2015年06月12日

共感覚者が見る明晰夢「ひのもとのとしがね」

 これは、私が共感覚者であることと関係があるかどうか分からないが(いや、内心では関係があるに決まっていると思っている、または関係があるという自覚が薄々あるが)、私は自分が夜に見る夢に並々ならぬ興味を持って生きている。

 そもそも私に限らず、共感覚者の見る夢は全般的にどうも風変わりなようである。おそらく、私の場合も、レム睡眠時の脳波を計測すれば、標準平均的なレム睡眠時の脳波において見られる特徴とは異なる特徴が見られるのだとは思う。

 私の夢の特徴

●色が付いていない夢を見たことがない。
(色が付いていなかったり、色が付いているか否かを即答できない人がいることが今でも信じられない。周りの知人や同僚からは、そのことのほうが信じられない、という答えが返ってくる。ただし、私が最も好きな色は黒や灰や白を基調とする渋い色で、水墨画、和服、日本茶、新聞などの色合いを好む。)

●夢の中でも視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、体性感覚、平衡感覚その他全ての感覚が高い現実性をもって体感される。

●起床後も夢を忘れたことがほとんどない。忘れ方は、覚醒時の普通の物忘れの仕方とほぼ同じ。
(起きた瞬間に直前まで見ていた夢を忘れるか、少なくともその日の夕方頃までには思い出せなくなるという人があまりに多くて、驚いている。しかし、生物として異常に高度に発達した人間=ホモ・サピエンスの脳が、覚醒の瞬間に直前まで見ていた夢を忘れるようにできているというのは本当で、そちらのほうが普通らしい。)

●夢を夢と分かって、メタ視点から夢をコントロールできる機会が頻繁にある。(明晰夢)

●ストーリー展開は無茶苦茶であると言ってよく、少年的・夢想的であるにもかかわらず、共時的に切り取ったときの内容は、極めて学問的・高次認知的であり、時に時事的でさえある。

 例えば、最近見た夢は以下のようなものです。

【夢始まり】

 空飛ぶ絨毯(またはビニール?)に乗って低空飛行しながら味噌ラーメンを食べていると、突然、ブッダ?かその他の如来(大日如来?)らしき仏か魔王?が登場して、
「ひのもとのとしがねを何とかせよ!」
と叱られた。世の中にはおかしな仏もいるものだと思って、なぜか目の前に現れたハンドルを切って逃げようとしたら、また同じことを言われた。
 そこでなぜか、「小さい頃に行き忘れた宝島にあった宝物かな」などと考え込んだ。(どこの何かは分からない。)
 しばらく考えて、「ひのもとのとしがね」が「日本年金」であることに気づき、つまりは「日本年金機構の体質を何とかしろ」と言っていることに気づき、内心で「いや、俺のせいじゃないよ、勘弁してくれよ」と思いながら、口先だけで「分かりました。機会があれば、お伝えしておきます」と回答。
 ブッダらしき仏が「まったく、日本はおしまいだ」と言うので、仕方なく黙ってラーメンの続きを食べていたら、仏は去っていった。
 この間ずっと、これら一連の出来事が夢の中の出来事であることに薄々気づいていた。
 最後に、絨毯の端にある「お目覚めボタン」を押して目が覚めた。

【夢終わり】

 さて、不思議なのは、「ひのもとのとしがね」などという文言は、その明晰夢を見た日までの覚醒時のどこかですでに思いついていたものではなく、あくまでもその夢を見ている最中の私の脳が生み出したものだという点である。もちろん、漢字の複数の読み方と、「ひのもとのくに」という日本国の古称と、最近の年金関連問題の全てを知っている日本人の脳にしか生じ得ない夢である。(これを認めないようでは、当然ただのオカルト科学である。)

 ところが、私の脳が生み出したものなら、すぐに「日本年金機構をもじったものだな」と気づけばよいものを、夢の中の自分はそれに気づくのに時間がかかっているところが、我ながら笑える点であり、面白いのである。

 こういう例を待つまでもなく、そもそも「人間が自由意志を自覚した(行動を思い立った、何かに気づいたと自覚した)瞬間の時刻は、自由意志(企図、想起)の開始を示す脳電位の発生時刻よりも後である」ことは、ベンジャミン・リベットらの実験をはじめとして、いくらでも検証されているし、我々がそれを覚醒時に体験できるギリギリの類似の例が「条件反射」であるわけだが、とりわけ夢においては、多かれ少なかれ、誰にでも生じる摩訶不思議現象ではないかと思っている。
(ちなみに、いわゆる「脊髄反射」は脳が関係しないので、これとは異なる。これに対し、共感覚や条件反射(条件反応)は脳が関係して生じる。)

 芸術家が、次の作品に行き詰まっていたところ、夢の中で新しい作品の構想を(まるで第三者の助けを得たかのように)思いつくというのは、よく聞く話である。

 それにしても、謎の「宝島」への憧れが登場する一方で、「まったく、日本はおしまいだ」という文言(夢の中の他者の文言)もどう見ても私の考えから来ているし、ともかく、少年的夢想と社会人的危機意識とが混濁した内容を持っている点が、私の夢の特徴だろうと分析している。

 というより、このような分析も夢の中でしていることがあるので、おそらく私は、自分が感覚・知覚したものについての思索・思惟、あるいは潜思・沈潜という行為が根本的に好きなのだろうと自分で思う。
タグ: 明晰夢
posted by 岩崎純一 at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の共感覚

