2014年10月20日

共感覚研究から見えてくる日本の大学(研究室・院生・学部学生など)の法意識や社会規範意識についての考察

suji120914_01.jpg目次
◆概要(日本の研究者・学生がのびのびと研究できるために)
◆被験者の氏名公表について
◆研究協力に際しての契約書面は、存在しない場合から印鑑(ただし認印)が必要な長文の場合まで様々
◆実験データのコピーの被験者への提供などに関する規定が不明確な場合
◆謝礼・御礼に関する規定が不明確な場合
◆研究協力の事実そのものの公表が許可されない場合がある
◆被験者が次の被験者の紹介を依頼される場合がある
(日本の共感覚の研究者どうしがお互いの存在すら知らない)
◆結尾


◆概要(日本の研究者・学生がのびのびと研究できるために)

 最近もいくつかの共感覚の研究・実験・インタビュー・アンケートなどに協力させていただいているが、mixiの以下のページ(14番)にも書いたように、日本の大学の姿にもったいなさを感じたり、被験者・研究協力者としての立ち位置について考えたりする機会が多いので、ブログにもまとめておこうと思う。

 基本的に私は、共感覚に関するこれらの研究や実験については、(研究室や学生の指導教員が、大学に届け出たり予算を得たりして実施しているものは別として、)特に学部学生の卒論や院生の修士・博士論文内の研究や実験への協力の場合、「予算がなくて申し訳ない」旨を伝えられた場合には、むしろ重々しい雰囲気を避けて楽しくしたい思いもあり、ほぼ無償・ボランティアで参加させていただいているし、喜んで出かけて行っているほうである。

 しかしいずれにせよ、後世に残る意義のある(楽しいというだけではもったいない)学術研究であることに変わりはないわけで、そのためにも、法倫理や社会規範といった観点からは色々なことを考えている。

mixiの共感覚コミュニティ内
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=64199&id=76639792

 もちろん、研究や実験への参加をサイトやブログで可能な限り公表している意図としては、一つには、純粋に被験者・研究協力者(最近は、「被験者」という呼び方は、指導者・査読者によってはアウトで、人権を尊重して「実験参加者」・「研究協力者」などと呼ばないとダメらしい・・・)の一人として、日本の大学がどのような共感覚研究をおこなっているかを、実験参加などに不安を覚えていらっしゃる他の共感覚者や一般のご訪問者に向けて知らせる意図がある。

 ただし、それに加え、独立行政法人・学校法人を中心とする大学、ひいてはそれらの末端で働く教員・研究者や学ぶ学生のあり方について考えたいからでもある。噛み砕いて言えば、共感覚研究そのものというより、日本の大学の運営実態、教育、教員や学生の質、倫理道徳、上下関係などの実態を探る意図ないし個人的・野次馬的な関心もあると言える。

 基本的に、私の個人的な心境としては、一番に学生、次に院生や研究者、次に指導教員(教授・准教授以下)がかわいそうな時代だと思っており、これが根本にあって、そこから色々なことを考えている。もちろん、学生の中にも、指導教員や親が指導不可能な、不真面目な学生も多いから、一概には言えないが、日本の大学教育自体が斜陽であり、元凶は独立行政法人や学校法人としての大学の経営者や学閥・政治・国や親にあり、アメリカに帰化した日本人がノーベル賞を取るなど、海外に知性が流出するのも致し方ないと思っている。

 しかし、こういったあまりに大きな話はそれはそれとして、今は、日本の大学についてもったいないと感じている部分や、被験者・研究協力者としての立ち位置について考えていることを、書いておこうと思う。

 日本の共感覚研究をもっと充実したオープンな(開かれた)ものにしていくにはどうすればいいか、という話でもある。


◆被験者の氏名公表について

 最初からちょっと笑い話になりそうな内容なのだが、時々、「学術論文データベースで岩崎さんの名前を検索しても出てこないではないか。本当に実験に参加しているのか」とか、「岩崎さんや日本共感覚協会の松田さんなどは、東大の名を借りた共感覚の捏造グループではないか」という旨のお問い合わせを頂くことがある。

 精神的には大して参っていなくとも、こういう問い合わせというのは、けっこうなダメージになってしまう。

 結論から言うと、日本では、(共感覚研究に限らず)被験者は普通、「被験者A、被験者B・・・」などと匿名で書かれるのが普通で、どうして研究倫理や論文の体裁に詳しいはずの東大・京大級の研究者からそういう疑念が出るのかがそもそも不明ではある。

