2014年04月30日

共感覚と強迫性障害の違い

 昨日、テレビで強迫性障害についての特集があったからか、「強迫性障害」のワード検索でのご訪問が今日は多かったですね。

 私のサイトでは、以下のページで解説しています。精神医学的な定義と私個人の罹患者との交流とに分けて書いています。

不安障害・恐怖症・強迫性障害・PTSD
http://iwasakijunichi.net/seishin/fuan.html

 ところで、共感覚は時々強迫性障害と誤診されます。「ひらがなの“あ”が青色に見える」といったこだわりが、「数字の4は死を連想させて不吉だから、4に関係する行動や4が付く日の人との約束を避ける」、「玄関のカギを何度も確かめなければ気が済まない」といった強迫観念と似たものに見えるからだと思います。

 私は、十年ほど前に自分の感覚を、最初からインターネットで調べて強迫型・恐怖症型の症状や疾患ではないと確信して、のちに具体的に「共感覚」だと見極めたのですが、周りには、そういう確信を持てないうちに、実際に友人から心療内科を勧められたり、強迫性障害だと誤診されたりした人がいます。

 それではさすがにマズいということで、共感覚と強迫性障害の共通点と相違点を書いてみます。

 もちろん、「“あ”は青色だから、“あ”を青色以外で書く人との交流は避ける」などと言い始めたら、それは強迫性障害の仲間入りだし、どちらかと言うと強迫性パーソナリティー障害に近いもので、心療内科に行った方がよいということになりますが・・・。

 強迫性障害で有名な二大症状には、「過剰な手洗い」(洗浄強迫)と「玄関のカギの過剰な確認」(確認強迫)がありますね。過剰の程度がどのくらいかと言うと、手が荒れてかえって不健康になるまで手を洗ったり、家の玄関のカギが気になって、途中で旅行をやめて帰ってきて確認し、それでもまだ気になって自殺を考えたり、そういうものを強迫性障害と言います。

 昨日強迫性障害として出た例には、「外出先から帰ってきたら、手洗い・うがいを何回もするだけでなく財布・お金そのものまで洗う」、「数字の4に関係する行動を片っ端から避ける(1階から4階に行く時は、4階のボタンを押すのが怖いので、一度3階で降りてから階段で上がる、時刻の数字の中に4がある時には不吉なので動かない)」などがありました。(数字の例で分かるように、信じている宗教・習俗、属している民族・文化圏によってトリガーや症状が異なります。)

 過剰に手や物を洗う人は二人出ていましたが、一人は、痴漢被害以降に男性を不潔だと思うようになり、電車の中などで男性に触れてしまった手や物を徹底的に洗うようになった女性、もう一人は、手や物は徹底して洗うのに部屋はいわゆるゴミ屋敷状態の男性と、かなり極端な例でした。

 私は、本来、強迫性障害という診断名は前者のような人を救うためにあるはずだと思うし、強迫性パーソナリティ障害とされてもおかしくない後者を含めて報道されたのは不思議だと思いました。個人的には、残念ながら後者のほうについての報道姿勢にはあまり納得できませんでした。前者と後者とでは第三者による「助け方」が異なってくるためです。ちなみに、お金(日本銀行券・硬貨)や公共物をああいう形で扱ったら、器物損壊罪・文書等毀棄罪に問われることがあります。

 さて、当たり前ですが、先に上げたような誤診は神経内科や心療内科に行かなければ起きないです。つまりは、医者が誤診する前に共感覚者が自分で自分の共感覚を「誤診」するのでなければ、周りの人の勧めをそのまま聞いて医者にかかってしまったために、起きるわけです。医者も患者も人間だというわけで、やはり、どちらにもバランス感覚が必要ではないかと思いますし、同じくらいの責任は付いて回ると思います。

 共感覚と強迫性障害の共通点は、「具体的な知覚例が万人に当てはまるものではない」ということに尽きると思います。自分がそうだからと言って、他の人も「ひらがなの“あ”が青色に見える」わけではないし、他の人も「手を十回洗うまで気が済まない」わけではないです。

