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タグ:音楽 作曲
posted by 岩崎純一 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の作品

2014年02月06日

「ゴースト知覚業」(知覚代理ビジネス)は成り立つか ― ゴーストライティング時代の次の時代における「知覚原作権」の概念 ―

 今回は、共感覚者としてゴーストライティングの問題を考えてみたいと思います。


■佐村河内守氏のゴーストライター問題

 佐村河内守氏の問題で大変なことになっていますね。

 著作権は、「表現(されたもの)」に生じるのであって、「アイデア」には生じない。―――これは現代の先進国の著作権法の常識ですが、今回も譜面に「表現」したのはゴーストライター新垣隆氏のほうだったというわけです。

 佐村河内氏が新垣氏に渡したと見られる作品案メモが公開され、これ自体は佐村河内氏の著作物ですが、佐村河内氏は今まで、「作品案メモだけでなく、譜面も自分が書いている」と主張してきたわけで、残念ながら嘘であることに変わりはないですね。

 それに、佐村河内氏は、(本物であるはずの)著作者としての自分の名前と聴覚障害にお金を出してくれた人々(特に震災の被災地域の方々と広島の被曝者の方々)の善意で生活していたわけで、一部で言われているように、景品表示法違反や詐欺罪の匂いも確かに見えてきましたね。

 しかし、今のところは「民事での損害賠償だけは確実」という程度のようです。

 NHKで放映された佐村河内氏のドキュメンタリーは、「何だかヘンだなあ」という違和感を持ちながらも、私も感動を持って見ました。今思えば、その感動は、佐村河内氏のそばにいた被災地域の子供たちへの感動とごちゃ混ぜになっていたかもしれませんが・・・。

「作曲する時間は神聖な時間だから」という理由で、撮影を拒否していましたが、まさかあの部屋で楽譜が書かれていないとはさすがに思いませんでした。氏は、「岩の隙間を伝い降りてくるようなその音こそが自分にとっての真実の音」である旨を述べていましたが、代わりにその部屋に、オーケストレーションの勉強家がよく使うベルリオーズ&R・シュトラウスや伊福部昭やウォルター・ピストンの『管弦楽法』の分厚い本が、皮肉にも降ってきてほしい気分になりました。

 ただ、野本由紀夫氏などの音楽学者が佐村河内氏を絶賛しているほか、私が好きな作曲家の三枝成彰氏や吉松隆氏など、音楽界でも比較的異端派の憂き目を経験してきた作曲家・音楽家でさえ、部分的には佐村河内氏の擁護に回っているのが、少し気になります。ただし、後者の作曲家の皆様も、当初から佐村河内氏への高い評価と賞賛を公に表明してきた方々ばかりですので、今回に際しても突如として批判側に回るわけにいかないのかもしれません。

 しかしながら、これらの方々も、佐村河内氏のプロデューサー的能力を買ってはいるものの、音楽家としての行動については批判している部分もあるようです。

 それにしても、「自分の作品は自分で創っているだろう」という音楽の素人としての、あるいは、「障害者は人に悪いことなんてしないだろう」という障害者性善説の純粋な信奉者としての一般国民(特に被災地域の子供たち)が持つ文脈を利用したビジネスが、芸術やマスコミの世界では普通に見られるのだということを、改めて思い知らされます。


■「アイデア」のさらに底にあるもの

 ところで、冒頭にも書いたように、著作権法をはじめ、日本の現行の法律は「表現」を守ってくれる一方で、「アイデア」は守ってくれず、それはそれで「人の頭の中のことなど分からぬ」という法の精神が見えて良いわけです。「犯罪を頭の中で計画する」ことと「犯罪を実行する」こととが、哲学上・道義上は分かりませんが、法的には全くの別物であるのと同じです。

 しかし、共感覚者の私としては前々から、近未来の法律は「個人の知覚」を守ってくれるかどうかという問題に関心があります。

 そういうわけで、まず、「知覚」を法的に守るためには「表現」と「アイデア」の両方が法的に守られていなければならない、という話をします。

 一般的に、「表現」は「アイデア」があって生まれるもの、「アイデア」は「知覚(感覚・五感・共感覚など。ここでは、認知・認識なども総称しているものとする。)」があって生まれるものですが、現行の著作権法が守っているのは、以下の(3)「表現」だけです。

 例えば、私は共感覚(という独自の感覚)を持っていますが、今現在は、法的に保護されているのは、私の共感覚ではなく、私の共感覚に関する著作物やサイトコンテンツのみですね。

人間が作品を生み出す一般的な過程
(1)「知覚・認知」--->(2)「アイデア」--->(3)「表現」


 これに対して、「アイデアなくして生まれた表現」とか、「五感を離れたアイデア」という人もいるかもしれず、それはそれで立派なレトリックですが、ここではそういうことではなくて、純粋に法整備のあり方が芸術・科学技術の発展に対して持つべき相関性を考えます。

