616.html

 ちなみに、私が今日の記事で強調したいのは、「動物の能力に近いところで生きていると思われる自閉症児たちの自然観察力・察知力の素晴らしさ」のみである。今から書くことは全て、それを言うための回り道であると思っていただければ幸いである。


■地震前の自閉症児の行動

 今現在、この私のブログ・サイトを通じて出会った自閉症児の中には、地震の前に非常に強い前兆を覚えるらしい重度自閉症の男児が、少なくとも二・三人いる。私を含めた共感覚者にも、地震の前に体調の変化を覚える人は多く、ほとんどが女性だが、ここでは「重度の自閉症・知的障害を持つ男児たち」に焦点を絞りたい。

 どうやら、男性の場合、私のような強い共感覚や地震前兆の体感を持っている人は、ほとんどが「言語障害・知的障害者」だと思われる。この理由は、ブログで何回か取り上げてきたが、また日を改めて書きたい。

 さて、前回の記事にも書いたように、この自閉症男児たちは、夜に急に起きて、震源と思われる方向を指差して「わー」と泣いたり、震源の反対と思われる方向に走り出したりなどする。

 男児たちの行動をお母さん方と私とでメールで議論しているうちに、「もしかして、この子たちは、自分と震源とを結ぶ直線方向に動きたくなる衝動に駆られるのではないか」ということまでは、何となく分かってきた。自閉症児によって違う点も多いが、私の知る子たちの場合、地震の前には似たような行動をとるようである。

 1月27日の記事に、震源の予測として「東北・関東方向(日本の東方向)」とだけ書いたが、これは兵庫にいる一人の男児がそちらを指差したり、避けて走ったりしたのを、私がその子のお母さんから聞いたからである。

 しかし、彼には、重度発達障害に特有の言語障害がある。兵庫から東方向全体を「わー」と言って指差すだけなので、震源が大阪なのか名古屋なのか東京なのか仙台なのか、海の果てなのか、分からない。


■自閉症児の地震前兆行動の程度と震源までの距離との関係

120203_j.jpg 図1→

 図1の東方向の青い矢印は、兵庫の男児の居場所を起点として、男児が指差した方向を表している。その子の母親と私とが、震源の方向を表していると考えた方向である。

 男児が感知しているものが電磁波なのか、音波なのか、太陽風なのか、宇宙線なのか、いったい何なのかは分からないが、ともかく男児が無邪気な泣き声と共に「震源があると判断した方向」を漠然と示しているだろう、ということである。

 日本は細長い形をしているから、例えば、この男児が東京にいて西を指差すと、東京以北は震源候補から外せるが、九州や中四国や関西から東を指差すと、太平洋ベルト地帯はもちろん、誤差を考えると北陸や東北が震源である可能性もある。まさに、この青い矢印の通りである。

 自閉症児本人たちの体感では、もっと詳細に特定できている可能性はあると思うが、何しろ、彼らには「東京」や「名古屋」といった地名が分からない。

 青い矢印の長さを定める方法として、一つには、その子の母親の言い方で言えば、「この子の心の叫びの強度」と震源との位置関係を調べる手がある。男児の泣き方や動きが激しければ、震源は近い(青い矢印が短い)かもしれない。つまり、男児の前兆行動の激しさと震源の近さとは、比例関係や冪乗関係にあるかもしれない。

 いわば、3.11の直前にクジラが大量に東北・関東沿岸に打ち上げられたり、奇妙な雲が出たりしたように、自閉症児の行動は、ほとんど動物たちや雲たちと同じかもしれない。しかし、「心の叫びの激しさ」などというものは、数値では測りようがない。

 これは、自閉症者・発達障害者や我々共感覚者の特殊な知覚様態の報告が、長年、学術界から認められなかった最大の理由でもある。数値なくして子どもの心の叫びが分かるのは、どこまでも科学者ではなく肉親の特権なのだろう。


■世界各地の地磁気観測計データの利用

120203_w1.jpg 図2→

 それなのに、なぜ私が一応、「東京」周辺を震源だと思ったか、つまり、実際に群発地震を引き起こした山梨県東部・富士五湖に近い位置に絞ることができたかについてだが、これは、後述するように、現在全世界に設置してある磁力計のデータをネット上で精査する余裕が、私にあったからである。

 自閉症児たちのお母さんからの報告が遅いと、そのような余裕はないのであるが、地震の五日〜前々日くらいに報告があると、一日一回くらいは磁力計の測定値を見て回ることができる。

