2016年12月10日

電通の価値観と東大で哲学を学んだ女性の過労自殺

200px-Dentsu_Head_Office_Day.jpg 先月7日(今から書く内容に似た、別の場への提出原稿を書き始めた日)、テレビでは、電通の女性社員(高橋まつりさん)の過労自殺をめぐって東京労働局が同社の強制捜査に入ったニュースが流れていた。ここ最近、疲労で発熱や頭痛に苦しめられていた私だが、この女性に比べれば実に大したことのないものに思える。やや気力が戻った先月22日は、福島県沖での地震で津波が発生し、日本中が東日本大震災を思い出したが、死者が出なかったことに皆安堵している。

 個人の「生」や「命」が現代日本という文脈においていかにあるべきか(あることができるか)について、私は常々考えているが、とりわけ東京大学で哲学を学んだ冒頭の後輩女性の自殺には、いつもと違うものが感じられ、心を痛めた。東大の哲学・文学・教養系の後輩男性の自殺は定期的に起きているが、女性のこのような自殺は久々に目にした。後輩と言っても、私は早々に同大中退の上、日本庭園や神社仏閣への鬱々とした放浪の旅を経てしぶとく生き残っているのに対し、死の直前まで男性上司らへの不満を、Twitterという新時代のツール上に書く気概を見せたこの女性のほうが亡くなった事実には、どうしても驚愕せざるを得ない。

 東大哲学を捨てた私が生き残り、東大哲学を完遂した者ばかりが世に知られず自殺している現状を見ると、どうやら東大哲学は私の知らないところで死の方法を教えているのではないかという疑念が生じるが、もちろんそんなことはない。ただし、東大卒・出版社勤務だった鶴見済が『完全自殺マニュアル』を著し、社会現象を巻き起こしたように、東大哲学・社会学学閥は、表でも裏でも日本人の死生観をコントロールしてきたのだから、そのレールを早々に降りた者として、私も今回の過労自殺について思いを巡らせておきたい。

 とにもかくにも分かることは、「この女性にとっては、電通(日本の大企業)の価値観よりは東大哲学が安住の地だった」ことである。ここまでは、この女性と私とで極めて価値観が似ている。

 日本では、自殺者は男性のほうが女性の2.5倍〜3倍くらい多いが、自殺の動機としては、経済的理由、病気の苦痛、家庭問題以外に、今でも哲学的自殺と呼べるようなものが含まれている。哲学的自殺に含まれると思われる東大の哲学・文学・教養系(自然科学系も少しあり)の男性の死はいくつか見てきた。特に、これらの分野の中退男性は自殺率が高く、その頭脳の消失が国益の損失や科学発展の鈍化に直結するからか、厚労省や日本中退予防研究所などの調査対象に入っており、怪しい書面が送られてきた当事者である私の実感からすれば、東大中退男性のリストがNPO法人間で不当に売り買いされているような気がするのだが、ともかく、今回のような女性の自殺は痛恨の極みである。

 ところで最近、宮沢賢治の作品を読んでいるが、彼の「失うものがない自由人」としての書きぶりに、非常に気分爽快になることがある。例えば、賢治作品には、人間や動物の大声を聞いて耳が「つんぼ」になったとか、人間や動物を「きちがひ(きちがい)」になるまでいじめたといった表現が出てくる。読むときに、いわゆる丁寧な言葉遣いをして本質をごまかす「いい子」でなければならないことはないし、賢治自身が「いい子」を気取っていないところに、賢治作品の真の魔術的・悪魔的・神的価値があるのである。

 今は時代も変わり、精神障害分類も法律も用語も(科学的根拠はありつつも「いい子」風に)改訂され、せっかく宮沢賢治が用いた「つんぼ」や「きちがひ」はもちろん、およそ20年前までの日本の精神科医らが用いた「分裂病」や「躁鬱病」、「鬱病」、「癲癇(てんかん。現在とは定義も分類も異なる)」といった用語を使うことさえ難しい時代となった。

 だから、冒頭の女性のような過労死・過労自殺についても、わざわざブラック企業やブラック上司の言動によって従業員が「PTSD(心的外傷後ストレス障害)や聴覚障害になり、労災認定された」とか、「死の直前には、彼(彼女)のSNSに鬱的傾向を示す言葉が綴られていた」などと軽々しく(被害が軽かったように)書かざるを得ない。

