2015年05月03日

人との不思議な出会いと「虫の知らせ・胸騒ぎ」と共感覚

目次
■まずは笑い話から「うどんを食べた人が共感覚色で分かる」
■いつまで経っても終わらない「共感覚とオーラの違い」の議論
■この共感覚を違法薬物(覚醒剤や危険ドラッグ)の使用者の発見に使えないものか
■「恐怖」よりは「畏怖」としての人との出会い
■私によくあるケース1 「数年来ご無沙汰していた人と突然交流が再開する」
■私によくあるケース2 「事前にネット上で気になっていた人と、なぜか直後に交流が始まる」
■私によくあるケース3 「書店や喫茶店などでなぜかよく声をかけられる」
■私によくあるケース4 「どうしてもこの人に会っておかないと大変なことになると思って会った直後に特殊な出来事が起きる」
■「おそろしい」「おそれ」「虫の知らせ」「胸騒ぎ」という日本語について
■私に似た人の存在
■結尾


■まずは笑い話から「うどんを食べた人が共感覚色で分かる」

 ここを読んで下さっている方々ならもう説明の必要はないと思うけれども、私は共感覚のうちの一つとして、人の姿・言動や風景に色が見える共感覚も持っている。

 それとの関連で、つい最近以下のコミュニティのスレッドに書いたことなのだが、私は時々、人に見える共感覚色により、その人が直前〜一日前に食べた物が分かることがあり、分かりやすいものに「うどん」がある。基本的に、うどんを食べた人には、なぜかモヤモヤ揺れている黄土色が見える。

 小麦粉の種類にもよる気はするが、人の胃腸の中を透視しているわけではないので、あくまでも人の汗や、汗などによる周囲の空気の成分の変化を色で知覚しているのだと思う。対象の人がうどんを食べた3時間〜半日後くらいに「うどんの色」になるので、このことはほぼ確実かなと思っている。
(けっこう時間差はあるが・・・。)

 それに、自分も「うどんの色」になる。

 それにしても、昨今は男性が言ったことやったことが何でもセクハラになってしまう風潮でもあるので、この共感覚の保持自体も受け取り方によってはセクハラになるかもしれず、普段の会話でこの共感覚を公言するようなことはまずない。

mixiの共感覚コミュニティの該当スレッド
「共感覚の持ち主で人のオーラの色が見えてしまう方いますか?」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=64199&id=52862114


■いつまで経っても終わらない「共感覚とオーラの違い」の議論

 そもそも、上記スレッドは「共感覚とオーラ」がテーマになっているわけだが、mixiでもTwitterでも私のサイトのメールでも、人に色が見える感覚を持つ人どうしで「共感覚とオーラ」の違いについての議論は断続的に続いている。

 上記スレッドでは、「うどんを食べた人に独特の共感覚色が見えることから、あの人はさっきうどんを食べたな、ということが分かる」私の共感覚を挙げておいたが、今まで、著書やサイトの共感覚記憶データベースでは、女性の容姿や身体現象に色が見える共感覚(自分で「対女性共感覚」と命名)を主に公表してきている。

「オーラ」という単語を出さずに、「うどん」だの「対女性」だのと、一見笑われそうな自分の共感覚ばかりを大まじめに挙げているのは、超常現象や虚偽の霊能力・スピリチュアルな能力や虚偽の共感覚と混同されたくないからである。

 その人の写真を見るだけで前世が分かると主張し、それで生計を立てている霊能者やスピリチュアル・カウンセラーもいらっしゃるが、私に限らず、共感覚者の皆さんも怪しいなと思っていると思う。疑似科学・スピリチュアル・霊感商法・新宗教自体は昭和の頃からブームではあったが、共感覚が不当に利用されるようになったのはここ最近のことだ。

 私の共感覚は、例えば上記スレッドの「うどん」の例でも、「対女性共感覚」でも、人の汗や呼気など体外に出てくる物質の成分の微妙な変化などに対して一般の人たちよりも著しい敏感さをもって知覚しているということだけで説明が付くものだから、超常現象どころか、かえって(私の身体・五感だけを用いた)究極的に科学的な物事の見方とも言えると思う。

 結論から言えば、「見えていないのに見えているなどとする虚偽の感覚」でなければ、名称は何でもよいわけである。しかし、たとえ同じ感覚を指していても、科学的に検証されているものが「共感覚」、虚偽の感覚が「オーラが見える能力」と呼ばれる傾向にあるので、表向きは「共感覚とオーラ」の違いとして議論されるわけだ。