2015年05月03日

人との不思議な出会いと「虫の知らせ・胸騒ぎ」と共感覚

目次
■まずは笑い話から「うどんを食べた人が共感覚色で分かる」
■いつまで経っても終わらない「共感覚とオーラの違い」の議論
■この共感覚を違法薬物(覚醒剤や危険ドラッグ)の使用者の発見に使えないものか
■「恐怖」よりは「畏怖」としての人との出会い
■私によくあるケース1 「数年来ご無沙汰していた人と突然交流が再開する」
■私によくあるケース2 「事前にネット上で気になっていた人と、なぜか直後に交流が始まる」
■私によくあるケース3 「書店や喫茶店などでなぜかよく声をかけられる」
■私によくあるケース4 「どうしてもこの人に会っておかないと大変なことになると思って会った直後に特殊な出来事が起きる」
■「おそろしい」「おそれ」「虫の知らせ」「胸騒ぎ」という日本語について
■私に似た人の存在
■結尾


■まずは笑い話から「うどんを食べた人が共感覚色で分かる」

 ここを読んで下さっている方々ならもう説明の必要はないと思うけれども、私は共感覚のうちの一つとして、人の姿・言動や風景に色が見える共感覚も持っている。

 それとの関連で、つい最近以下のコミュニティのスレッドに書いたことなのだが、私は時々、人に見える共感覚色により、その人が直前〜一日前に食べた物が分かることがあり、分かりやすいものに「うどん」がある。基本的に、うどんを食べた人には、なぜかモヤモヤ揺れている黄土色が見える。

 小麦粉の種類にもよる気はするが、人の胃腸の中を透視しているわけではないので、あくまでも人の汗や、汗などによる周囲の空気の成分の変化を色で知覚しているのだと思う。対象の人がうどんを食べた3時間〜半日後くらいに「うどんの色」になるので、このことはほぼ確実かなと思っている。
(けっこう時間差はあるが・・・。)

 それに、自分も「うどんの色」になる。

 それにしても、昨今は男性が言ったことやったことが何でもセクハラになってしまう風潮でもあるので、この共感覚の保持自体も受け取り方によってはセクハラになるかもしれず、普段の会話でこの共感覚を公言するようなことはまずない。

mixiの共感覚コミュニティの該当スレッド
「共感覚の持ち主で人のオーラの色が見えてしまう方いますか?」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=64199&id=52862114


■いつまで経っても終わらない「共感覚とオーラの違い」の議論

 そもそも、上記スレッドは「共感覚とオーラ」がテーマになっているわけだが、mixiでもTwitterでも私のサイトのメールでも、人に色が見える感覚を持つ人どうしで「共感覚とオーラ」の違いについての議論は断続的に続いている。

 上記スレッドでは、「うどんを食べた人に独特の共感覚色が見えることから、あの人はさっきうどんを食べたな、ということが分かる」私の共感覚を挙げておいたが、今まで、著書やサイトの共感覚記憶データベースでは、女性の容姿や身体現象に色が見える共感覚(自分で「対女性共感覚」と命名)を主に公表してきている。

「オーラ」という単語を出さずに、「うどん」だの「対女性」だのと、一見笑われそうな自分の共感覚ばかりを大まじめに挙げているのは、超常現象や虚偽の霊能力・スピリチュアルな能力や虚偽の共感覚と混同されたくないからである。

 その人の写真を見るだけで前世が分かると主張し、それで生計を立てている霊能者やスピリチュアル・カウンセラーもいらっしゃるが、私に限らず、共感覚者の皆さんも怪しいなと思っていると思う。疑似科学・スピリチュアル・霊感商法・新宗教自体は昭和の頃からブームではあったが、共感覚が不当に利用されるようになったのはここ最近のことだ。

 私の共感覚は、例えば上記スレッドの「うどん」の例でも、「対女性共感覚」でも、人の汗や呼気など体外に出てくる物質の成分の微妙な変化などに対して一般の人たちよりも著しい敏感さをもって知覚しているということだけで説明が付くものだから、超常現象どころか、かえって(私の身体・五感だけを用いた)究極的に科学的な物事の見方とも言えると思う。

 結論から言えば、「見えていないのに見えているなどとする虚偽の感覚」でなければ、名称は何でもよいわけである。しかし、たとえ同じ感覚を指していても、科学的に検証されているものが「共感覚」、虚偽の感覚が「オーラが見える能力」と呼ばれる傾向にあるので、表向きは「共感覚とオーラ」の違いとして議論されるわけだ。

 従って、多くの場合、「共感覚は本物、オーラはインチキ」という結論になりがちだし、私も基本的にはそう思うのだが、逆に「インチキ共感覚」と「本物オーラ」を比較すれば、やはり本物は後者に決まっているので、後者を「共感覚」と命名し直したほうがよいことになる。

 つまりは、一つには「言語」の問題、一つには「人間性」の問題なのだ。


■この共感覚を違法薬物(覚醒剤や危険ドラッグ)の使用者の発見に使えないものか

 これに関連していつも思うのだが、「うどんを食べた人」が共感覚色で分かるくらいなら、「覚醒剤や危険ドラッグを体内に入れた」人が共感覚色で見えてもおかしくないはずなのだが、今のところそのような便利な感覚は私にはない。

