2012年03月22日

テレビの話(アニメ、F1など)

 時間的に多忙というわけではないが、年度末・年度始のことで色々と頭が多忙なので、ブログ更新も間が空いてしまった。ブログ更新は入力するのに手を動かすが、手を動かさずに楽しめるのはテレビ、というわけで、テレビの話。

 私が見るテレビ番組は、ニュース・天気予報が中心だが、唯一必ず見るのがF1で、時間があれば、おじゃる丸やリトル・チャロなどを見ている。あとは、ブラタモリや2355など。ほとんどが録画。

 チャロは、英語の教材用アニメだが、ストーリーそのものが哲学的で興味深いので、好きで見ている。プリズン・ブレイク(アメリカのドラマ)も見ていたが、先日再放送の最終回があって、休憩中。

 おじゃる丸は、原案者の方が飛び降り自殺でお亡くなりになったとのことで、本当に残念だが、しかし今も、原案者の理想の形からの改変もほとんどなく、ほのぼのとした雰囲気で、最近では宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を元に話を作るなどして、非常に良い出来であると思う。

 昔はドラえもんを一番よく見ていたが、最近は見ていないので、あまりよく知らない。私が唯一全巻持っていた漫画が、確かドラえもんである。その頃の時代と比べると、かなり変わっている点もあるようである。むろん、生身の人間である声優だけは、どうしても交代していかざるを得ない要素だが。

 私は、今でも「まんが日本昔ばなし」が一番好きな漫画・アニメなので、数年前のように復活してくれないかと思う。おじゃる丸はドラえもんを参考に作られたアニメだが、しっかり者とぼんやり者の設定が逆になっている。もしドラえもんとカズマが組んだら出来杉君も驚きそうなしっかりしたストーリーができそうだが、のび太とおじゃる丸が組んだら大変なことになりそうである。

 他には、手塚治虫のブラックジャックも好きである。

 さて、何と言っても、今年もF1が開幕し、テレビ観戦するのが楽しみな時期が来た。しかし、相変わらず、私が好きなドライバーのマッサは調子が悪そうである。たった今、「チーム解雇か」とのニュースが・・・。今年はフェラーリのマシンの出来自体があまりに悪く、おまけにチームメイトのアロンソ優先でチームが動くだろう。

 マッサのファンクラブのようなものが、日本のmixiで立ち上がって活動しており、昨年の鈴鹿での日本グランプリでは、皆で制作したマッサ応援の横断幕がテレビに映っていた。私は、ただテレビで傍観。

 マクラーレンのハミルトンと最終戦最終コーナーまでしのぎを削り、ぎりぎりで負けて「幻のチャンピオン」となった2008年の再現を見たいものである。

 マクラーレンの調子が良さそうだが、レッドブルやフェラーリに比べて、明らかに空力面でのアドヴァンテージがあるようである。

 これ以上語ると、マニアックな話が止まらなくなるので、頑張って抑えてみるが、一つ興奮したのは、今年からオープニング・ソングにT-SQUAREの「TRUTH」が復活したことである。それにしても、YouTubeというのは、古き良きお宝映像が見つかるという点では、かなりの宝箱である。以下、セナが亡くなった94年の懐かしきF1。





 往年のF1ファンにとって、この曲がどういう意味を持つか、名状しがたい。先週末のオーストラリアGPのオープニングでこれが久々に流れたのを聞いて、少し涙してしまった。セナ、プロスト、マンセル、ヒルなどの時代は終わったが、シューマッハはなぜか健在である。

 実は、シューマッハのドライビングは、マニアの間でも好き嫌いが分かれ、実際にハミルトンよりも乱暴な時もあるし、幅寄せも多いのは確かである。私は好きなほうだが。ハミルトンは、個人的にマッサばかりに幅寄せするので、勘弁してもらいたいものである。

 とは言っても、シューマッハのドライビングでさえ、セナの時代に比べれば、安全運転である。要するに、安全第一志向は、今の世界的な傾向なのだ。

 ちなみに、私は幼少期にはいわゆるディスレクシアのような症状があったが、F1ドライバーやマシン・チームの名前、1980・90年代の日本車・外車の名前の羅列的暗記によって、カタカナという文字体系を覚えた。

 そのため、今でも例えば、その年代の日本車なら、ヘッドライトの形状を見ると車名が分かる。中には、ライトの破片だけで分かる車もあるし、エンジン音を聞いて分かる車もある。交通事故に遭ったら、加害車両を警察よりも早く特定できると自信を持っているのだが、全くそんな目には遭いたくないものである。