 しかし、決定的な違いは、共感覚の場合、例えば「ひらがなの“あ”が青色に見える」と言った時、それは大脳の反応、ニューロンの化学的・電磁気的変化の帰結として本当に知覚しているのであって、その点では、平均的な五感の人々が大脳の反応、ニューロンの化学的・電磁気的変化の帰結をもって「目が見える」と言っているのと全く同じことですね。空想や創作というものが入る余地がない点が特徴です。(もちろん、共感覚を元にして空想したり創作物を生み出したりすることはあります。)

 一方で、強迫性障害の場合、罹患者が自分の手には他人の十倍の雑菌がいるからと確信して手を十回洗ったところで、本当に手が綺麗になったか、そもそも平均的な人と比べて十倍の雑菌がその強迫性障害者の手に付いていたか、といったこととは全く関係がないし、罹患者は決してその雑菌を網膜や脳で知覚することはないわけです。手は綺麗になるどころか荒れるばかりだし、雑菌も十倍もいたわけではありません。

 玄関のカギを何回確認しようが、依然閉まったカギは閉まったままで、カギが開いた玄関から空き巣が入って物を盗む光景を強迫性障害者が目撃することはないわけです。起きていないことを見るはずもないのです。

 本来、今で言う「不潔感」や「恐怖感」という観念が何のために人間の脳に生じたかを考えるに、過去にいくらでも学説は出ていますが、基本的に私は「近現代社会の文脈において死や恥辱を避けるため」に生じたと思います。

 昨日の番組のような痴漢被害による強迫性障害の発症などはその典型で、性犯罪被害は死や恥辱に直結するものだと言えます。「恐怖感」というものは、一見すると今も昔も同じであると思いがちですが、動物に襲われる恐怖感と空き巣に入られる恐怖感とは、全く違うものであるわけです。(例えば、前者には「お金を盗られる恐怖や不安」は存在しない。)

 やはり、精神病理学上の知見は別として、未だに少なくない人がインターネット上や障害者施設などの現場で強迫性障害を現代病の一つとして扱っているのは、その障害に陥った罹患者なりの根拠である不潔感や恐怖感が、生物としての本能ではなく、現代社会の文脈におけるストレスとして出ているからではないかと思います。

 例えば、浮浪者の人たちが他人の食べ残した残飯を拾って食べる行動については、その行動自体の原罪的な「善悪」や「不潔性の有無」というものは私は存在しないと思いますが、現代の先進国に生きる平均的な生活水準の国民であれば考えも付かない行動だということは言えます。しかし、もしかしたら、世界一の食糧廃棄大国である日本の中にあって、残飯を拾って食べる行為は、実は最も崇高な宗教的行為でさえあるかもしれません。これらの人たちは、強迫性障害、特に不潔恐怖とは無縁の人たちです。カントの言う「善のための善」とは、むしろこれらの人たちの行為のことを言うのではないかとさえ思えるほどです。

 他人の残飯を避けるという多くの人々の常識的な行動は、今日の社会の文脈においては、実際に自分の身体を害する雑菌が残飯中に多く含まれるという科学的見識を本能的洞察力に徹底的に置き換えているということであって、「今日の社会の文脈においては徹底的に」正しい行動であり、そのような場合は、現代の精神医学は障害や病気だとは言わないわけです。

 しかし、何回手を洗っても気が済まないような強迫行為は、こういう不潔に対する科学的に極端に正当な抵抗かと言うと、「そうではない」ということです。本来は、「そうではない」ということをもって「強迫性障害」の診断を下さなければなりません。

 手は何回も洗うのに、体を何日も洗わず、部屋も片付けなかったりする罹患者もいます。そういう場合には、罹患者が人生の中で出くわした、何らかの個人的・特異的な事件によるトラウマをトリガーとして想定するべきではないかと思います。

 強迫性障害者に対してまずおこなうべきなのは、「不潔なものを不潔だ、怖いものを怖いと思わないように頑張るよう諭すこと」ではなくて、「現代社会の文脈においては不潔倒錯や恐怖倒錯だと言われてしまうような精神的な事態を、何とか対処して乗り切るうまい策を助言すること」だろうと思います。