 うどんを食べたら、血中成分や体細胞の成分が当然ミクロレベルで化学的に変化するように、違法薬物を体内に入れた時の身体の異常も、当然ながらミクロレベルでの化学的変化に起因するほか、脳活動のうち(ニューロンどうしの神経伝達物質の受け渡しは化学的であるにしても)ニューロン内部に生じる異常は、もっと計測しやすい電磁気的変化であるのだから、私のような「人に色が見える」共感覚者なら、わりと容易に分かって警察に通報できるくらいの感覚があってもおかしくなさそうなものである。

 発達障害・自閉症の子供の中には、見えている子供が絶対にいると思っているのだが、子供である以上、(子)「ねえ、ママ〜、あの人ヘンな色してるね〜」、(母)「コラ、やめなさい」などという会話で終わるに決まっているので、おそらく半永久的に証明できないと思う。しかし、「ある」と考えて間違いない共感覚であることは確かだ。

 この件は、あくまでも参考に書いておいたが、実際に海外では、犬や猫を用いた犯罪者の発見も試みられているのだから、諦めるにはまだ早いのかもしれない。


■「恐怖」よりは「畏怖」としての人との出会い

 今から書くことは、私の共感覚のうちの一つである「人の姿・言動や風景に色が見える感覚」と関係があるかどうか、自分でもはっきりと文章化するのは難しいのだが、なぜか、人との出会いについて不思議だなと思う現象や出来事を体験することが多いので、そのことを書いてみたいと思う。

 私にとって、「嬉しくもおそろしい出会い」とでも言いたいものとなっているが、どちらかと言えば「恐怖」よりは「畏怖」の感情を持っている。今回挙げるケースは、相手が老若男女にかかわらず、かなり頻繁に起きていることで、もう慣れたし、今は怖さよりは嬉しさのほうが大きい。

 ところで、基本的に共感覚者には、周囲から「感性が豊かだね」などと言われる人が多いようである。事実、私がそうなのだが、まずは淡々と実体験の列挙をしておこうと思う。

 基本的に私は、ネット上で私生活について語ることが嫌いで、私生活や職場の不満をTwitterなどで暴露している人のことも全般的に良く思わないのだが(私生活日記は日記手帳にでも書けば良く、ネット上には、その私生活での出来事に高い普遍性や学術性や倫理性がある場合に公開すればよいと思っている)、それは文字通り「他人への個人的な不満や愚痴」を見かけた場合であり、今日書くことは、私生活どころか「現象」としての普遍的な面白さがあると常々思っているので、少し書いてみようと思った。

 どちらかというと「夜に目が覚めて時計を見ると、4時44分だった」といった、摩訶不思議ながらもただの偶然の現象に近いとは思っているので、大抵は気楽にとらえて済ませている。

 ただ私は、普段から共感覚による色で文字や音を見ているのと同じ感覚で、人の色も見ているので、あえてそこに注目するならば、以下のような「人との出会い方」は私の人生にとって必然であり、私の根っからの共感覚体質なり、直観像記憶なり、人間に対する洞察・感性全般と関係がなくはないと思って生活している。

 先ほども述べたように、私はあくまでも科学的に検証済みの「共感覚」の保持者であって、霊能者やスピリチュアル・カウンセラーと勘違いされたくはないと思っている。

 むしろ、誰に対してもこんな感覚が起きているようでは、運命の女性や親友を探し当てるのに一苦労すると思うので、ぜひ注意されたい。(一体、誰に向かって言っているんだか・・・。)

 それに、以下のようなことを書くと、私がさぞかし効率よく人に出会っているような印象を与えるかもしれないが、そんなことはなく、人に裏切られたこともあるし、心を鬼にして人を見捨てたこともある。そういったことについても、正直でありたいと思っている。

 霊能者やスピリチュアル・カウンセラーは、人に助言ができるほど人間性が完璧であるはずだからそれを生業としているのだと思うのだが、自分は全くそんなことはないし、共感覚は共感覚以上でも以下でもなく、ただの共感覚でしかない。しかし、共感覚についての考察を深めることはできる。


■私によくあるケース1 「数年来ご無沙汰していた人と突然交流が再開する」

●数年来ご無沙汰していた人のことを思い出し、胸がそわそわしていたところ、数日後にその人からメールが来て、突然交流が再開することがある。
 何の前触れもなく、急にその人のことを思い出してから連絡を取り合って喫茶店でお茶をするまで、ほんの数日〜二週間くらいなので、嬉しい気持ちはあるものの、良い意味でゾッとして疲れることがある。
(これが一年に1〜5回くらい。2015年に入ってからも、すでに2回あるので、良い意味で本当に疲れている。)

●上記の逆パターン。数年来ご無沙汰していた人のことを思い出し、胸騒ぎがするので、逆に自分から「お久しぶりです」とメールを送ったところ、「えっ!! この前から岩崎さんのことを急に思い出して、メールしようとしていたのに、なんで分かったのですか!?」と言われる。とりあえず、「あなたの共感覚色がその雰囲気の色だったとしか言いようがないので・・・」としか答えようがない。
(これも一年に1〜5回くらい。)