 それぞれの車には表情があり、どの車のどのヘッドライトの破片の形状がどのように笑っているか、泣いているかを見て、頭の中で車名に変換することで、分かるわけである。これは、小さい頃に親や教師にも訴えたことであった。懐かしい限りである。

 フジテレビは、昨年、とある俳優のツイッター発言をきっかけとして、韓流番組を多く流していることが問題視されて、デモまで起こされたが、多分、F1ファンだけを取り出してみたら、今年はそういう騒動はあり得ない一年だろうといったところである。今年から、F1はBSだけで、地上波では放映しなくなったが。

 などと、随分手を動かしてブログを書いてしまった。
タグ:テレビ F1
posted by 岩崎純一 at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2012年03月07日

十二指腸潰瘍、統合失調症、ヒトラーの血液型、単極性障害と双極性障害

■十二指腸潰瘍の「なりやすさ」

 最近の『Nature Genetics』に掲載された東大医科学研究所の研究論文によると、血液型がO・A・B・AB型の順に十二指腸潰瘍になりやすく、O型の人はA型の人よりも1.5倍ほど十二指腸潰瘍になりやすいという調査結果が出たようである。

 また、胃癌の「なりやすさ」の指標として使われるPSCAという胃癌リスク遺伝子がC型の人は、T型の人に比べて、胃癌リスクは半分であるのに、十二指腸潰瘍リスクはおよそ2倍という結果になったようである。

 これについて、東大医科研は、「O型の血液型遺伝子を持つ人の腸は、十二指腸潰瘍の原因となるヘリコバクター・ピロリ菌が住みやすいから」だと説明している。また、「A型人間は神経質である」といった血液型占いに警鐘を鳴らしてもいる。

(ちなみに、私はB型である。B型の男性は、血液型占いではあまりよく思われていないようで、「大雑把で片付けが下手」という評価が定番のようだが、なぜか私は整理・整頓が好きな人間で、一番大好きな家事は皿洗いである。)

十二指腸潰瘍の原因遺伝子を発見 Nature Genetics 10.1038/ng.1109
http://www.ims.u-tokyo.ac.jp/imsut/jp/research/papers/post_38.php
http://www.ims.u-tokyo.ac.jp/imsut/jp/research/files/120305.pdf
(東京大学医科学研究所)

 この十二指腸潰瘍及びよく似た胃潰瘍の「二大消化性潰瘍」について、いつも私が興味深く思っているのは、「どんなに精神的ストレスを受けてもこれらに罹患しない」人がいることも確実であるのに、「これらの疾患の主要因が精神的ストレスである」ことも確実であるという点である。およそ欧米と日本で出ている研究結果を足し合わせると、どうしてもそういう言い方になってしまう。

 だから、鬱病や社交不安障害やパニック障害の人がこれらの消化性潰瘍を併発していることがある。消化性潰瘍は、一応は「精神の疾患」ではなく「身体の疾患」ということになっていて、疾病分類として有名なICD-10でもそのようになっているので、私の以下のページにもリストアップしていないが、このページに挙げた何人かの方は、消化性潰瘍に罹患している。

http://iwasakijunichi.net/seishin/rei.html

 精神的ストレスが主要因という点では、消化性潰瘍は偏頭痛に似ている気がするが、これについても、「ある人がストレスを受けた時に、消化性潰瘍になりやすいか偏頭痛になりやすいかは、ある程度は血液型の差異などの遺伝的差異によって決定されている」ということが言えるのかもしれない。

 だから、「同じだけの精神的ストレスを受けた時に、まず十二指腸潰瘍という形に現れやすいのは、O型である」ということだけは言えるのだろう。

 もちろん、「精神的ストレスを受けると、体内でピロリ菌が発生する」などという超常現象が起きているわけではない。それに、「ピロリ菌が全くいない環境下でも、精神的ストレスを過度に受けると、十二指腸潰瘍になることがある」わけであるから、「ピロリ菌は十二指腸潰瘍のONスイッチとなる場合もある」という言い方しかできないわけである。

 私の素人目で見ても、消化性潰瘍は、飲酒と喫煙という「生活悪習慣」による発症に心当たりがない場合は、ほとんどが精神的ストレスによる発症ではなかろうかとさえ思う。


■統合失調症者の「病理回避能力」

 今回のO型とA型の差のように、1.5倍くらいの差なら、いくらでも実験の方法・環境の違いによってまだ結果が覆りそうな危うさがあるが、中には、いくら反証しようにもしがたい心身の相関関係というのもある。