 先の自閉症児の「心の叫び」を生かしつつ、もっと地震予測の精度を上げる方法はないかと考え、そこで私は、図1の青い矢印が示す直線にさらに交わる別の直線(赤い直線)をおおまかに割り出すことができれば、それらの直線どうしの交点として震源を見定めることができると考えたわけである。むろん、交点は地中(数km〜数十km)にあることになる。

 この作業に最も有効な方法の一つが、地磁気の様子を探ることであると思われる。地震電磁波は、必ず大円(大圏)方向に伝播する。(「大円(大圏)」とは、地球をその中心を通る平面で切ったときの切り口の円)

image.jpg 図3→

 まず、結論から言うと、図1の赤い直線は、アラスカ・カナダ・ロシア・北欧・グリーンランド・日本に設置してある磁力計(図2)の1月22〜24日時点における、地磁気の各成分(図3)のデータを分析した結果、それらが捉えた地磁気の大変動が地球上のどこで起きたか、地震電磁波がどの大円平面上の方向から来ているかを示したものである。

●「国土地理院 地磁気測量」のページ(地磁気の解説)
http://vldb.gsi.go.jp/sokuchi/geomag/menu_01/index.html


■地磁気観測計のデータ解析による震源方向の割り出し

 図2の各所に設置してある磁力計のデータの多くは、以下のようなサイトで得ることができる。

●気象庁 地磁気観測所
http://www.kakioka-jma.go.jp/cgi-bin/plot/plotSetNN.pl

●International Real-time Magnetic Observatory Network(INTERMAGNET)
http://www.intermagnet.org/apps/plt/dataplot_e.php?plot_type=b_plot

●京都大学大学院理学研究科附属地磁気世界資料解析センター
http://wdc.kugi.kyoto-u.ac.jp/index-j.html

●独立行政法人 情報通信研究機構(NICT) 太陽地球環境情報サービス リアルタイム地磁気データベース
http://kogma.nict.go.jp/cgi-bin/geomag-interface-j

●Canadian Magnetic Observatory System (CANMOS、カナダ地磁気観測システム)
http://geomag.nrcan.gc.ca/common_apps/ssp-1-eng.php

120203_w2.jpg 図4→

 赤い直線(大円)の描き方だが、これらは必ずしも、ある一つの磁力計を通過しているわけではない。むしろ、赤い直線の多くは、ただ単に、ある二つの磁力計の垂直二等分大円(二つの磁力計から距離が等しい平面と地球の表面とが交わる円弧の一部)や、直線状に並ぶ複数の磁力計に対して直行する方向の大円を描いてみただけである。(図4参照)

 例えば、京都大学によって提供されている磁力計のデータを見てみる。以下は、1月24日のデータである。(本来は、この乱れた波形が地震波であることを見極める手順が必要だが、ここでは省略。)

http://wdc.kugi.kyoto-u.ac.jp/plot_realtime/quick/201201/index_20120124.html

 このうち、よく似た波形を示しているグラフを挙げてみる。例えば、ABK、AMD、BFE 、DIK、GDHなどは、大きく乱れ、地震電磁波を捉えた時刻だけでなく、振れ幅(地震電磁波の強度)も似ている。

 複数の地点における波形が似ているということは、それらから等しい距離のどこかに震源があるということだと推定できる。例えば、ABKとGDHの組、BFEとLRVとNAQの組の位置関係を見ると、方位図法上では図4のように一列になる。これらの垂直方向の大円は、ほぼ日本列島を通過することが分かる。

(本来は、より厳密に波形を見極めていく必要があるが、1月28日の地震は、その震源が日本列島の大円方向にあることが波形から非常に分かりやすいものであったので、この地震を例に挙げた。)


■地震電磁波の大円方向への伝播

 さて、どの磁力計のデータに基づく大円が日本方向に適用できるかを調べるには、地図の描き方を知っておかないといけない。

「メルカトル図法」とは、図2のような図法である。一方、「方位図法」とは、中心からの方位が正しくなるように描く図法で、地震学で多用される心射方位図法や、飛行機の最短経路を見い出すのに使われる正距方位図法などがある。

 多くの磁力計を描いた図4は、正距方位図法である。なぜならば、心射方位図法では、基本的に地球の半球しか描けず、裏側の半球にある磁力計の位置が描けないためである。地震電磁波の方向を詳しく分析するには、日本から遠い磁力計も見ておいたほうがよい。

