2012年07月22日

第四期岩崎式日本語について

 先週から、本格的に第四期岩崎式日本語の解説の執筆を始めました。

 これまでの使用者は、主に解離性障害者・統合失調症者・自閉症者などでしたが、今度は、大学の教養課程・芸術関係の学生さんや、言語学・数学・数理論理学に関心のある方々の目にも触れるように、解説を全て公開する予定です。

 とりあえず、岩崎式日本語が、「学術」的な新発明などというものではなく、一つの「芸術作品」である、という立場は変わっていません。

 ただ、岩崎式日本語の発想は、ゲーデルの不完全性定理やハイゼンベルクの不確定性原理と親和性があるということは、数理論理学・理論物理学分野の方からご指摘いただいており、自分でも気づいていますが、チョムスキーの生成文法理論に対しては、図らずも異議を唱える結果となっています。

 そもそも、ゲーデルもハイゼンベルクもチョムスキーも、かなりの合理主義者であり、中でもチョムスキーはデカルトの世界観を踏襲していることを自称しているくらいです。

 岩崎式日本語の世界観自体が、我々日本人(と言うより、ここでは日本人の私)が日本人の発達障害者などの言葉遣いを追跡したときに本能的に感じる「人間の文法理解の原点(動物の一派にすぎない人間の外界認識)」というべきものをチョムスキー的な合理精神は説明できない、という私の立場を表明してしまっています。

 ところが、岩崎式日本語の論理構造自体が一つの数理論理・合理論である、むしろ論理式・形式言語で記述できるかもしれないから、試みてほしい、というご要望を数理論理学・計算言語学分野の方から頂くようになりました。

 簡単に言うと、「発達障害者の感性が、なぜ現代日本語や現代英語では記述できず、古典日本語や先住民族語、岩崎式日本語では記述できる可能性があると岩崎さんが考えるのか、ということを、数学的に記述してほしい」というご要望です。

 私自身も、自分の言語の数学的記述が可能ならば素晴らしいと思っていますが、何しろ、いくら色々な分野に目を通しているからと言っても、数学のプロではないので、なかなか前途多難です。
posted by 岩崎純一 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 岩崎式日本語

2012年07月17日

人の命についての雑感(その四)「いじめに対するいわば正当な抵抗・反撃の成功例について」

(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/54042245.html

(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/54188238.html

(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/57076517.html

■昨日の記事の追加

 いじめを受けた過去を告白している著名人で、私が興味を持っている人には、元プロボクサーの内藤大助氏やタレントのさかなクンがいるが、こういった人たちは、むろん「告白してうまくいった」人たちだということは言えるのかもしれない。

 内藤氏の場合は合法的な殴り合いによって、さかなクンの場合はあの「明るいさかなキャラクター」によって、いじめを乗り越えたと言えるし、そもそも、いじめを乗り越えるために大好きなスポーツや生き物に走ったとも述べている。

 そういうヒーローのような人たちがいなければ、全国のいじめられっ子たちが助からないのだから、いなければならないと思う一方で、いじめられた過去を告白できるためには「告白できるレベル(告白しても復讐してくるような加害者ではないことを頭のどこかでは分かっている程度)のいじめ」である必要があるとも思う。

 もし「いじめ」というよりも「脅迫」や「恐喝」や「強盗」や「殺人未遂」や「自殺教唆」と言えるようないじめであったなら、告白しても加害者から報復を受ける恐れもあるし、そもそも今回の大津の件のように、告白して懸命にもがいてみても、必死の訴えが多くの大人たちによって封殺される場合もあるし、実際、そうやって終わっていった命がたくさんあると思う。

 むろん、「あんなにいじめられた俺がボクシングで勝った」、「あんないじめられっ子がこんなさかなキャラになりました。ギョギョギョ(魚魚魚)!!」など、過去の自分を毎度のようにテレビ画面で話す著名人がいることについては、それはそれで大変素晴らしいと私は思っている。

 今回の大津の件などを見ていると、いわば何かしら「被害者の持っている風圧や威厳」のようなものでいじめに反撃する方法はないものかと思う。ここで言う「風圧や威厳」というのは、内藤氏の「合法的な実力行使、加害者を見返してやろうというハングリー精神」だけでなく、さかなクンのような「天性の明朗さ」なども指しているつもりである。