 タブーになっていないもので有名なものに、「統合失調症者は関節リウマチになりにくい」というものがある。統合失調症者の関節リウマチ罹患率は、非統合失調症者の1/4にすぎないとの報告がある。

Environmental risk factors differ between rheumatoid arthritis with and without auto-antibodies against cyclic citrullinated peptides
http://arthritis-research.com/content/8/4/R133

 これも前後関係・論理関係が大変難しいのだが、「関節リウマチ患者は統合失調症になりにくい」のではなく、「統合失調症者は関節リウマチになりにくい」というのが通説のようである。ただし、どちらも正しい可能性がある。

 考えてみれば、統合失調症では自我の状態が変容しているのだから、脳神経系による命令系統、神経伝達物質やホルモンの分泌様態などが化学的に変化しているに決まっているはずで、「ある精神疾患に陥ると、身体の状態が変化して、ある病気になりやすくなったり、なりにくくなったりする」というのは、単に当たり前のことを言っているだけだとも言える。

 つまり、「心が変わると体が変わる」、「体が変わると心も変わる」というのは当たり前で、これだとまだ心身二元論的な言い方であるが、よりいっそう私好みの東洋的心身論の言い方で言うと、「心と体に区別はない」あるいは、「心と体とは、同じことを別の言葉で言い換えたものである」という言い方になるわけである。ここから先は、立場によって書き方が異なるだろうが。

 そういう意味では、「血液型(血の化学的構造)が違うと、心が違う」というのは、多少は当たっている部分もあるのであり、ただそれを偏狭な占いや優生思想や差別につなげなければよいのだと思う。

 おそらく、鬱病、社交不安障害、パニック障害なども同じことで、「その人がストレスを受けた際にどの疾患になりやすいかは、血液やホルモンや筋繊維などの遺伝的な形質によって、ある程度は傾向づけることができる」ということまでは、言ってもよいのだろう。

 一方で、これらの鬱や不安障害の一群に共通する点と言えば、統合失調症と違って「自我意識が崩壊しないまま、真正面から精神的ストレスを意識の上で受ける」ために、いわゆる「苦痛感」が常にある点である。これは残酷でもあるが、同時に、「心によって体が変化すること」を現代において意識の上で一番知っている人たちでもあるだろう。我々はこういう人たちを大切にしなければならないと思う。


■戦争遂行のために研究された日本の血液型類型学

 先日、大正や昭和初期の『サンデー毎日』や『週刊朝日』を読んでいたら、血液型による性格分類が当時の日本の医学界、政界、司法界、出版業界などにおいて本気で研究・普及されていた実状が色々と記録されていた。

 例えば、大正十一年七月二十五日発売の『サンデー毎日』では、「ヒトラーにしてもムッソリーニにしても、世界の独裁者はO型だ。近衛文麿首相が優れた能力を見せているのも、O型だからである。ゆえに、我が国も指導者層にO型の人間を置けば、外交に成功し、戦争に勝利することができるだろう」という内容の進言を医学博士らが外務大臣に対しておこなったことが記載されている。

 当時は、日本の軍事的・外交的勝利のためにO型の血を軍部や外務省に結集せよとの風潮があって、中でも新垣恒政ら医学界からの進言が急進的であったようである。この『サンデー毎日』のみならず、「東京日日新聞」、「讀賣新聞」、「毎日新聞」、「朝日新聞」など新聞各紙も、右派・左派に関係なく、このO型優生思想の風潮に加担する論調を展開していた。

 ところが、これには落ちがあって、実はヒトラーはA型だったというのが最近の定説なのだが、当時も、そうと分かったところで、今度は、「やはりA型には天才独裁者が多い。ゆえに、我が国もA型の人材を採用しよう」などという話のすり替えが行われていて、もはや呆気にとられる。

 当時の日本の医者、政治家、法律家などは、当時や今の我々一般国民とは比べ物にならないくらいの、「血液型性格分類教」の信者だったようである。

 さらに、今回のブログの冒頭の件を合わせると、「日本の軍部は銃後の国民よりも十二指腸潰瘍になりやすかった」などという笑い話になってしまう。

 ともかく、大正期・昭和初期の日本によるナチス分析を見ていると、ヒトラーの血液型一つを取っても、雑誌や新聞によってA型だったりO型だったり無茶苦茶で、全く我々日本人には恥というものがなくなったのかというくらいに出鱈目を報道している。このような当時の日本を、ナチス・ドイツが本当に「良き軍事同盟の同志」と信用していたかどうかは、極めて疑わしい限りだと思える。