 本心をさらけ出して、「ブラック企業やブラック上司の言うことなんか聞きたくないので、私は今からつんぼになります」、「きちがいであるあなたのパワハラのせいでこっちがきちがいになりそうなので、今日をもってこの職場を辞めます」などと、素直で気分爽快な宮沢賢治的言動や発狂をしようものなら、したほうが頭がおかしいと思われるに決まっているのである。

 今や、現実に労災、PTSD、気分障害、不安障害、パワハラなど(の現代精神病理学的な枠組)に苦しみ異様な労働人生や自殺前夜を過ごす若年者を前にして、賢治童話や賢治的労働社会の理想郷、そして学問・芸術一般はどうあればよいのかを、論じなければならない時代になった。私の労働観や理想郷観も、人間学・精神病理学・社会学寄りのものにはなっていくのだろう。

 先の過労自殺女性が遺した文章から読み取るに、東大で哲学を学んだこの女性は、鋭い哲学的直観によって日本社会の欺瞞に気づき、Twitterで男性上司への不満を綴るという反抗まではやってみたものの、最終的に宮沢賢治のような包容力を持った(母親と数名の友人以外の)人間に、この世で出会うことはなかった。その意味では、この女性は宮沢賢治的感覚を孤独の中で体感していたと思う。

 この女性に企業と上司が要求したものは、「女子力」や「即戦力」と名付けられたものであった。そんなカルト宗教的・熱狂的な競争社会に自分は巻き込まれまいという気持ちだけは、この女性にはあったものの、その気持ちは結局、母親と数名の友人を除く身近な人たちからは、社会において持ってはならない誤ったものであると解された。

「人生は極めて楽しくも苦しいものだ」という賢治感覚(例えば、賢治作品に出てくる「つんぼ」感覚、「頭がぐるぐるする」感覚、「まはりが変に見える」感覚、「きちがい」感覚)の苦悩・発狂体験を経てから世に放たれたのではない(そういう直覚体験を怖がって、見て見ぬふりをしている)多くの欺瞞的社会人・企業を前にして、現代日本の文脈のどこかにかろうじて残された賢治的包容力が、この自殺を「優等女性の気の毒な労災」に仕立て上げざるを得なかったとも言える。

 私自身も、てんかんや分裂病ではないらしいものの、これまでに参加したどんな知覚・心理関連試験のデータにおいても、明らかな哲学者気質、共感覚、直観像記憶、片頭痛・閃輝暗点(アウラ)の症状を示しており、「まるであの宮沢賢治ですね」などと言われ、重責を伴う労働や煩わしい人間関係を離れて自然観賞や趣味の時間を多分に取るよう言われているが、言われる前からそうしてきたがゆえに生き残っているとも言えるのだろう。

 私の場合は、「東大の哲学や表象文化論は自由であり、時代を牽引している」といった言説に疑念を覚え、そこから「東大の哲学学閥や表象文化論学閥から自由になるという生き方が現代において可能か」という視点の激動(自分の人生における本当の「気づき」体験)を自分の中で起こし、目標を設定することができたために、今のような人生を送っているから、どちらかというと、今回自殺した過労女性よりは、あくまでも自然死に身を任せた宮沢賢治のほうに、生き方が近いとは言える。そもそも、この女性はどうしても「生き方」を見出せなかったから、自ら亡くなったわけである。

 換言すれば、私は結局のところ、「東大哲学それ自体が電通的である、という哲学や気づき」を持っている自覚があるのだが、今回の過労自殺女性はTwitterに、「私は電通でこんなに苦しい思いをしている。東大卒だけれど。」という趣旨と論理の主張を書いた一点のみが、私とは唯一異なる価値観なのである。

 私の場合は、過労・心労の一歩手前で何とか自力で気づいてきた人間で、自宅での沈思黙考や、和歌、日本庭園、神社仏閣、茶、花、雅楽などの興趣に触れることが心の安定手段として確立しているふしがある。これには私自身が驚嘆しているのだが、そういう手段を持たずに労働を続けてきた今回の女性のような、あまりに現代日本社会の言説に対して従順で素直で純粋な人には、現代日本社会(特に大人)の欺瞞を見事に暴くことのできる人間、芸術、趣味に出会って欲しいと願わずにいられない。