 しかし、確かに著書があるような人物が参加した実験が一つも論文検索に引っかからない事態はおかしいことはおかしいので、以前、「私のように、少なくとも氏名が世に出ている被験者については、被験者からの要望がある限りにおいて、学術論文中にも氏名を記してもらうことで余計な指摘を回避することはできないか。海外の共感覚やサヴァン症候群や発達障害の研究では、被験者・当事者本人が望めば普通に著書や論文中に氏名が出ていて、研究者と被験者の関係は長期に渡って深く、一体的である」という旨を、何人かの研究者に申し出たことがある。

 そうしたら、「論文中に被験者を挙げる際に、Aさん、Bさん、岩崎さん、Cさん・・・などと書いたら、論文の体裁がカッコ悪くなるので・・・」と言われて、お互いに笑って終わったことがある。なるほど、個人よりは協調性や体裁を重視する日本ならではの丁寧な感覚で、これは物事の善悪の問題ではないのである。

 ある東大の学生からは、「被験者として氏名が出ることは、嫌ではないのですか?」という質問があって、感覚的にはそれも分かるのだが、私が提起してみたいのは、ある意味では「喜ばしい責任」のようなものでもあると思う。

 一般の主婦が論文中に「ある都内在住の主婦○○さんの共感覚は・・・」と実名で書かれたら嫌だろうし、当然「Aさん」と匿名で書かれるのが普通だが、著書があるような被験者が「共感覚者A」などと恥部のように書かれ、一般の読者が検索できないのは日本くらいで、海外だと、例えばダニエル・タメット氏やテンプル・グランディンさんや共感覚者団体のメンバーなどは、普通に被験者でもありつつ研究当事者としての立ち位置にもいて、自分を研究する研究者を監督する視点も持ち合わせており、学術論文にも普通に名前が登場するわけである。

「共感覚で名前が世に出るのは恥ずかしい」という、共感覚者からも共感覚研究者からもしばしば聞かれる思いは、控えめな日本人の良いところが悪いほうに出て世界から取り残されてしまっている例の一つと言えるかもしれない。こういうところに関しては、自分は変に進歩的なのだと常々思う。


◆研究協力に際しての契約書面は、存在しない場合から印鑑(ただし認印)が必要な長文の場合まで様々

 トラブルを避けるためには、あったほうがよいに決まっている、共感覚研究者と被験者・協力者との間で取り交わされる承諾書面や契約書面。

 実際のところ、学生の卒論・修論・博論への協力であれば、たとえそれらの書面を交わさなかったとしても大きな問題が起きることはほとんどないし、学生がそういったややこしい書面処理に忙殺されるくらいなら、研究・実験に楽しくいそしんでくれたほうがよいと思っている。

 ただし、大学の予算・規定や指導教員の主導のもとで実施される研究室単位での中規模以上の実験などを見ても、被験者・協力者との間に取り交わす書面の内容はてんでバラバラで、大変に興味深い。

 例えば、東京大学の研究室・研究者の場合、「認印が不要な(被験者の直筆署名のみの)簡易な参加承諾書面」を研究室・研究者側のみが保管するのが普通であり、被験者は多くの場合、請求しない限りコピーをもらえない。さらに、契約書面の代わりともなりうる謝礼の支払書も先方で準備しておらず、領収書も要求されない場合がある。

 一方で、院生・学部学生やその他の私大の研究室のほうが、きちんと同一書類を二部ずつ作成し、(時には割印まで押し、)被験者である私に手渡してくれる場合もあった。

 それにしても、もし当該研究室・研究者が杜撰な管理をして書面を紛失したり、税務申告を終えて破棄したりした場合、実施者にコピー書面を請求していなかった被験者は、研究協力の事実を証明できないことになる。

 当然、被験者から得たデータは、実施者ら複数の人間により複数の論文に使用されていくものであるが、例の理研の小保方晴子ユニットリーダーによる論文改竄のような、いざという事態のときに、「オープンであるべき学術研究に参加した事実」を証明し、被験者・協力者としての権利を行使する何らかの契約書面や税務書類を、全ての被験者が手元に残しているとは思えない。

 いずれにせよ、被験者の皆様には、知り合いの学生の卒論などに個人的に気楽に協力するといったことでない限り、研究実施者との間に何らかの書面を交わし、被験者・協力者としての権利を明確にしておくことをお勧めする。

 しかし本来は、論文読者・査読者が被験者の協力の事実の提出や公表を請求した場合の証拠書類が、まずは被験者側にではなく研究の実施者側に、書面または電磁的記録として残されているべきものだと考える。