 そのヒトラー自身が、親衛隊結成やユダヤ人虐殺を実行するにあたり、民族ごとの血液型による性格分類・血液型類型学の研究に邁進したことは知られているが。


■単極性障害と双極性障害は峻別できるという幻想

 私の鬱病観や単極性障害・双極性障害観が、今も変わらず以下の通りであることを添えた上で、少し論じてみたいと思う。

鬱病が鬱病を疎外する〜「本当の鬱病は美しいもの」〜
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/41932955.html

私の考え・思い・持論
http://iwasakijunichi.net/seishin/kangae.html

 鬱や単極性・双極性障害をテーマにしたテレビ番組を時々見る。一昔前に比べて、よく見受けられるようになったのが、「単極性障害と双極性障害の差異の過剰な強調の傾向」だという気がする。

 もちろん、医学界や製薬会社、マスコミがそのブームの中心にいるのは確かだと思うが、私が出会ってきた単極性・双極性障害当事者の中にも、最新の操作主義的・合理的な分類しか知らず、「双極スペクトラム」といった概念を知らなかったり、知っていてもこの考え方を最初から嘲笑・一蹴する人が少なからず見受けられることが、かなり気になっている。

 私はこれについて、基本的に、先に示した戦前の日本の軍部や医学界の多くの上層部の態度と大差ないのではないかと感じ、不安を覚えている。

 それに、私自身は今でも、最近のアメリカ型や日本型の単極性・双極性障害観よりは、クレペリンのような旧ドイツ型や、10〜20年前のアメリカ、特にアキスカルら新クレペリン学派の単極性・双極性障害観のほうが、心優しい考え方、しかも実は日本人にも合った考え方だったと思っている。また、「単極性障害は双極性障害の極値状態である」との考えを持っている。
(確かに、アキスカルの「双極スペクトラム」といった考え方は、薬の処方などの実用性には乏しいかもしれないが、ここでは「精神」についての人としての考え方・態度を問題にしたく思う。)

 テレビで、鬱に陥った人たちが、以前通っていた病院で単極性障害と診断され薬を摂取していたが、病院を変えたところ双極性障害と診断され、「誤診されて苦しんできた今までの人生を返してほしいと前の医者に言いたい」と怒っているのを時々目にする。私はいつも、このような番組を見ると、私の性格から来る気分だと思うのだが、それこそ「これからの日本人の思いやりやマナーは大丈夫だろうか」と鬱になってしまう。

 いつもこういう時に私が問題にしたいと思っているのは、なぜ患者側までも、「人間の鬱で暗い気持ち」の出現メカニズムを「単極性」と「双極性」とに分類する自らの歪んだプラトニズム・二元論的人間観(それはプラトニズムでさえないように思う)を疑わないのか、という点である。

 要するに、前の担当医も今の担当医も、それはそれで「診断基準に基づき、正しい診断をおこなった」に違いないと思うのである。双極スペクトラムの考え方に対する患者側からの強い非難に見られるように、現在は、医者よりも患者のほうが、いわば「診断名のイデア論」や「自身の疾患と他の疾患との壁の実在性」を強く主張・信奉しているケースが、かなり増えているように思う。

 ハワード・ベッカーの“Outsiders”に描かれたようなシカゴ学派のラベリング理論の研究のための「最良の」被験者が、現在の単極性・双極性障害者には多くいるということなのかもしれない。

 私はこのブログで、「本物の鬱」とか「真の鬱」とわざわざ書くことが多いが、その時の「鬱」とは、今書いたような、歪んだプラトニズムに基づく自我意識をもって他者と関係しようとする(医者側だけでなく)鬱病側の人間に対する、茫漠とした寂寥感や絶望感を保っている一部の人間のメランコリア(憂鬱)のことを指している。

 むしろ今は、特にヨーロッパ型の精神病理学の方が、このような「人間の鬱の本質」を分かっているような気がする。日本の精神病理観は、多分に政府やテレビ局や大企業、我々国民自身(医者も患者も含む)が創作して扇動している傾向にあると感じる。


■本質直観による精神病理観

 私の考えは、毎度のごとく変わり映えがしないので、面白くないのかもしれないが、「ある精神疾患への“なりやすさ”は、その疾患に対する我々の自我による命名と同時に現出される」というものである。自分の中では、先ほど述べたハワード・ベッカーの“Outsiders”に描かれたようなラベリング理論を、日本人の極端な大衆迎合性・付和雷同性に即して解釈したものと言えると思っている。

