2014年03月24日

今日の雑感(科学雑誌の悲劇、ウクライナ情勢)

 書店に立ち寄った。STAP細胞論文問題が発覚する前に執筆・編集済みだった賞賛記事が掲載された科学雑誌の発売ラッシュ期間が、大体は終了した模様だ。

 自分が見た中では、『Newton』のような良質な大衆向け雑誌ほど気の毒な感じがした。嘘を大量にばら撒くことになるし、小保方晴子氏周辺の人間関係を根掘り葉掘り書く芸能系週刊誌と違って、「科学雑誌」だからという理由で、大衆から信用されているし、嘘だとは思われにくい。

「被害者であると同時に、知らず知らずのうちに加害者にもなってしまう」というのは、パソコンのセキュリティを疎かにしている人やパソコン初心者が知らず知らずのうちにマルウェアをばら撒いていることについて警鐘を鳴らす時にも、よく使われるフレーズなのであった。しかし、今回は科学雑誌側の不注意でこんなことになったわけではないし、あとは読者の見識が物を言うということだと思う。

『Newton』はまだ店頭に大量にあるが、明後日の新号発売で何とか収拾はつくのだろうか。すでに公式サイトには謝罪や近況報告を載せている。

 あとは、英語論文からの盗作問題などの検証が残っているようだ。STAP細胞が、言葉だけで紡ぎ出された架空のものなのか、本当にあるのか、それも片付いていない。


『Newton』公式サイトより

4月号掲載の「STAP細胞」に関する記事について
http://www.newtonpress.co.jp/201404_STAP.html

「STAP細胞」の論文をめぐる問題についての状況報告
http://www.newtonpress.co.jp/201405_STAP.html


 全く話は変わるが、言葉関連で最近気になる話題ということで、無理矢理つなげて、ウクライナ情勢。

 私は、ウクライナの芸術もロシアの芸術も好きだし、最近では、かつて二十代前半の時期によく聴いていたプログレ・ゴシック・トラッド系音楽(ウクライナの女性バンドFleurなど)を改めて聴いているが、ウクライナのこれらのポップスは、英語・西欧語で歌うバンドとロシア語で歌うバンドとに分かれている状況だ。ソ連崩壊から今もずっと、その傾向である。

 もちろん、母語であるウクライナ語で歌っている場合も多いが、国外に出る時、ウクライナのトラッド系バンドは、普通に「英語は嫌」、「ロシア語は嫌」といった発言をし、どちらかの立場に立つかを表明することも多い。しかし、ハンガリーやベラルーシも大体同じ状況なので、こういった問題はソ連崩壊後の東欧全般が抱えるものなのだろう。

 Karfagen、EDENIANなどを聴きつつ、ウクライナの平和を願うことにする。


【追記 2014/3/25】
 本日、NHK・民放各局が、小保方氏らがSTAP細胞としていた細胞が実際はES細胞であった可能性があると公式に報道。
posted by 岩崎純一 at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2014年03月23日

『絵画を理解するための三つの契機』

 サイトのコラボレーション芸術のページに新作品を掲載しました。

 アーティスト、岡崎莉望様とのコラボレーションです。岡崎莉望様がご提供下さったこの絵画を、私が解釈する形で作曲しました。

◆『絵画を理解するための三つの契機』 2014
画:岡崎莉望 曲:岩崎純一

【テーマ概要】
 自己以前(胎内)、自己(現実世界)、自己以後(彼岸)の三つの部分から成る。彼岸に向かって、回転しながら落ちてゆき、還ってゆくための青い螺旋階段。
 生きるとは、どういうことなのか。テンポの遅い彼岸と、テンポの速い現実世界とは、順序が逆転している。自己が自己として苦しむ現実世界が最後を飾る。

MP3で聴く
posted by 岩崎純一 at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の作品

2014年03月15日

『ちいさなちいさな王様』から学びたいこと ―撤回する必要のない、小保方晴子氏の子供時代の「論文」―

 15日の中日新聞・東京新聞の朝刊など数紙は、小保方晴子氏らが論文を改竄していただけでなく、1月以来盛んにテレビに映されたきらびやかな色彩の実験室や白い割烹着が演出・メディア戦略であり、直前に意図的に準備されていたものであったと報じた。(今日の時点では、テレビは報じていない。)