◆実験データのコピーの被験者への提供などに関する規定が不明確な場合
(基本的に、自分が答えた実験の回答の一覧や、自分に共感覚があるという結果が出たのか否かも、請求しなければ教えてくれない)

 これも、大学・学部・学科・研究室ごとに被験者にデータを提供したりしなかったり、内規があったりなかったり、研究室の構成メンバーごとに対応が違ったり統一されていたり、色々な要素がてんでバラバラで、大変に興味深い。

 次項の謝礼・御礼については、当然ながら支払書・領収書など何らかの書面が残ることが多いが、被験者へのデータの提供(いわば「知の還元・共有」)についてきちんと文章化できている大学や研究室は少ない。

 実験データの被験者・協力者へのコピーの提供に関する規定を書面でもらえない場合は、必ず自分側で可能な限りの記録を残すようにしている。

 共感覚者の皆様には、ぜひデータの受け渡しについて書面で確認を取ることをお勧めする。

 しかし、双方の署名入りの書面を交わしていたとしても、研究者や学生が実験データのコピーを期限通りに被験者(である私や私の知人の被験者)に渡さず、メールでの要求にも応じなかったために、指導教員や先輩研究生に直訴するなどのトラブルも、過去に何件か発生している。


◆謝礼・御礼に関する規定が不明確な場合
(謝礼・御礼内容も、大学主導の税務書類の申告が必要な場合から、学生がポケットマネーで頑張って買ってくれたお菓子の場合まで様々)

 また、源泉徴収の有無や謝礼・御礼の形態(振込、現金手渡し、図書カード、食品、お菓子など)もバラバラである。多くの場合は、きちんと謝礼額が明記された署名・捺印書面を交わすが、学部学生の卒論や院生の修士・博士論文の場合、大学の内規における謝礼に関する規定に抵触しない限り、学生の単独行動によるお菓子程度の御礼である場合もある。

 冒頭でも書いたように、まだ大人がやるような大げさな社会規範を身に付けていない学生が相手なら、無償・ボランティアで参加することに異存は全くないし、なるべく重々しくない気楽な雰囲気で学生のお役に立てたら、とは思っているのだが、御礼がそのあたりのコンビニで買ってきたようなお菓子の場合、さすがに一応は、「指導教員からこういう場合はどういう礼の仕方をするように指導されているのか。内規に抵触したり、指導教員から叱られたりしないのか」を心配して尋ねる癖は付いてしまっている。

 最近の学生を見ていると、非常に礼儀正しくこちらから協力したいと思わせる学生から、一歩社会に出ると相当程度叩かれるだろうと思われる学生まで、実に様々だと感じる。

 しかし、謝礼・御礼についても、学生よりも研究室・研究者のほうが律儀であるとは限らず、きちんとした契約書面を交わしておきながら年末に税務書類・源泉票が来ないことや、契約書面がないのに税務書類・源泉票だけは来ることもある。

 ただし、被験者側にもこの件を尋ねたところ、税務申告が必要である場合も雑収入などとして申告していないケースのほうが多かったので、おおよそのところ、双方共がそこまでこういった件について深く考えているわけではないと言えそうだ。

 共感覚関連の実験の被験者の多くが確定申告の不要な主婦・学生や確定申告に慣れていないOLなどであることも、そもそもこういった問題のネックになっていると考えられるし、それは致し方のないことでもあり、分かりにくい面もあるとは思うのだが、こういった謝礼が収入であることは確かだ。当然、源泉徴収がなかった場合の申告漏れは脱税となることがあり、源泉徴収があった場合は申告によって還付できることがある。
(たぶん、心当たりのある共感覚者の皆様もギクッとするはず・・・。)


◆研究協力の事実そのものの公表が許可されない場合がある

 タイトルの通り、研究協力の事実そのものの公表が研究室や研究の実施者などによって許可されない場合がある。ただし、口約束がほとんどである。

 実験の内容や手法、回答の公表については、ある被験者が別の被験者に便宜を図ったり実験結果に影響が出たりすることを防止するために当然必要だが、これも口約束がほとんどである。

 学生の卒論・修論・博論への協力の場合は、被験者による公表が学生の指導教員によって禁止されることが普通のようである。(実際に私にも、そのような指示がいくつかあった。)

