2012年09月27日

伝統和歌+CG画像 (3)

 下のCG画像は、その上の私の和歌について私自身が共感覚で見ている風景です。今回は、風景が幻想的になっている和歌を載せました。3作目です。今回は、(1)と(2)で試したような制作過程の前後関係は考えないことにしました。

「花思ふ涙うつろふ大虚に忘れ形見の彦星の影」
(はなおもふ なみだうつろふ おほぞらに わすれがたみの ひこぼしのかげ)

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※ 現代語訳については、サイトの和歌の「雑の部」のページをご覧下さい。
タグ:CG 和歌
posted by 岩崎純一 at 19:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の作品

2012年09月22日

共感覚立体画像 (2) 「文字よ、立て。」

「文字よ、立て。」という文は、私には立って見えるので、描いてみた。全長30m、高さ3〜5mくらい。
(文字の色については、サイトの共感覚のページをご参照下さい。)

「文字よ、座れ。」という文も立って見えるので、「文字よ、」の部分があると、そのそばの言葉も立って見えるのかもしれない。

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 それに、今日の東京は小雨が降ったという点が鍵である。どうも最近、雨が降ると文字が立つのである。(共感覚者にしか通じない日本語で申し訳ありません。)

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 実際に5mもの木材や粘土を使って作るわけにはいかないということで、先日の数字の例以降、画像ソフトで色々と表現している。

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posted by 岩崎純一 at 20:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の共感覚

2012年09月18日

伝統和歌+CG画像 (2)

 今度は前回と違い、和歌を詠んでからCG画像を描いてみたが、結局私は、和歌と絵画が同時に「ファ〜ン」と頭に浮かぶ感覚があるので、五感どうしの前後関係・手続きを考えるのはあまり意味がないようである。

1. 歌題を決める。
2. 歌題に合った和歌を詠む。
3. 和歌に合ったCGを描く。

枯野
 かへり見る夢も紛へぬ草の原弥生の色は空のみにして(純星)
(かへりみる ゆめもまがへぬ くさのはら やよひのいろは そらのみにして)

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※ 現代語訳については、サイトの和歌の「冬の部」のページをご覧下さい。
タグ:CG 和歌
posted by 岩崎純一 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の作品

2012年09月17日

伝統和歌+CG画像 (1)

 新しい芸術の形を模索中。

1. 歌題を決める。
2. 歌題に合ったCGを描く。
3. CGに合った和歌を詠む。

晩夏
 ゆく夏よ光さかりは昔にて水面寂しく照る夕日かな(純星)
(ゆくなつよ ひかりさかりは むかしにて みなもさびしく てるゆふひかな)

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※ 現代語訳については、サイトの和歌の「夏の部」のページをご覧下さい。
タグ:CG 和歌
posted by 岩崎純一 at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の作品

2012年09月14日

共感覚立体画像 (1) 「数字についての共感覚」

 数字についての最近の自分の共感覚。相変わらず色彩については、濃淡や模様のみの変化で、色相はほとんど変化しないのだが、数字の配置はなぜか変化する。

「3」のように、ある日突然、棒をつたって上空に上がる数字もある。「降りてきなさい、3!」と頭の中で叱るなどして遊ぶのが自分なりの遊び方。

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 今は、「4」が「5」をベンチ代わりにして座っている。
「6」は浮いているし、「9」もいまいち安定が悪いので、ワイヤーで引っ張っている。
「3」が「6」を時々揺らして遊ぶ。

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「8」は、数か月間上空で遊んだあと、降ってきたときに「7」におかしなはまり方をしたので、他の数字から笑われた。特に、すばらしいフォーメーションでダンスしている「1」と「2」に笑われた。
「0」はどう見ても露天風呂に見える。

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posted by 岩崎純一 at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の共感覚

2012年09月13日

自分の芸術への態度を自分で説明する能力について(和歌を例に)

 千首ほどの自詠伝統和歌をサイトで公開していると、時折「和歌を学びたいです。弟子入りさせて下さい」というような依頼がくることがあります。確かに私は、和歌を詠み始めて20年近くになりますし、文化事業・イベントなどにおいて伝統的な和歌の詠進を仕事として依頼されることもあります。

