2015年12月23日

本年の勉強会・フィールドワークなどの活動報告

「日本共感覚研究会」は、2015年7月末より「岩崎純一の個人交流会・勉強会」の一つとして機能しているため、サイトのアドレスも以下の通り変更となっております。

◆日本共感覚研究会
http://iwasakijunichi.net/jssg/




 本年のサイト関連活動のうち、オフ活動を中心に、以下にまとめましたので、ご参照いただければ幸いです。


【交流会・勉強会全般】

 本年も、回数は少ないながら、勉強会・オフ会を開催しました。ご参加者の皆様には、心より御礼申し上げます。

個人交流会・勉強会 主催の私は、時間的制約はそれほどない一年でしたが、仕事その他に心理的に忙殺されて、なかなか共感覚その他のサイト本来の内容に集中できず、回数は少なくなってしまいました。

 そもそもサイトの内容(共感覚研究、文芸、言語体系考案、新しい人的交流・コミュニティの建設など)そのものを仕事とし、学術的知見の蓄積に邁進できるような状況を構築できれば理想なのですが。

 私のリーダーシップ不足もあり、皆様にはご迷惑をおかけいたしているところです。


【知覚・共感覚関連】

 本年の初頭に、「共感覚記憶データベース」として、新たな共感覚の例を多く掲載しました。これ自体は、楽しいものでした。

岩崎純一の共感覚データベース 文理系双方の研究者からのアプローチは本年もあり、私の共感覚や脳神経系のはたらき、他の霊長類の見ている世界との類似を研究したいとのご要望もございました。

 ただ、やはり共感覚研究の予算を有利にとるための学会などの短期決戦が求められる状況では、このような私の共感覚や膨大なデータベースの研究は、時間がかかってどうしようもないようです。いわく、「岩崎さんの共感覚学術体系が哲学的・芸術的なものとして完成しすぎていて、学者の私たちが手を出せない」上、「何らかの共感覚事業に生かせるようなものとは考えられない」とのことで、残念ながら本年は神経科学系の学者・研究者の意向には合致しませんでした。
(この「共感覚事業」とは、下方の「共感覚イノベーション」関連の話にも関係します。)

 一方で、日本大学藝術学部にゲスト講師として呼ばれ、宮沢賢治や尾崎翠などの日本近代文学における共感覚表現から始まって、共感覚者としての人生全般や哲学について、お話してきました。大変に心地よいものでした。

 また、大学院生・大学生・高校生・中学生・小学生から私の共感覚を学習発表や卒論のテーマに選びたいとのご要望もありました。未成年の場合、学校の先生を通じて書簡で依頼状をいただくこともございました。

 こちらにも全面的に協力はいたしましたし、子供との交流は楽しかったですが、礼儀・コミュニケーション・社会通念上のやりとりという点については、少なからず不満の残る一年でした。

 例えば、中学生・小学生に対して私の共感覚データをPDF添付や画像ファイルのいずれで送信すれば学校の設備・端末や彼らの学習上の都合に合致するかを、担当教員に伺っても、返信がなかったり雑な返答しかないなど、大変に困ったものでした。担当教員には、私と同世代の方々も多いですね。もっとしっかりしていただきたいと、じれったく思いました。

 一方で、「自分も共感覚を公表したいが、岩崎さんは共感覚の公表が親類・職場・友人・知人に知られたときに失う社会的リスクの危険性とどう向き合っているのか」といった悩み相談も、受験生・新卒生などから受けました。こればかりは、毎年のように相談を受けます。

日本共感覚研究会トップ さらに本年は、昨今の危険ドラッグの流行と共感覚との結びつけに悩まされる一年でもありました。

 元々、LSDの服用が共感覚をもたらすなどの知見は知られていますが、日本の危険ドラッグ使用者らが身勝手に、こういった知見から共感覚に興味を示し、私にアプローチしたものと思われます。こういった状況に鑑み、共感覚と覚醒剤・麻薬・危険ドラッグとの関係をクローズアップする目的も兼ねて、これまた私自身が日本共感覚研究会を立ち上げました。

●日本共感覚研究会の調査報告書
http://iwasakijunichi.net/jssg/hokokusho.html

●麻薬・覚醒剤・危険ドラッグ・指定薬物等による共感覚の出現の知見の有無と当該薬物の国際条約及び世界各国・日本国の法令等における扱いとの対応表
http://iwasakijunichi.net/jssg/hokokusho/hokokusho4.pdf

