2015年12月18日

「歩きスマホ」をカント哲学から考える

 ブログの更新は久しぶりである。時間はあるのだが、サイトやブログに意識がなかなか向かないのが主な原因である。来年2月頃からは、意識が向く予定である。ただし、予定は未定である。

 そんな中、あくせくと街を歩いていて色々と思うことは多い。社会観察の好きな私である。一応、哲学専攻だった身として、最近感じていることを一つだけ書いておく。

 最近いわゆる「歩きスマホ」が流行し、メディアでも問題視され報道されているので、街を歩くときにも自然に歩きスマホをしている人に目が行くようになった。と言っても、街のど真ん中では、歩きスマホが視野に入らない瞬間を探す方が難しい。

 入力が面倒であるので、今私はこのような人間を「歩スマー(ホスマー)」と呼称させてもらう。また、「歩きスマホ」は「スマ歩(ホ)」とさせていただく。入力が面倒というのは口実で、実は皮肉を込めた批判としての略語である。

 一見すると笑い話のようであるし、確かにユーモアを込めている部分もある。しかし、歩スマーが自分でホームから転落したり人から注意されるのは自業自得だとしても、人にぶつかって怪我をさせたり、それで人の命を奪うような場合もある。人の命に関わる重大な社会問題の話なので、どうしても書いておきたい。


●歩行距離や運動の問題

 そうして観察を続けたところ、歩スマーではない自分がいかに日常的に蛇行しているか、いかに無意識に気を遣い苦労して、歩スマーを避けながら歩いているかということがよく分かるようになった。最近は、このような歩き方をしている人たちは皆、真のボランティア、善人だと思うようになってきた。

 おそらく、同じ距離を歩くにも、歩スマーよりも非歩スマーのほうが1.05倍から1.1倍くらいの距離は歩いているのではないかと思う。新宿・渋谷・池袋などの人口密集地帯では、ほぼ真横に避ける羽目になることもあるので、1.2倍以上は自分の方が歩いていると思う。となると、歩スマーは知らず知らずのうちに、外出時の運動・ダイエット効果もずいぶん失っている計算になる。

 歩スマーは、歩行スピードが遅いのに、通行ルートと脚の動きが直線的だし、目線も一点凝視型だ。筋肉に負荷がかからず、歩く距離も短く、脚部の横方向へのふんばりなどが、高齢期に至って急に弱くなることが予想されると思う。

 後ろから歩スマーを追い越すときも、結局は、自分の方がややこしく変な動きをして追い越すことになる。どのタイミングで追い越せばよいかにも、頭を悩ませることになる。歩スマーには、少なくとも歩スマーでない我々にはあるような「後ろから誰かが来ているなという直観」、「自分のせいで困っている人への申し訳なさ」、日本語で呼ぶところの「気配」や「空気」への知覚能力が欠落していると思う。

 スマ歩推進派は海外にもいて、「スマ歩は第六感を養う」などとする論文まで出ているが、見てみたところ、かなり怪しくて、不謹慎ながら笑ってしまった。周囲の人たちがよけてくれる親切さを、歩スマー側の第六感によるものだと曲解して、無茶苦茶なデータを用いている。むしろ、第六感や動物的直観があるのは周囲の人たちの方だと私は思う。

 石器時代や縄文時代、というより昭和時代のつい最近まで、猟・漁をするときには、横方向への敏捷性などの基礎的能力が必要だったはずだが、歩スマーはそのような動物的な動き、前方注意、危機察知、事前の歩行位置の横方向への修正、方向転換というものを1〜3メートル以内に近づくまでほとんどしてくれない。だから、全てをこちらがやらないとどうしようもない。

 万が一「一億総スマホ社会」になって脚部・臀部・腰部の動きが根本的に変わっていくと、未知の症状も出てくるのかもしれない。しかし、一番問題なのは、歩スマーの危険性そのものにほかならないが。

 歩スマーに出くわすたびに、なぜ自分がよけなければならないのかと憤りを覚えていたが、自分の方が忍耐力や敏捷性などを劣化させないで済むのだという、やたらと冷静な医学的・生物学的視点で考えるようになってからは、多少は憤りもなくなってきた。


●注意警告への気づきの問題

 スマ歩は、鉄道事業者やスマホ事業者も問題視しているし、スマ歩禁止のポスターも色々なところに貼られるようになった。だが、ポスターを見るのは「顔を上げている、ポスターを必要としない人たち」なのだから、本当に意味があるのだろうか。

 歩スマーは、ポスターを全くまたはあまり見ていないか、見ても無視しているか、歩きスマホができない人の方を「不器用だ」、「前方を注意して自分を避けてくれるべきだ」と考えているか、のいずれかだと思われる。