 むろん、私のような一般の個人に弟子入り希望を頂けるのは、嫌な気分でないことは確かなので、一か八かで尋ねて下さるのは嬉しいのですが、私は人に和歌を教えるということがどういうことか分かっていませんし、和歌で弟子をとるなどということは未だかつて考えたことはないですね。それに、和歌を詠むのに資格は必要ないので、自分の和歌に対価・謝礼などが支払われたことのある人は、すでに「歌人」と言えばそうであり、師匠がいなくとも皆「歌人」を自称しているわけです。

 また、私の歌風は、新古今風を極度に推し進めた象徴主義的・唯美主義的な歌風だと様々な和歌愛好家・漢詩愛好家・美術愛好家などから言われていますので、今の時代において賛否両論が出ない基礎的な季節感などを読みたい場合には、どう考えても私から学ぶよりも、一般の書店の短歌の教則本を読んだ方がよいと感じます。

 私のような歌風に憧れていらっしゃる人は別として、いわゆる万葉集・古今集・新古今集などの和歌を学ぼうと思ったら、確かに「文学大学」「和歌大学」「古典執筆大学」というものは存在しないので、いわゆる「美術大学」「音楽大学」と同じことを自力で人生の中でやるしかないという気がします。私も、「和歌大学入学」などと自分で設定していました。

「美術大学(学部)」や「音楽大学(学部)」が芸術大学のカテゴリなのに、「文学部」が普通大学の下位カテゴリということもあって、「日本語」というものを「日本人の芸術的営為」として教える人がほとんどいないということは、残念ながら言えると思います。この前の東京藝大での講演でも、同じようなことを申し上げてみました。

 美術界や音楽界ではそのまま美大・音大卒がモノを言うのに、芥川賞などの文学賞には学歴など無関係で、むしろ高卒者などが極めて多いという点が、現代日本において「言語」というものが「美術」や「音楽」に対して持つ決定的な特性を表していると思います。

 東京藝大を初めとする芸術大学で少し前まであったような「ヴァイオリン転がし」などという風習が文学に通用しないことは、確かだと思います。「東大生には親が富裕層である学生が多い」というのは、最近の常識的な統計データですが、美大や音大も同じで、お金とコネがあれば良い絵筆や楽器が手に入り、それだけ絵も演奏も上手になれたというのは、皮肉な真実でした。

 だから、芸術の中で文学というのは、経済力があまりモノを言えない最後の砦だとは言えるかもしれません。ただし逆に、和歌は、必要な道具はその他の文学と同様に紙と鉛筆のみであるのに、詠む気と詠める頭がなければ書き留めるどころか詠めもしないという、ものすごく意地悪な芸術でもあり、現代日本語を知っているだけではいけないのが、大変なところではあると思います。

 そう考えると、和歌を今の時代に詠めるようになるには、神保町にでも行って和歌の古典を手に入れて、美大・音大や院に該当する「和歌大学」「和歌大学院」を想定して、人生を過ごしてみるしかない、ということも言えるわけです。ということは、美大や音大にかかるお金ほどではないにしても、本代はかかってしまいます。

 それに、和歌を詠む上で一番大切だと常々思っていることは、「自分が何をやりたいか」が自分で分かっていないとどうしようもないということです。一見すると、「なんだ、簡単なことだな」という気がするかもしれませんが、「今の自分の物事のとらえ方」が世界情勢・時事問題・自国の歴史上などにおいていかなるスタンスに該当するのかが自分で分かっていなければ、今の時代に和歌を詠めたことにならない、ということです。

 具体的に言えば、自分が(1)「日本に咲いている草花に感動する心を書きたい」のか、(2)「その心を古語風に詠みたい」のか、(3)「その心を、実在した日本古語の語彙や文法で詠みたい(つまり、その草花が存在する時代に存在しうる和歌を今詠みたい)」のか、(4)「自分なりの歌風の歌を詠みたい(写実か、空想か、その両方ともか)」のか、そういったことを意識することが、和歌上達の一番の近道だと思います。

 (1)なら、和歌である必要がありませんので、今すぐにでも現代の日常的な日本語で可能です。むしろ、この大変な現代日本社会においてもなお人間存在や動植物・自然を愛でる心を十二分に持った人間でありさえすれば、いかなる日記でも詩でも書けますし、かえって自分の生きる「今」の日本語で書いたほうが良い場合が多いと思います。