 私は逐一、それぞれの研究室や研究の実施者に、研究協力の事実をサイトで公表することの可否を尋ねており、尋ねる前から、研究室の指示または内規によって公表が許可されていない旨のお知らせを懇切丁寧に頂くケースもけっこうある。もちろん、これは「研究協力者(公表可または論文に氏名掲載)と被験者・参加者(公表禁止)は異なる」という日本的な観点から出ている発想だということは言える。

 学生の卒論などの場合は別にして、広く公表された論文などについては、本来ならば、アメリカやEU圏の著作権法や学術論文文化のように、「論文などの形で公表された学術研究に実験データ(回答データ・脳計測データなど)や人体組織(遺伝子情報・血液など)を提供した被験者は、協力の事実については論文執筆者に断りなく公表できる」状態でなければ、論文の価値も下がるように思うのだが、このあたりは人による立ち位置の違いかもしれない。

 あるいは、もし税務書類のように「10年の保管期間を超えれば、論文に使用した被験者のデータを破棄してかまわない」といった内規が大学・学部・学科・研究室ごとに存在したり、「データは当該論文の研究目的にのみ使用し、使用後は直ちに破棄します」といったおなじみの規定を遵守しようとすると、けっこう色々な問題が起きることになる。

 例えば、データを破棄した時点以降は、当該実験の実施の事実を証明するものが存在しないことになるほか、そのデータ(の頭での記憶)をいかなる新規の論文にも用いてはならないはずである。そうなると、「11年前に行われたという実験では・・・」といった11年後の論文中の文面の注には、それが実験の存在の類推や孫引きである旨を記さなければならなくなるので、そのあたりの事情がどうなっているのかは知りたいところである。

「期限付きの破棄」の契約を交わした以上は、研究者はその契約通りに書面のシュレッダーによる破棄や電磁的記録の消去をおこなわなければならないはずだが、実際は、「直ちに破棄」ではなく「密かに保管」している場合も多いと思う。

 Twitterにも書いたのだが、私が参加・協力させていただいた研究・実験・インタビュー・アンケートなどについて、事実そのものの公表が禁止された場合は当然公表しないが、実施者や実施学部・学科、研究概要など一部のみの公表が許可された場合、以下のページになるべく記すことにした。

http://iwasakijunichi.net/joho/


◆被験者が次の被験者の紹介を依頼される場合がある
(日本の共感覚の研究者どうしがお互いの存在すら知らない)

 最近、「被験者数が足りなくて困っているから、他の共感覚者を複数紹介してほしい」といった大学の研究者や院生・学部学生からのご依頼を頂くことがある。一見すると被験者数に困っているとは思えない日本共感覚協会でさえ、上掲のリンクのようにmixiなどのSNSで被験者を呼びかけている状況であるから、致し方のないことだと思う。

 基本的にこういったご依頼は、以下の「仕事のご依頼メール」として受け付けているが、ご依頼者が人脈があまりなくて困っている学生なら、喜んで無償・ボランティアで知人の共感覚者などの中からご紹介させていただいている。ただし、それぞれの被験者のご意志やご都合などを伺う必要もあり、ご期待に応えられるとは限らず、その点はご容赦願いたいところである。

仕事のご依頼メール
http://iwasakijunichi.net/renraku-official.html

 そして、この問題の原因の一つには、もちろん「参加したい研究・実験についての共感覚者側の選択権・自由意志」があると思う。やはり、共感覚者ごとに「この研究・実験には参加したが、あの研究・実験には参加したくない」といった希望やこだわりがあるので、参加して下さいそうな心当たりの共感覚者に「こんな研究・実験があります」と紹介しても、返事を頂けず、逆にご依頼下さった研究者や学生に謝ることもある。

 ただし、もう一つの原因には、「研究者どうしがお互いの存在すら知らない」ことがあると思う。

 いつも誠にもったいないことだという気がするのだが、せっかく共感覚研究を頑張っていらっしゃる研究者や学生が、学術論文・研究用の実験データを取るためにSNSで呼びかけなければならないほど、一見すると被験者数が大幅に足りないように見えて、実は複数の共感覚研究グループや個人研究者、複数の共感覚者オフ会などが、お互いの存在すら知らず、別々に動いているだけという現状が、非常にもったいないなと思っている。

 これも例えば、同じ東大の中でも、すでに各学部・研究科に一つ(一人)は共感覚研究グループ(指導教員・研究者・学生)が存在している状況であるのに、お互いがお互いを知らず、他の大学の研究者・学生や日本共感覚協会の存在について尋ねても「それは何ですか?」という状況であるわけだ。かなりもったいないと感じる。

