2014年04月30日

共感覚と強迫性障害の違い

 昨日、テレビで強迫性障害についての特集があったからか、「強迫性障害」のワード検索でのご訪問が今日は多かったですね。

 私のサイトでは、以下のページで解説しています。精神医学的な定義と私個人の罹患者との交流とに分けて書いています。

不安障害・恐怖症・強迫性障害・PTSD
http://iwasakijunichi.net/seishin/fuan.html

 ところで、共感覚は時々強迫性障害と誤診されます。「ひらがなの“あ”が青色に見える」といったこだわりが、「数字の4は死を連想させて不吉だから、4に関係する行動や4が付く日の人との約束を避ける」、「玄関のカギを何度も確かめなければ気が済まない」といった強迫観念と似たものに見えるからだと思います。

 私は、十年ほど前に自分の感覚を、最初からインターネットで調べて強迫型・恐怖症型の症状や疾患ではないと確信して、のちに具体的に「共感覚」だと見極めたのですが、周りには、そういう確信を持てないうちに、実際に友人から心療内科を勧められたり、強迫性障害だと誤診されたりした人がいます。

 それではさすがにマズいということで、共感覚と強迫性障害の共通点と相違点を書いてみます。

 もちろん、「“あ”は青色だから、“あ”を青色以外で書く人との交流は避ける」などと言い始めたら、それは強迫性障害の仲間入りだし、どちらかと言うと強迫性パーソナリティー障害に近いもので、心療内科に行った方がよいということになりますが・・・。

 強迫性障害で有名な二大症状には、「過剰な手洗い」(洗浄強迫)と「玄関のカギの過剰な確認」(確認強迫)がありますね。過剰の程度がどのくらいかと言うと、手が荒れてかえって不健康になるまで手を洗ったり、家の玄関のカギが気になって、途中で旅行をやめて帰ってきて確認し、それでもまだ気になって自殺を考えたり、そういうものを強迫性障害と言います。

 昨日強迫性障害として出た例には、「外出先から帰ってきたら、手洗い・うがいを何回もするだけでなく財布・お金そのものまで洗う」、「数字の4に関係する行動を片っ端から避ける(1階から4階に行く時は、4階のボタンを押すのが怖いので、一度3階で降りてから階段で上がる、時刻の数字の中に4がある時には不吉なので動かない)」などがありました。(数字の例で分かるように、信じている宗教・習俗、属している民族・文化圏によってトリガーや症状が異なります。)

 過剰に手や物を洗う人は二人出ていましたが、一人は、痴漢被害以降に男性を不潔だと思うようになり、電車の中などで男性に触れてしまった手や物を徹底的に洗うようになった女性、もう一人は、手や物は徹底して洗うのに部屋はいわゆるゴミ屋敷状態の男性と、かなり極端な例でした。

 私は、本来、強迫性障害という診断名は前者のような人を救うためにあるはずだと思うし、強迫性パーソナリティ障害とされてもおかしくない後者を含めて報道されたのは不思議だと思いました。個人的には、残念ながら後者のほうについての報道姿勢にはあまり納得できませんでした。前者と後者とでは第三者による「助け方」が異なってくるためです。ちなみに、お金(日本銀行券・硬貨)や公共物をああいう形で扱ったら、器物損壊罪・文書等毀棄罪に問われることがあります。

 さて、当たり前ですが、先に上げたような誤診は神経内科や心療内科に行かなければ起きないです。つまりは、医者が誤診する前に共感覚者が自分で自分の共感覚を「誤診」するのでなければ、周りの人の勧めをそのまま聞いて医者にかかってしまったために、起きるわけです。医者も患者も人間だというわけで、やはり、どちらにもバランス感覚が必要ではないかと思いますし、同じくらいの責任は付いて回ると思います。

 共感覚と強迫性障害の共通点は、「具体的な知覚例が万人に当てはまるものではない」ということに尽きると思います。自分がそうだからと言って、他の人も「ひらがなの“あ”が青色に見える」わけではないし、他の人も「手を十回洗うまで気が済まない」わけではないです。