 (2)なら、ペンと紙と数冊の古典とそれなりの頭があれば、およそ3年で詠めます。どういうことかと言うと、和歌には掛詞というのがあって「秋」と「飽き」をよく掛けたとか、枕詞の次に来る語は決まっているとか、そういったことを辞書を見ずに言えるようになるのに、およそ3年かかります、という意味です。ただし、あくまでも「およそ」ですので、1年や2年で詠める人もいるでしょうし、逆に3年よりも長いほうについては際限はないと思います。

 また、「古語風に」ということだけであれば、古語を和歌のどこかに使って詠まれた現代短歌のほとんどは、それに該当しています。最近も、「欲しきものはスマホなりけり」、「彼氏にメールをなむ送りける」といった表現を女子高生が使っているのを見かけましたが、これも「古語風」とは言えます。

 こういう古語の使い方をヘンな使い方だなと笑う人も多いですし、私も正直なところ、その気持ちは分かるのですが、この女子高生たちは大まじめに古文を書こうとした結果、こうなったわけです。このような表現(自立語と付属語とに千年の開きがあるような混合短歌)になるのは、本人たちに責任があるとは限らないと思います。今時、普段目にするものはスマホで、学校で学ぶのは古文や漢文なのですから、こういう「茶髪の紫式部」みたいな日本語を作るしかない状況を作ったのは、今の大人たちでもあるわけです。

 しかし、やはりここから先が問題で、(3)なら、およそ(2)の3年+10年、つまり、少なくとも計10数年以上かかるとしか言えないと思います。期限などというものはないので、本当は一生精進です。

 これはどういうことかと言うと、例えば、私の自作言語の岩崎式日本語の解説でも書きましたが、「動作主(行為者)が一人称でないか、もしくは、述語の用言が終止形である限りにおいて、その文の動作主(行為者)は格助詞をとらない」という、日本語史上の史実があります。

 これを知っている人は、今の短歌結社の歌人や文学評論家でもほとんどいないでしょうし、知っていて論文も出しているのは、むしろ国語学者・日本語学者・歴史学者などです。古代日本人も、わざわざ意図的にそんな規則を考えて従ったのではありません。自然に日本語を使ったらそうなったということです。

 他にも、例えば、「身に染む」という表現は秋の季節における一定の吹き方の風について言明するものであるとか、「秋の恋( )消ゆ」という文脈においてカッコに「の」「が」「は」を入れることが可能か、または何も助詞を入れないで済むかどうかは、季節設定と男女関係と和歌の詠み手の性別(異性に成りきって詠む場合は、その異性)と述語の用言の活用形によって変化するとか、和歌全体の主体が「恋人の袖の涙」で、かつ季節が「冬」である場合は、用言の活用形が非終止形であっても「涙」に格助詞が付いた例が皆無である、など。

 あるいは、「春風」と「春の風」の区別は単なる文字合わせではなくて、主体が助詞を取ったか否かによって出現頻度が変わるとか、「春風」が頻出するのに「春海」がほとんどないということを知るには和歌だけを勉強したのでは済まなくなってくる(漢詩を知らなければどうしようもない)、など。

 そういった「和歌を詠んでいるつもりのほとんどの現代歌人が知らないのに、それを破った途端に現代日本人の前衛的な変則型の定型詩でしかなくなるような日本語の決まり事」というのがあるわけです。その歴史から外れたものは、「和歌」ではなくて、「新芸術」と言うほかなくなってしまいます。

 しかし、一体全体、そういう「過去への細かすぎる忠実さ」は誰がチェックしているのでしょうか。むろん、本気でそれらを研究したものすごく厳しい国語学者・歴史学者が知人にいない限りは、誰からも歌をチェックされませんし、叱られることもありません。しかし、大空が見ているのかもしれません。いや、「大空」などと言うと胡散臭い話になりそうですが、「過去の日本人や、樹齢数百年の木々や、おてんとさまが、和歌という文化の監督者である」、そういう気持ちで言ってみました。

