2013年12月26日

アクセス解析データ書庫を公開

アクセス解析データ例1 以下のページに、ご訪問者の検索クエリ(ご訪問者が岩崎純一のウェブサイト・ブログ到達時に検索サイトで入力していたキーワード・語句)をはじめとする、アクセス解析データを公開しました。

 メインサイトに設けてあるサイト内検索での検索キーワード・語句は、メインサイト到達時に検索サイトで入力していたキーワード・語句と統合しています。このほか、アクセス数、ページビュー数、訪問者数、デバイス・OS・ブラウザ別の訪問率や行動なども見ることができます。

http://iwasakijunichi.net/analysis/
(個人情報は含まれておりません。)

法令に基づく表示
http://iwasakijunichi.net/law.html

アクセス解析データ例2 公開することで、それぞれのご訪問者様が、他のご訪問者様が私のサイト内でどのページを多くご覧になったか、私のサイトにどのような検索キーワード・語句(専門的には「検索クエリ」と言うことが適切です)でご訪問下さったかなどを参照することができ、目的の記事やコンテンツまでの到達が早くなり、サイト内で長時間迷うことも少なくなる、ということを狙いとしています。

 閲覧数の多いページはサイト内の人気ページですし、検索語句はその語句を含んだりテーマとしたりしているページがサイト内に存在することを表します。

 公開前は、我が子が共感覚を持っているらしいとおっしゃる親御様が、私のサイト内で迷いに迷って、目的の記事に到達した頃には疲れ果てていたというようなケースも多くありましたが、そのようなケースも少しずつ減ってきたと感じています。閲覧行動は閲覧者の責任と言えばそうかもしれませんが、このようなケースについてサイト管理者側でできる対策の一つが、アクセス解析の公表かと思います。

 また、私自身が、ご訪問下さっている皆様のご興味(検索語句)や流行の検索トピックを知ったり、自分の解析・プログラミング技術を磨いたり、複数のアクセス解析プログラムの精度をチェックしたりする目的も兼ねています。

 しばしば、「頻繁にサイトを訪問しているのを知られているなんて恥ずかしい」、「閲覧者のウラ側の情報が知られるのは嫌だ」と言う人がいらっしゃいますが、そもそもサイト閲覧(インターネット全般)の仕組みというのはそういうもの(閲覧者のIPアドレス、ホスト名、ブラウザ、OS、端末の種類、検索語句などの情報はサイトを見た時点で分かるもの)で、オモテ側の情報を公開しているにすぎません。

 また、運営者が特定できるのは閲覧者のIPアドレス・ホスト名などまでで、プロバイダでもない限り、直接的に個人を特定することはできません。そもそも、普通に健全なサイトを運営している人であるなら、アクセス解析をする上での目的や関心の対象は先に述べたようなことであるはずですし、自分のサイト閲覧行動を気に病む必要は全くありません。もちろん、それ以外の行動(怪しいサイトでの個人情報の入力など)は別です。

 それにしても、検索語句は、見ていて純粋に「面白い、楽しい」ですし、良くも悪くも人間の本心が見えるのは確かだと思います。そこに表れているのは、「人間が本当に興味のあること」です。これは、ネット社会において色々な意味で重要だと考えています。

 今のところは、既存の解析プログラムと私自身の独自解析の両方の方法で解析しています。Google Analyticsは検索語句が不正確または不明であるケースが多く、Webalizerは訪問者数・ページビュー数が不正確であるケースが多いなど、解析プログラムによって得意分野が異なっています。

 なお、アクセス解析の技術的なこと、解析方法については、以下の第三ブログのほうに書きましたので、ご興味のある方はご覧下さい。

当サイト・ブログのアクセス解析の方法
http://iwasaki-j-ict.sblo.jp/article/83133482.html
posted by 岩崎純一 at 10:54| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項

2013年12月20日

猪瀬都知事の辞任表明にまつわる雑感(「三島由紀夫、猪瀬直樹、石原慎太郎、天皇、戦後日本」というライン)

 ついに猪瀬直樹東京都知事が辞任を表明。16日のブログでは、精神科医や週刊誌が猪瀬氏の挙動不審・汗かきについて「ストレス障害だ」、「拘禁反応に似ている」と言い始めたことについて、周りが勝手に言い過ぎではないか、と先日批判的に書きましたが、そんな分析ももはやどこへやら、比較的元気に辞任表明していました。