 ただし、もっと言うと、私の見解は、いわゆるギブソンなどのアメリカ型知覚心理学が編み出した「アフォーダンス」の概念とも異なって、少なからず大乗仏教で言う『中論』の「中観」に親和性を持つものであると思う。むろん、ここでは特定の思想・宗教の名前など問題ではないだろうが。

 最新の精神疾患分類を含む疾病リストであるICD-10やDSM-IV-TRは、主に操作主義的に精神疾患が分類されており、大雑把にどのような言い回しが好まれているかと言うと、統合失調症にせよ、解離性障害にせよ、鬱病にせよ、強迫性障害にせよ、「元々遺伝的にその疾患への“なりやすさ”を持って生まれた人が、あとから学校生活・社会生活・家庭生活などでストレスを受けると、その遺伝的形質が発現されて“病理・疾患”として表に現れる」という言い方である。

 一見すると、非常にうまくまとめているし、間違ってはいないとは思うのだが、一方で、まことに都合のよい言い方でもあると思う。これは結局、心身問題(心脳問題)というのは、追究していくと、なぜか一見すると矛盾した結果が導かれ(ある精神疾患Xは先天病でも後天病でもあるという結果)、現在のところ誰にもその答えが分からないので、苦肉の折衷案としての言い回しであろうと思われる。

 このような精神疾患のイメージを持つところまで人類が辿り着いたこと自体は、私は悪くないことだとは思うが、私が本当に関心を持っているのは、その先にあるものである。いや、「その先にあるもの」と書いたが、むしろ、「その前にあったもの」、「高度ストレス社会の前にあったもの」と言った方がよいかもしれない。

 こういう矛盾は、東洋哲学、仏教哲学、禅哲学などから精神疾患を考えている人にとっては、極めて「安心できる」結果だとも言えると思う。

「十二指腸潰瘍を発症させるタイプの精神的ストレスがない社会と時代においては、血液型のA・B・AB・Oそれ自体に“なりやすさ”が備わっているかを我々は認識できない(問うことができない)」と考えれば、我々は、先天・後天論争の大喧嘩を越えられるのではないかというのが、ずっと私の考えてきたことでもあり、このサイトの訪問者との出会いの主旨でもある。

 たとえ、ある人(Aさん)がある精神疾患(X)への「なりやすさ」を持っていたように将来的・事後的に分析されうるとしても、その「なりやすさ」が我々第三者や社会の側の人間(B)の自我の認識上に(X)として現出されない限り、(X)という精神疾患の保因者は、それ以前の時代には実在しない、というのが、私の考えているところである。

 換言すると、「精神疾患」というのは、「在るものに名前が付いたもの」ではなくて、「名前が付くことによって精神疾患の実在がようやく現出されたもの」であると思う。「血液型の差異があったから、その差異による特定病理の発症率に差が出た」のではなく、「特定病理の発症が問題となる社会となったから、血液型の差異が問題となった」ととらえるわけである。

 これは、癌について考えた場合には、極めて現実感を持って分かりやすく感じられる。しばしばテレビ番組で、「医学が発達しているのに、癌が増えた原因は?」という問題が出て、「医学が発達して、人類が長寿になったから」という医者の答えを聞いて、芸能人たちが「ウソー!」と驚いているが、これは現代の先進国民特有の生命観の表れだと思う。むしろ、こういう国民性に歯がゆい思いをしている医者のほうが増え始めたのではないだろうか。

 本来、「癌という病気があるから我々の知性がそれを認識・研究できるのではない」と、私などは思うわけである。

 私は、「元々統合失調症や単極性障害や双極性障害という疾患がこの世にあったから、我々の知性がそれらを発見でき、それらの疾患者が助かるようになった」のではなく、「我々の社会が、そのような人間の分類方法の必要に迫られる社会構造に変容したから、分類として自我のうちに定立し得た」という立場を取ってみたいと思うわけである。

 自分の鬱と躁が単極性障害か双極性障害かのどちらかに分類されなければ我慢ならないと主張する一部の患者、そのような「我慢ならなさ」を持つことの人としての危うさについて注意喚起をすると激高する患者もいて、私もそういう光景を見ていて、どうしても疲れてしまうことがある。

 本来なら、日本人の人間観の保存すべき点と改正すべき点とを冷静に考えていけば、我々は、血液型による性格分類一つを取っても、どこまでを信用しどこまでを疑ってかかるべきかが直観的に分かる、いわばフッサールの言う本質直観に長けた賢い人間でいられるのではないだろうか。

 そういう空気が日本に作られない限り、どうしても私には、「単極性障害と双極性障害の峻別」が「安易な血液型類型学」と同じにしか映らないのであった。