 この人をいじめても意味がないと思わせ、いじめを諦めさせる方法。子どもにそれを教えるのは難しい。しかし、あるなら教えてあげたいと思う。

 内藤氏やさかなクンは「合法的手段で反撃を試みて成功」し、しかも、「自分のためにではなく、自分と同じような境遇にある世の他人のために反撃」できている。

 しかし、そういう人間になれるための必要条件は、「とりあえず被害を受けて家に帰って以来、何年も死なずに、ゆっくりと反撃対策を考えるだけの余裕が持てる程度のいじめであること」と、「自分以外の人間のことを考える心理的・経済的余裕があること(自分の生活だけで精一杯ではないこと)」と、「精神疾患に陥らないこと」だと言える。

 今回の大津の件の場合は、生徒たちのアンケートを信じるならば、ゆっくりしている暇もなく虫を食わされたり金が無くなったり家を荒らされたりしたのだから、この件に関して私が考える、この男児の命が助かった可能性のある唯一無二の解決方法は、いじめられているときに「加害者をその場で殴り返す」という内藤氏的な行動か、「突如として意味不明で破天荒な擬音語を連発して叫ぶ」というさかなクン的な行動を、最初からいきなり実行することしかなかった気がする。

 自分が「正当な暴漢」になるか「道化師」になるか、つまり「計算高く」なるしか、道はなかったように思う。そうやって、とりあえず生き残る。しかし、もしかしたら、そういう反撃作戦を持ってしても、周りが助けない限り、自殺は避けられなかったかもしれないがし、この男児は、いじめられている最中でさえも「計算高く」なれないような良い子だったのだと思う。

 そういう反撃が良いか悪いかは別にして、「自分の命が助かる」というのは、そういうことだということと私は思うのである。この男児は、内藤氏のようにもならず、さかなクンのようにもならず、報道にあるように親や他の生徒の前で「平然」を装って沈思黙考して自殺してしまった。

 その他にも、「ストックホルム症候群」(加害者を愛する以外に逃げ道がなくなった場合、本当に加害者に友情や恋愛感情を抱くようになること)によっていじめや虐待を乗り越えるケースもある。

 あるいは、被害を受けている身体を自分のものでないことにしてしまう(自我・自己意識を身体の外に飛ばしたり分裂させたりする)ことで乗り越える場合もある。「解離性障害」や「コタール症候群」がこれに当たる。

 これらの場合、実際に痛覚が消失することがあるだけでなく、いじめられている最中の自らの身体を、その身体の外部(教室の天井や隅など)から目撃している自己というものが自覚されていることもあるのが特徴である。

 ただし、「ストックホルム症候群」以下は、日本と海外のいずれにおいても女性が陥るケースが多い。これらも、被害者にとっては「そうなる以外に仕方のない正当な抵抗の方法」であると言えると私は思う。命が助かるかどうかは別にして。
posted by 岩崎純一 at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2012年07月16日

人の命についての雑感(その三)「人の痛みが分かる人とは、子どもの頃の自分を忘れない人」)

(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/54042245.html

(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/54188238.html

(その四)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/57105432.html


■滋賀県大津市のいじめ自殺の問題について

 私も、自分の共感覚をはじめとする活動を通じて、いじめの被害児童や虐待・暴力被害者のために何かできないかということは常々考えているので、今回の大津のいじめ自殺問題は他人事ではないという思いがする。

 私のサイトは、共感覚をテーマに始まったサイトではあるけれども、共感覚者の中にも、発達障害児へのいじめや虐待よりは少ないと言っても、小中高校時代にいじめ被害に遭ってそのトラウマに悩まされている人がいることを軽視できないと思って以来、いじめ・虐待・精神疾患・教育崩壊・性暴力の問題なども扱うようになった。

 今ではサイトにも「現代日本の社会と心理」や「精神疾患の分類」など、関連項目を設けるに至っている。

 インターネットの世界は恐ろしいもので、大津の件についても、すでに加害者・加害者の親・担当教師の実名や写真までばらまかれている。しばらくはこのような世論が続くのだろう。今回の件に怒りを覚えた一般の保護者・主婦もそのような世論の主体となっている。