 違法性がある場合、私は容赦なく警察や自治体に通告し、日本の自称共感覚者たちをもどんどん捜査すべきだと勧めています。しかし一方で、良くも悪くも、強烈な共感覚をもたらす成分の詳細までもが、危険ドラッグ使用者の「おかげで」分かってきてしまいました。あくまでも学術的知見として学術目的において、研究会サイトの報告書をご覧下さい。

 それに、「共感覚イノベーション」などの言葉が政府機関や政府系特殊法人の事業計画などで流行していまして、一体それが何なのか、どれほど国費や税金を無駄使いすることになるかを追求するため、以下のような研究も始めました。

●産学官民による「共感覚・知覚・感性」関連事業の2020年東京オリンピック・パラリンピック利権化に対する注視
http://iwasakijunichi.net/jssg/hokokusho/hokokusho6.pdf

 ただし、ここまで書いておきながら言ってしまいますが、私は、日本の共感覚研究は、悲観的な意味で社会的にも時代的にもほぼ終わっているものと考えています。今後の日本で、私利私欲を我慢して本気で取り組む人物が出ない限り、後世に残るような深遠な内容を持った知覚・共感覚研究の知見など出ないと思っています。

 学者・研究者や大学の動向を見る機会は極めて多い方ですが、興味深いことに、共感覚研究でも、共感覚が金になることが確証されないと、共感覚関連の研究室に設備を導入することができないわけです。逆に言えば、共感覚が「共感覚事業」として金になるかのように、上手に国や自治体、大学の運営陣にアピールできている学者・研究者にばかり、優先的に予算が投入されています。悲しいことだと私は思います。

 日本共感覚協会のサイトも閉じられました。


【超音波知覚者コミュニティ東京】

超音波知覚者コミュニティ東京 これも知覚関連コンテンツの一つと言えますが、本年は特に大きな成果がありました。「東京タヌキ探検隊!・東京コウモリ探検隊!」の宮本拓海隊長との共同研究・フィールドワークの実施、およびその報告書については、以下に示した通りです。

●「バットディテクター(コウモリ探知機)を用いた池袋・丸の内地区の超音波装置の設置箇所などの探索・特定および岩崎純一代表の超音波知覚の検証のためのフィールドワーク」
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/165547993.html

●ニコニコ学会βの動画が公開(超音波知覚者コミュニティ東京への東京コウモリ探検隊! 宮本拓海隊長のご協力)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/170411436.html

 この報告書については、来年、知覚・共感覚関連でお世話になっている東京大学の音声学・物理学などの諸先生方などにお配りして、予算と学生の投入を促すか、それとも宮本氏のように在野の非専門家としてのシチズン・サイエンス(オープン・サイエンス)の矜持を保ち、このまま私的学術サークルとして進んでいくか、検討する年となるでしょう。

 本年は、丸の内地区に加えて、池袋地区にも、多数の超音波発生機器を発見し、以下のブログ記事を書くに至りました。西武池袋本店のネズミ防除装置の発見から始まった同地区の研究は、セゾン・そごう・西武・西友グループ系列の店舗全体へと広がっています。装置の設置は、各テナントではなく、企業方針であることが分かってきました。

 本店・支店級の代表電話やインフォメーションセンターの窓口の女性の皆様に、装置の設置が企業方針であるかどうかを尋ねてきましたが、超音波知覚への関心どころか、自社の設備についての物理学上の知識を持って応対しているはずがありません。

 ただし、お一人だけから「はい、設置しております・・・。私にも超音波が聞こえてます・・・」との回答を得ました。超音波装置の設置が西武系列企業の方針であるとの完全な確証をとるのは、来年になりそうです。

●超音波発生装置のもう一つの牙城 〜池袋の西武・LIBRO・PARCO・西武池袋駅構内〜
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/154668379.html


【言語学・言語体系考案関連】

岩崎式日本語ペディア 岩崎式日本語については、以下の「岩崎式日本語ペディア」を立ち上げ、使用者の多くを占める性被害者施設やDVシェルターの皆様による編集協力を可能にしました。