 従って、多くの場合、「共感覚は本物、オーラはインチキ」という結論になりがちだし、私も基本的にはそう思うのだが、逆に「インチキ共感覚」と「本物オーラ」を比較すれば、やはり本物は後者に決まっているので、後者を「共感覚」と命名し直したほうがよいことになる。

 つまりは、一つには「言語」の問題、一つには「人間性」の問題なのだ。


■この共感覚を違法薬物(覚醒剤や危険ドラッグ)の使用者の発見に使えないものか

 これに関連していつも思うのだが、「うどんを食べた人」が共感覚色で分かるくらいなら、「覚醒剤や危険ドラッグを体内に入れた」人が共感覚色で見えてもおかしくないはずなのだが、今のところそのような便利な感覚は私にはない。

 うどんを食べたら、血中成分や体細胞の成分が当然ミクロレベルで化学的に変化するように、違法薬物を体内に入れた時の身体の異常も、当然ながらミクロレベルでの化学的変化に起因するほか、脳活動のうち(ニューロンどうしの神経伝達物質の受け渡しは化学的であるにしても)ニューロン内部に生じる異常は、もっと計測しやすい電磁気的変化であるのだから、私のような「人に色が見える」共感覚者なら、わりと容易に分かって警察に通報できるくらいの感覚があってもおかしくなさそうなものである。

 発達障害・自閉症の子供の中には、見えている子供が絶対にいると思っているのだが、子供である以上、(子)「ねえ、ママ〜、あの人ヘンな色してるね〜」、(母)「コラ、やめなさい」などという会話で終わるに決まっているので、おそらく半永久的に証明できないと思う。しかし、「ある」と考えて間違いない共感覚であることは確かだ。

 この件は、あくまでも参考に書いておいたが、実際に海外では、犬や猫を用いた犯罪者の発見も試みられているのだから、諦めるにはまだ早いのかもしれない。


■「恐怖」よりは「畏怖」としての人との出会い

 今から書くことは、私の共感覚のうちの一つである「人の姿・言動や風景に色が見える感覚」と関係があるかどうか、自分でもはっきりと文章化するのは難しいのだが、なぜか、人との出会いについて不思議だなと思う現象や出来事を体験することが多いので、そのことを書いてみたいと思う。

 私にとって、「嬉しくもおそろしい出会い」とでも言いたいものとなっているが、どちらかと言えば「恐怖」よりは「畏怖」の感情を持っている。今回挙げるケースは、相手が老若男女にかかわらず、かなり頻繁に起きていることで、もう慣れたし、今は怖さよりは嬉しさのほうが大きい。

 ところで、基本的に共感覚者には、周囲から「感性が豊かだね」などと言われる人が多いようである。事実、私がそうなのだが、まずは淡々と実体験の列挙をしておこうと思う。

 基本的に私は、ネット上で私生活について語ることが嫌いで、私生活や職場の不満をTwitterなどで暴露している人のことも全般的に良く思わないのだが(私生活日記は日記手帳にでも書けば良く、ネット上には、その私生活での出来事に高い普遍性や学術性や倫理性がある場合に公開すればよいと思っている)、それは文字通り「他人への個人的な不満や愚痴」を見かけた場合であり、今日書くことは、私生活どころか「現象」としての普遍的な面白さがあると常々思っているので、少し書いてみようと思った。

 どちらかというと「夜に目が覚めて時計を見ると、4時44分だった」といった、摩訶不思議ながらもただの偶然の現象に近いとは思っているので、大抵は気楽にとらえて済ませている。

 ただ私は、普段から共感覚による色で文字や音を見ているのと同じ感覚で、人の色も見ているので、あえてそこに注目するならば、以下のような「人との出会い方」は私の人生にとって必然であり、私の根っからの共感覚体質なり、直観像記憶なり、人間に対する洞察・感性全般と関係がなくはないと思って生活している。

 先ほども述べたように、私はあくまでも科学的に検証済みの「共感覚」の保持者であって、霊能者やスピリチュアル・カウンセラーと勘違いされたくはないと思っている。

 むしろ、誰に対してもこんな感覚が起きているようでは、運命の女性や親友を探し当てるのに一苦労すると思うので、ぜひ注意されたい。(一体、誰に向かって言っているんだか・・・。)