 ただし、これについては注意が必要だと思うし、機会があれば「現代日本人のルサンチマン」ということについて書いてみようと思う。「ルサンチマン」と聞くだけで、何が言いたいか、分かる人には分かると思うけれども。

 ネットは、まさに「玉石混淆」と言える媒体で、「石」の情報が多いことは否めない。ただし、その代わりに他の媒体以上に本物の「玉」があると思う。テレビや新聞や書籍など、情報提供者と情報享受者との間に営利的・政治的なしがらみが介入して情報の信憑性が紆余曲折する媒体には、「石」は少ないけれども「玉」も少ない、という時代になったことを考えれば、ネットは期待の星と言えると思う。

「石」の中から本物の「玉」を見抜く頭の良さ・知性だけは、ネットの世界には必要である。ただし、「玉」を見抜くことのできる人にとっては、ネットは「子どもの元気な声と大人の温かい声が実は一番良く聞こえてくる媒体」だという気がしている。


■共感覚関連でのいじめ

 私にも、この自分のブログ・サイトを通じて知り合った子どもがけっこういるけれども、共感覚者へのいじめというのは、発達障害児へのいじめほど多くはない気がする。それでも、「ボクは、こんな共感覚というヘンテコな感覚を持って生まれて、カッコ悪いし、ほかの男友達のように普通にはなれないし、もう人生終わりだ」というようなことを言ってくる男児がいる。

 そのうち、母親のほうが慌てふためいて、男児とその母親と私と三人で談議するようなパターンもあった。

 私は、可能な限りそういった子たちを助けていければと考えている。共感覚の著書を書いたのも本当はそのためで、「私は、共感覚なる感覚を持った岩崎純一という人です。子どもの味方です」というようなことを、とりあえず全国の子どもや親にばらまいておけば、子どもが親からテストの点数が悪くて叱られたり特殊な感覚を罵倒されたりした時に、「ボクよりももっとヘンテコで面白い人がいるよ」と、私岩崎純一をその子が盾に使えるということも、私の活動の目的であるわけである。

 自分の共感覚やアスペルガー症候群的性質を「カッコ悪い」と卑下する子たちの親を見ていると、その子の特殊な感覚を馬鹿にしたり、「普通の子になれ」と言って塾に行かせたりしているケースがあるのは確かだが、注目すべきは、「親の育て方がいくらきちんとしていても、友達からの暴言によって子どもがそういう悲観的発想に陥るケースが見受けられる時代と社会になったこと」だとも思っているので、今はそのことを取り上げたい。

 今回の大津のいじめの件も、被害者の男児は親の前で平然を装っていた一方で、自殺する直前に「死にます」と加害者に報告したようだが、それは単に、彼が「親に心配かけまいとする思いやりを持った子」だったからという、ただそれだけの話で、必ずしも「親子間のコミュニケーションがない家庭だったから」ということにはならない気がする。

 今回のケースは、「男性(男児)の集団による特定の男性(男児)へのいじめ・暴力」だが、とりあえず、いじめや暴力行為への私の個人的な関心の契機を書いておきたい。


■人間一個体の発生・成長過程への関心

 今回の大津の加害者たちも、被害者の親の口座から金を引き出させて使った(暗証番号を聞き出して口座から金を盗んだ)可能性があることが盛んに報道されているようだ。むろん、そういういじめ方をするには、親や社会から「銀行、銀行口座、暗証番号、自分の金と他人の金は別個の財産」といった近代的抽象概念を学んで近代的自我を有していなければならない。

 私は、簡単に言うと、「銀行口座や暗証番号などという概念が、どうしてああいう世間知らずのはずの子どもたちに分かるのか。いったい人間は、胚の分裂過程・個体の発生と成長の過程の中で、ただの紙の帳面に書かれている数字が自分の預金残高を表示している、などという近代的抽象概念をどこで身に付けるのか」ということに関心があるわけである。

 そういうことを探究する際に、まずは「一度は数概念や言語の文脈を学んで理解して生活していたのに、後から何らかの被害を受けてそれらが分からなくなったり言語障害が出た人」がいるかどうかを探せばよいと考えた。

 そうしたら、最もその傾向が顕著なのが、性暴力被害者の女性であった、というところである。私が見てきた方々の場合は、銀行口座という概念からスタートしたわけではなくて、「買い物の仕方(いくら出すといくらお釣りが来るか)が、性暴力被害後に分からなくなった」というようなケースだったけれども。