 私としては今後、従来の西洋哲学でも現在の日本の労働観・社会観でも語れない、自分のテーマである「日本的実存」を軸にした理想の哲学を探求していきたい。


【関連ブログ記事】

●およそ50の大学と関わってきて思うこと(命名「大学総動員キラキラ体制」)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/177990948.html


【画像出典】

●電通
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E9%80%9A
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2016年12月09日

およそ50の大学と関わってきて思うこと(命名「大学総動員キラキラ体制」)

 一校または数校の大学に所属してきた(内側にいる)人々(教員、助手、研究者、学生など)の話を個別に伺っていると、多くの人たちが各大学の内部事情から来るストレスを抱えているものだと知ることができる。それはそれで深い関心を持って聞いているが、今回は、徹底的に大学の外側にいて(特定の大学法人組織への所属をしない、それらとの利害関係を持たないという意味において)感じる「日本の大学が持つ共通の滑稽さ」の象徴たる「言葉選び」について書いておく。

 かつて、ある女子大学の教員から、「世界で活躍できる日本人女性を育てるため」の新設学部・学科の名称の提案を求められたので、「女子教養学部」や「日本女性文化学科」などという、まるで明治時代の私学校の頑固な創立者が考えそうな名称を本気で提唱したところ、「総合人間学部」や「キャリアデザイン学科」に決まったことがあった。私自身は、今でも日本には「女子教養」や「日本女性文化」などの名を持つ大学や学部・学科があってもよいと真剣に考えている。

 しかし、これはまだ良いほうで、最近は、いわゆるキラキラネーム(「萌愛(もえ)」や「大翔(はると)」など、昨今の日本の若年者や新生児に特徴的な、アニメやゲームのキャラクターのような名前のこと)を持つ学生・受験生や、それらキラキラネームを付けた親たちにも好意的に反応してもらい、学生数を確保するためか、「グローバルキャリアデザイン」、「シティーライフマネジメント」、「現代ライフホスピタリティー」といったよく分からないキラキラ学部・学科名称が出てきている。

 実際に、既存の学部・学科についても、こういう名称に改組したほうが、最初の数年間は集まる学生の数も増えている。そもそも、自分が入りたい学部・学科について、書類を取り寄せて読む、自宅のパソコンでじっくりと大学のサイトを読む、といった行動を取る受験生は少なくなっており、スマホで目にとまったトップページなどのキャッチーな単語から見ていくという行動パターンをとる受験生が増えているため、そのように名付けなければ学部・学科の存在が知られないようである。キラキラ学部、キラキラ学科、キラキラコースは、女子大学や女子高校に多く見られるが、最近は共学の大学や高校にも見られる。

220px-Suzumine_gakuen_Hiroshima-shi_Hiroshima-ken.jpg それにしても、大学窓口に、「では、グローバルキャリアデザインとは、どのような学問分野ですか?」と尋ねたら、「グローバルな時代における女性のライフキャリアをデザインするフィールドです」などと横文字そのままの回答が返ってくる。もはや、学部・学科名称は、学問内容の大要の表示ではなく、企業広告である。しまいには鈴峯女子短期大学が「日本語日本文化(^^)ニコニココース」を新設し、キラキラ大学教育は見事にキラキラ顔文字レベルにまで達したのである。

 案の定、数年でいとも簡単に崩壊しているこれらの学部・学科であるが、大学も国民も学習能力がないのか、「新設 → 最初だけ熱狂して受験・入学 → 定員割れ → 崩壊」を繰り返している。どう考えても、最後に生き残り、世のため人のため女性のためになるのは、私の冒頭の案だと思うのだが、そんな発想では駄目らしい。河島英五の『時代おくれ』の「時代おくれの男になりたい」が人生訓である私のような者の提案では、駄目だということなのだろう。

 しかし、このような時代を謳歌するキラキラ女子学生に対する男子学生らの扱いも、また極めて軽々しいキラキラさを誇っている。例えば、最近の話題で言えば、東大や慶應大や千葉大では、学問という本業をせずに強姦パーティーの開催にいそしむ男子学生たちが平気で在籍できており、毎度テレビを不快な逮捕映像で賑わせてくれている。しかも、研修医や医学部生による犯行ときたものだ。こういうものは一発退学処分でよく、医者になる道を絶ってよいと私は思うが、一度学生を受け入れた大学による揉み消し過保護政治活動はすさまじく、日本ではこういう医者でも生き残れるし、銃で撃たれもしないのだ。