600px-Gnomonic_Projection_Polar.jpg 図5→

 ただし、どの磁力計がどのような波形を示したかを見たあとは、今度は、日本を中心とする心射方位図法に情報を投影する。心射方位図法はあらゆる大円が直線となるため、大円方向に伝播する地震電磁波を直線で描くことができる。そのうちの日本の部分だけを取り出したのが、図1である。(図5は、北極を中心とする心射方位図)

 正距方位図法のままだと、地図の中心を通過しない大円(図1の赤い直線)は、相変わらず(図2のアラスカやグリーンランドから日本に伸ばした赤い曲線のように)曲げて描かなければならなくなる。

 実際には、図2のカナダ北東部やグリーンランドや北欧やアイスランドの磁力計は、カナダのオタワ(OTT)やヴィクトリア(VIC)よりも日本に近い。だから、NAQ・GDH・THL・IQA・ABK・LRVなどの磁力計が大幅に乱れると、日本方向が震源である可能性が高くなると考えられる。

 全く同じではないが、すでに似たような方法を実践している地震研究家の方々も、多くいらっしゃるようである。


■自閉症児の「指差し」も大円方向か

 そのようにして赤い直線を引いていくと、今回の場合、1月22〜24日にかけて、地震電磁波が日本列島を縦横断する方向から世界各地の磁力計に観測されたことが分かる。ただし、これだけだと、「日本を通る方向から来た」ことは分かっても、震源が赤い直線の延長上(台湾や東南アジアやオセアニア)である可能性もあるわけである。

 そこで、自閉症児が指差した方向を示す青い直線と、磁力計から分析された地震電磁波の発生源の方向を示す赤い直線とが交わったあたりに、震源があるのではないかというのが、私が考えているところである。今回の場合、その二者の各交点が東京を中心に散在したので、私は東京近辺が震源だろうと予想したわけである。

 重要だと思われるのは、この自閉症の男児たちが指差す方向は、おそらく大円方向であるということである。このため、日本を中心とする心射方位図において、青い線も直線で描けたわけである。

 また、実際に3.11以来ここ一年間、メモしておいた自閉症児たちの「青い直線」と磁力計データの結果としての「赤い直線」の交点付近に中・大規模地震の震源があることから、自閉症児たちが「わー」と感じているものの正体の一つが本当に「地震電磁波」である可能性が高いことになる。

 ただし、自閉症児の行動に変化が見られる時期は、世界中の磁力計に変化が観測されるよりも数日以上早い場合が多い。これは、自閉症児に限らず、地震予測の体感を覚える一部の一般の人々でもそうである。この点については、さらなる精査が必要だろう。


■HAARPの存在

800px-HAARP20l.jpg 図6→

 さて、このように私は、世界中に設置してある磁力計のデータを参照してみているわけだが、ここでHAARPなる施設について書いておく。

 HAARPとは、東京大学・京都大学も技術協力している、「高周波活性オーロラ調査プログラム」なる米国防総省・米軍の軍事・気象研究計画のことである。アラスカのHAARP施設からは、大出力の人工電磁波が電離層に向かって照射されており、これが世界各地の磁力計に観測されている。(図6はそのアンテナ群)

 HAARPについては色々な見方があるようだ。世界・日本の一部の有志地震研究家の方々からは、気象操作兵器・地震兵器であると目されている。アマチュア界だけでなく、欧州議会もHAARPに対する懸念を表明するなど、HAARPを気象操作兵器だとする公式の懸念表明がすでに多くある。欧州諸国ではテレビでも普通に登場しているような施設である。むろん、米国防総省の開発だから国防予算が付けられている。

 昨年、我が国の国会においても、ある議員がついに地震兵器の存在を匂わせる発言をした。何しろ、HAARPの動きをモニターするための磁力計自体が東京大学製のものであることが公にされている。今現在、HAARP施設は世界の十数か所にまたがっているようである。

 一方で、HAARPはそのような危ういものではない、とする意見もある。私にはよく分からない。私は、そのような議論には関心がないので、ブログでは深く触れないことにする。

 ちなみに、人工地震と言うと、オカルトめいた話に聞こえるものだが、れっきとした学術用語で、軍事目的を問わない既存の技術である。高度成長期に、人工地震実験のたびに「大成功、人工地震」といった記事を書いては自国の技術を自画自賛していたのは、我が国の新聞、我が国であることを忘れてはならないと思う。

 そんな中、予定以上の規模の人工地震を起こして新幹線のダイヤを乱す失敗をし、それが自国の新聞に乗った国も、我が国である。後者は、私が二歳のときであった。

 さて、私はHAARPの存在を、3.11後に東北の被災地域の共感覚者から教えられて知った。しかも、このHAARPの動きを見ていた被災者の中に、3月10日前後の大地震を予測して対策をとった人がかなりいたことを知って、愕然とした。今の時代に大切なのはこういうことなのだと、改めて思った。「これがどういう施設か」にかかわらず、「自分や家族を守るためなら、使える情報は使えばよい」のだということ。