「伝統和歌を詠めるようになりたい」という発言を厳密に解釈すると、本当は(3)の態度でなければならないし、実は私の態度は、「和歌の知識」としては(3)を人生を通じて身に付けたいというものであり(ちょっとこだわりが強すぎるかもしれないですが)、そして、「和歌の中身」としては(4)だと言えます。

 この(4)については、例えば、私の歌風は、周りの歌人様から、「新『新古今』派」、「魔術耽美主義」、「シュールサダイヘスム(超“藤原定家”主義)」などと呼ばれています。かつてエルンスト・ユンガーやカフカも「魔術的リアリズム」との評価を受けましたが、それの捩りだと思います。

 だから、こういう私のような、「“和歌というものが写実であるべきか空想であるべきか”という二元論に飽きてしまい、“和歌がいかなるものか、と和歌の形而上学的本質を問う”よりも“和歌を詠む人間存在(日本人という存在)そのものの審美性・神秘性・魔術性を古語に転写する”という狙いや目標を持つに至った」人ならば、和歌を詠もうとする前に、ユンガーやカフカや川端康成を読んで感想を書いてみたり、サンボリスム(象徴主義)絵画を愛でたりするような作業が必要だと思います。

 こうして、「和歌を詠みたい、学びたい」というひと言が(1)(2)(3)(4)のどのニュアンスを含むのかによって、勉強方法も変わってきてしまうことになります。(1)の発想をするからには、「ならば、なぜ不必要であるはずの和歌という形式を取りたいのか」を自分で自分に説明できなければ、有意義な和歌も生まれないし、「平安時代人になりきって恋の和歌を詠んでみたい」という(3)のような発想の場合には、「今日から早速、人間観察や自然観察を繰り返しつつ、和歌に精進する」ことが、我が国の過去を生きた人たち(つまりは、他人様)に対して最も失礼のない礼儀だと思うわけです。

 一見すると和歌に思える歌であっても、現代日本語以外の日本語史上にあり得ない短歌になっているケースは、もはや普通になってきましたが、そういう時はむしろ、「これは和歌です」ではなくて、「文字数だけは和歌を参考にして、今の世の新たな詩を作ってみました」と言ったほうが良い味が出ると思うわけです。

 藤原定家が日記『明月記』に「紅旗征戎吾が事に非ず」と書いたことは、下記のブログ記事でも取り上げました。「“和歌というものが写実であるべきか空想であるべきか”という二元論に飽きてしまい、“和歌がいかなるものか、と和歌の形而上学的本質を問う”よりも“和歌を詠む人間存在(日本人という存在)そのものの審美性・神秘性・魔術性を古語に転写する”という狙いや目標を持つに至った」私は、アララギ系を中心とする現在の日本の幾多の短歌結社や、日本の大学の国文学・日本語学学閥に対して、「紅旗征戎吾が事に非ず」の態度をとっている人間であるということは言えると思います。しかし、この言葉による定家の決意が、自らの人生からの政治色の排除と芸術至上主義宣言の意味以上に、「吾が事」としての日本的実存の宣言であったように、私がこの定家の言葉を座右の銘としているのも、「吾が事」としての日本的実存を見つめ続けるためです。

 以上、色々と書いてきましたが、このように私は、「和歌の能力のある人」とは「自分の和歌への態度を自分で説明する能力のある人」のことだと思っています。私自身もそういう人になれるように、精進していきたいと思います。

●『雪月花 拙唱交響 岩崎純一愚作選』
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/52459229.html
posted by 岩崎純一 at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論

2012年09月11日

フリーソフト「岩崎式日本語ライター 2012」を開発・掲載

 フリーソフト「岩崎式日本語ライター 2012」を開発、岩崎式日本語のコンテンツ内に掲載しました。

岩崎式日本語
http://iwasakijunichi.net/iwasaki_shiki_nihongo/

 これを使うと、岩崎式日本語文を簡単に作成できます。文法解説(『大全』)を読むのが面倒だ、という方は、まずはこれを先にダウンロードして、色々とクリックして遊んでみていただけるとありがたいです。

 ただ、まだ前回の記事内容の導入部分だけを実装した非常に簡単なソフトで、文章の内容を頭で考えながらでなければ使うことが難しくなっています。
posted by 岩崎純一 at 22:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 岩崎式日本語