 しかし、決定的な違いは、共感覚の場合、例えば「ひらがなの“あ”が青色に見える」と言った時、それは大脳の反応、ニューロンの化学的・電磁気的変化の帰結として本当に知覚しているのであって、その点では、平均的な五感の人々が大脳の反応、ニューロンの化学的・電磁気的変化の帰結をもって「目が見える」と言っているのと全く同じことですね。空想や創作というものが入る余地がない点が特徴です。(もちろん、共感覚を元にして空想したり創作物を生み出したりすることはあります。)

 一方で、強迫性障害の場合、罹患者が自分の手には他人の十倍の雑菌がいるからと確信して手を十回洗ったところで、本当に手が綺麗になったか、そもそも平均的な人と比べて十倍の雑菌がその強迫性障害者の手に付いていたか、といったこととは全く関係がないし、罹患者は決してその雑菌を網膜や脳で知覚することはないわけです。手は綺麗になるどころか荒れるばかりだし、雑菌も十倍もいたわけではありません。

 玄関のカギを何回確認しようが、依然閉まったカギは閉まったままで、カギが開いた玄関から空き巣が入って物を盗む光景を強迫性障害者が目撃することはないわけです。起きていないことを見るはずもないのです。

 本来、今で言う「不潔感」や「恐怖感」という観念が何のために人間の脳に生じたかを考えるに、過去にいくらでも学説は出ていますが、基本的に私は「近現代社会の文脈において死や恥辱を避けるため」に生じたと思います。

 昨日の番組のような痴漢被害による強迫性障害の発症などはその典型で、性犯罪被害は死や恥辱に直結するものだと言えます。「恐怖感」というものは、一見すると今も昔も同じであると思いがちですが、動物に襲われる恐怖感と空き巣に入られる恐怖感とは、全く違うものであるわけです。(例えば、前者には「お金を盗られる恐怖や不安」は存在しない。)

 やはり、精神病理学上の知見は別として、未だに少なくない人がインターネット上や障害者施設などの現場で強迫性障害を現代病の一つとして扱っているのは、その障害に陥った罹患者なりの根拠である不潔感や恐怖感が、生物としての本能ではなく、現代社会の文脈におけるストレスとして出ているからではないかと思います。

 例えば、浮浪者の人たちが他人の食べ残した残飯を拾って食べる行動については、その行動自体の原罪的な「善悪」や「不潔性の有無」というものは私は存在しないと思いますが、現代の先進国に生きる平均的な生活水準の国民であれば考えも付かない行動だということは言えます。しかし、もしかしたら、世界一の食糧廃棄大国である日本の中にあって、残飯を拾って食べる行為は、実は最も崇高な宗教的行為でさえあるかもしれません。これらの人たちは、強迫性障害、特に不潔恐怖とは無縁の人たちです。カントの言う「善のための善」とは、むしろこれらの人たちの行為のことを言うのではないかとさえ思えるほどです。

 他人の残飯を避けるという多くの人々の常識的な行動は、今日の社会の文脈においては、実際に自分の身体を害する雑菌が残飯中に多く含まれるという科学的見識を本能的洞察力に徹底的に置き換えているということであって、「今日の社会の文脈においては徹底的に」正しい行動であり、そのような場合は、現代の精神医学は障害や病気だとは言わないわけです。

 しかし、何回手を洗っても気が済まないような強迫行為は、こういう不潔に対する科学的に極端に正当な抵抗かと言うと、「そうではない」ということです。本来は、「そうではない」ということをもって「強迫性障害」の診断を下さなければなりません。

 手は何回も洗うのに、体を何日も洗わず、部屋も片付けなかったりする罹患者もいます。そういう場合には、罹患者が人生の中で出くわした、何らかの個人的・特異的な事件によるトラウマをトリガーとして想定するべきではないかと思います。

 強迫性障害者に対してまずおこなうべきなのは、「不潔なものを不潔だ、怖いものを怖いと思わないように頑張るよう諭すこと」ではなくて、「現代社会の文脈においては不潔倒錯や恐怖倒錯だと言われてしまうような精神的な事態を、何とか対処して乗り切るうまい策を助言すること」だろうと思います。