 岩崎式日本語を中心とする一大文芸体系の創作も、今後いっそう期待できるかと思います。


【精神病理学・精神疾患研究】

 これについては、本年も勉強会メンバーを中心に、各種精神疾患罹患者との交流を深めてきました。解離性障害、PTSD、強迫性障害、不安障害、統合失調症、発達障害、性被害を抱える方々など。

 人生なんてたかが80年ですので、生きている間になるべく多くのタイプの人々の存在を知りたいと思うばかりです。街を歩いたり仕事をしているだけでは、街や仕事に出られるタイプ(一種類)の人たちにしか出会えません。その面白みのなさを超えるのが、私のサイトの最大目的の一つです。

 ところで、昨年と今年は、アメリカ精神医学会がDSM5を発表したことで、世界的な精神疾患の枠組みが変わる過渡期なのです。「アスペルガー症候群」がなくなったり、「障害」が「症」になったり、「症」が「障害」になったりしています。ややこしいものです。

●精神病理学・精神疾患研究
http://iwasakijunichi.net/seishin/


【和歌関連】

 和歌関連については、旧余情会のメンバーが全国てんでばらばらの小規模神社の巫女になったりご結婚されるなどして、私なんかと和歌を嗜んでいる場合ではなくなり、お上品なネット歌会は雲散霧消しつつある状態です。

 私自身の和歌集については、生涯を通じて編纂していく予定ですし、人生のある時期には滞ることがあっても、やめることはないでしょう。

 あるいは、言語・言葉関連の活動は、丸ごと岩崎式日本語・岩崎式言語体系の活動に引っくるめることも考えないといけないのかもしれません。

●和歌・古典
http://iwasakijunichi.net/waka/

●『旧派歌道・歌学の流派・家元・団体の総覧』
http://iwasakijunichi.net/ronbun_ippan/kado.htm

●『新純星余情和歌集』(しんじゆんせいよせいわかしふ)及びその全解釈
http://iwasakijunichi.net/ronbun_ippan/shin_junsei_yosei_wakashu_hyoshi.htm
posted by 岩崎純一 at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ・挨拶事項

2015年12月22日

ニコニコ学会βの動画が公開(超音波知覚者コミュニティ東京への東京コウモリ探検隊! 宮本拓海隊長のご協力)

 ニコニコ学会βの以下の動画部分にて、東京タヌキ探検隊!・東京コウモリ探検隊!の宮本拓海氏が登場されています。超音波知覚者コミュニティ東京のフィールドワークやマップ作成にご協力下さっており、コミュニティのご紹介もして下さっています。

 タヌキ研究やコウモリ研究にご関心のある方も、ぜひご覧下さい。私も余裕ができてきたら、コウモリ研究に協力させていただく予定です。

↓宮本拓海隊長のご登場部分(タヌキ研究、コウモリ研究、超音波研究のご紹介)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv241799273#4:54:38

↓「マッドネスマックス」の冒頭から。
http://live.nicovideo.jp/watch/lv241799273#4:20:00

↓ニコニコ学会β全体の動画。6時間48分もあるので、全部は見られそうもないですが。
http://live.nicovideo.jp/watch/lv241799273

2015年12月18日

「歩きスマホ」をカント哲学から考える

 ブログの更新は久しぶりである。時間はあるのだが、サイトやブログに意識がなかなか向かないのが主な原因である。来年2月頃からは、意識が向く予定である。ただし、予定は未定である。

 そんな中、あくせくと街を歩いていて色々と思うことは多い。社会観察の好きな私である。一応、哲学専攻だった身として、最近感じていることを一つだけ書いておく。

 最近いわゆる「歩きスマホ」が流行し、メディアでも問題視され報道されているので、街を歩くときにも自然に歩きスマホをしている人に目が行くようになった。と言っても、街のど真ん中では、歩きスマホが視野に入らない瞬間を探す方が難しい。

 入力が面倒であるので、今私はこのような人間を「歩スマー(ホスマー)」と呼称させてもらう。また、「歩きスマホ」は「スマ歩(ホ)」とさせていただく。入力が面倒というのは口実で、実は皮肉を込めた批判としての略語である。

 一見すると笑い話のようであるし、確かにユーモアを込めている部分もある。しかし、歩スマーが自分でホームから転落したり人から注意されるのは自業自得だとしても、人にぶつかって怪我をさせたり、それで人の命を奪うような場合もある。人の命に関わる重大な社会問題の話なので、どうしても書いておきたい。


