2016年12月10日

電通の価値観と東大で哲学を学んだ女性の過労自殺

200px-Dentsu_Head_Office_Day.jpg 先月7日(今から書く内容に似た、別の場への提出原稿を書き始めた日)、テレビでは、電通の女性社員(高橋まつりさん)の過労自殺をめぐって東京労働局が同社の強制捜査に入ったニュースが流れていた。ここ最近、疲労で発熱や頭痛に苦しめられていた私だが、この女性に比べれば実に大したことのないものに思える。やや気力が戻った先月22日は、福島県沖での地震で津波が発生し、日本中が東日本大震災を思い出したが、死者が出なかったことに皆安堵している。

 個人の「生」や「命」が現代日本という文脈においていかにあるべきか(あることができるか)について、私は常々考えているが、とりわけ東京大学で哲学を学んだ冒頭の後輩女性の自殺には、いつもと違うものが感じられ、心を痛めた。東大の哲学・文学・教養系の後輩男性の自殺は定期的に起きているが、女性のこのような自殺は久々に目にした。後輩と言っても、私は早々に同大中退の上、日本庭園や神社仏閣への鬱々とした放浪の旅を経てしぶとく生き残っているのに対し、死の直前まで男性上司らへの不満を、Twitterという新時代のツール上に書く気概を見せたこの女性のほうが亡くなった事実には、どうしても驚愕せざるを得ない。

 東大哲学を捨てた私が生き残り、東大哲学を完遂した者ばかりが世に知られず自殺している現状を見ると、どうやら東大哲学は私の知らないところで死の方法を教えているのではないかという疑念が生じるが、もちろんそんなことはない。ただし、東大卒・出版社勤務だった鶴見済が『完全自殺マニュアル』を著し、社会現象を巻き起こしたように、東大哲学・社会学学閥は、表でも裏でも日本人の死生観をコントロールしてきたのだから、そのレールを早々に降りた者として、私も今回の過労自殺について思いを巡らせておきたい。

 とにもかくにも分かることは、「この女性にとっては、電通(日本の大企業)の価値観よりは東大哲学が安住の地だった」ことである。ここまでは、この女性と私とで極めて価値観が似ている。

 日本では、自殺者は男性のほうが女性の2.5倍〜3倍くらい多いが、自殺の動機としては、経済的理由、病気の苦痛、家庭問題以外に、今でも哲学的自殺と呼べるようなものが含まれている。哲学的自殺に含まれると思われる東大の哲学・文学・教養系(自然科学系も少しあり)の男性の死はいくつか見てきた。特に、これらの分野の中退男性は自殺率が高く、その頭脳の消失が国益の損失や科学発展の鈍化に直結するからか、厚労省や日本中退予防研究所などの調査対象に入っており、怪しい書面が送られてきた当事者である私の実感からすれば、東大中退男性のリストがNPO法人間で不当に売り買いされているような気がするのだが、ともかく、今回のような女性の自殺は痛恨の極みである。

 ところで最近、宮沢賢治の作品を読んでいるが、彼の「失うものがない自由人」としての書きぶりに、非常に気分爽快になることがある。例えば、賢治作品には、人間や動物の大声を聞いて耳が「つんぼ」になったとか、人間や動物を「きちがひ(きちがい)」になるまでいじめたといった表現が出てくる。読むときに、いわゆる丁寧な言葉遣いをして本質をごまかす「いい子」でなければならないことはないし、賢治自身が「いい子」を気取っていないところに、賢治作品の真の魔術的・悪魔的・神的価値があるのである。

 今は時代も変わり、精神障害分類も法律も用語も(科学的根拠はありつつも「いい子」風に)改訂され、せっかく宮沢賢治が用いた「つんぼ」や「きちがひ」はもちろん、およそ20年前までの日本の精神科医らが用いた「分裂病」や「躁鬱病」、「鬱病」、「癲癇(てんかん。現在とは定義も分類も異なる)」といった用語を使うことさえ難しい時代となった。