「会見に備え、理研広報チームと笹井氏、小保方氏が1カ月前からピンクや黄色の実験室を準備し、かっぽう着のアイデアも思いついた。」

http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20140315070914336

 どこまで裏が取れているのかは分からないが、ここ最近、マスコミの報道のみならず、科学者たちのコメントを見る限りでは、今回のSTAP細胞問題(もはやSTAP細胞問題でさえない公金詐取疑惑問題)は白黒はっきりした気がしないでもない。

 なお残されている(ものすごく苦し紛れの)可能性の一つに、小保方氏・理研が主導する第二次ソーカル事件・知的詐欺(Impostures Intellectuelles)があるが、「女性」・「フェミニズム」・「若返り」といった、今回の件とソーカル事件の両方に関係する言葉から今私が勝手に思いついただけの冗談で、あり得ないことだと思う。と思いきや、何人かの識者が本気でソーカル事件との類似性を語っているのが、かなり恐ろしい。

 今さら意図的に虚構論文を作成・公表し、それにまんまと引っかかるマスコミ・大衆の知の低俗ぶりを示す哲学的大実験をしたところで、真剣に受け止めるような土壌は今の日本にはないと思うし、とにもかくにも今回の件は、マスコミや大衆が単に騒ぐだけでは問題にならなかった、つまりは本当に論文が悪質であったから問題になったのではないだろうか。

 しかし同時に、小保方氏が中学二年生の時に書き、金賞を取ったという(こればかりは虚偽・捏造でないという前提で書くが)、読書感想文の断片を読み、やはり小保方氏にも何の脚色もなく自らの心を書き出せる子供時代があったのだという思いを持った。『ちいさなちいさな王様』(アクセル・ハッケ)という本についての感想文だ。

 むしろ、図らずも感銘を受けてしまったというのが正直なところだ。

 同じく現在も中日新聞・東京新聞が頑張って紹介・掲載しているが、そのうち他の著名紙と同様に、消されるかもしれない。マスコミが「リケジョ・割烹着」と持ち上げていた1月〜2月にも、テレビで何度か紹介されていたが、テレビはすでに小保方氏批判に回っている状況だし、ネット新聞のこういった記事も消されていくと思う。また、消されても仕方がないと思う。

http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20140131071017792

「私は大人になりたくない。日々感じていることがあるからだ。それは、自分がだんだん小さくなっているということ。もちろん体ではない。夢や心の世界がである。」

「小さな王様は、人間の本当の姿なのだと思う。本当はみんな王様だったのだと思う。ただ、みんな大人という仮面をかぶり、社会に適応し、現実と戦っていくうちに、忘れてしまったのだと思う」

「どちらがいいのかは、わからない。また、私がこの先どちらの道に進むのかも」

 この読書感想文こそ、それ以降に切り貼りして作られた改竄論文に勝る、小保方氏の真の「創造物」だったのではないかという気がする。

 私見ではあるが、小保方氏は、例えばキルケゴールの『あれか、これか』("Enten-Eller")の実践方法を途中から誤った人であると言えるかもしれないと思う。

 なぜならば、虚構・創作・捏造といったことが許される(と氏が誤って判断した)審美的実存が、その不正が露呈したことで今やっと終焉を迎えるチャンスを迎えたにもかかわらず、さらに審美的な口実を反復する道を選んでしまっていると思うからだ。

 もちろん、小保方氏の審美的実存自体が、最初からキルケゴールの言うそれからはかなり外れたものだったと思う。キルケゴールに言わせれば、審美的実存は、それ自体は実存の完成形ではないが、実存の完成形である宗教的実存への契機になっていなければならない。

 つまり、「私はこうありたい」願望が「実際はこうである」現実によってくじかれることの甘受が「大人になること」ではあるが、「私はこうありたい」願望そのものが、小保方氏は間違っていたということにはなるのだと思う。

 しかし、キルケゴールは今の小保方氏と全く同じ30歳の時に、なお純粋な子供のような苦しみを持って、改竄論文ではなく、この哲学的著作を書いたのだ。

 キルケゴールの『誘惑者の日記』だけを読んだ人には、「あれか、これか」という人生の問いは、「恋愛か、結婚か」といった問いに映るし、その問いも大変に重要なのだが、その問いの根底にあるのは、結局のところ「人間は、子供のままでいるか、大人になるべきか」、「夢を持ち続けるか、夢を捨てるか」という問いなのであり、子供の本質とは「大人になる違和感」そのものなのだ。