 そうなると、歩スマーは、スマ歩に限らず、読書や人付き合いや仕事の仕方もいい加減なのではないかと思えてくる。そう思われても仕方がない。


●歩きスマホしなければならないような重大事案かどうか

 スマ歩する以上は、歩いているときに親族危篤の一報が入ったとか、上司からメールが来て早急な返信が必要だとか、今からデートの予定のところが悲劇の破局のメールが来て、足も涙もとどまるところを知らないとか、そういった緊急事態かと思いきや、私の横目に見えた歩スマーのスマホ画面は、50%くらいがゲーム画面、30%くらいがラインなどのSNS画面である。

 歩スマーはセキュリティ意識も甘くなるようで、他人が画面を見ようとしなくても見えてしまう点も問題である。

 こういったスマ歩ゲーマーが歩行の列の先頭にいるだけで、後ろ全員が引っかかるのである。あるいは、私の前方を歩く五人全員が歩スマーで、六人目の私が憤りを覚えながら歩いているようなケースも頻繁に起きている。

 そもそも、前述のような重大事案に迫られて真摯に対応できるような人たちは、最初から立ち止まり、道の端に移動してスマホを触ることのできる人たちであるはずだ。


●せっかくの「無意識の善行」がはらむ危険性

 警告自体に気づかないのは歩スマーの自己責任の問題だが、同じく問題なのは、我々のような非歩スマーが「無意識によけている」という点だと思う。哲学になるのはこの部分である。

 何となくでも腹が立ちながらよけるなら、まだ相手に対するマナー遵守の要求のニュアンスがこちらの顔の表情や態度のどこかに出るし、道義的な威圧効果もあると思う。

 事実、「そっちがよけないとこっちから当たってやるぞ」という念を込めて近づくと、何となくそれが相手に伝わり、相手も気づいてよけることがある。

 自分一人のときにはやらないように気をつけているが、自分の後ろから高齢者や小さな子供や障害者が歩いてきている(車椅子でついてきている)ことが分かっているときは、自分がよけたら後ろが危ないので、歩スマーが歩きにくくなる位置(私を迂回しなければ私の後ろに通り抜けられなくなるような位置)を意図的にいかめしい態度で歩いているのは確かである。

 しかし、よほど意識していないと「無意識によけてしまう」親切さを日常的に繰り返す私のようなタイプの人たちがいる限り、それは歩きスマホへの一種の加担だし、いつまで経っても歩スマーは堂々と歩き続けることになると思う。そんなことでは、道徳と反道徳が反転してしまう。理屈の上では、自分が人の命を軽視しているのと同じだ。


●カントの善を思う

 このような無意識的善行は、本当は哲学者カントからすれば、理想的な道徳律の体現であるかもしれないし、善人の見本であるかもしれない。真のボランティア精神かもしれない。

 しかし、ここは心を鬼にして、カントに失礼をして、街で個々人が堂々と行動すべきであるとも思う。

 そう考えていると、段々と「歩スマーに意図的に激突し忠告して、スマ歩を壊滅させる」などということが人道的に最も正しいのではないかと思えてくるのだが、私は、そんな無駄な善行はしていない。

 というのも、カントの「善」論、義務論とは、「何かのために」、「誰かのために」などと理由をつけ、自分に酔いながら善行を行うことを善しとしないからである。ならば、そこに気づいたのであれば、かえって「無思考・無判断のまま、絶対悪だと思う人間に向かって問答無用に激突する」というのが、至上の道徳の実行であるということにもなる。でも、カントが根本的に述べているのはそういうことであるし、カント哲学の最大の長所にして短所は、そこである。

 もちろん、普段から他人に関心がなく歩いている人が、他人の忠告の意味に気づくとは思えない。しかし、私個人としては、国内の歩スマーに対してそんな激突・忠告作戦をとるべきだと考えるかどうかは、やはり微妙なところである。せいぜい私も、口頭で簡単に注意する勇気しか持たない。

 しかし、種々のアンケートによれば、90%くらいが「自分の行動は危険だと思う」としながら、80%くらいが「歩きスマホをやったことがある」という結果となっている。私としては、同じ人間たちばかりがやり続けている一方で、一度危険性に気づいてその後はやめたという人たちが大勢いるのではないかと予想する。

 歩スマーに憤りを覚えるのは、「この社会の構成員たる国民個々人の、生まれ持った身体で懸命に歩行し通行する精神が組み合わさって生じる、阿吽の呼吸の平和的な結果としてのプライベートスペース」に身勝手に入ってきて、その温かみを台無しにするからだ。家族関係でも、恋愛でも、上司と部下の関係でも、人間関係なら同じことだ。

 ロシアが平気でトルコの領空に侵入したが、そのときはトルコは意図的に撃墜作戦を採用したのだった。個人の歩きスマホのレベルにおいても、小さないざこざばかりか、殴り合い殺し合いが起きるような事態になっているわけである。だから、歩きスマホ問題は、一方では自己責任、一方では日本人の道徳やマナー、日本に対する評価が問われる内戦である。

 これで世界に向かって、「お・も・て・な・し」などと笑顔で日本と東京をアピールしてしまったのだから、2020年までに何とかしないといけない。歩スマーに罰金を課すのは難しいとしても、過料を課すのはよい案だと思う。
posted by 岩崎純一 at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論
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