 それに、以下のようなことを書くと、私がさぞかし効率よく人に出会っているような印象を与えるかもしれないが、そんなことはなく、人に裏切られたこともあるし、心を鬼にして人を見捨てたこともある。そういったことについても、正直でありたいと思っている。

 霊能者やスピリチュアル・カウンセラーは、人に助言ができるほど人間性が完璧であるはずだからそれを生業としているのだと思うのだが、自分は全くそんなことはないし、共感覚は共感覚以上でも以下でもなく、ただの共感覚でしかない。しかし、共感覚についての考察を深めることはできる。


■私によくあるケース1 「数年来ご無沙汰していた人と突然交流が再開する」

●数年来ご無沙汰していた人のことを思い出し、胸がそわそわしていたところ、数日後にその人からメールが来て、突然交流が再開することがある。
 何の前触れもなく、急にその人のことを思い出してから連絡を取り合って喫茶店でお茶をするまで、ほんの数日〜二週間くらいなので、嬉しい気持ちはあるものの、良い意味でゾッとして疲れることがある。
(これが一年に1〜5回くらい。2015年に入ってからも、すでに2回あるので、良い意味で本当に疲れている。)

●上記の逆パターン。数年来ご無沙汰していた人のことを思い出し、胸騒ぎがするので、逆に自分から「お久しぶりです」とメールを送ったところ、「えっ!! この前から岩崎さんのことを急に思い出して、メールしようとしていたのに、なんで分かったのですか!?」と言われる。とりあえず、「あなたの共感覚色がその雰囲気の色だったとしか言いようがないので・・・」としか答えようがない。
(これも一年に1〜5回くらい。)


■私によくあるケース2 「事前にネット上で気になっていた人と、なぜか直後に交流が始まる」

●mixiの共感覚コミュニティなどを読んで回っていて、なぜかどうしても気になって仕方がない人がいて、注目していたところ、数日後にその人から「ずっと気になってサイトを拝見していました」とか「本を買って読んでいました」とか「そろそろはじめましてのメールを送ろうと思って、いよいよ決心して送りました」といった連絡を頂き、嬉しくもゾッとする。
 コミュニティメンバーが数十人から数百人いるにもかかわらず、私にとっては、そのご連絡の直前はその人のプロフィール写真や文章だけが異質な共感覚色に見えている。
(これが一年に3〜5回くらい。)

●上記の逆パターン。ネット上に、私にとってはプロフィール写真や文章にどうしても共感覚色が強く見える共感覚者がいらっしゃり、胸がそわそわするので、自分から思い切って「私も同じく共感覚者で、こういうサイトを運営しています。よろしくお願いします」とメールを送ったところ、気になり始めた時期の直前(前日〜一週間前)に、その共感覚者は私について気に留めて下さっているばかりか、私についてmixi日記やブログを書いており、偶然その直後に私がメールを送っていた。
(これも一年に3〜5回くらい。なぜか2015年に入ってからは、すでに連続で3回起きている。)

●【特殊】お互いに全く見ず知らずのネット初対面であるにもかかわらず、全く同じ年月日の全く同じ時刻に、お互いにmixiやTwitterの「はじめまして」のメッセージを発信。
(これはさすがに、人生の中で2回くらいしか起きていないケースである。そのときは、あまりに奇跡的すぎるので、メッセージの証拠を送り合って確かめた。ただ、こういうことに相手の一人は慣れておらず、びっくりさせ、後々まで悩ませる結果となってしまった。)