■私によくあるケース2 「事前にネット上で気になっていた人と、なぜか直後に交流が始まる」

●mixiの共感覚コミュニティなどを読んで回っていて、なぜかどうしても気になって仕方がない人がいて、注目していたところ、数日後にその人から「ずっと気になってサイトを拝見していました」とか「本を買って読んでいました」とか「そろそろはじめましてのメールを送ろうと思って、いよいよ決心して送りました」といった連絡を頂き、嬉しくもゾッとする。
 コミュニティメンバーが数十人から数百人いるにもかかわらず、私にとっては、そのご連絡の直前はその人のプロフィール写真や文章だけが異質な共感覚色に見えている。
(これが一年に3〜5回くらい。)

●上記の逆パターン。ネット上に、私にとってはプロフィール写真や文章にどうしても共感覚色が強く見える共感覚者がいらっしゃり、胸がそわそわするので、自分から思い切って「私も同じく共感覚者で、こういうサイトを運営しています。よろしくお願いします」とメールを送ったところ、気になり始めた時期の直前(前日〜一週間前)に、その共感覚者は私について気に留めて下さっているばかりか、私についてmixi日記やブログを書いており、偶然その直後に私がメールを送っていた。
(これも一年に3〜5回くらい。なぜか2015年に入ってからは、すでに連続で3回起きている。)

●【特殊】お互いに全く見ず知らずのネット初対面であるにもかかわらず、全く同じ年月日の全く同じ時刻に、お互いにmixiやTwitterの「はじめまして」のメッセージを発信。
(これはさすがに、人生の中で2回くらいしか起きていないケースである。そのときは、あまりに奇跡的すぎるので、メッセージの証拠を送り合って確かめた。ただ、こういうことに相手の一人は慣れておらず、びっくりさせ、後々まで悩ませる結果となってしまった。)


■私によくあるケース3 「書店や喫茶店などでなぜかよく声をかけられる」

●ある日、池袋のジュンク堂書店でパソコン関係の書籍を探していたら、全く見ず知らずの男性二人組から、「あの、すみません、今仕事でPHPやJavaを始めようとしているのですが、何かよい本をご存知ですか?」と声をかけられる。
↓↓
 意気投合し、思い切りパソコントーク。名刺も交換する。「どうして私なんですか? 本屋で知らない人に声をかけるなんて、普通あり得ないでしょう(笑)」と訪ねてみたら、「なんだかお詳しそうだったので」という回答。
↓↓
 およそ一ヶ月後、また池袋のジュンク堂で精神病理学関係の書籍を探していたら、また全く見ず知らずの女性から、「あの、私は強迫性障害なのですが、私に似合った本はありますか?」と声をかけられる。
↓↓
 一応、本気で選ぶ。信用度を見計らって、名刺も交換する。「どうして私なんですか? 本屋で知らない男に声をかけるなんて、普通あり得ないでしょう(笑)」と訪ねてみたら、「なんだかお詳しそうだったので」と答えた。ここまで来て、さすがに良くも悪くも冷や汗が出た。
↓↓
 疑い深い私は(?)、彼らが事前に打ち合わせた可能性を考慮して、丹念に探ってみるが、当然何も出てこない。そもそも、彼らどうしが赤の他人。要するに、私自身の共感覚や人間観察などの異常に敏感な感性そのものと偶然との重ね合わせ・折り合わせに起因するとしか言えない、というのが答え。
↓↓
 でも、それ以来、池袋のジュンク堂などいくつかの特定の場所は、私にとって「人との出会い」の場所になっている。ただ、「偶然に見ず知らずの人から声をかけられるだろうという必然が確実に分かっていて」、それを頭の片隅に想定して特定の場所にいる人もあまりいないと思うので、この「待ち方」というのは、一般常識から見ると変に思えるのかもしれない。

●このように、セットになったケースも二年に一度ほどあるが、セットになっていないケースも一年に数度ある。


■私によくあるケース4 「どうしてもこの人に会っておかないと大変なことになると思って会った直後に特殊な出来事が起きる」

●私に共感覚について相談したいという人がいて、なぜか胸騒ぎがしたので、「相談するなら今早く相談してくれたほうが絶対いい! なぜか分からないけど、早く! できれば明日にお願い!」などと、プライベートでも仕事でも人をせかすことなどほとんどあり得ない自分が、その人をせかす。相談後、その人のペットの猫が死に、その人は数ヶ月間寝込んでしまい、感謝される。


■「おそろしい」「おそれ」「虫の知らせ」「胸騒ぎ」という日本語について

 さて、このような人との出会いについて「恐怖」よりも「畏怖」を覚えると先に書いたが、このことは自分なりに正しいと考えている。

 元々、日本語の「おそろしい」と「おそれ」とは、同語源であるが、現在、「おそろしい」には「恐ろしい」「怖ろしい」、「おそれ」には「恐れ」「怖れ」「畏れ」「虞」の漢字が主に当てられている。

 日本語の「おそろしい」「おそれ」には、これらの字義の全てが含まれているが、どの時を当てるかは文脈と時代に拠っている。

 明治・大正時代の新聞などを読んでいると、「恐怖」の情に「恐」、「恐怖」と「畏怖」の間の情に「怖」、「畏怖」の情に「畏」、「懸念」の情に「虞」が当てられていたことが多いようである。一言で言えば、ヤマトコトバと漢字の字源・字義に対して知識人や上級庶民が異常なまでに「自覚的」で、それが新聞からひしひしと伝わってくる。

 例えば、「あのうつ病者は自殺するおそれがある」と言うとき、漢字の字義から言えば「虞」を当てる以外にほぼあり得ない気がするし、事実、かつてはそうであったようで、私個人はどちらかというと、こちらの感覚と言える。