 だから、冒頭の女性のような過労死・過労自殺についても、わざわざブラック企業やブラック上司の言動によって従業員が「PTSD(心的外傷後ストレス障害)や聴覚障害になり、労災認定された」とか、「死の直前には、彼(彼女)のSNSに鬱的傾向を示す言葉が綴られていた」などと軽々しく(被害が軽かったように)書かざるを得ない。

 本心をさらけ出して、「ブラック企業やブラック上司の言うことなんか聞きたくないので、私は今からつんぼになります」、「きちがいであるあなたのパワハラのせいでこっちがきちがいになりそうなので、今日をもってこの職場を辞めます」などと、素直で気分爽快な宮沢賢治的言動や発狂をしようものなら、したほうが頭がおかしいと思われるに決まっているのである。

 今や、現実に労災、PTSD、気分障害、不安障害、パワハラなど(の現代精神病理学的な枠組)に苦しみ異様な労働人生や自殺前夜を過ごす若年者を前にして、賢治童話や賢治的労働社会の理想郷、そして学問・芸術一般はどうあればよいのかを、論じなければならない時代になった。私の労働観や理想郷観も、人間学・精神病理学・社会学寄りのものにはなっていくのだろう。

 先の過労自殺女性が遺した文章から読み取るに、東大で哲学を学んだこの女性は、鋭い哲学的直観によって日本社会の欺瞞に気づき、Twitterで男性上司への不満を綴るという反抗まではやってみたものの、最終的に宮沢賢治のような包容力を持った(母親と数名の友人以外の)人間に、この世で出会うことはなかった。その意味では、この女性は宮沢賢治的感覚を孤独の中で体感していたと思う。

 この女性に企業と上司が要求したものは、「女子力」や「即戦力」と名付けられたものであった。そんなカルト宗教的・熱狂的な競争社会に自分は巻き込まれまいという気持ちだけは、この女性にはあったものの、その気持ちは結局、母親と数名の友人を除く身近な人たちからは、社会において持ってはならない誤ったものであると解された。

「人生は極めて楽しくも苦しいものだ」という賢治感覚(例えば、賢治作品に出てくる「つんぼ」感覚、「頭がぐるぐるする」感覚、「まはりが変に見える」感覚、「きちがい」感覚)の苦悩・発狂体験を経てから世に放たれたのではない(そういう直覚体験を怖がって、見て見ぬふりをしている)多くの欺瞞的社会人・企業を前にして、現代日本の文脈のどこかにかろうじて残された賢治的包容力が、この自殺を「優等女性の気の毒な労災」に仕立て上げざるを得なかったとも言える。

 私自身も、てんかんや分裂病ではないらしいものの、これまでに参加したどんな知覚・心理関連試験のデータにおいても、明らかな哲学者気質、共感覚、直観像記憶、片頭痛・閃輝暗点(アウラ)の症状を示しており、「まるであの宮沢賢治ですね」などと言われ、重責を伴う労働や煩わしい人間関係を離れて自然観賞や趣味の時間を多分に取るよう言われているが、言われる前からそうしてきたがゆえに生き残っているとも言えるのだろう。

 私の場合は、「東大の哲学や表象文化論は自由であり、時代を牽引している」といった言説に疑念を覚え、そこから「東大の哲学学閥や表象文化論学閥から自由になるという生き方が現代において可能か」という視点の激動(自分の人生における本当の「気づき」体験)を自分の中で起こし、目標を設定することができたために、今のような人生を送っているから、どちらかというと、今回自殺した過労女性よりは、あくまでも自然死に身を任せた宮沢賢治のほうに、生き方が近いとは言える。そもそも、この女性はどうしても「生き方」を見出せなかったから、自ら亡くなったわけである。

 換言すれば、私は結局のところ、「東大哲学それ自体が電通的である、という哲学や気づき」を持っている自覚があるのだが、今回の過労自殺女性はTwitterに、「私は電通でこんなに苦しい思いをしている。東大卒だけれど。」という趣旨と論理の主張を書いた一点のみが、私とは唯一異なる価値観なのである。