 今回の一件の黒幕である一水会の木村三浩氏へのインタビューがかなり面白かったですが、表に出てしまったので、「黒幕」ではなくなってしまったといったところでしょうか。

 16日は、猪瀬氏の『ペルソナ―三島由紀夫伝』に無理矢理結びつけて書いたものの、本当に無理矢理な感じの文章になったので反省していますが・・・。

 猪瀬氏と言えば、三島論や一水会とのつながり、そして、『天皇の影法師』・『ミカドの肖像』・『土地の神話』などに見られる天皇論やいわば「西武」論(「堤家」論)など、面白いものが沢山あります。面白いと言っても、自分で言うのもおかしいですが、分かっている気になっている若造(=私)の遠吠えとしての感想みたいなものです。

 巨大資本家(堤家)と旧巨大権威(旧皇族)との複雑な利害関係などについては、少なからず嫌悪感を抱く部分もあるのですが、それも、猪瀬氏が論じてくれたおかげで、我々国民が知ることができたという面もあったと言えます。

 それにしても、まさか自分が小説に書いた三島由紀夫の割腹自決の日(11月25日)の前後に、自分がカネ絡みの問題を起こすことになろうとは、想像もできなかったと思います。

【参考動画】


 私は基本的に、西武・堤家の肥大化の仕方も松下幸之助の企業経営の手法もあまり好きではないのですが、かつて天皇の文化天皇性・祭祀的権威性(つまりは、俗世の政治・経済の動向から独立した孤高の非政治天皇性・非現世利益的存在性)のすぐ外周をめぐる内堀のような存在であった旧皇族が、そしてついには天皇までが、堤家や松下氏といった企業人に頭を下げるまでになったという点が、戦後日本の一つの象徴だと思うわけです。

 松下幸之助については、松下氏が数学者(というよりは、日本的情緒研究家と呼びたいくらいですが)の岡潔と仏教に関する対談をした時、松下氏が国民に対して、仏教解釈の観点から見て極めて不合理・不条理な見解を示していたのを見て、やはりカネ儲けが人生の第一義にある人なのだと、二十代前半だった私は思ったものです。岡潔が「仏教はそんなことは言っておらぬ」と述べていましたが、私も岡潔の仏教論が勝っていると思ったものです。

 西武の堤家については、件の猪瀬氏の『ミカドの肖像』に色々と書いてありますが、結局はこれも、西武と旧皇族とのカネのやり取り・利害関係の問題だったのだろうと思います。

 それに私は、和歌や共感覚の関連からの個人的な郷愁と言うか、ちょっとした交流から、旧皇族・旧華族の失われた文化に関心があるので、いかに西武などの巨大企業が文化の破壊に危機を感じずに戦後日本・バブル期を勢いで作り上げてきたか、また、いかに日本がそうせざるを得ない国であったか、そして、いかに旧皇族・旧華族のトップ(基本的には当主・家主)が積極的に土地を西武などの巨大企業に売ったか、そういうことを反面教師と見て、色々と考えてしまうわけです。別に私は、偏狭なナショナリストでもロイヤリストでもありませんが。

 堤家も松下氏も、少なからぬ国民から「神」と呼ばれたわけですが、ある時から、同じく少なからぬ国民にとっての「現人神」であったはずの天皇までもが「堤さんによろしく」とか「松下さんによろしく」と言って回る、つまりは「コメ・イネ・ヤマトの神」が「カネ・モノの神々」の動向を注視してこうべを垂れるようになった。「神」と呼ばれ、天皇や旧皇族・旧華族が頭を下げた相手と言えば、ミキモトの御木本幸吉など、他にもいますが。

 そもそも、元首が立憲君主ではない韓国の大統領が自国内の巨大企業であるサムスングループやLGグループに頭を下げて回るのとは、意味が違います。そこに「日本」が「日本」たる所以、「韓国」が「韓国」たる所以があるわけです。

 天皇や国民にとっての「マッカーサー様的なるもの」は、いつのまにか自国内の巨大権益に移行したというわけです。バブル期にわけが分からないままに散逸した文化人の書物、和歌の書籍などが、今でも中国や韓国や北朝鮮から発見されるなどしています。丸山眞男の遺した書籍なども、あまり日本の大学や企業が受け入れないから、中国や北朝鮮に渡っています。我々日本人自身のせいです。

 三島由紀夫はそういうもの(「日本らしさ」の散逸)に我慢がならなかったのだと思います。明治・大正・昭和の新聞にも、企業人が「神」と書かれてある場合はありました。しかしその段階では、まだ意図的なレトリックであったものが、戦後の象徴天皇制においてその空気(企業人を崇める空気)が、国民自身が気づくことがないくらいに決定的なものになったようです。