 今回のゴーストライティングの件もすでに、作品に直接的に使われた絶対音感がゴーストライター新垣氏のものだったという点が、まさに私の興味を引きます。

(昼間の新垣氏の会見により、佐村河内氏に聴力があることが大方判明し、少なくとも氏が持っていると主張してきた絶対音感が「過去の記憶」ではなく「現在の聴力」に基づくものであるか、その絶対音感自体がないかのどちらかであることが分かってきたわけですが、そのことはここでは横に置きます。)

 ともかく、佐村河内氏の多くの楽曲に用いられた五感・絶対音感・創造力などは、新垣氏の脳が有するそれらであるという点が、共感覚や絶対音感を持っている私としては、極めて重要に、かつ気の毒に、そして滑稽に感じられます。

 もっと言うと、私も今回の件は、新垣氏が自身を「共犯者」と述べたように、両者に責任があると思いますが、私としては、新垣氏が自身の芸術能力なり絶対音感なり感性を使って作ったものを、佐村河内氏が「自分の絶対音感を使った」と述べているところに、「人の感性の側面を守りきれない現行法の不甲斐なさ」、そして、「知覚原保持者・感覚原作者が持つ能力を法的に保護する時代の到来の必要性」を感じます。

(「知覚・感覚の原作」とか「知覚原作権」という造語を使いますが、これは「人間が知覚を持つ」ことを「その人間が知覚を創作している」と見なした場合の用語だと思って下さい。)

 この点を突き詰めることは、世界的に生まれつつある未来型の「知覚代理ビジネス」への過渡期としての今を考える上で重要だと思います。

 今現在、主に世にあるゴーストライター問題は、まだ「物理的に鑑賞可能な」芸術作品や・著書・ウェブコンテンツ(サイト・ブログの文章・画像など)、つまり(3)についてのゴーストライター問題のみですが、いずれはゴースト知覚者、つまりは知覚や愛、幸・不幸、喜怒哀楽を脳電位・脳細胞・遺伝子レベルで代理プロデュースするような仕事、ゴースト知覚・ゴースト認知業が生まれ、それに対する法整備を人間は要求される未来が必ず到来するというのが、私の考えというか、予想・予感です。(私自身は、そんな時代の到来自体が嫌ですが。)

「特許」という概念がありますが、この場合、アメリカでは「著作権者や発明家がそのアイデアを発想した年月日を証明する数名の人物による記録・メモがあり、かつそれが捏造でないことが示されるならば、その年月日を特許出願日やアイデアの記録開始日からさかのぼって特許取得日とできる」旨が定められているので、アメリカは(2)を法的にも積極的に保護している社会と言えます。

 ヨーロッパ・EUや日本の著作権法や特許法は、保守的と言うか、それはそれでアメリカ型の自由社会・個人主義社会とは異なる歩みがありますので、(2)は積極的には保護されていませんね。

 つまり、特許の世界では、アメリカは「思いついた者勝ち」、ヨーロッパ・EUや日本は「作った者勝ち」という現状だと言えます。


■現在は「ゴースト知覚業」の黎明期

 さて、今回の新垣隆氏の創造性や音感、そして心身の不自由や未成長などの理由から創造性や音感を物理的な著作物として表現できない成人や子供が持つようなそれらである(1)を保護すべき社会を考えるために、例えば、「ゴースト共感覚業」というものを考えてみます。

 ここで、私(岩崎純一)の共感覚が嘘だったとしてみましょう。

「実は岩崎純一が見ている色は、別人のゴースト共感覚者が見ている色で、実験の際は実験室の外にいるゴースト共感覚者に瞬時に問題を送信し、ゴースト共感覚者が色を見て、直後に岩崎に返信する」

というようなことになるでしょう。あるいは、

「事前に本物の共感覚者であるゴースト共感覚者が見た数千字の色を、岩崎純一が暗記または記録しておき、それを答えている」

というようなことになるでしょう。「共感覚」がギリシャ語由来の英単語”synaesthesia”の訳語であることを考えると、いわば”synghostaesthesia”(シンゴーステステジア・ゴースト共感覚・共幽霊知覚)などといったところでしょうか。

 もし本当にそんなことをやったら、実際に大学や研究機関での実験では、謝礼・対価が出ていますし、それは、私の共感覚を先方が評価し買ってくれているということですから、明らかにこちらの騙し行為ですね。この形式での欺瞞が大規模化すれば、もしかしたら現行法においても、私とゴースト共感覚者が研究者・論文執筆者に刑事上の詐欺行為をはたらいたことになるでしょう。

 もちろん、さすがにゴースト共感覚業では、こんな程度の一日でバレるような小技の著作権法違反や詐欺行為しかできず、色々なゴースト知覚業の中でも、特にゴースト共感覚業なる商売は、今後も生まれにくいでしょうね。