 そんな中、時々「岩崎さんは、日本の学校教育や社会の現状にどんな疑問を感じていらっしゃいますか? ご助言を下さい」と大学教員から依頼されては引き受けているが、私の答えはいつも同じで、「日本」という国が生き残るためには、冒頭のような行動や提唱を大学自身が自力で実践するしかないと述べている。

 私はこれまでに、およそ50の大学の教員や研究者、学生の皆様から講義、ゼミ、執筆、研究協力など様々なご依頼を頂き、参加してきたが、いずれにせよ日本のどの大学を見てもありとあらゆる質が低下していると感じざるを得ない。これは、一対一で各個人の人生と向き合った場合とはまた別であるとは言えるし、下掲のブログの通り東大の哲学にさえ軽々しさを感じて中退した自分が述べるのも極端かとは思うが、それにしても、大学中退の在野の人間に、各大学がまるで同じ種類の大学の迷走の解決方法を尋ねるという滑稽な事態は何なのだろうか。その根底にある原理そのものが知りたいではないか。

 つまりは、これこそが日本国のおかしな風潮の象徴であり、その打開こそがこれからの日本人が取り組むべき新しい「仕事」や「教育」なのかもしれないし、そもそも大学教育で本来身につけるべきことが身についている可能性があるのは今の日本の大学教育の外にいる人たちになりつつあるという(ノーベル賞級の頭脳の海外への流出も含む)、あまりに笑える教育の現状や本質を物語っているのかもしれないのである。

 キラキラ女子学生に比べれば圧倒的に高い日本人女性としての教養があり、森喜朗氏などの高齢男性に囲まれながらなかなか頑張っていると思わせてくれる小池百合子東京都知事でさえ、その主張を小池氏の使用した単語で要約すれば、“2020年東京オリンピック・パラリンピックに向け、オープンなコンプライアンス、コンセンサス、ガバナンスに基づくイニシアチブによって、TOKYOとジャパンを、ローカルで都民ファーストな、かつグローバルでインターナショナルでレガシーをビルドできるサステイナブルなエリアにするプランを持っている”らしい。

 小池都知事によって都政が持ち直したとは考えているが、発想それ自体は全く日本人離れ、日本語離れである点だけは、キラキラ女子大学とそれほど大差はないと感じる。多くの日本の自治体の首長たちも、日本語と日本文化を世界に知らしめるためには日本語と日本文化のある程度の破壊はやむを得ないという、矛盾したことを考えているらしいのである。

 若年者の軽々しいキラキラさは、彼らだけのせいではなく、大人も大学も企業も自治体も国も総動員体制で主導的・主体的に生み出しているものだから、後戻りできない日本の傾向なのである。小中高校教育の集大成である大学教育の現場からして、日本の未来像のどこかがおかしいのに、どこがおかしいかが自分たちで分からず、迷走しているのは、当然の帰結である。いやはや、日本の教育の崩壊どころか、その終焉は、比較的早く訪れるのかもしれない。


【関連ブログ記事】

●電通の価値観と東大で哲学を学んだ女性の過労自殺
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/177990648.html


【画像出典】

●鈴峯女子短期大学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E5%B3%AF%E5%A5%B3%E5%AD%90%E7%9F%AD%E6%9C%9F%E5%A4%A7%E5%AD%A6
タグ:大学 日本
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2016年05月01日

著作権・著作者人格権侵害問題の記録と考察

 最近、知的財産権(著作権、肖像権)や著作者人格権について改めて考えさせられる案件に三つほど遭遇しました。
 権利侵害者への警告というよりは、著作物や肖像、人格なる概念をめぐる人間の意識や行動の不思議さ・面白さの記録・考察として、今回の記事を書いておきたいと思います。
 私は常々、人間がこのような行動をとるのは、人間の深層意識にある「自己愛」や「羨望」のためではなかろうかと考えています。それらによって発生する法的事態を「著作権法違反」などと呼称しているだけであって、私も含めて誰でも起こしうる事態だと思います。
 私は、こういった問題にはかなり(自分にも他人にも)シビアで、サイトで使っている画像の一枚たりとも権利侵害がないように注意しています。
 従って、今後とも権利侵害者には指摘を続けていきますが、権利侵害者を責め立てることではなく、自分自身が人間心理を勉強することを主眼に置いていきたいと思います。