 特に、以下のリンク先の専門病院を退院したあとで再び精神症状がぶり返した方々との過去の交流で学んだ症例は、サイトの「現代日本人の心理の例」などに載せている。

 こうして私は、布団からも玄関からも出ず、病院にも行かず、そのまま寝たきりになったような性暴力被害者女性の心理、知覚世界、思考過程、物事の処理の仕方というものがいったいどうなっているのか、そんなに閉じこもって沈思黙考していたら、かえって何でも知覚してしまう千里眼的・古代シャーマン的な共感覚や人間観察力が蘇生するのではないかと関心を持って、色々と勉強してみるようになった。

 そもそも共感覚者は女性に多いと言われ、また、共感覚をも持っているケースが多いと私が考える自閉症児・発達障害児・言語障害児は男児のほうが多いことなど、複合的な理由から、自らの感覚世界や、いじめ・暴力被害体験による心身や脳の変化(五感の脱失や混合)を自分の言葉で私に報告できているのは、多くは女性となっている。

暴力被害者の症状の実例(私が交流してきた暴力被害者の方々が通院している赤城高原ホスピタル様のサイト内)
http://www2.wind.ne.jp/Akagi-kohgen-HP/did100.htm
http://www2.wind.ne.jp/Akagi-kohgen-HP/Abused-message.htm

精神疾患研究(私のサイト内)
http://iwasakijunichi.net/seishin/

「銀行口座などという概念をいくら教えても脳に入らないような自閉症児や、そういった概念が性暴力被害後に消失して寝たきりになってしまった女性」などに、動物とつながる人間の本性があると、私はこう考えたわけである。

 そういう自閉症者や被害者たちは、成人であれば今の日本の社会生活には甚大な支障をきたすけれども、逆に少なくとも子どものうちからそういう抽象概念を駆使して他人をいじめる「誤った早熟の」子どもがいたら、私はその親にも重大な問題と責任があると考える。


■「人の痛みが分かる人・優しい人」とは「幼児退行できる人」

 そうしているうち、猟奇的性暴力被害を受けた成人女性の共感覚世界と、ごく普通の女児が「あたしの見てる字の色たち」などと私にたどたどしく報告してくる共感覚世界とが酷似していることから、「女性の心が傷つくということは、大方、女児退行的である(脳神経系が実際に女児退行を起こしている)」という発想に思い至り、それを一般化して、「我々人間の心が傷つくということは、大方、幼児退行的である」ということに思い至るようになった。

 言い換えれば、我々に他人の心の痛みが分かるということはどういうことなのか、他人に対して優しい人間であるというのはどういう人間のことを言うのか、ということである。

 それは、赤ん坊や子どもの頃に見た世界を一生涯忘れない人間でいることだと私は考えるようになった。「考えるようになった」と言うよりは、「ずっと思っている」と言った方がよいのかもしれないが。

 その「赤ん坊や子どもの頃に見た世界」とは、「なんだかよく分からないけれど、見たような気がするオバケや妖怪」であってもよいし、「あのメダカの動きは青色なのに、このメダカの動きは赤色なのは、どうしてかな」といった、大人の自我にとっては意味不明だが子どもにとっては切実で本気であるような問いかけであってもよいと思う。

 ただし、今の日本人の成人が、(生理学用語としてではなく、私の言っている意味での)「共感覚的な感性」や「幼児退行的な感性」を取り戻そうと思ったら、重大ないじめ・虐待・性暴力・交通事故・戦争被害に遭うようなことがなければならず、そうでないと脳の幼児的部位が再発動されない、ということなのだと思う。

 しかし、本当は、そんな目に遭わなくとも、一生涯ずっと、子どもの頃に見たオバケやメダカやかくれんぼやおにごっこを忘れないでいられるような子どもを、日本社会は育てていかなければならないと私は思う。

 そういうことを片っ端から省略して、法治的な意味での「人権意識」などというものを過剰に子どもに教えてしまうから、いじめ方が大人の営利的・合理的発想と同じ(暗証番号を聞き出して口座から金を盗む、など)になるのだと私は思う。