■私によくあるケース3 「書店や喫茶店などでなぜかよく声をかけられる」

●ある日、池袋のジュンク堂書店でパソコン関係の書籍を探していたら、全く見ず知らずの男性二人組から、「あの、すみません、今仕事でPHPやJavaを始めようとしているのですが、何かよい本をご存知ですか?」と声をかけられる。
↓↓
 意気投合し、思い切りパソコントーク。名刺も交換する。「どうして私なんですか? 本屋で知らない人に声をかけるなんて、普通あり得ないでしょう(笑)」と訪ねてみたら、「なんだかお詳しそうだったので」という回答。
↓↓
 およそ一ヶ月後、また池袋のジュンク堂で精神病理学関係の書籍を探していたら、また全く見ず知らずの女性から、「あの、私は強迫性障害なのですが、私に似合った本はありますか?」と声をかけられる。
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 一応、本気で選ぶ。信用度を見計らって、名刺も交換する。「どうして私なんですか? 本屋で知らない男に声をかけるなんて、普通あり得ないでしょう(笑)」と訪ねてみたら、「なんだかお詳しそうだったので」と答えた。ここまで来て、さすがに良くも悪くも冷や汗が出た。
↓↓
 疑い深い私は(?)、彼らが事前に打ち合わせた可能性を考慮して、丹念に探ってみるが、当然何も出てこない。そもそも、彼らどうしが赤の他人。要するに、私自身の共感覚や人間観察などの異常に敏感な感性そのものと偶然との重ね合わせ・折り合わせに起因するとしか言えない、というのが答え。
↓↓
 でも、それ以来、池袋のジュンク堂などいくつかの特定の場所は、私にとって「人との出会い」の場所になっている。ただ、「偶然に見ず知らずの人から声をかけられるだろうという必然が確実に分かっていて」、それを頭の片隅に想定して特定の場所にいる人もあまりいないと思うので、この「待ち方」というのは、一般常識から見ると変に思えるのかもしれない。

●このように、セットになったケースも二年に一度ほどあるが、セットになっていないケースも一年に数度ある。


■私によくあるケース4 「どうしてもこの人に会っておかないと大変なことになると思って会った直後に特殊な出来事が起きる」

●私に共感覚について相談したいという人がいて、なぜか胸騒ぎがしたので、「相談するなら今早く相談してくれたほうが絶対いい! なぜか分からないけど、早く! できれば明日にお願い!」などと、プライベートでも仕事でも人をせかすことなどほとんどあり得ない自分が、その人をせかす。相談後、その人のペットの猫が死に、その人は数ヶ月間寝込んでしまい、感謝される。


■「おそろしい」「おそれ」「虫の知らせ」「胸騒ぎ」という日本語について

 さて、このような人との出会いについて「恐怖」よりも「畏怖」を覚えると先に書いたが、このことは自分なりに正しいと考えている。

 元々、日本語の「おそろしい」と「おそれ」とは、同語源であるが、現在、「おそろしい」には「恐ろしい」「怖ろしい」、「おそれ」には「恐れ」「怖れ」「畏れ」「虞」の漢字が主に当てられている。

 日本語の「おそろしい」「おそれ」には、これらの字義の全てが含まれているが、どの時を当てるかは文脈と時代に拠っている。

 明治・大正時代の新聞などを読んでいると、「恐怖」の情に「恐」、「恐怖」と「畏怖」の間の情に「怖」、「畏怖」の情に「畏」、「懸念」の情に「虞」が当てられていたことが多いようである。一言で言えば、ヤマトコトバと漢字の字源・字義に対して知識人や上級庶民が異常なまでに「自覚的」で、それが新聞からひしひしと伝わってくる。

 例えば、「あのうつ病者は自殺するおそれがある」と言うとき、漢字の字義から言えば「虞」を当てる以外にほぼあり得ない気がするし、事実、かつてはそうであったようで、私個人はどちらかというと、こちらの感覚と言える。

 ただし、現在、「自殺する恐れ(怖れ)」という字を使用するケースはよく見る一方で、「自殺する畏れ」という字を使用するケースはあまり見かけず、「自殺する虞」は最も出会う機会が少ないという逆転現象が起きている事実は、「昨今の自殺社会が、恐怖心を煽ることはあっても、富士山などの自然に対するような畏怖・畏敬の念や赤の他人への懸念を呼び起こすものではない(知らない人の自殺は畏れ多さもない他人事である)」という現代日本人の心理を反映しているのかもしれない。
(むろん、文科省・国語審議会などによる教育方針、常用漢字の恣意的な改訂、漢字の使い分けの強制廃止策なども原因の一つではある。)

 そのように考えると、上に挙げたような私が体験してきた人との出会いは、「畏怖」の情を中心とする全般的な心境である以上、ひらがなで「おそれ」と書くか、次に「畏れ」と書くかしかないものではないかと思っている。

 だから、このような出会いが、単なる「嬉しい」とか「喜ばしい」とか「楽しい」もの、出会った時期や年月日の数字上の偶然の一致を「楽しむ」だけでよいものとは思わないという感覚も、その辺りに由来すると思う。一方で、単に表面的に「嬉しい」「喜ばしい」「楽しい」としか感じさせないような人との出会いには、何か嘘がありそうだとも、いつも感じている。