 ただし、現在、「自殺する恐れ(怖れ)」という字を使用するケースはよく見る一方で、「自殺する畏れ」という字を使用するケースはあまり見かけず、「自殺する虞」は最も出会う機会が少ないという逆転現象が起きている事実は、「昨今の自殺社会が、恐怖心を煽ることはあっても、富士山などの自然に対するような畏怖・畏敬の念や赤の他人への懸念を呼び起こすものではない(知らない人の自殺は畏れ多さもない他人事である)」という現代日本人の心理を反映しているのかもしれない。
(むろん、文科省・国語審議会などによる教育方針、常用漢字の恣意的な改訂、漢字の使い分けの強制廃止策なども原因の一つではある。)

 そのように考えると、上に挙げたような私が体験してきた人との出会いは、「畏怖」の情を中心とする全般的な心境である以上、ひらがなで「おそれ」と書くか、次に「畏れ」と書くかしかないものではないかと思っている。

 だから、このような出会いが、単なる「嬉しい」とか「喜ばしい」とか「楽しい」もの、出会った時期や年月日の数字上の偶然の一致を「楽しむ」だけでよいものとは思わないという感覚も、その辺りに由来すると思う。一方で、単に表面的に「嬉しい」「喜ばしい」「楽しい」としか感じさせないような人との出会いには、何か嘘がありそうだとも、いつも感じている。

「虫の知らせ」や「胸騒ぎ」という日本語は、いわば客観的事態としての「おそろしさ」や「おそれ」を感じる主観的心情それ自体を指しているという言い方ができるかもしれないし、多くは良くないことが起きる場合に使われるが、そもそも主客・吉凶の混交の状態であるとも言えると思う。

 私は、今は講談社学術文庫から出ている黒田亮の『勘の研究』が好きで、自分の「胸騒ぎ」や人との出会い・共感覚・恋愛感情全般について探究する時によく読んでいた。書中に出てくる「勘」や「直覚」「識」などは、「虫の知らせ」や「胸騒ぎ」に関連させることができると思うが、あくまでも東洋哲学書の一つで、仏教的な視点も絡んでくるので、読みたい人には宝だが、読まない人には紙切れ、といったところだろう。

 いずれにせよ、先ほどの「おそろしい」「おそれ」「虫の知らせ」「胸騒ぎ」という日本語が指し示しているものこそ、私自身の共感覚にはピタリと合っているような気がする。ただし、日常生活において「あなたとの出会いはおそろしい」などと言ったら、全部説明しなければならなくなるし、そもそもその出会いのありがたさ自体をわざとらしくは言わないようにしている。

 元より、それを事細かく説明しなければならないような人とは、「おそろしい胸騒ぎ」による出会いを形成できていないからそういうことになるのだ、ということまでいつも感じているし、結果的に、自分と関係が深い人と浅い人に、自然と分かれていけば、それが私の人間関係の本当の答えだと思っている。


■私に似た人の存在

 ところで、このような人との出会い方や物事の見方をする共感覚者とも、またネットで出会ったことが、本当に自分の力、心の支えになっている。

「女性は勘が鋭い」とよく言う通り、女性の方が多いのだが、私から見れば、どうしても女性の共感覚や「予感」のほうが超常現象的な感じがする。それは、「男性に女性のことは分からない」ということであるけれども、最近、不倫している噂のある芸能人が「女は分からん!」などと叫んだような低俗な意味ではなくて、「いくら男が学問や武道を極めたところで、新しい人命を身ごもることはできない」という現実に由来する「畏敬の念」から直結する「分からなさ」を感じるということである。

 しかし、女性から見ると、私の共感覚は男性にしては鋭すぎるらしい。むろん、それは私自身も自覚している。

 それならば、私は女性に生まれれば良かったかというと、それは全くそうではなくて(苦笑)、私は異性としての女性の共感覚が好きなので、現状でよいと感じるとしか言いようがない。

 男性では、発達障害の男児などが同様の共感覚や直観力を持っているケースがかなり多いと感じる。


■結尾

 以上、私自身に起きた人との不思議な出会いの例と、それについての自分の感想を書いてみたが、人間にはこういうこともあるわけだし、これからもこういうことはあると思う。

 その時その時を大切にして、生きていこうと思う。


【関連ブログ記事】

●僕の共感覚を理解していただく上で
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/41097350.html

●拙著『私には女性の排卵が見える 共感覚者の不思議な世界』について
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/45641644.html

●自閉症・現代物理学・仏教哲学・日本の心についての一考(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48297838.html

●自閉症・現代物理学・仏教哲学・日本の心についての一考(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48359342.html

●自閉症・現代物理学・仏教哲学・日本の心についての一考(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48435988.html

●【地震に警戒】何人かの共感覚者・自閉症児の行動に変化【M6〜M8級】
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/53332430.html

●昨夜分の地震予測結果
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/53342886.html

●(1)今後の地震予測の記事の書き方 (2)私の地震予測の流れの解説
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/53358616.html

●地震予測法のアイデアメモ(重度自閉症児・強度共感覚者の能力と地磁気観測計データの併用)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/53431197.html

●私の個人的な発想メモ「電磁気哲学や量子自閉症学の提案」「心と体の話」など
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/53687245.html

●疑似科学にまつわる懸念 ― 疑似科学ではない超音波知覚と疑似科学である動物駆除超音波装置を例に ―
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/102454374.html