 その後、何人かの共感覚者や自閉症者の訴える地震の前兆体感を確認したところ、HAARPから来た人工電磁波を捉えた各地の磁力計の波形の乱れに対応しているものが一部あった、ということだけは言える。

 現在のところ、各地の磁力計は、HAARPから照射される人工電磁波が地球上のどこに落下したかを「受け身的」に観測できるのみであるようだ。私の場合、文系なりの「なけなし」の知識でこれを調べ、自閉症児の自然観察力の豊かさの紹介と証明のために転用する発想を今述べている、というわけである。


■自閉症児の体感と世界中の磁力計の合わせ技で、自然電磁波とHAARPからの人工電磁波を選別することができるか

 私の関心は、何度も書くが、「自閉症児たちや動植物たちの自然観察力の素晴らしさ」にある。つまり、我々現代の多くの人間が失ってきたと思われる感性の大切さを知ってもらいたくて、現代の人間が得た言語や技術で語っているにすぎない、ということである。

「HAARPが、気象操作・地震誘導兵器であるかどうかを検証すること」にあまり関心はない。私のHAARP研究は、あくまで自閉症・発達障害者による自然現象察知・地震予測の研究の副産物である。

 ただし、「副産物」と書いたのは、先述のように、HAARP以外の各地(カナダ・ロシア・北欧・グリーンランド・日本など)に設置してある磁力計には、地球上の地震電磁波や地球周辺の自然電磁波のほか、HAARPから照射された人工電磁波も観測されるからである。

 このことには、すでに世界中の学術機関から日本のアマチュア地震研究家まで、多くの人が気づいていたようだ。知らなかったのは、(私を含めた)多くの日本国民のほうであったようだ。

 世の中にはこういうものもあると知っておいて損はないと思う。少なくとも、HAARPが意図的に地震を起こす気がなくても、HAARPからの電磁波が気象変動に影響を与えている様子だけは観察されるということである。

 もし、現代に生まれた私が見ている、現代に生まれた自閉症児の異様な地震前兆行動の中に、自然電磁波ではなく、何か人工的な電磁波照射によって引き起こされている地球の異常に対する先見的な反応と警告があるなら、私としては、自閉症児に対する心配と敬意の混ざった気持ちになる。

 HAARPのような人工電磁波照射装置が造られたのは、ここ最近の出来事だから、今の自閉症児は、昔の自閉症児が見もしなかったような異様な光景を見ている可能性もある。

haarp110311.jpg 図7→

 ただし、今現在、見かけ上はHAARP(人工電磁波照射装置)とは別にHAARP観測をしているアラスカ大学は、一か所(ガコナ・Gakona)の磁力計の波形しか公表していない。図7は、3.11の巨大地震の前兆を捉えたと思われる波形である。

「HAARPのデータ群」
http://www.haarp.alaska.edu/haarp/data.html

 以前は四・五か所の波形を公表していたが、3.11直後から急に公表しなくなった。一か所(一点)の情報しかないということは、地震電磁波の規模(地震の大きさ)の推定はできても、震源(アラスカのHAARPから見た方向)の推定は難しいことになる。これは、片方の耳が聞こえなくなった人にとって、音量は分かるが音源の方向が分かりにくいのと同じである。

 図4の三つの赤く細長い四角のうち、アラスカに描いたものが、HAARPを直接観測している磁力計である。このうち、最も南側にあるのがガコナ(Gakona)である。

 もしこれら全ての磁力計のデータを見ることができれば、それらの波形の振れ幅を比較でき、四つが似たデータならば日本方向に震源があり、異なるデータならば日本方向に震源はないことを推定できる。この方法についても、すでに何人もの日本・世界のアマチュア地震研究家が指摘しているようである。


■まとめ

 以上、長々と書いてしまったが、高度科学技術文明に生きる我々が過去のどこかに落としてきたような動物的能力・自然現象察知能力を今でも持っていると思わせてくれる自閉症児たちの能力を、その高度科学技術・軍事技術を逆手にとって平和利用しつつ、少しずつ勉強していきたいというのが、私の目的だということである。


■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E5%B0%84%E6%96%B9%E4%BD%8D%E5%9B%B3%E6%B3%95
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%B4%BB%E6%80%A7%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%A9%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0