 共感覚者がある文字を青色だと言ったら、それはその共感覚者にとっては本当ですが、強迫性障害者がある物を不潔だ、雑菌が多くいると言っても、現代の公衆衛生、科学的知見、良識、法律などに照らしてとてもそうだ言うわけにはいかないことが多いわけですから、扱う学問分野も、対処法も、かなり違ってくると思います。

2014年04月19日

自分の共感覚などを3Dグラフィックスで閲覧・操作可能にしてみました

mojiyo120922_01.jpg 私が作成した共感覚などの3Dコンピュータグラフィックス(CG)を以下のページに載せてみました。グルグル回したり近づいたりして遊べます。

https://sketchfab.com/iwasaki_j

(基本的には、左クリック:回転、右クリック:平行移動、ホイール:遠近。ブラウザによって違います。)
(WebGLに対応していないモバイル端末・モバイルOS・モバイルブラウザでは、閲覧・操作ができないか、できても描画処理が遅いことがあります。)

 各3DCGは、私のウェブサイトのコンテンツのどれかに対応していて、説明なども各ページに書いていますので、ご覧下さい。(横着で申し訳ないです・・・。)

 今のところ載せてみたのは、共感覚の例や、和風建築(武蔵幻想邸の大広間に対応)、超音波散策で発見したネズミよけや自動ドアの超音波発生機器の設置箇所の地図(日比谷近辺の地下通路)、考案中の風変わりな将棋の案などです。

 ただし、Internet Explorerですと、バージョン10以前には対応していませんので、バージョン11または他のブラウザでご覧下さい。このあたりの詳しいこと(3DCGの制作からウェブ上へのアップロードまでの技術的なこと)は、直接は関係ないので、第三ブログの記事(以下)に書いてみました。ご興味のある方はご覧下さい。

WebGLによる3DCGについての技術的な話
http://iwasaki-j-ict.sblo.jp/article/93504698.html
posted by 岩崎純一 at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の作品

2014年04月11日

私なりの若い学生・研究者分析(STAP細胞騒動や論文の言葉遣いをめぐって)

stap_giwaku.jpg◆序

 今回のSTAP細胞騒動に関連して、iPS細胞研究でのノーベル賞受賞者、山中伸弥氏が、「30代の研究者は未熟」だという旨の発言をしました。これについては、私はそこまで反発は覚えませんでしたが、やはり少々厳しいところを突いてきたなとは思いましたし、ネット上の山中氏ファンからも批判の声があるようです。

(画像は、今回のSTAP細胞関連の不正を最初に発見・暴露した個人またはグループである11jigenによるまとめブログ。11jigenは、様々な科学技術論文における不正行為の発見・暴露で知られている。)

 私は大学教員でも何でもないので、学生の論文を審査・採点することはありませんが、学生・研究者・学者の論文草稿(ほとんどが日本語のもの)を読んだり校正・編集したりする機会には恵まれているほうだと思います。

 仕事以外では、学生さんからは、共感覚関連の実験・インタビューへの参加のお礼として、卒論や研究論文の複製を頂くことが多く、提出前の草稿を読む機会もありますが、学生の文体について、「こう直したほうが良い」と思った場合には、その通りに言うようにしています。助言という程度のものではありますが。

 そのことに関連して、少し書いてみます。今回のSTAP細胞騒動のようなことが起きた時に、(私も含めて)若者が取り組んでいる学問や論文の全般が目上の人間から不当に非難されないために、若者は何をすればよいかということについての、私の一つの考えのようなものです。

 一方で、私も著書がありますし、校正・編集される側でもありますが、こちらは契約上、営利企業である出版社に多くの権限がありますし、タイトルなど著者の権限で決められない要素もあって、普段関わっている論文の問題とはあまりに話が違いすぎるので、ここでは横に置くとします。


◆方向性がどんどん変わっていくSTAP細胞騒動

 まずは前置きから。

 小保方晴子氏の涙の会見後、早稲田大学の現役女子学生たちが相変わらず「それでも不正は不正」と断罪していた一方で、主に男性たち(タレントやキャスターなど)による小保方氏への評価が上昇していました。