●対女性共感覚
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/46129094.html

●現代の巫女と一般女性とに共通する潜在的古代的共感覚について
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/46343132.html

●警察犬による一卵性双生児の嗅ぎ分け
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/46356999.html

●女性の集団ヒステリーを考える
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/71190712.html

●私の「対女性共感覚」を原初的「対幻想」と見る解釈について
http://iwasaki-ningengaku.sblo.jp/article/71465628.html
posted by 岩崎純一 at 17:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の共感覚

2015年01月19日

共感覚公表10年目の記念コンテンツの公表と多少の不安

岩崎純一の共感覚データベース サイトで初めて共感覚を公表してから10年目に入りました。(正しくは、10年目に入ったことに今年に入って気づきました。)

 そこで、作りためている共感覚記録(データベース)の一部(将棋・地図・自動車・鉄道・数学など)をサイトで公表することにしました。まだ追加する予定です。

http://iwasakijunichi.net/synaesthesia-database/

 遊び心として、脳内デパートのフロアガイド版と、回転して遊べる3D映像操作版も作成してみました。

 詳しい更新内容は、更新情報ブログをご覧下さい。

 それから、私の杞憂かもしれませんが、共感覚の例の中には、共感覚に慣れていない閲覧者が安易にご覧になると、わけが分からず気分・体調が悪くなるようなものもあるかもしれず(過去に私の共感覚の具体例に仰天して体調を崩し、逆に謝られたこともあります)、データベースのトップページには、閲覧時のご体調などに関する一応の注意書きを添えておきました。

 また、共感覚者が閲覧された場合も、共感覚色が当然私とは異なるかと思いますので、ご無理のないようにご覧いただければと思います。

 いずれの場合も、ほとんどは笑い話で終わりますし、それで全くかまわないのですが、とりわけ初めて共感覚に触れる方々については、稀に先述のようなケースがあります。私も閲覧者の体調を悪くするために公表するわけではないので、気になるところではあります。

 おそらく、共感覚に慣れていない方々にとっては、悪気はなく、単に一種のタブーか都市伝説、神秘主義宗教にでも出会ったような衝撃を受けているのだろうと、個人的には思います。私は、サイトで精神疾患全般も扱っているので、その話題さえも抵抗がなく、嫌な気も全くしないのですが、ともかく、こういった方々の心因反応としては「急性ストレス反応」に近いものがあるかもしれません。

 もちろん、共感覚の場合は、もはや同じ共感覚というカテゴリの中でも学者・研究者が新説を生み出し続けなければならないほど、(特に海外では)すでにありふれた学術テーマであることを告げれば、特に問題なく話が収まるのですが。

 一方で、知人の子供たちに私の共感覚の例を見せると、親が「岩崎さん、ヘンなものをウチの子に教え込まないで下さい」というような空気を出してくるのに、子供のほうが最初からキャーキャーと喜んでいます。やはり、共感覚は子供たちの世界認識のほうに親和性が高いのだと改めて感じます。

 というわけで、このままヘンな大人(自称「子供たちの気持ちを本当に考えている大人」)でいようかなと考えています。

 大幅に話がずれました。

 また、サイト自体の運営開始からは11年目ですが、記念にサイトのサブタイトルとして、ミシェル=フーコーの用語を用いた"Niches of Episteme"(知のすきま)を追加しました。解説もプロフィールのページに書いてみました。
posted by 岩崎純一 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の共感覚

2013年07月25日

「直観像記憶と共感覚」のページ

 以下の「直観像記憶と共感覚」のページを設けました。

 私の共感覚の映像を載せ、チンパンジーの実験の映像にリンクしました。

http://iwasakijunichi.net/synaesthesia/eidetic.html
posted by 岩崎純一 at 21:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の共感覚

2013年01月25日

共感覚立体画像 (5) 「音階についての共感覚」

 2013年最新版の私の「音階共感覚」です。以下の「知覚・共感覚」の各ページにも掲載しています。

●「知覚・共感覚」
http://iwasakijunichi.net/synaesthesia/

「基本的な共感覚」の2005年・2008年時点の画像と比較してみていただけると、面白いかと思います。また、この立体画像は、「応用的な共感覚」の「音域表と聴覚・共感覚(PDF)」にも対応しています。

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2012年11月29日

共感覚立体画像 (4) 「円周率についての共感覚」

 私が共感覚で見ている円周率の姿。

 私は、サヴァンの人のように円周率を何万桁も記憶しているわけではないが、数字の羅列について、初見のものか既知のものかにかかわらず一定の色彩と配置が見えている場合が多く、円周率の場合はこのようになっている。ただし、その日の天候などによって数字の配置が変化する。

 最後の数字の「0」以降は、自分でもよく分からないが、おおまかに見て白い棒の方向に数字が続いているようである。

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2012年10月05日

共感覚立体画像 (3) 「文字が寝そべる。」

「文字が寝そべる。」という文を私が共感覚で見ている様子が、以下の画像です。

 この文は全く寝そべっておらず、全体が浮かび、かつ「そべる」の部分があちこちに向いているのを発見して、面白かったので、描きました。

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 私には、全ての日本語の文章がこのように様々な色彩・形状・時空間配置を伴って見えているので、文章を突然に提示されてもすぐに描くことができますが、しかし、その中でも面白いものを優先的に取り上げようと思います。