 子供にとって大人とは、「社会的にうまくやる人」、「適度に嘘をつき、捏造して、世を渡る人」であり、そもそも「大人になること」、「社会に出ること」自体が何らかの捏造であることを、キルケゴールも『ちいさなちいさな王様』も見抜いているのだ。

 そして、少なくとも子供時代の小保方氏は、そういった「大人への違和感」を持っていた。この審美的実存が正しく発展すれば、非常に格の高い、一般の女性よりも少女的でありつつ知的な大人の女性でもあるような、あるいは宗教的であるとさえ言える科学者になれたのではないかと思う。

「唯一許された剽窃は愛である」というのがどの哲学者の言葉(アフォリズム)だったか忘れたが、そもそも「人のモノ(物品・著作物など)」を盗みたい、自分のものとして使いたいと思うのは、その人やモノに強く憧れすぎている(好きでありすぎる・愛しすぎている)からであるけれども、盗むのは愛だけにとどめよ、というような意味だった。

 人の命や体について考えさせられる東日本大震災の3月11日やソチ・パラリンピック期間が過ぎてゆく中、どうもがいたところで、人の命や体に関わる虚構を作り出した小保方氏の道義的な罪や、信用の凋落という結果は変わるわけではないと思うが、少なくとも、「人間は、元々嘘をつくのではない。嘘をつくようになってゆき、真のちいさなちいさな王様ではなくなってゆくのだ」ということだけは、信じたい気分だ。

 ソーカルは、かつて「王様は裸だ」という比喩を使った。そして、小保方氏は、『ちいさなちいさな王様』を読んで葛藤した。こんなこじつけの冗談・創作ミステリーを自分のような素人が言っている場合ではないとは思うが、ともかく私は、「人間のつく嘘」に大変興味がある。


【関連するブログ記事】

我々人間が作り出す様々な虚構について
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/60189340.html

続:我々人間が作り出す様々な虚構について
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/90201186.html

「ゴースト知覚業」(知覚代理ビジネス)は成り立つか ― ゴーストライティング時代の次の時代における「知覚原作権」の概念 ―
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/86749957.html
posted by 岩崎純一 at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2014年03月11日

続:我々人間が作り出す様々な虚構について

 先日、全聾詐称・ゴーストライター問題についての佐村河内守氏の会見を録画しておいたが、何日かに分けて食事・家事・読書などの最中に、いつのまにかほぼ全て見てしまった。

 何人かの記者やアナウンサーの質問に手話通訳を通さずに思わず即答したことにより、更なる疑惑が浮上する中、今度は堀江貴文氏にも疑惑が浮上しているようである。

 自分としては、今回の会見を見たところで、ゴーストライター新垣氏の会見の当日の2月6日に書いたブログ記事から、感想は全く変わっていない。

「ゴースト知覚業」(知覚代理ビジネス)は成り立つか ― ゴーストライティング時代の次の時代における「知覚原作権」の概念 ―
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/86749957.html

 そもそも私の関心は、「人間はどうして嘘をつくのか」という点だ。私が変なのかもしれないが、基本的に私は、自分が家、職場、友人との関係、単なる知人との関係など様々な場所や関係において顔色や言葉遣いを変えることも一種の許された「嘘」だと言えると考えている。

 もちろん、このように許された嘘もあるかもしれないが、それは「今の常識として」「近代の人権に照らして」「法的に」許されているものであって、「哲学的に」「原罪に照らして」「仏法的に」許されたものかどうかなんてことは、人間には分からない。私が感じている感覚としては、そこに堂々と佇むだけで昔からびくともしない富士山に向かって「俺は嘘をついたことがない人間です」とは絶対に言えない、というものに近い。

 この私の考えをあるクリスチャンの方に言うと「あなたも神を見ている!」と言われるし、ある仏教徒の方に言うと「仏法をよくご存じ!」と言われるが、これとて神や仏法に反する傲慢な「嘘」かもしれない。そもそも、宗教団体に入るということ自体が反宗教的であると神や仏は言うかもしれない。