 局により報道内容に差はありましたが、小保方氏側に届いている手紙のうちの7〜9割は小保方氏を激励する内容だと報道されました。会見前と会見後とで、手紙の内容、人間評価まで大きく変わることになりました。

 何だか皮肉だと思いました。もう問題はこういった点にしかない気がしてきました。このような男性心理やマスコミの扇動、そして、巨額の国費・税金を好きに使える理研の組織体制そのものが、不正を見抜けなかった原因、若い女性である小保方氏がこの立場にまで上り詰めた理由の一つだと思いますし、今後どう転んでも早大の現役女子学生たちが言ったこと(意図的な不正だと思うという意見)のほうが私は正しい気がするのですが、そこは男性の間でも二派に分かれて論争になりそうだし、今は横に置くとします。

 幸いなことに私は、今回のような学生や研究者の不正に出くわしたことはなく(あったら大変です)、この点ばかりは立派な若い学生や研究者のほうが多いと感じます。(ただし、著作権法違反に当たる違法行為は、沢山見てきましたが。)

 こういう形での不正というのは、むしろ社会に出てから出会うことが多いのではないでしょうか。さらに言うと、研究機関やブラック企業などの不正への断罪精神や正義感が人一倍強い若者ほど、鬱や挫折に結びついているケースがあるのではないでしょうか。

 若い学生や研究者の経験と財力では思いつかないような不正を、指導教員や一部の恵まれた研究者、就職先の企業がやっているのが現実社会であって、そこに出ることを「社会に出る」と言っているわけですし、若者の身分の範囲内でできる不正なんて限られているわけです。

 本来は、不正の問題・人間の未熟さの問題と、世代論とは、全くの別物であるのは確かだと思います。

 しかし、今回の小保方晴子氏の論文の不正を最初に発見したり、佐村河内守氏のゴーストライター問題を一年も前から見抜いて議論していたりした若いネットユーザーたちが持つ、著作権・人権意識の高さや、不正発見能力、不正に対する断罪精神、その断罪の適切さ・正当さ、極めて効率のよいネットワークなどは、今の社会の上層にいる大人たちに対して十分に自信を持ってよいレベルだと思います。

 余談ですが、時々、大学教員が私の著書を何十ページも(著作権法の引用規定を超える形で)コピーして学生に配布していることを、その教員の授業を受けた学生が教えてくれるケースがあります。

 私個人とその相手だけの問題であれば、どうぞ使って下さいと言いたいところなのですが、そういう問題で終わらせるわけにはいかないので、困ります。ここは厳密に著作権法や出版社の規定に従うべきところです。大学や研究機関の内規違反以前に、著作権法違反として処理されるべきものです。

 相手が懇意な友人・知人か、目上の先生かどうか、単なる仕事のつながりかに関係なく、顔では笑いながらも、岩崎はいちいちうるさいなと思われるくらいに、法律や論文の引用規定に忠実に行動していただくようにしています。(私は本当にうるさいと思います・・・。)


◆全称型の若者批判「最近の若者は・・・」

 前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に入ります。

 しばしば、高齢者たちが電車内などで十把一絡げに「最近の若者は考えが軽い」と言っているのを耳にします。山中氏の発言も、そういった全称型の若者非難(「若者は皆こうだ」という言い回し)になってしまっているがために、反発が起きたのだと思います。

 ただ、同時に山中氏は、「実験方法については一生懸命やってきて上手になっている」と述べていますし、少々ニュアンスが違うとも思えます。それに続ける形で、「それ以外のさまざまな点についてはまだまだ未熟な人間です」という言い回しをしています。

 ということは、山中氏が立場上こういう日本語でこうとしか言えない現状とは何なのか、はっきりと言えないのだけれども若い世代全般に当てはまるような「さまざまな点」や「人間としての未熟さ」とは何なのかということが問題になるはずです。


◆SNSの日本語と論文の日本語の両方がある現代の学生・研究者生活

 例えば、これは不正とは関係のない、日本語の言葉遣いの問題なのですが、私が学生の文章・論文を読んでいて最も気になるのは、「共感覚者I氏(私のイニシャルを例に出します)は、文字Aにはホワーッと薄い感じで色が見えるようである」とか、「共感覚者I氏は、色がブァーッと迫ってくるような具合に感じられるらしい」といった表現です。