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 やはりこのように、語意・文意と共感覚立体像の実際の姿が逆になっているものは面白いと思います。

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2012年09月22日

共感覚立体画像 (2) 「文字よ、立て。」

「文字よ、立て。」という文は、私には立って見えるので、描いてみた。全長30m、高さ3〜5mくらい。
(文字の色については、サイトの共感覚のページをご参照下さい。)

「文字よ、座れ。」という文も立って見えるので、「文字よ、」の部分があると、そのそばの言葉も立って見えるのかもしれない。

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 それに、今日の東京は小雨が降ったという点が鍵である。どうも最近、雨が降ると文字が立つのである。(共感覚者にしか通じない日本語で申し訳ありません。)

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 実際に5mもの木材や粘土を使って作るわけにはいかないということで、先日の数字の例以降、画像ソフトで色々と表現している。

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2012年09月14日

共感覚立体画像 (1) 「数字についての共感覚」

 数字についての最近の自分の共感覚。相変わらず色彩については、濃淡や模様のみの変化で、色相はほとんど変化しないのだが、数字の配置はなぜか変化する。

「3」のように、ある日突然、棒をつたって上空に上がる数字もある。「降りてきなさい、3!」と頭の中で叱るなどして遊ぶのが自分なりの遊び方。

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 今は、「4」が「5」をベンチ代わりにして座っている。
「6」は浮いているし、「9」もいまいち安定が悪いので、ワイヤーで引っ張っている。
「3」が「6」を時々揺らして遊ぶ。

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「8」は、数か月間上空で遊んだあと、降ってきたときに「7」におかしなはまり方をしたので、他の数字から笑われた。特に、すばらしいフォーメーションでダンスしている「1」と「2」に笑われた。
「0」はどう見ても露天風呂に見える。

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2011年04月30日

拙著『音に色が見える世界 「共感覚」とは何か』について

 私のこの初著は、(読者の方々からの報告も合わせて)確認できる限り、日本で初めて共感覚者本人が自らの共感覚を告白した本のようである。それと同時に、私は共感覚を日本文化論と結びつけて書いてみたのだった。今後、日本で自分の共感覚を自分で論じる人が出てくるかもしれない。だから、私の経験を書いておきたい。

 この拙著は、和歌研究者・日本文学者・日本史学者・言語学者・小中高等学校教諭などからは比較的好意的に受け止められ、授業のテキストとしても用いられている一方、現在の自然科学系方面の共感覚研究者においては、懇意な知人関係にある大学などの先生方に取り上げられることはあるが、それを除けば、あまり取り上げられておらず、「非科学的である」という評価を頂くことも多い。

 前者の分野を専門とされている方々の中には、すでに「古典分析の結果、日本人は古来共感覚者であったと言える」という私と同等の主張をしている方々もいらっしゃる。実際に、日本で初めて「共感覚」という語を用いたのは、心理学・神経科学分野ではなく、日本文学、とりわけ和歌の分野なのであった。(特に二冊目の拙著内でその事実を紹介している。)

 前者の方々にとっては、このたび、共感覚者である私が本を書き、同じ主張を展開したことによって、かえってそのような先人の説が強化される結果となったと受け止められたのかもしれない。大学での私の講義も、ほとんどが文系学生に対するものである。

 一方で、私の共感覚の実在を科学的に証明するには、すでに欧米の共感覚研究で用いられているような高価な実験機器や施設を用意する必要があるし、これについてはさすがに私個人の力では用意できないものであるので、どこかの大きな研究機関で実験が行われるようなことがあれば、参加したいと思っている。

 現在、東京大学などの先生方や医師・研究者などに、自分自身の共感覚を科学的に証明するために、実験・検査を受け、血液・遺伝子データ・脳データ等を提供する心の準備は少なからずある旨をお伝えして回っているところである。

 さて、私が挑戦したかったことは、一部の学識者向けの論文を書くことでもなく、大衆全体に受けの良い「共感覚獲得のための自己啓発ノウハウ本」を書くことでもなく、学識的な共感覚論をごく一般の読者に投げかけることだった。「共感覚とは、音に色が見えることです」という解説書は、私が書いても悪くはないけれども、それよりは、共感覚専門家のうちテレビへの露出なども多い学者が書いたほうがよいと感じていた。

 ただし、それに該当する入門解説書は日本にはなかったから、私は「共感覚」の生理学的入門的解説のために多くのページを当てることにした。しかし、自らの共感覚論もなるべく多く残したつもりであるし、むしろ、それを主にした本だと言える。

 それから、このことがどの程度重要なことかは分からないのだが、興味深いことがあった。何度か書き直して、様々な出版社の方々に読んでいただいているうちに、ようやく五社目のPHP新書にて出版が叶ったわけであるが、PHPだけが違った点は、私の原稿をお読み下さったのが女性であったという点である。ちなみに、二冊目『私には女性の排卵が見える』の編集者も女性であった。

 共感覚者が女性に偏って多いことを考えれば、こと共感覚については女性のほうが理解が早いとは言えるのかもしれない。あるいは、理解が深いという言い方でも、とりあえず差し支えはないかと思う。

 これについては、結局は確率論であるとは言っても、ある程度は深刻に考えたほうがよい点だと私は思っている。私に限らず、多くの共感覚者が同じことを訴えていて、男性の精神科医や大学教員、知人、何よりパートナー、夫から共感覚を精神疾患と誤解されて暴言・暴力に遭ったり、よりいっそう苦悩が高まって本当に精神疾患にかかってしまった女性が、私のサイトを多く訪れている。