 私の場合は、過労・心労の一歩手前で何とか自力で気づいてきた人間で、自宅での沈思黙考や、和歌、日本庭園、神社仏閣、茶、花、雅楽などの興趣に触れることが心の安定手段として確立しているふしがある。これには私自身が驚嘆しているのだが、そういう手段を持たずに労働を続けてきた今回の女性のような、あまりに現代日本社会の言説に対して従順で素直で純粋な人には、現代日本社会(特に大人)の欺瞞を見事に暴くことのできる人間、芸術、趣味に出会って欲しいと願わずにいられない。

 私としては今後、従来の西洋哲学でも現在の日本の労働観・社会観でも語れない、自分のテーマである「日本的実存」を軸にした理想の哲学を探求していきたい。


【関連ブログ記事】

●およそ50の大学と関わってきて思うこと(命名「大学総動員キラキラ体制」)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/177990948.html


【画像出典】

●電通
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E9%80%9A
posted by 岩崎純一 at 17:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2016年12月09日

およそ50の大学と関わってきて思うこと(命名「大学総動員キラキラ体制」)

 一校または数校の大学に所属してきた(内側にいる)人々(教員、助手、研究者、学生など)の話を個別に伺っていると、多くの人たちが各大学の内部事情から来るストレスを抱えているものだと知ることができる。それはそれで深い関心を持って聞いているが、今回は、徹底的に大学の外側にいて(特定の大学法人組織への所属をしない、それらとの利害関係を持たないという意味において)感じる「日本の大学が持つ共通の滑稽さ」の象徴たる「言葉選び」について書いておく。

 かつて、ある女子大学の教員から、「世界で活躍できる日本人女性を育てるため」の新設学部・学科の名称の提案を求められたので、「女子教養学部」や「日本女性文化学科」などという、まるで明治時代の私学校の頑固な創立者が考えそうな名称を本気で提唱したところ、「総合人間学部」や「キャリアデザイン学科」に決まったことがあった。私自身は、今でも日本には「女子教養」や「日本女性文化」などの名を持つ大学や学部・学科があってもよいと真剣に考えている。

 しかし、これはまだ良いほうで、最近は、いわゆるキラキラネーム(「萌愛(もえ)」や「大翔(はると)」など、昨今の日本の若年者や新生児に特徴的な、アニメやゲームのキャラクターのような名前のこと)を持つ学生・受験生や、それらキラキラネームを付けた親たちにも好意的に反応してもらい、学生数を確保するためか、「グローバルキャリアデザイン」、「シティーライフマネジメント」、「現代ライフホスピタリティー」といったよく分からないキラキラ学部・学科名称が出てきている。

 実際に、既存の学部・学科についても、こういう名称に改組したほうが、最初の数年間は集まる学生の数も増えている。そもそも、自分が入りたい学部・学科について、書類を取り寄せて読む、自宅のパソコンでじっくりと大学のサイトを読む、といった行動を取る受験生は少なくなっており、スマホで目にとまったトップページなどのキャッチーな単語から見ていくという行動パターンをとる受験生が増えているため、そのように名付けなければ学部・学科の存在が知られないようである。キラキラ学部、キラキラ学科、キラキラコースは、女子大学や女子高校に多く見られるが、最近は共学の大学や高校にも見られる。

220px-Suzumine_gakuen_Hiroshima-shi_Hiroshima-ken.jpg それにしても、大学窓口に、「では、グローバルキャリアデザインとは、どのような学問分野ですか?」と尋ねたら、「グローバルな時代における女性のライフキャリアをデザインするフィールドです」などと横文字そのままの回答が返ってくる。もはや、学部・学科名称は、学問内容の大要の表示ではなく、企業広告である。しまいには鈴峯女子短期大学が「日本語日本文化(^^)ニコニココース」を新設し、キラキラ大学教育は見事にキラキラ顔文字レベルにまで達したのである。

 案の定、数年でいとも簡単に崩壊しているこれらの学部・学科であるが、大学も国民も学習能力がないのか、「新設 → 最初だけ熱狂して受験・入学 → 定員割れ → 崩壊」を繰り返している。どう考えても、最後に生き残り、世のため人のため女性のためになるのは、私の冒頭の案だと思うのだが、そんな発想では駄目らしい。河島英五の『時代おくれ』の「時代おくれの男になりたい」が人生訓である私のような者の提案では、駄目だということなのだろう。