 私がそういう「ホワーッ」などという言葉を使って答えていなくても、特に女子学生などはそう書いてくることがあります。今までに一人だけ、こういう表現のまま卒論を提出して教員のお咎めなく卒業できてしまった女子学生を見たことがあります。

 TwitterなどのSNSの文章とまではいかないまでも、論文の文章ではなく、SNSの延長で書いた文章だろうということは言えるものではあります。これは、よくあるような、口語と文語、話し言葉と書き言葉の違いの議論とは、また別であるわけです。

 極端に言うと、普段「共感覚者I氏が、私の目の前で文字に色を見たなうwww」などという言葉を使う学生が、どうやって頭を切り替え、担当教員に対して、人としての品格・倫理や執筆規定から外れない形で論文を出せるか、という問題であるわけです。

 もちろんこういう場合、最低でも、「共感覚者I氏は、文字Aについては希薄な色彩が知覚されるのみであると述べた」、「色彩が遠方から近方(I氏自身の身体)に向かって勢いよく迫ってくるように感覚されると述べた」といった書き方を本能的にしないと絶対に認められない、ということだけは言うようにしています。

 微妙なところでは、「とても濃い色に見えているらしい」よりも「極めて濃厚な色彩として目視していると述べている」のほうがよいと言ってもあまり理解されなかったり、「だんだん色が“違く”なってきてるっていうことである」を「段々と色彩が変化していることを示唆している」と書けなかったり、「数字の3の色は水面“みたく”見えるそうである」を「数字の3は水面のような色彩に知覚されるそうである」と書けなかったりします。「違く」や「みたく」は、最近見られる、「違い」や「みたい」を形容詞の終止形と誤認したことで登場した特殊な活用であるということ自体が理解できない学生があまりにも多い現状があります。

 しかし、最初から学生に注意するなどということはしないです。

 それは、その学生が、文章というものについても、ある意味で自分の身体・顔貌のようにとらえており、文章(単語から活用まで様々な文法範疇を含む)でおしゃれをしているという感覚なのだろうと思うことが多いからです。その学生の文章が自分自身の「身体性(極めて生々しい意味で)」と密接に結びついていて、染髪や無駄毛処理や爪のマニキュアと同じように文章を美容処理しているのかもしれないと感じるようになったからです。いわば、自分の文章を自分好みに美容整形手術しているのかもしれません。あるいは、一種のセックス・アピールとして文章を用いているようです。

 とりあえずまずは、学生は学生なりに、大人社会に対する正当防衛の一つとして、「あなた方のようなご立派な堅苦しい時代とは違う」という自己の独立宣言を意識の基層に持っているということを理解することは、私は大切なことではないかと考えています。

 若者・若い研究者にとって、SNSで吐き出している言葉のほうが正直な言葉、真実の言葉で、自分が社会に媚びて書いている論文の言葉のほうが嘘っぽい、ということは十分にありうるからです。

(本来なら、男性よりも女性のほうが日常会話レベルでも擬音語・擬態語表現の使用が多いという報告や、英語圏でも”very”と”so”の使用頻度を調べたら、男性は”very”、女性は”so”が多かったという報告など、すでに脳梁や海馬、大脳の言語野の構造の性差から来る統語論・意味論上の性差についての海外の論文報告もあり、私などはこちらのほうが興味深いのですが、今は男女平等・男女共同参画社会。そういうことなら、論文にだって男も女もないのではないか、女性の不正に対しても男性と同等の社会的制裁や罰が加えられなければおかしいのではないか、という立場から、あえてこの件には触れないことにします。)

 ともかく、論文の日本語というのは、自分好みに書いてはいけないものであり、自分好みにしたかったら、やはり小説を書いたり、私のように自分勝手なサイトを開設したりして楽しむのが、適切なやり方ではないでしょうか。(私の場合は自分勝手すぎると思いますが・・・。)