●歩行距離や運動の問題

 そうして観察を続けたところ、歩スマーではない自分がいかに日常的に蛇行しているか、いかに無意識に気を遣い苦労して、歩スマーを避けながら歩いているかということがよく分かるようになった。最近は、このような歩き方をしている人たちは皆、真のボランティア、善人だと思うようになってきた。

 おそらく、同じ距離を歩くにも、歩スマーよりも非歩スマーのほうが1.05倍から1.1倍くらいの距離は歩いているのではないかと思う。新宿・渋谷・池袋などの人口密集地帯では、ほぼ真横に避ける羽目になることもあるので、1.2倍以上は自分の方が歩いていると思う。となると、歩スマーは知らず知らずのうちに、外出時の運動・ダイエット効果もずいぶん失っている計算になる。

 歩スマーは、歩行スピードが遅いのに、通行ルートと脚の動きが直線的だし、目線も一点凝視型だ。筋肉に負荷がかからず、歩く距離も短く、脚部の横方向へのふんばりなどが、高齢期に至って急に弱くなることが予想されると思う。

 後ろから歩スマーを追い越すときも、結局は、自分の方がややこしく変な動きをして追い越すことになる。どのタイミングで追い越せばよいかにも、頭を悩ませることになる。歩スマーには、少なくとも歩スマーでない我々にはあるような「後ろから誰かが来ているなという直観」、「自分のせいで困っている人への申し訳なさ」、日本語で呼ぶところの「気配」や「空気」への知覚能力が欠落していると思う。

 スマ歩推進派は海外にもいて、「スマ歩は第六感を養う」などとする論文まで出ているが、見てみたところ、かなり怪しくて、不謹慎ながら笑ってしまった。周囲の人たちがよけてくれる親切さを、歩スマー側の第六感によるものだと曲解して、無茶苦茶なデータを用いている。むしろ、第六感や動物的直観があるのは周囲の人たちの方だと私は思う。

 石器時代や縄文時代、というより昭和時代のつい最近まで、猟・漁をするときには、横方向への敏捷性などの基礎的能力が必要だったはずだが、歩スマーはそのような動物的な動き、前方注意、危機察知、事前の歩行位置の横方向への修正、方向転換というものを1〜3メートル以内に近づくまでほとんどしてくれない。だから、全てをこちらがやらないとどうしようもない。

 万が一「一億総スマホ社会」になって脚部・臀部・腰部の動きが根本的に変わっていくと、未知の症状も出てくるのかもしれない。しかし、一番問題なのは、歩スマーの危険性そのものにほかならないが。

 歩スマーに出くわすたびに、なぜ自分がよけなければならないのかと憤りを覚えていたが、自分の方が忍耐力や敏捷性などを劣化させないで済むのだという、やたらと冷静な医学的・生物学的視点で考えるようになってからは、多少は憤りもなくなってきた。


●注意警告への気づきの問題

 スマ歩は、鉄道事業者やスマホ事業者も問題視しているし、スマ歩禁止のポスターも色々なところに貼られるようになった。だが、ポスターを見るのは「顔を上げている、ポスターを必要としない人たち」なのだから、本当に意味があるのだろうか。

 歩スマーは、ポスターを全くまたはあまり見ていないか、見ても無視しているか、歩きスマホができない人の方を「不器用だ」、「前方を注意して自分を避けてくれるべきだ」と考えているか、のいずれかだと思われる。

 そうなると、歩スマーは、スマ歩に限らず、読書や人付き合いや仕事の仕方もいい加減なのではないかと思えてくる。そう思われても仕方がない。


●歩きスマホしなければならないような重大事案かどうか

 スマ歩する以上は、歩いているときに親族危篤の一報が入ったとか、上司からメールが来て早急な返信が必要だとか、今からデートの予定のところが悲劇の破局のメールが来て、足も涙もとどまるところを知らないとか、そういった緊急事態かと思いきや、私の横目に見えた歩スマーのスマホ画面は、50%くらいがゲーム画面、30%くらいがラインなどのSNS画面である。

 歩スマーはセキュリティ意識も甘くなるようで、他人が画面を見ようとしなくても見えてしまう点も問題である。

 こういったスマ歩ゲーマーが歩行の列の先頭にいるだけで、後ろ全員が引っかかるのである。あるいは、私の前方を歩く五人全員が歩スマーで、六人目の私が憤りを覚えながら歩いているようなケースも頻繁に起きている。