 もちろん、それぞれに独自の研究手法やポリシー、暗黙の壁や仲間意識のようなものがあるのであれば、それはそれで全くかまわないとは思うし、実際にそういったことはしばしば感じるのだが。

 これについても、先ほどの謝礼・御礼と同じで、単に人脈がなくて困っている学生なら、喜んでお手伝いする気になるものの、大学に長年いて人脈のあるような指導教員や研究者が(被験者への門戸を狭めるほど研究・実験の独自性を強調していながら、いかにも面倒臭そうな様子で)被験者に被験者の紹介を願い出る現状というのは、どうしたものかとは思ってしまう。

 それに、指導者が「被験者をもっと探してきなさい」と研究者や学生に指示している場合もあり、指示された研究者や学生が、結局は一般の共感覚者宛てに被験者集めや紹介を依頼するしかなく、末端で被験者が被験者集めに奔走し、結局は研究者・学生と被験者が共に困り果てる、という現状は、学問の対象としての共感覚の立ち位置という点から見ても、心の健康上も、あまりよろしくはないと感じる。なかなか難しいところである。

 大学・学部・学科・研究室どうしで被験者を共有し、実験手法は個々の研究者や研究グループの独自のものとする、ということなら、まだ理解できるし、日本の共感覚研究がどんどん前に進む気がするものの、自らの研究の独自性を強調しつつ「被験者が足りない」ことを被験者に嘆くというのは、よく分からないし、「被験者の一人として、ご研究の進展を心より祈念いたします」くらいしか言いようがないのがつらいところである。


◆結尾

 どうも日本の共感覚研究は、喉に痰が詰まっているかのように、なかなか前に進んでいるように見えず、もったいないなと思うのであった。

 色々と書いてきたが、ほとんどの共感覚者が共感覚そのものとは別の仕事や人生を歩んでいらっしゃる中で、恵まれた立場にある研究者の方々には、それなりの意識を持って前に進んでいっていただけると嬉しく思う。
タグ:共感覚
posted by 岩崎純一 at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 共感覚論

2014年10月03日

御嶽山の噴火、登山、日本の山などについての雑感

300px-Ontake-air.jpg 御嶽山の噴火では、死者数について、日本のマスメディアは死亡と心肺停止とをはっきりと分けて報道している一方で、海外では全てをまとめて最初から「40人死亡」などと報道したところもあるようで、それは単に医学的な立場や国民性の違いかもしれないし、感想としては少々大げさかもしれないが、人の死(死生観)や自然観そのものについても色々と考えてしまう事故となったと感じている。

 私自身は、アルピニズムやスポーツやレジャーとしての登山をしたことはなく、山岳信仰や地理的・生態学的・文化的観点からの山岳・森林・植生などに関心があるタイプだし、旅行先でロープウェイで山に登ったり、徒歩で標高200mくらいの山に登ったりする程度で、登山そのものには全く詳しくないが、いわゆる登山愛好家・山岳愛好家・山岳写真家などと接する機会は多いほうだと思う。個人的にではなく、山岳関連学会などの組織相手の仕事の中で、ということにすぎないが。

 今回も国民の命がかかっていることだから、気象庁や自治体も「登山者への情報提供が不十分だった」と謝罪するのも無理はないと思うが、逆に登山者が登山計画を家族に伝えたり警察に提出していなかったり、日帰り・単発の無計画登山だったりしたがために、遺体の身元確認や行方不明者の発見が遅れている現状については、色々と違うことを思ってしまう。特に、「息子が山にいるとは知らなかった」親のために、警察・消防隊・自衛隊が火山灰まみれになっている光景は、それが仕事だとは言え、何とも言えないなと思ってしまう。

 元々毎年の登山計画書の提出率が3割程度で、噴火などに巻き込まれた事故者に限れば2割を切ることから、登山者の責任でできることがあるということも、同時に物語る事故だった。

 今まで、槍ヶ岳周辺の方々と一緒に仕事をさせていただいたり、一昨年にお亡くなりになった日本山岳会の宮下啓三氏の話を直接伺ったり、同山岳会の会長も務めた今西錦司の自然観・生命観に私淑したりしているうちに、日本の登山が、ウェストンなどの宣教師によるキリスト教の布教活動、そして「狩り(なりわい・生業)」と「信仰(アニミズム)」の二点を「登山行動」から切り離す精神と一体化して「山登り」から「近代アルピニズム」として発展するまでに、様々な紆余曲折があったことは、理解できるようになったつもりである。