◆目に見えることから指摘する以外に方法がない

 そういうわけで、論文の日本語を正しく書かなければならない理由は一つだと思います。本当は、「論文の文章が未熟な」だけであるかもしれないのに、そのような文章を書くだけで「若い研究者は人間性が未熟だ」と思われる可能性があり、それでは勿体ないということです。

 これは、私が元々日本語学・言語学全般に関心があったり、仕事でも趣味でも頭語・結語、時候の挨拶の入ったフォーマルな書簡をしたためる機会が多かったりするから、気になるだけで、気にしすぎかもしれないとは思いますが。

 少なくともそういう意識を持って普段から言葉に気をつけていると、社会に出た時に「軽い人だな」と思われることはないということを、なるべく自分よりも若い学生に伝えるようにはしているのですが、そういうことに関心がない学生も多いようです。

 大人にとっては、「薄々大人が感じてはいても目に見えない若者の瑕疵」は、なかなか批判が難しく、「色々と未熟な点はある」という程度のことを心で思うのみだと思います。しかし、「一度目に見える形で表現された若者の瑕疵(STAP細胞騒動のような具体例)」が世に出ると、山中氏のような博識な人からすると、あまりに博識なので発想が広くなって、若い研究者全体の問題として「分かりやすく批判できる」、ということだと思います。

 目に見える形で表現される瑕疵の筆頭が、いわゆる不正行為や、論文に用いられる用語・言葉遣いだろうと思います。

 私が学生の論文に対していつも指摘している内容は、先の「山中氏が立場上はっきりと言えないようなさまざまな未熟な点」を、教育者でも何でもない素人なりにわざわざ偉そうに具体的に示したものだと言えるのかもしれない、と感じました。

 小保方氏のSTAP細胞論文を、私も文系人間なりに読んでみたのですが、ある種の「作られたおしゃれさ」や「化粧っ気」、「セックス・アピール」のようなものは感じました。しかし、そういった「おしゃれさ」などというものが見えたところで、それこそ「おしゃれさ指数:138.67oshare」のようなデータや単位があるわけではありません。だから、ある個人のおこなった画像の切り貼りなどをピンポイントで指摘する場合以外は、「最近の30代の若い研究者と言ったら、未熟だ」のような総論になるしかないのだと思います。

 意図的な不正論文のおしゃれさを、私が見てきた学生たちの論文の文章の未熟さから来るおしゃれさと全く同等に扱うことはできないとは思いますが、この「おしゃれさ」は、少なからず世論に影響した気はします。


◆ユビキタス社会の到来

 そういうわけで、言葉遣いの問題とSTAP細胞騒動とは、ちょっと土俵が違う気もしますが、私が出会ってきたケースとしては、「何の不正もしていないのに、論文の日本語がおかしいために、著者の若い学生・研究者の学識ばかりか人間性そのものが未熟であると見なされる」というものが多かったので、書いてみました。

 単に国語学上の見識一つで、若者の論文が全て馬鹿馬鹿しく見えるということになるのは、非常に勿体ないことだと思います。

 もちろん私も、学生の言い分や新語の流行が分からないわけではないですね。

 例えば、「きちんと手紙を書くことができない若者が多いな」とは思うのですが、しかし、それはそれで仕方がないとも思っています。

 私は、仕事でしばしば高齢者の方々どうしの書簡の代筆を頼まれることがあるのですが、周りに梅の木が一本もないのに、「梅の実の落ちる音を聞きながら、この書簡をしたためております」で始まる書簡を書いたことがあります。こんなものは季節感の捏造だ、と思ったものです。こんな馬鹿馬鹿しいことはないと思いながらも書くのですが、それが礼儀・マナーであるような場においては、悲しいかな、そう書く以外にないわけです。

 私は、これは日本の手紙の伝統ではないと思ったものです。時候の挨拶を考え出した人たちは、本当に梅の実が落ちる音を鼓膜と身体全体で聞いた感動があったから、そう書いたわけで、「周囲の環境の忠実な記述」が日本の手紙の伝統であるならば、「植物一つない無機的で暑苦しい長方形の鉄筋コンクリートの部屋で、手紙をしたためています、あなたに〜」というように井上陽水風に書いてみようかといった皮肉を考えてしまうことだってあります。