■案件1

◆概要
 最近、私を含む数名(私以外は大学教授で、共感覚を研究)が、共感覚について、ある雑誌の取材を受けたが、うち一名の教授の公式サイト(大学のサーバー)の隠しページに、該当する全ページが複製され、一週間に渡りアップロードされていた。ただし、パスワード無しでの掲載で、不特定多数の人間が閲覧可能であった。(だからこそ、私もすぐに発見できた。)
 この雑誌は週刊誌であり、アップロード期間は次号発売までの期間に該当する。私の顔写真も掲載されていた。

◆法的観点
 ありとあらゆる知的財産権(著作権、肖像権)や著作者人格権、パブリシティ権に違反していることになる。
 まずは無論、雑誌社の出版権(著作権の一つ)やライターの著作権に対する侵害になる。また、私の顔写真の部分については、私の肖像権と写真の撮影者の著作権の両方に対する侵害になる。イラスト部分についてはイラストレーターの著作権に対する侵害になる。
 いずれの点を見ても、「引用」や「私的使用」の範囲を大きく逸脱する行為である。

◆親告と対応の結果
 上記の旨を雑誌社の担当者に報告したところ、雑誌社が当該大学教授に削除を要請し、削除がなされた。担当教授の主張では、学生が自身(教授)のサイトにアップロードしたものであり、学生には「すぐに削除するように」と指導したが、削除されておらず、自身は削除されていない事実を知らなかったとしている。

◆考えうる最悪の結果
 権利侵害者側は、結果的にその雑誌の発売週の売り上げ(雑誌に関わる権利保持者の生活)や被掲載者の複数の権利に損害を与えていることになり、そのことが証明されれば、一度に損害賠償を請求されるおそれがある。
 また、アップロードの経緯から、責任の所在が不明確・煩雑になるおそれがある。


■案件2

◆概要
 以下の知覚・共感覚関連の各ページに掲載している私の共感覚の画像が、ある共感覚セラピストらによって盗用・転載され、「寝たきりの親の面倒を頑張る女性が抱える、稀有な共感覚」や「寝たきりの親がかつて持っていた共感覚の、娘による報告」として掲載され、私とは無関係の実話・美談として創作されていた。
(当該女性たちがつらい境遇の中で苦労して身につけた共感覚や、寝たきりの人が有していた共感覚などとされているものが、全く無関係な私の共感覚であり、かつその共感覚の画像が私のサイトからの盗用であって、その女性たちの著作物であると虚偽の説明を付記されているもの。)
http://iwasakijunichi.net/synaesthesia/

◆法的観点
 著作権法違反であることは明白だが、それ以外に著作者人格権(名誉声望保持権、同一性保持権、氏名表示権)に対する重大な侵害となっている。私が以下のページに記載しているクリエイティブ・コモンズ・ライセンスをも無視している。
http://iwasakijunichi.net/law.html

◆親告と対応の結果
 著作者が著作権を有する著作物を著作者の名誉声望を害する方法で盗用する行為は、著作権および著作者人格権を侵害する行為と見なされることが著作権法において明確に規定されている旨を、当該セラピストらに示した上で、画像および創作ストーリーの削除を要請したが、当該セラピストは応じず。
 後日、当該セラピストらに同様の手法で共感覚画像を盗用され共感覚美談を捏造されていた他の共感覚者(当該セラピストらが主催するセラピーへの参加者であった)も、「自分たちがそのような画像を制作した事実はない」と報告しているが、当該セラピストらの対応はほとんどない。

◆考えうる最悪の結果
 権利侵害者は、当該女性や私の名誉声望に損害を与えており、そのことが証明されれば、一度に損害賠償を請求されるおそれがある。


■案件3

◆概要
 以下の知覚・共感覚関連の各ページに掲載している私の共感覚の画像が、ある作曲家(同人サークル)によって盗用・転載され、同人物の音楽関連の「研究論文」としての公表画像や他の著作物(有料)の「おまけ」として付けられていた。
http://iwasakijunichi.net/synaesthesia/

◆法的観点
 著作権法違反。侵害者が得た利益が直接的に私の共感覚画像の盗用によって発生したものかが焦点となると考えられる。私が以下のページに記載しているクリエイティブ・コモンズ・ライセンスをも無視している。
http://iwasakijunichi.net/law.html