 自分の共感覚を誰かに伝えようと試みる時、まず入口のところで男性に当たると、どうしても「共感覚が本当にあるのか」という議論で止まってしまうケースは、そこかしこで耳にしてきたが、ただし、拙著の男性編集者の方々は、共感覚にかなり理解が深く、非常にありがたい思いがしたということも、ここで付記しておきたい。

 さて、この書籍にはいくつか私自身のミスがあることをお詫び申し上げたい。例えば、86頁「自我は言語よりも早くからあった」という表現があるが、この「自我」の意味は極めて俗的な意味を帯びていて、哲学的用語としてはミスである。最初の原稿では何の問題もなく響いていた気がするが、この本だけを読むと、「自我」は「記憶」とでも直されるべき部分である。これは、編集作業のミスではなく、私のミスである。

 また、私はこの本を出すよりもずっと以前から、サイトで共感覚を告白してきたが、その中での経験が頭にあり、私はこの本を出したあとの新聞やテレビ局の反応を恐れていたことは否めない。すなわち、いわゆる教育ママやスパルタ方式の学習塾からの共感覚教育の依頼や、超常現象・スピリチュアル・新宗教ビジネスの方面からの協力依頼などが来ないように、入口のところからしてガードを固めた文体にしなければ、のちのち痛い目に遭うかもしれない、世の共感覚を持った子供たちにも迷惑がかかるかもしれない、といった過剰な不安があった。そのため、文体がかなり厳しくなりすぎたきらいがあると思う。

 日本の自然科学系の共感覚研究者の視点については、私は少なからぬ不満を感じるものの、そこまで悪いとは思わない。けれども、全体として、研究者に対して私が感じる心配事が一つあるとするならば、「日本の共感覚研究者は世の親たちを甘く見過ぎている」ということだと思う。

 私には、絶対音感教室や書道教室をやっている知人が何人かいらっしゃるが、これらの方々は、元気にはしゃぎ回る子供たちへの対応ではなく、その子供たちを連れて来る親たちへの対応のほうに大変疲れているようだ。

 子供たちに習い事や学習塾通いを強制している親は多い。時には、どうすれば子供に共感覚を植え付けさせることができるかという相談が、私の元にも来る。本著が出版された後でも、その状況は特に変わっていない。

 このような親たちに対する先の知人たちと私の意見は同じである。共感覚の生理学的側面が明らかになったとして、どういう未来が予想されるだろうか。

 多くの親が言うかもしれない。「ウチの息子、まだ受精卵なんですが、今からこの子に共感覚を身につけさせる方法を教えて下さい、先生」と。つまり、かつて日本で尋常ならぬ絶対音感ブームが起こったときと同じことが起こる可能性は捨てきれない。

 遺伝子を操作して共感覚やサヴァン的能力を有する天才児をデザインする「人間製造キット」のような、アメリカではすでに登場している発想が日本で登場するのは、まだ先だろうが、しかし、いわゆる「試験管ベビー」の増加の動向を見る限り、確実にそのような時代が来ることは間違いないと思う。

 共感覚、特に自分自身の共感覚について自著を持つ(持とうとする)人間は、このような話題に対して態度が曖昧であってはならないと思うし、何かしら自著に書いていなければならないとさえ思える。

「子供の感性や能力は、親の所有物ではない」

 この考え方が、私自身の人生の重要な基盤の一つであるがために、単に「共感覚」と言っても、どうしてもそれを紹介するだけでは済まないという思いが出てしまう。

 さて、この本の帯には、脳科学者でテレビでもおなじみの茂木健一郎氏が紹介文を書いて下さった。「共感覚は、岩崎純一さんの独創の始まりに過ぎなかった」という氏のコメントは、この本の出版後に受けることになったテレビ局からの超常現象・スピリチュアルブーム関連番組への出演・協力依頼や、霊能業界関係からの拙著の利用に対して毅然とした姿勢を貫く上で、一つの支えになった。

 それを踏まえた上で、あえて一つだけ書いておこうと思う。

 今や、どう客観的に見ても、その茂木氏がせっかくご活動の最たる場としていらっしゃるテレビ業界自体が、先ほどのような世の多くの親たちと共に、脳ブーム・スピリチュアルブームを率先して形成している主体の一つであることは否めない。

 テレビ番組が実質的に大衆扇動効果を生み、脳ブーム・スピリチュアルブーム関連本の売り上げを伸ばし、出版社に利益をもらたしている現状は否めないと言える。

 拙著とて、そのような世相に組み込まれかねないとも言えるし、実際に組み込まれつつある現状は見えるわけで、それを私は非常に心配している。つい最近も、再び右脳ブーム、血液型占いブーム、パワースポットブームなどが巻き起こっており、その中で、私が意図しない形で拙著が使われるようなことがないか、本当に不安である。しかし、本を出した以上は、じっくりと動向を見守っていきたいとも思う。

 これから先、自身の日常的なメディア露出を避けて学術行為に専念するタイプの他の脳科学者らによる、茂木氏やテレビ業界関係者への様々な評価をも全く同時に勉強していくことが、共感覚当事者のあるべき姿であると、改めて深い思いを致すところである。
posted by 岩崎純一 at 09:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分の共感覚