 そもそも、前述のような重大事案に迫られて真摯に対応できるような人たちは、最初から立ち止まり、道の端に移動してスマホを触ることのできる人たちであるはずだ。


●せっかくの「無意識の善行」がはらむ危険性

 警告自体に気づかないのは歩スマーの自己責任の問題だが、同じく問題なのは、我々のような非歩スマーが「無意識によけている」という点だと思う。哲学になるのはこの部分である。

 何となくでも腹が立ちながらよけるなら、まだ相手に対するマナー遵守の要求のニュアンスがこちらの顔の表情や態度のどこかに出るし、道義的な威圧効果もあると思う。

 事実、「そっちがよけないとこっちから当たってやるぞ」という念を込めて近づくと、何となくそれが相手に伝わり、相手も気づいてよけることがある。

 自分一人のときにはやらないように気をつけているが、自分の後ろから高齢者や小さな子供や障害者が歩いてきている(車椅子でついてきている)ことが分かっているときは、自分がよけたら後ろが危ないので、歩スマーが歩きにくくなる位置(私を迂回しなければ私の後ろに通り抜けられなくなるような位置)を意図的にいかめしい態度で歩いているのは確かである。

 しかし、よほど意識していないと「無意識によけてしまう」親切さを日常的に繰り返す私のようなタイプの人たちがいる限り、それは歩きスマホへの一種の加担だし、いつまで経っても歩スマーは堂々と歩き続けることになると思う。そんなことでは、道徳と反道徳が反転してしまう。理屈の上では、自分が人の命を軽視しているのと同じだ。


●カントの善を思う

 このような無意識的善行は、本当は哲学者カントからすれば、理想的な道徳律の体現であるかもしれないし、善人の見本であるかもしれない。真のボランティア精神かもしれない。

 しかし、ここは心を鬼にして、カントに失礼をして、街で個々人が堂々と行動すべきであるとも思う。

 そう考えていると、段々と「歩スマーに意図的に激突し忠告して、スマ歩を壊滅させる」などということが人道的に最も正しいのではないかと思えてくるのだが、私は、そんな無駄な善行はしていない。

 というのも、カントの「善」論、義務論とは、「何かのために」、「誰かのために」などと理由をつけ、自分に酔いながら善行を行うことを善しとしないからである。ならば、そこに気づいたのであれば、かえって「無思考・無判断のまま、絶対悪だと思う人間に向かって問答無用に激突する」というのが、至上の道徳の実行であるということにもなる。でも、カントが根本的に述べているのはそういうことであるし、カント哲学の最大の長所にして短所は、そこである。

 もちろん、普段から他人に関心がなく歩いている人が、他人の忠告の意味に気づくとは思えない。しかし、私個人としては、国内の歩スマーに対してそんな激突・忠告作戦をとるべきだと考えるかどうかは、やはり微妙なところである。せいぜい私も、口頭で簡単に注意する勇気しか持たない。

 しかし、種々のアンケートによれば、90%くらいが「自分の行動は危険だと思う」としながら、80%くらいが「歩きスマホをやったことがある」という結果となっている。私としては、同じ人間たちばかりがやり続けている一方で、一度危険性に気づいてその後はやめたという人たちが大勢いるのではないかと予想する。

 歩スマーに憤りを覚えるのは、「この社会の構成員たる国民個々人の、生まれ持った身体で懸命に歩行し通行する精神が組み合わさって生じる、阿吽の呼吸の平和的な結果としてのプライベートスペース」に身勝手に入ってきて、その温かみを台無しにするからだ。家族関係でも、恋愛でも、上司と部下の関係でも、人間関係なら同じことだ。

 ロシアが平気でトルコの領空に侵入したが、そのときはトルコは意図的に撃墜作戦を採用したのだった。個人の歩きスマホのレベルにおいても、小さないざこざばかりか、殴り合い殺し合いが起きるような事態になっているわけである。だから、歩きスマホ問題は、一方では自己責任、一方では日本人の道徳やマナー、日本に対する評価が問われる内戦である。

 これで世界に向かって、「お・も・て・な・し」などと笑顔で日本と東京をアピールしてしまったのだから、2020年までに何とかしないといけない。歩スマーに罰金を課すのは難しいとしても、過料を課すのはよい案だと思う。
posted by 岩崎純一 at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論