「このたびはご丁重な朶雲を頂戴し、痛く恐悦至極、甚だ有難く厚く御礼申し上げる次第で御座ります。」

 こういう文章をいつも見たり書いたりするのですが、季節感や敬意の捏造も甚だしいところだと、心の中では苦笑してしまうこともあります。

 私自身の身体感覚、私の落ち着く身の置き場所は、今でも確かにこういう日本語の風格の内にある気はするものの、しかし同時に、ネット時代・ユビキタス社会の到来にも、それなりの意義を感じています。

 ネット時代・ユビキタス社会への軽蔑的な信条から、表向きは体裁の整った旧態依然とした手書きの文章ばかりを書いて生活し、インターネットを意図的に全く使わない生活をしている人は、同じフォントで書かれた大量の文章の中から本物の情報と偽物の情報とを見分ける力は身に付かないわけですし、今回の件についても、この若い女性ユニットリーダーの「作られたおしゃれさ」を「本物のおしゃれさ」と感じて褒め称えてしまい、不正を見抜くことは不可能であっただろうと思います。

 会見後の報道ステーション(テレビ朝日)では、「パワーポイントとは何か」というところから議論がスタートしていました。翌日には、「パワーポイントのようなよく分からない機能ばかり使っているから、若者は常識がなく、不正が増えるのだ」と論じた人がいましたが、実際にそう思っている大人は多いようです。

「オボ子ちゃん(小保方晴子氏のこと)の不正を見つけたなうwww」
「大方貼子(小保方晴子氏のこと)のコピペの元ネタはこちらです(^o^)」

 こういう日本語や顔文字、スラングを使い、ブラックジョーク・パロディを日々ネット上で編み出し続けている有志の若者・研究者たちが、お互いに協力し合って、今回の不正を暴いたのです。実に不思議で、面白い時代になったと思います。


【画像出典】
●小保方晴子のSTAP細胞論文の疑惑
http://stapcells.blogspot.jp/
posted by 岩崎純一 at 19:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2014年04月07日

Internet Explorer 6〜8(XP向けの8のみ)以前でのサイト閲覧についてのお知らせ

 パソコンの技術的な話題なので、本来なら第三ブログに書くべき話題かもしれませんが、閲覧して下さっている方々向けにメインブログでお知らせです。

 サイトのヘッダーの下にメニューバーがありますが、今までの非プルダウン型のメニューバーを整理して、プルダウンメニューにしました。

 プルダウンにしていなかった理由は、Windows XPとInternet Explorer 6〜8(XP向けの8のみ)以前のIEの組み合わせでご覧下さっている方々への表示の対応のためです。

 第三ブログの「さようなら、Windows XP(その2)」では、サイトのソースはあまり変えていないと書きましたが、メニューは書き換えることにしました。

 JavaScript(というブラウザの設定によって表示が変化するプログラミング言語)は用いずに、XHTML・HTML・CSS・PHP(という汎用性の高い言語と記法)だけで記述していますが、Windows XPとIE6〜8(XP向けの8のみ)以前のIEの組み合わせでご覧になると、プルダウンが表示されない場合があります。(このようなCSSの記述に対応していないため。)

 今のところは、それぞれのページの左カラム(左欄の上部)にプルダウンで表示されるのと同様のページへのリンクを貼っています。

 ただし、当サイトは、IE8(Vista以降の8のみ)以降のIE、Mozilla Firefox、Google Chromeなどで適切に表示されるように記述しており、4月9日にWindows XPと共にIE6〜8(XP向けの8のみ)のサポートが切れることに伴い、今後は、申し訳ございませんが、XHTML・HTML・CSS・PHPなどを書く際は、XPとIE8での表示は確認致しません。

 もしサポート終了後もXPとIE6〜8(XP向けの8のみ)の組み合わせで閲覧される方で、サイトの表示がおかしいという場合には、記述変更の対応は致しませんので、他のパソコンなどでご覧下さいますようお願い致します。

 Vista以降向けのIE8はサポートが継続されるので、この限りではありません。
タグ:サイト Windows
posted by 岩崎純一 at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項