 一昨年の森口尚史氏のiPS細胞の臨床応用の捏造の際にも、誰がどんな悪行をやったかという具体例以前に、人間が生み出す「虚構」ないし「嘘をつくという行為そのもの」について関心が出てきたので、以下の記事を書いたことを思い出した。

我々人間が作り出す様々な虚構について
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/60189340.html

 ところで、今度は理研のSTAP細胞の論文にまで疑惑が浮上していて、これがもし本当だとしたら、いよいよ文化・芸術だけでなく自然科学の分野でも、海外からの日本に対する信頼性に影響が出そうだ。

 命について考えさせられる今日のこの3月11日、東日本大震災の発生日に、将来に渡り命にかかわる重大な研究論文への疑いが決定的になったのは、本当に残念だ。(STAP細胞関連論文の取り下げの呼びかけ)

 今回の論文のみならず、博士論文も含め、素人なりに私も読んでみたが、様々な部分においてデータや画像の剽窃・盗用・流用・改変などが見られることが明らかになっているため、「そもそもSTAP細胞なるものが存在するのか」ということが唯一残る最後の疑念になっているようだ。日本分子生物学会も、「単純ミス」などではなく「作為的な改変」であるとの厳しい言葉で声明を発表している。

 命を産み落とすはずの女性が博士論文の時期以来、主導的・常習的に剽窃・盗用・捏造などに関わっているとなれば、実に腹立たしいことだし、世のお母さん方が小保方晴子氏や理研関係者に憤怒の声を上げてもいいくらいだと感じるが、とりあえず、佐村河内氏問題も含めて、誰がやったかということ以前に、「人はなぜ嘘をつくのか」を知りたい。

 そして、「嘘をつく人間をひたすら責め立てる」のではなく、「自らも嘘をつく人間という生き物の一人であるが、なぜ自分は、佐村河内氏の嘘や小保方氏・理研の不正を人としておかしいと感じることができ、そのような自分の価値観を正しいと信ずることができるのだろうか」ということに思い至り、そこを真剣に自分の生き方や生活に照らして考えることが大切だと思う。

 佐村河内氏と、佐村河内氏に批判の集中砲火を浴びせた記者たちの、どちらが「正しい人間か」という問いの答えも、本当は、「自分が生きている現代の常識や法や倫理に照らして考えること」と「原理的に考えること」の両方が必要ではないかと思う。

 ところで、新垣氏は自信が作曲した曲の権利について「放棄したい」と述べた一方で、佐村河内氏は自分にも著作権があると主張していたので、今度は、全聾の捏造に伴う公金の不当な詐取疑惑に加えて、各種権利や印税が佐村河内氏にばかり集中しないようにする必要が出てきたように思う。

 新垣氏は新垣氏で、(意図せずとも)まずい発言をおこなっているとも言えるのは、一身専属権である著作者人格権をもひっくるめて放棄できると考えているらしいところ、つまり、およそ法学的にはあり得ない意識を芸術や著作物について持って生きているところで、その点がまさに「徹底的にゴーストを全うしようとしている」態度だとも言えそうだが、「全聾・被曝二世・現代のベートーヴェン、佐村河内守」が生まれたのは、新垣氏のこの、徹頭徹尾芸術畑を歩み、芸術だけを見て、世俗権益を見ない人間性にもよるものであると、改めて感じた。

「庇(軒)を貸して母屋を取られる」とはよく言ったもので、ちょっと芸術能力や絶対音感を貸したつもりが、借り主に会見で「イエスマン」と言わしめるほどのゴーストライターになってしまった。

 これに対して、佐村河内氏のほうは、著作者と著作権者の分離といった法的な概念、クラシック音楽で言ういわゆる「現代音楽」に対する調性音楽の復権、伝音性難聴と感音性難聴の違いと外耳・中耳・内耳の解説などを会見で解説していた。こんなことなら、その知恵と知識を本物の芸術創作に費やせばよかったのではないかと思うが、そうはいかなかったようである。

 やはり、どちらが良い悪いというよりは、そもそも人間が嘘をつくというのはどういうことなのか、嘘を止めるためにはやはり法や宗教が必要なのか、家庭と職場と友人と知人の前のそれぞれの場で顔色や言動を変える我々自身は本当に佐村河内氏よりも嘘つきでないと言えるのか、それでもなぜ佐村河内氏の行いが不当であると我々に実感されるのか、そういったことをこれからも考えたい。