 しかし、ここで重要なのは、現行法のままでは、中小規模のゴースト知覚業による騙し・欺きであれば、(現行法は、「知覚」そのものの電磁気的・化学的記録を想定していないから)どこまでも合法であり得るという点です。

 実際、現行法では刑事事件に問われないような、いわば「知覚代作業」・「感性代理業」が、色々と議論されています。

 例えば、海外の特殊知覚研究者の間では、脳電位・電磁気的データの他人への移管技術やヒトゲノムの操作技術が確立するであろう将来に、共感覚や絶対音感、直観像記憶、発達障害者が持つサヴァン的な芸術・数学能力などを電気信号レベル・遺伝子レベルで売買する話や、共感覚代作・代理業の話も出ています。

 もっとも、このような知覚データの保存・移管・共有などが成功したかどうかの判断には、ある種の「べムの自己知覚理論」のようなものが必要かもしれません。これは、「人間は、自分自身の行動を見て、自己の情動状態や態度、価値観などを自覚する」というものです。

 例えば、鉄道好きの人がなぜ自身がそうだと分かるかと言うと、好きという感情を持っているからという「内的理由」によるのではなく、手元に自分が撮った鉄道の写真がたくさんあることを知ったからという「外的理由」によるとするわけです。

 つまり、ハードウェア(入れ物)としての人体(脳)にソフトウェア的な記号列である知覚データをインストールしたりコピーしたりしようと試みたとき、それが成功したかどうか(本当に他人の知覚を得ることができたかどうか、など)が外的理由の変化によって確認できると我々人間が考えていなければ、知覚代理ビジネスは成り立ちません。

 ともかく、これらは、「(自身の外部の時空間に物理的になされた)表現」でも「(自身の脳が生み出した)アイデア」でもなく、「(自身の脳電位活動が示している)知覚」ですから、現行法では著作物にも特許にもなり得ません。


■「知覚原作権」の概念(知覚のコピー元の人物の脳活動についての法的な保護)

 そうなると、違法な知覚のコピーや改竄を防止するため、どう考えても知覚の原作者、つまりはその知覚を最初に有していたコピー元人物(共感覚者や発達障害者など)の「知覚の著作権」の保護のようなものを考えざるを得ません。

 ここで、「自分の共感覚そのものを売るなんて、ずるいのではないか」と言う人がいるかもしれませんが、すでに我々は「表現」と「アイデア」を売り買いし合う社会に生きているわけです。

 将来的に大人が我が子らの「知覚」、英語能力や数学能力を脳のニューロン・電磁気レベルで売り買いし合う社会が来るのは、必然かもしれません。それは、「知覚」を法的に保護し、保護された「知覚」への侵害を犯罪・親告罪(知覚原作者が侵害者を訴えると、侵害者が刑事罰に問われる)としなければ人類が困る時代であると言えると思います。そこでは、知覚の売買のうち、どのようなものが「知覚原保持権」ないし「知覚原作権」への侵害に当たるかが問題になるはずです。

 今回の件で言うと、ゴーストライター新垣氏が佐村河内氏に代わって実際に手書きした譜面や二人の間でやり取りされた書類(現行法において著作権法違反、景品表示法違反、詐欺罪の物的証拠となりうるもの)だけではなく、佐村河内氏に代わって作品制作に用いた新垣氏自身の絶対音感も法的な係争の対象となる時代が来るだろうということです。

 面白い話として、“ghostwrite”(ゴーストライトする、代作する)は既存の英単語で、本当にゴーストライティングが流行した時代に生まれていますが、いずれは、”ghostperceive”(ゴースト知覚する、他人に代わって感じる)という概念や単語も出てくるかもしれませんし、”ghostlove”(他人に代わって愛する)ことも未来にはあり得るのかもしれません。

I ghostlove you.(私は誰かの代わりにあなたを愛しています。)
Ghostthanks.(誰かに代わってありがとう。)

などという会話が出てきそうなものです。疑似恋愛・代理恋愛というものは、すでに日本でも性風俗業の一種などとして人気のようで、ニュースで見るたびにそういう風俗趣味が実在するという意味を取るのに時間がかかるくらいですが、これも同じような発想でのビジネスなのだと思います。

 今回の件で分かったことは、「どんなに無名であっても自分の作品(芸術作品から普段の日記まで含めて)を自分で創り、綴っている人が、どんなに自分を誇っていいか」ということに加えて、「人を信じ愛することは、自分の脳が創造した幻像・物語を信じ愛することである」ということかもしれません。

 しかし、それでも人を信じ愛することを諦めないことは、それがカミュが描いたシーシュポスの徒労のようなものであっても、いつまでも人間にとって重要なことなのかもしれません。

 ともかく、他人の代わりにゴースト作曲する仕事どころか、他人の代わりに絶対音感や共感覚を感じるゴースト知覚業が今にも出てきそうな世相だと思います。


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posted by 岩崎純一 at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 共感覚論