 共感覚者がある文字を青色だと言ったら、それはその共感覚者にとっては本当ですが、強迫性障害者がある物を不潔だ、雑菌が多くいると言っても、現代の公衆衛生、科学的知見、良識、法律などに照らしてとてもそうだ言うわけにはいかないことが多いわけですから、扱う学問分野も、対処法も、かなり違ってくると思います。
この記事へのコメント
強迫性障害は現代病ではありません
訂正してください
犬や猫、鳥にも症状があるとも言われていますし
かなり古くから強迫性障害の記述が残っています
ゆえに現在は脳の神経伝達の問題ではないかとまで研究が進んでいますよね?
何をもって現代病とか言ってらっしゃるのですか?
Posted by 原田真美 at 2016年03月09日 09:35
原田真美様

> 訂正してください
> 何をもって現代病とか言ってらっしゃるのですか?

コメントをありがとうございます。

 私自身は「何をもって現代病とか言って」いる主張の当人ではなく、なぜそのような考えが生じるのかを分析した記事を書いているわけですから、原田様のご質問に対する回答自体が存在しないわけですが、せっかくですので、以下に私の経験や持論を書かせていただきます。

1. 訂正について

 これまで私は、重大な性暴力被害を受けた結果として男性が触ったもの(職場の共用の文具や機材)に触ることができなくなった強迫性障害の女性などと多く面識を持ち、お話を伺ってきました。元より、ICDやDSMに定義される精神疾患・精神障害・神経症性障害・行動障害のほぼ全てについて、それぞれの障害者のお話を伺う活動をおこなっています。

 今現在、ネット上でも心療内科・神経内科の場でも、強迫性障害について現代病の一つとする意見そのものは、本当に様々な強迫性障害者と接したことがあるならば、比較的容易に見られます。

 ただし、この言明には様々な意図があるだろうと考えています。とりわけ、前述の性被害女性などから、「私の強迫性障害は、あくまでも現代の医師や学者が名づけた現代病」、「動物においては、病気ではなく、敵を逃れるための正常な反応というとらえ方もありうる」との主張が聞かれます。

 私も「強迫性障害は現代病であって、他の時代や他の動物においても、障害認定し治癒・寛解させるべきものであると認識されるかどうかは疑わしい」と考えます。

 従って、ご希望に添えませんが、当該の言説や考え方は、私の持論であるのみならず、これまでに交流させていただいた強迫性障害の方々のせっかくの思いが詰まったものでもありますので、訂正する予定はありません。

2. 何をもって現代病とか言っているか

 やや1.とも関連がありますが、私は哲学・言語学出身ですので、少しそちらの分野から意見させていただくことにします。

「ある障害や疾患」が「現代病である」との言明が行われたとき、いわばソシュール言語学における恣意的な差異の体系の想起について共有がある限り、それが「当該の障害や疾患の過去における非在」を主張したものであるか、それとも直線的な発達史観への反駁としての「差異の体系」や「構造」を述べたものであるかが、ようやく一目瞭然になるのだということが、原田様のコメントを拝読していて如実に分かります。

 例えば原田様がおっしゃった内容をお借りして申し上げるならば、私が「犬や猫、鳥にも症状がある」ことなどを否定しているのではなく、むしろそれらの精神病理学的知見を知った上で、「犬や猫、鳥にもある当該症状」は「症状」と名づけられるべきかどうかを問題にしていることは、読者によっては一目瞭然かと思います。

 私にとっては、犬や猫、鳥にも同様の症状が見られることは、現代の文脈による世界分節・世界分割であるICDやDSMの強迫性障害の診断基準に不足なく該当する、現存在たる現代の人間一般の知覚の限界にとっての「表れ(表象)」であると把握されます。ここで言う「世界」とは、無論ハイデガーの言う「世界内存在」の「世界」のことです。

 人間は、現存在として「強迫性障害」に陥ることを「恐怖する」からこそ、「差異」を武器として「障害」概念を仮想し、ようやく現代の文脈においてのみ安心に至るわけです。

 従って、「犬や猫、鳥にも観察される強迫性障害に該当する症状」と「直線的な発達史観の先端に位置する現代の診断基準に基づく強迫性障害」とを同一視することはできないと考えます。
Posted by 岩崎純一 at 2016年03月09日 20:02
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