 今西錦司の生態学については、今でも私の中では特別で、私の自然観の一つの基礎を作っていると言ってよい。一方で、例えば、槍ヶ岳山荘の経営者の話などを伺っている中で、槍ヶ岳の大自然に感じ入るために登るのでありながら、その槍ヶ岳を切り崩して山荘を建て増ししたりといったことについては、色々と複雑な感想を持った。

 しかしそれよりも、山岳会・山岳関連学会の方々によると、世界遺産の富士山のほうが大変らしく、日本人かそれ以外のアジア人かに関わらず、路を外れて用を足したりゴミを放り捨てたりする登山者が激増していて、別の意味でどうしようもないようだ。そうなると、なおさら「山は登るよりも遠くから見る方がいい」という私のような好みを持つ人の意見に分がありそうな気がするのだが・・・。

 少し前までは、もし自分が冬山や火山に徒歩で登るなら、火山の噴火などの自然災害に巻き込まれるか否かは「運」と「自己責任」によるものだと覚悟して、ドまじめに登山計画書も提出した上で、ただし再び家に帰ることができるとも思わずに、半ば厭世的に一歩一歩を登るのではないかという気がしていた。

 厳密には、今もその思いは変わらないのだが、しかし「登山計画書」の提出そのものが、「人間が山を登攀・制覇する」という近代アルピニズムの精神の象徴であり、「その登山者が心から登山をしているか否か」を判断する上で重要なことは、(ほとんどの山で提出が義務ではなく任意の権利である)登山計画書を提出したか否かなどという「近代の法精神・任意の権利の行使の有無」という点ではなく、「何事もなく安全に下山し帰宅できるだろうなどという根拠なき蓋然性(見通しの甘さ)の有無」だという点に気づいた。二度と帰ることができないときはできない、死ぬときは死ぬのであり、やはり最終的には「山への畏敬の念」という話につながってくると思う。

 もしかしたら今回も、元々誰に助けられるつもりもなく、わざと計画を第三者に知らせずに、ただ「そこに山があるから」登り、噴火で吹き飛ばされ、山に生きて山に死に、それが本望だった人もいるかもしれず、もしそうなら、その「無計画の自然愛」にはむしろ敬意を覚えるべきところがあるとも感じる。

 そうは言っても、山岳会・山岳関連学会の方々の話を伺えば伺うほど、自分は登山には向いていない人間だな、ということが分かるばかりで、不思議な気分だなといつも思っている。

 さて、話題は変わるが、日本列島の山の特徴として一番目立つのは、やはり標高第1位(富士山、3,776m)と第2位(北岳、3,193m)の標高差が、第2位と第100位(新蛇抜山、2,667m)の標高差よりも大きいことかもしれない。

 しかも、第2位から第100位(本当は第300位くらい)までは、ほんの数センチメートルから数メートルずつ漸減していて、そのほとんどが飛騨または赤石の二つの山脈に属しているから、最高峰兼独立峰としての富士山の「孤高さ」・「異様さ」は群を抜いている。日本の山の中では、かなり特殊な山だと言える。

 富士山は天皇と同じく日本の象徴だという形容も、山岳関連学会の保守系論者の口々から頻繁に聞こえてくるが、その天皇にとっては、遠江(とおとうみ←とほたふみ=遠い海)国のさらに遠方にある富士山よりも、近江(おうみ←あはうみ=淡海・琵琶湖)国の琵琶湖のほうが身近な存在で、富士山のことは噂に聞き、和歌に詠むばかりで、日本史上初めて富士山を「旅路にてまじまじと目視した」天皇は明治天皇だったわけである。

 富士山の登山の歴史の発展は、江戸時代の庶民によるところが大きい。富士山の権威の発展は、それを一度も見たことがない歴代天皇によるところが大きい。世界遺産としての富士山の威厳は、天皇の権威から庶民の汗水までの合わせ技なのだと思う。

 とにもかくにも、「山は神々が創った」とか「山そのものが神である」と言うし、私は後者の言い回しや自然観をとる人間ではあるが、そう言うのであれば、日本の山々の諸要素と諸関係(標高・地理的配置など)は数学の神かピタゴラスが計算して創ったのではないかと思うほど、都合のよいあり方をしている。しかし、それもただの妄想に違いなく、独立峰火山の標高第1位・2位である富士山と御嶽山も、飛騨・赤石山脈の山々も、木曽山脈の中規模の山々も、どれも同様に「自然に形成された」のであり、それら自体が神々であると私は思っている。

【画像出典】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E5%B1%B1_%28%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%29
posted by 岩崎純一 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論