 大津の件に限らず、他人の銀行口座から金を盗んでやろうなどという自我を有している子どもが増えているのが本当なら、それは、人間の個体の発生過程を早急に駆け抜け過ぎた帰結としての「大人の頭脳」がやっていることであって、「少年」とは言えないはずなのだが、少年法は「自我・脳神経系の共時態」ではなくて、「誕生してからの通時的な経過日数」に対して適用されるものだから、「少年は少年だ」という話になってしまうのだろう。


■自殺率の性差をマスメディアはもっと強調すべき

 それにしても、注目すべきなのは、やはり自殺率の男女差だと私は思っていて、女性の場合は重大ないじめや性暴力被害に遭っているにもかかわらず、そもそも自殺しようという方向に思考が進まない場合が多いという点には、注目すべきだと思っている。(ただし、いじめや性暴力被害は、女性の自殺の主要因である。ここで言いたいのは、日本では女性の自殺自体が男性の自殺に比べてかなり少ないということ。)

 子どものうちは、自殺率の性差が小さいのだが、成人になるとその差はどんどん拡大して、重大な性犯罪被害を受けていながら自殺しない女性は多い(同じ性犯罪被害を受けていながら、自殺したり精神疾患に罹患したりする場合から、何の後遺症・恐怖症状も出ない場合まで、女性どうしで反応に極端な差がある)のに、男性は経済的事情などの理由で簡単に自殺しているというのが、日本の現状である。

 こればかりは、統計に如実に表れてしまっているので、性同一性障害者や同性愛者の人権が叫ばれる昨今においても、我々は必要に応じて、性差というものをしっかりと心に刻んで、社会を分析しなければならないと思う。

 こう言うと、「女性はどうしてこうも強靭なのか」、「同じ被害を受けても、どうして女性は自殺せずに心が崩壊するだけで済むのか」とか、「男性が女性の三倍も毎年自殺するのは、三倍弱々しいからか」という歪んだ話になりそうだが、苦悩の解決を自死に持っていくのは、これはもう我々男性の特性かもしれないし、女性は女性で、猟奇的性暴力を受けて呂律が回らなくなって、「がー」や「うわー」としかしゃべることができなくなり、死に匹敵する苦悶を抱えている重大なケースもあるのだから、決して短絡的な結論に持っていってはいけないはずなのである。

 そこで、そういう女性の方々のために何かできないかと思っているうちに、言語学的・哲学的側面から思いついたのが、「岩崎式日本語」で、今後の改訂の発想も私の中にあることはあるが、まだ完成に至っておらず、色々と思索中である。

 なぜならば、一部の女性にとって実用的な路線を進んでいるにもかかわらず、チョムスキーの生成文法理論やイェスペルセンの英語孤立語化説を意図的に歪めてでも日本の精神疾患の女性の心理に適用しているようなところがあるためで、今のところは自分では「芸術作品」というニュアンスで紹介している。
posted by 岩崎純一 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2012年07月06日

昨日の会について2(皆様のご質問についてのメモ)

■ほとんど自分用のメモといったところですが。

●「肉眼で見える色」と「共感覚で見える色」の違いについてのご質問の中で、分かりにくく答えた部分が多々あった気がするので、もっと分かりやすく説明できるようにしたいです。

●新たに出るICD-11及びDSM-5に対応する岩崎式日本語(第四期版)を何とか作ってみたいです。この言語制作の試みについても、もっと分かりやすく説明したくて仕方がありません。

●作曲家の顔をその作曲家の名前のアルファベットで描く試みは、大変面白く、共感覚の実験に転用できそうだと思いました。一点だけ、「これは顔だ」ということが被験者の共感覚者に先に知らされていると、もう文字として見なくなる、という点をどうするか、という問題が残りそうです。

 私の場合も、知らされていなくても顔に見えただろうという予測は自分でつくので、被験者としてふさわしいかどうか分かりませんが、「これは顔だ」と言われなければ分からないケースは、いわゆる相貌失認の人に多いかもしれません。
posted by 岩崎純一 at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項

昨日の会について1(お礼)

 昨日来て下さった方々、ありがとうございました。質問の時間のあとの個人的なご質問の時間に、何人かの方のご質問に答える余裕がなくて申し訳ありません。

 残りのご質問などは、以下のメールにてご自由にお送り下さい。

個人メール
http://iwasakijunichi.net/renraku-private.html
posted by 岩崎純一 at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項