「虫の知らせ」や「胸騒ぎ」という日本語は、いわば客観的事態としての「おそろしさ」や「おそれ」を感じる主観的心情それ自体を指しているという言い方ができるかもしれないし、多くは良くないことが起きる場合に使われるが、そもそも主客・吉凶の混交の状態であるとも言えると思う。

 私は、今は講談社学術文庫から出ている黒田亮の『勘の研究』が好きで、自分の「胸騒ぎ」や人との出会い・共感覚・恋愛感情全般について探究する時によく読んでいた。書中に出てくる「勘」や「直覚」「識」などは、「虫の知らせ」や「胸騒ぎ」に関連させることができると思うが、あくまでも東洋哲学書の一つで、仏教的な視点も絡んでくるので、読みたい人には宝だが、読まない人には紙切れ、といったところだろう。

 いずれにせよ、先ほどの「おそろしい」「おそれ」「虫の知らせ」「胸騒ぎ」という日本語が指し示しているものこそ、私自身の共感覚にはピタリと合っているような気がする。ただし、日常生活において「あなたとの出会いはおそろしい」などと言ったら、全部説明しなければならなくなるし、そもそもその出会いのありがたさ自体をわざとらしくは言わないようにしている。

 元より、それを事細かく説明しなければならないような人とは、「おそろしい胸騒ぎ」による出会いを形成できていないからそういうことになるのだ、ということまでいつも感じているし、結果的に、自分と関係が深い人と浅い人に、自然と分かれていけば、それが私の人間関係の本当の答えだと思っている。


■私に似た人の存在

 ところで、このような人との出会い方や物事の見方をする共感覚者とも、またネットで出会ったことが、本当に自分の力、心の支えになっている。

「女性は勘が鋭い」とよく言う通り、女性の方が多いのだが、私から見れば、どうしても女性の共感覚や「予感」のほうが超常現象的な感じがする。それは、「男性に女性のことは分からない」ということであるけれども、最近、不倫している噂のある芸能人が「女は分からん!」などと叫んだような低俗な意味ではなくて、「いくら男が学問や武道を極めたところで、新しい人命を身ごもることはできない」という現実に由来する「畏敬の念」から直結する「分からなさ」を感じるということである。

 しかし、女性から見ると、私の共感覚は男性にしては鋭すぎるらしい。むろん、それは私自身も自覚している。

 それならば、私は女性に生まれれば良かったかというと、それは全くそうではなくて(苦笑)、私は異性としての女性の共感覚が好きなので、現状でよいと感じるとしか言いようがない。

 男性では、発達障害の男児などが同様の共感覚や直観力を持っているケースがかなり多いと感じる。


■結尾

 以上、私自身に起きた人との不思議な出会いの例と、それについての自分の感想を書いてみたが、人間にはこういうこともあるわけだし、これからもこういうことはあると思う。

 その時その時を大切にして、生きていこうと思う。


【関連ブログ記事】

●僕の共感覚を理解していただく上で
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/41097350.html

●拙著『私には女性の排卵が見える 共感覚者の不思議な世界』について
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●自閉症・現代物理学・仏教哲学・日本の心についての一考(その一)
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●自閉症・現代物理学・仏教哲学・日本の心についての一考(その二)
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●自閉症・現代物理学・仏教哲学・日本の心についての一考(その三)
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●【地震に警戒】何人かの共感覚者・自閉症児の行動に変化【M6〜M8級】
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/53332430.html

●昨夜分の地震予測結果
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●(1)今後の地震予測の記事の書き方 (2)私の地震予測の流れの解説
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●地震予測法のアイデアメモ(重度自閉症児・強度共感覚者の能力と地磁気観測計データの併用)
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●私の個人的な発想メモ「電磁気哲学や量子自閉症学の提案」「心と体の話」など
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●疑似科学にまつわる懸念 ― 疑似科学ではない超音波知覚と疑似科学である動物駆除超音波装置を例に ―
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/102454374.html

●対女性共感覚
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/46129094.html

●現代の巫女と一般女性とに共通する潜在的古代的共感覚について
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/46343132.html

●警察犬による一卵性双生児の嗅ぎ分け
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/46356999.html

●女性の集団ヒステリーを考える
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/71190712.html

●私の「対女性共感覚」を原初的「対幻想」と見る解釈について
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/71465628.html
posted by 岩崎純一 at 17:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の共感覚