 基本的に日本の経済は、今でもそうやって動いていると思います。絶対者の超越的な目線を気にしながら家産的なカネを依法的に動かすことが、最も汚職を防ぐ道であると私は思いますが、「アブラハムの宗教」という意味での「一神教」を持たない日本ですが、それでも脳裏から絶対者の存在がスッコ抜けると、途端に官僚・政治家・企業人などが腐敗するようです。だから、今回の件も、「猪瀬氏も猪瀬氏で、自分が書いた小説のドツボに見事にハマった」と捉えてみるのはどうでしょうか。

 私の戦後日本観は、そういう観点から始まっているのですが、しかし、そういう経緯がある中で、猪瀬氏がこんな風にして、5000万円がカバンに入るだの入らないだの、押し込めば入るだのといったことで辞任していくというのは、何ともよく分からない不思議な気分です。

 そういった「光景」そのものが極めて滑稽な感じがすると言えばそれまでですが、官僚・政治家・企業人・文化人・学者など、皆で集まって早く腐りきった日本を何とかして下さい、という思いがします。私みたいな考え方をする若造から見ると、猪瀬氏の『天皇の影法師』や『ミカドの肖像』でさえ、もう死んだのだと感じるわけです。

 そう考えてみると、やはり私は、三島由紀夫の生き方と死に方に興味がありますね。一点だけ、死に方に論理的に誤謬があると私は思っているのですが(後述)、遺された死体は即物的・知覚的な意味で(つまり、お掃除が必要だった、という唯一の意味において)「汚い」ものであったかもしれないものの、死に方は、カネに「汚い」ものを一つも遺さなかった。そこは大変綺麗な死に方だったと思います。

 猪瀬氏も徳田虎雄氏も、猪瀬氏に集中砲火を浴びせた周りの人間たちも、もうそういう死に方(ここでは「身の引き方」くらいの意味)ができなくなったということに、どうしても私は絶望と滑稽さを感じてしまいます。そこには、『影法師』も『肖像』もないし、『戦後日本』もないと思うのです。今回の件も、どっちもどっちだと思ってしまいます。

 話が前後しましたが、三島由紀夫が割腹自決に至ったのは、仏教解釈の誤謬によると個人的には思います。少なくとも私の中では、中観は大乗仏教の涅槃、唯識は中観のレトリック、禅は中観の実践だと感じられていて、それはもう長年変わらないし、一生変わりようもないと思うのですが、私が思うに、三島由紀夫の場合はどうも、唯識を大乗仏教の涅槃、中観を偽善仏教者の甘え、禅を自決者に成りきれない菩薩の修行と見たのではないかと思います。そこで、唯識の実践として割腹自決をやったと思います。『豊饒の海』では、明らかに唯識が仏教の中心に置かれていますから。

 しかし、私の見解では、禅が実践するものは中観でなければならないと思います。唯識思想というのは、運用を一歩間違えるととても危険で(これは、インドの唯識の高僧たち自身もずっと自覚・指摘してきたこと)、三島のような考え方をすると、自我(「在る」ものとしてのアートマン)を超克する手法が肉体の物理的消滅以外になくなっていくし、最後は自殺と他殺(殺人)の区別がなくなります。

 私などは、原始大乗仏教の解釈にも、カミュの『シーシュポスの神話』のように、いわば「無限の挑戦」そのもの(「人生の目標・目的が無いこと」自体)が「生」であるという覚悟が入っていなければならないと考えるので、唯識を大乗仏教のゴール地点と見た三島とは異なる仏教観を持っているということは言えると、自分でも思います。

 しかし、そういうことまで含めて、本来、猪瀬氏は三島を分かっていた人ではなかったのだろうかと思うと、今回の件はつくづく残念に思います。(以下の動画をご参照。)

 旧態依然とした官僚・政治家・各党から「お前は本当に都知事なのか。作家なのだから、今すぐ家に帰ってセンチメント(感傷)で文章を書いていればいいのだ」と言われてもかまわないから、あえてノンフィクション文学のように政治をやってみてほしかったです。しかし、そんな政治は無理と言えば無理なのかもしれないですが。

 以下のような発言を見ると、やはり猪瀬氏は文学・センチメントの人だと思います。「センチメント」は、前任者石原慎太郎が最も忌み嫌う言葉・概念の一つですが、確かに猪瀬氏は石原氏よりも圧倒的にセンチメントの人だと思います。しかし、私のような若造は、誰が罵り合い殴り合おうが、その後誰と誰が仲直りしようが、バブル期は知らないので、バブル崩壊後に訪れたセンチメントなど、もはや別民族の別世界での出来事だという思いさえします。

