2015年06月12日

共感覚者が見る明晰夢「ひのもとのとしがね」

 これは、私が共感覚者であることと関係があるかどうか分からないが(いや、内心では関係があるに決まっていると思っている、または関係があるという自覚が薄々あるが)、私は自分が夜に見る夢に並々ならぬ興味を持って生きている。

 そもそも私に限らず、共感覚者の見る夢は全般的にどうも風変わりなようである。おそらく、私の場合も、レム睡眠時の脳波を計測すれば、標準平均的なレム睡眠時の脳波において見られる特徴とは異なる特徴が見られるのだとは思う。

 私の夢の特徴

●色が付いていない夢を見たことがない。
(色が付いていなかったり、色が付いているか否かを即答できない人がいることが今でも信じられない。周りの知人や同僚からは、そのことのほうが信じられない、という答えが返ってくる。ただし、私が最も好きな色は黒や灰や白を基調とする渋い色で、水墨画、和服、日本茶、新聞などの色合いを好む。)

●夢の中でも視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、体性感覚、平衡感覚その他全ての感覚が高い現実性をもって体感される。

●起床後も夢を忘れたことがほとんどない。忘れ方は、覚醒時の普通の物忘れの仕方とほぼ同じ。
(起きた瞬間に直前まで見ていた夢を忘れるか、少なくともその日の夕方頃までには思い出せなくなるという人があまりに多くて、驚いている。しかし、生物として異常に高度に発達した人間=ホモ・サピエンスの脳が、覚醒の瞬間に直前まで見ていた夢を忘れるようにできているというのは本当で、そちらのほうが普通らしい。)

●夢を夢と分かって、メタ視点から夢をコントロールできる機会が頻繁にある。(明晰夢)

●ストーリー展開は無茶苦茶であると言ってよく、少年的・夢想的であるにもかかわらず、共時的に切り取ったときの内容は、極めて学問的・高次認知的であり、時に時事的でさえある。

 例えば、最近見た夢は以下のようなものです。

【夢始まり】

 空飛ぶ絨毯(またはビニール?)に乗って低空飛行しながら味噌ラーメンを食べていると、突然、ブッダ?かその他の如来(大日如来?)らしき仏か魔王?が登場して、
「ひのもとのとしがねを何とかせよ!」
と叱られた。世の中にはおかしな仏もいるものだと思って、なぜか目の前に現れたハンドルを切って逃げようとしたら、また同じことを言われた。
 そこでなぜか、「小さい頃に行き忘れた宝島にあった宝物かな」などと考え込んだ。(どこの何かは分からない。)
 しばらく考えて、「ひのもとのとしがね」が「日本年金」であることに気づき、つまりは「日本年金機構の体質を何とかしろ」と言っていることに気づき、内心で「いや、俺のせいじゃないよ、勘弁してくれよ」と思いながら、口先だけで「分かりました。機会があれば、お伝えしておきます」と回答。
 ブッダらしき仏が「まったく、日本はおしまいだ」と言うので、仕方なく黙ってラーメンの続きを食べていたら、仏は去っていった。
 この間ずっと、これら一連の出来事が夢の中の出来事であることに薄々気づいていた。
 最後に、絨毯の端にある「お目覚めボタン」を押して目が覚めた。

【夢終わり】

 さて、不思議なのは、「ひのもとのとしがね」などという文言は、その明晰夢を見た日までの覚醒時のどこかですでに思いついていたものではなく、あくまでもその夢を見ている最中の私の脳が生み出したものだという点である。もちろん、漢字の複数の読み方と、「ひのもとのくに」という日本国の古称と、最近の年金関連問題の全てを知っている日本人の脳にしか生じ得ない夢である。(これを認めないようでは、当然ただのオカルト科学である。)

 ところが、私の脳が生み出したものなら、すぐに「日本年金機構をもじったものだな」と気づけばよいものを、夢の中の自分はそれに気づくのに時間がかかっているところが、我ながら笑える点であり、面白いのである。

 こういう例を待つまでもなく、そもそも「人間が自由意志を自覚した(行動を思い立った、何かに気づいたと自覚した)瞬間の時刻は、自由意志(企図、想起)の開始を示す脳電位の発生時刻よりも後である」ことは、ベンジャミン・リベットらの実験をはじめとして、いくらでも検証されているし、我々がそれを覚醒時に体験できるギリギリの類似の例が「条件反射」であるわけだが、とりわけ夢においては、多かれ少なかれ、誰にでも生じる摩訶不思議現象ではないかと思っている。
(ちなみに、いわゆる「脊髄反射」は脳が関係しないので、これとは異なる。これに対し、共感覚や条件反射(条件反応)は脳が関係して生じる。)

 芸術家が、次の作品に行き詰まっていたところ、夢の中で新しい作品の構想を(まるで第三者の助けを得たかのように)思いつくというのは、よく聞く話である。

 それにしても、謎の「宝島」への憧れが登場する一方で、「まったく、日本はおしまいだ」という文言(夢の中の他者の文言)もどう見ても私の考えから来ているし、ともかく、少年的夢想と社会人的危機意識とが混濁した内容を持っている点が、私の夢の特徴だろうと分析している。

 というより、このような分析も夢の中でしていることがあるので、おそらく私は、自分が感覚・知覚したものについての思索・思惟、あるいは潜思・沈潜という行為が根本的に好きなのだろうと自分で思う。
タグ: 明晰夢
posted by 岩崎純一 at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の共感覚