 ところで、テレビに出るコメンテーターたちが、佐村河内氏を精神病であると述べていたが、認識の正しい精神科医が反論していたように、佐村河内氏はパーソナリティーの障害であって、精神病ではないから、やはり一般国民の多くは、パーソナリティーの障害のことを俗語で「精神病」と呼んでいるようだと改めて思った。

 ただ、現在は、かつての境界例(ボーダー)のように境界性パーソナリティー障害の診断を乱発してこのような人格の人と向き合う風潮ではないし、いわゆる虚言癖または法的な詐欺として処理されるか、あるいはミュンヒハウゼン症候群という判断もそのうち出てきそうな気もする。

 さて、それはともかく、『現代典礼』が『交響曲第一番 HIROSHIMA』になったように、今度は『交響曲第二番 NAGASAKI』などとして出回る前に、権利関係の手を打たないといけないはずなのだが、いっそのこと「パブリックドメイン交響曲」なる概念を新設して、音大生や音楽ファンが誰でも自由に和声やオーケストレーションの変更や編曲の練習ができるようにするという手もあるのではないかと思う。つまりは、本歌取りが自由にできる和歌のようなものである。

 そもそも、日本人・日本のマスコミ自らが、漢字の「広島」ではなく、横文字の「HIROSHIMA」を傷つけたというところが、非常に恥ずかしい点であるわけだし、「この曲を自由に切り貼りして使って下さい」と世界に言って回るのも手かなと思う。と言ってみたところで、世界から嫌がられるかもしれないが・・・。

 パブリックドメインと言うと、ネット上の著作物・コンテンツやアプリケーションソフト・プログラムとの相性が良い概念ではあるが、新垣氏の(法学的には摩訶不思議な認識ではあるが、ゴーストライターという過去の自分を丸ごと忘れ去りたいというような気持ちから生じているかもしれない)著作権放棄の願望は満たすことができるのではないかと思う。

 それにしても、佐村河内・新垣両氏の問題や、小保方晴子氏・理研の剽窃・盗用・流用・コラージュ論文問題が分かった今でも、人類史上にアドルフ・ヴェルフリという巨人がいる限り、どんな詐称も無力かもしれない。

 自称聖アドルフ二世・作曲家・指揮者・画家・作家・詩人・コラージュ作家・大元帥・暴力的戦勝者。ゴーストライター無し。両親からの虐待を受けて育ち、精神を病み、何度も幼女暴行事件を起こして逮捕され、有罪判決を受ける。精神病院に収容され、さらに精神を病む中、多くの芸術作品を残す。妄想の中で、222名の花嫁たちと「聖アドルフ結婚団」を結成。『葬送行進曲』を遺し死去。

 ヴェルフリの芸術は、彼が精神病であるがために「詐称」ではなく「真の妄想」であり、彼が世俗権益に無頓着であるがために「詐欺」ではなく「無償の芸」であり、彼がゴーストライターを雇わず自分で生み出しているがために「捏造」ではなく「本当の創造」だと言える。(しかし、何人もの少女を襲い、殺している可能性があり、もし冤罪でないなら、こればかりは擁護のしようがないが。)

 巨大総合芸術を後世まで遺した人と言えば、真っ先に思い出すのが彼である。最近の虚構・捏造ブームを止める手段の一つとして、日本人皆でヴェルフリの巨大総合芸術の破天荒ぶりを勉強することを提案します。


【参照】

日本分子生物学会の理事長声明
http://www.mbsj.jp/admins/statement/20140311_seimei.pdf

学者・専門家・アマチュア科学者などが指摘している小保方晴子氏及び理研に対する疑惑の一覧
http://stapcells.blogspot.jp/


【関連するブログ記事】

我々人間が作り出す様々な虚構について
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/60189340.html

「ゴースト知覚業」(知覚代理ビジネス)は成り立つか ― ゴーストライティング時代の次の時代における「知覚原作権」の概念 ―
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/86749957.html

『ちいさなちいさな王様』から学びたいこと ―撤回する必要のない、小保方晴子氏の子供時代の「論文」―
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/90525685.html
posted by 岩崎純一 at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論