 しかし、このような時代を謳歌するキラキラ女子学生に対する男子学生らの扱いも、また極めて軽々しいキラキラさを誇っている。例えば、最近の話題で言えば、東大や慶應大や千葉大では、学問という本業をせずに強姦パーティーの開催にいそしむ男子学生たちが平気で在籍できており、毎度テレビを不快な逮捕映像で賑わせてくれている。しかも、研修医や医学部生による犯行ときたものだ。こういうものは一発退学処分でよく、医者になる道を絶ってよいと私は思うが、一度学生を受け入れた大学による揉み消し過保護政治活動はすさまじく、日本ではこういう医者でも生き残れるし、銃で撃たれもしないのだ。

 そんな中、時々「岩崎さんは、日本の学校教育や社会の現状にどんな疑問を感じていらっしゃいますか? ご助言を下さい」と大学教員から依頼されては引き受けているが、私の答えはいつも同じで、「日本」という国が生き残るためには、冒頭のような行動や提唱を大学自身が自力で実践するしかないと述べている。

 私はこれまでに、およそ50の大学の教員や研究者、学生の皆様から講義、ゼミ、執筆、研究協力など様々なご依頼を頂き、参加してきたが、いずれにせよ日本のどの大学を見てもありとあらゆる質が低下していると感じざるを得ない。これは、一対一で各個人の人生と向き合った場合とはまた別であるとは言えるし、下掲のブログの通り東大の哲学にさえ軽々しさを感じて中退した自分が述べるのも極端かとは思うが、それにしても、大学中退の在野の人間に、各大学がまるで同じ種類の大学の迷走の解決方法を尋ねるという滑稽な事態は何なのだろうか。その根底にある原理そのものが知りたいではないか。

 つまりは、これこそが日本国のおかしな風潮の象徴であり、その打開こそがこれからの日本人が取り組むべき新しい「仕事」や「教育」なのかもしれないし、そもそも大学教育で本来身につけるべきことが身についている可能性があるのは今の日本の大学教育の外にいる人たちになりつつあるという(ノーベル賞級の頭脳の海外への流出も含む)、あまりに笑える教育の現状や本質を物語っているのかもしれないのである。

 キラキラ女子学生に比べれば圧倒的に高い日本人女性としての教養があり、森喜朗氏などの高齢男性に囲まれながらなかなか頑張っていると思わせてくれる小池百合子東京都知事でさえ、その主張を小池氏の使用した単語で要約すれば、“2020年東京オリンピック・パラリンピックに向け、オープンなコンプライアンス、コンセンサス、ガバナンスに基づくイニシアチブによって、TOKYOとジャパンを、ローカルで都民ファーストな、かつグローバルでインターナショナルでレガシーをビルドできるサステイナブルなエリアにするプランを持っている”らしい。

 小池都知事によって都政が持ち直したとは考えているが、発想それ自体は全く日本人離れ、日本語離れである点だけは、キラキラ女子大学とそれほど大差はないと感じる。多くの日本の自治体の首長たちも、日本語と日本文化を世界に知らしめるためには日本語と日本文化のある程度の破壊はやむを得ないという、矛盾したことを考えているらしいのである。

 若年者の軽々しいキラキラさは、彼らだけのせいではなく、大人も大学も企業も自治体も国も総動員体制で主導的・主体的に生み出しているものだから、後戻りできない日本の傾向なのである。小中高校教育の集大成である大学教育の現場からして、日本の未来像のどこかがおかしいのに、どこがおかしいかが自分たちで分からず、迷走しているのは、当然の帰結である。いやはや、日本の教育の崩壊どころか、その終焉は、比較的早く訪れるのかもしれない。


【関連ブログ記事】

●電通の価値観と東大で哲学を学んだ女性の過労自殺
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/177990648.html


【画像出典】

●鈴峯女子短期大学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E5%B3%AF%E5%A5%B3%E5%AD%90%E7%9F%AD%E6%9C%9F%E5%A4%A7%E5%AD%A6
タグ:大学 日本
posted by 岩崎純一 at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論