 それにしても、そういった「利権の奪い合い」といった極めて幼稚で汚らしい人間の業が、本当に「天皇の権威借り」や「旧皇族の土地の奪い合い」といった形で表れ、それがそのまま「天皇・旧皇族の権威の絶対的肯定(肯定しておいて利用する)」かつ「企業人の良心の呵責の喪失」に直結しているという点が、三十そこそこの私から見ても最高に面白いところでもあり、また非常に嫌悪するところでもあるわけです。私も日々、東京や池袋や渋谷から電車に乗るたびに、「自分もこの電車と共に、何か大切なものを轢き殺している」ということは考えるようにしています。

「東急電鉄と西武鉄道が相互乗り入れするというのは、『ミカドの肖像』『土地の神話』の著者としては考えられない、新しい世界が生まれるなと思っている」
「戦前も戦後も、東急電鉄の社員と西武鉄道の社員が殴り合ったりしたこともあった。戦前は西武鉄道の堤康次郎、東急の五島慶太、東武の根津嘉一郎は、ものすごいライバルだった。そのライバル同士で、牙をむきだしにして戦っていた。それが東武東上線、西武池袋線が東急東横線と副都心線を介してつながっているというのは、やはり大きな交通の流れがだんだん整備されてきているなと」
(2013年3月15日 猪瀬直樹氏の定例会見より抜粋)
posted by 岩崎純一 at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2013年12月16日

5000万円あればどれほど充実した共感覚研究ができるか

 ネット上ではすでに話題になっていたので、そろそろ専門家やマスコミも言い始めるかなと思っていたら、案の定、精神科医や週刊誌がここぞとばかりに猪瀬直樹東京都知事の答弁に伴う挙動不審ぶりと汗かきぶりについて、「ストレス障害だ」、「拘禁反応に似ている」と言い始めました。

 ほとんど「猪瀬氏包囲網」の一環・便乗だと思いますが、それだけ多くの国民が憤っているということかと思います。それに加えて、いよいよ心配の声が上がって来たということなのでしょう。

猪瀬 ストレス(Googleでの検索結果)

 しかし、本来ストレス障害というのは、無実の人間が、言われなき虐待・暴力への受動的反撃、引越し・転校・転職などの環境の変化による極度の疲労、親族・友人の死による悲壮感・喪失感、残業の強制や上司からの叱責による自己否定感などに伴って発症するストレスに、そう名付けるべきものであると私は思っていて、自分の後ろめたい所業を隠し通そうとして感じるストレスは、第三者が(精神科医が)どうこう言ってどうにかなるようなものではなく、自分自身で処理するしかないと思うのです。

 後者のようなストレスには、診断名が後ろめたさを隠す口実となるのを防ぐため、そもそも診断名を付けるべきではないと私は思います。

 結局、自分を変えるのは自分しかいないと思うのです。

 ともかく、まだお縄になったわけでもないし、何でもかんでも勝手に言ったり名付けたりしないほうがよいと思うのですが。

 徳洲会系の病院の中には、まさに在野の貧しい共感覚者・共感覚研究者たちが今後の研究のために喉から手が出るほど欲しいと思っている最新機器を持っている病院がたくさんありますね。私自身は欲しくないですけれど。東大か京大あたりが徳洲会の誰かを逆に5000万円で買収して、大まじめに共感覚を研究して世の中に貢献し、共感覚者たちに成果を還元してほしいくらいです。もちろん、その場合のカネの流れは、最近流行の「特定秘密」にしてほしいです。

 と、こんな冗談も全く笑えないくらい、世の中はカネに汚い人が多すぎて、いい加減にしてくれないと、まともな国民のほうがストレス障害になりそうです。北朝鮮のように射殺・粛清されないだけマシだと思って皆悪行をやるのでしょうか。

 もし猪瀬氏が辞任したら、また都知事選ですが、今度はどの政党がどのタレントを擁立するのか、楽しみです。(皮肉)

 かつて猪瀬氏は、三島由紀夫について『ペルソナ―三島由紀夫伝』を書きましたが、まさにその三島由紀夫が「僕にとっては自民党も共産党も同じもの」だと述べたのでした。私もその通りだと思います。もっと言うと、民主党も、公明党も、みんなの党も、そこから最近分裂した政党(名称未定)も、社民党も、都知事も、都議会も、同じものに見えます。私の個人的見解ですが。
posted by 岩崎純一 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論