◆親告と対応の結果
 上記の旨を作曲家に報告の上、画像の削除、および、画像の使用履歴とそれに伴う利益の額・内訳の開示を要求。また、当該画像が私の著作物である旨のサイトのトップページへの掲載を要求。最終的に、画像と発生した利益との直接の因果関係はほとんどないと判断。謝罪もあったため、これ以上の問題視はしないこととした。

◆考えうる最悪の結果
 私人どうしの著作権トラブルとしては、これより問題が大きくなる可能性は小さいと思われるが、権利を侵害された著作者がまじめに法的手段に出た場合は、逆に問題を大きくしようと思えばいくらでも大きくできてしまう。
posted by 岩崎純一 at 16:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2015年12月18日

「歩きスマホ」をカント哲学から考える

 ブログの更新は久しぶりである。時間はあるのだが、サイトやブログに意識がなかなか向かないのが主な原因である。来年2月頃からは、意識が向く予定である。ただし、予定は未定である。

 そんな中、あくせくと街を歩いていて色々と思うことは多い。社会観察の好きな私である。一応、哲学専攻だった身として、最近感じていることを一つだけ書いておく。

 最近いわゆる「歩きスマホ」が流行し、メディアでも問題視され報道されているので、街を歩くときにも自然に歩きスマホをしている人に目が行くようになった。と言っても、街のど真ん中では、歩きスマホが視野に入らない瞬間を探す方が難しい。

 入力が面倒であるので、今私はこのような人間を「歩スマー(ホスマー)」と呼称させてもらう。また、「歩きスマホ」は「スマ歩(ホ)」とさせていただく。入力が面倒というのは口実で、実は皮肉を込めた批判としての略語である。

 一見すると笑い話のようであるし、確かにユーモアを込めている部分もある。しかし、歩スマーが自分でホームから転落したり人から注意されるのは自業自得だとしても、人にぶつかって怪我をさせたり、それで人の命を奪うような場合もある。人の命に関わる重大な社会問題の話なので、どうしても書いておきたい。


●歩行距離や運動の問題

 そうして観察を続けたところ、歩スマーではない自分がいかに日常的に蛇行しているか、いかに無意識に気を遣い苦労して、歩スマーを避けながら歩いているかということがよく分かるようになった。最近は、このような歩き方をしている人たちは皆、真のボランティア、善人だと思うようになってきた。

 おそらく、同じ距離を歩くにも、歩スマーよりも非歩スマーのほうが1.05倍から1.1倍くらいの距離は歩いているのではないかと思う。新宿・渋谷・池袋などの人口密集地帯では、ほぼ真横に避ける羽目になることもあるので、1.2倍以上は自分の方が歩いていると思う。となると、歩スマーは知らず知らずのうちに、外出時の運動・ダイエット効果もずいぶん失っている計算になる。

 歩スマーは、歩行スピードが遅いのに、通行ルートと脚の動きが直線的だし、目線も一点凝視型だ。筋肉に負荷がかからず、歩く距離も短く、脚部の横方向へのふんばりなどが、高齢期に至って急に弱くなることが予想されると思う。

 後ろから歩スマーを追い越すときも、結局は、自分の方がややこしく変な動きをして追い越すことになる。どのタイミングで追い越せばよいかにも、頭を悩ませることになる。歩スマーには、少なくとも歩スマーでない我々にはあるような「後ろから誰かが来ているなという直観」、「自分のせいで困っている人への申し訳なさ」、日本語で呼ぶところの「気配」や「空気」への知覚能力が欠落していると思う。

 スマ歩推進派は海外にもいて、「スマ歩は第六感を養う」などとする論文まで出ているが、見てみたところ、かなり怪しくて、不謹慎ながら笑ってしまった。周囲の人たちがよけてくれる親切さを、歩スマー側の第六感によるものだと曲解して、無茶苦茶なデータを用いている。むしろ、第六感や動物的直観があるのは周囲の人たちの方だと私は思う。

 石器時代や縄文時代、というより昭和時代のつい最近まで、猟・漁をするときには、横方向への敏捷性などの基礎的能力が必要だったはずだが、歩スマーはそのような動物的な動き、前方注意、危機察知、事前の歩行位置の横方向への修正、方向転換というものを1〜3メートル以内に近づくまでほとんどしてくれない。だから、全てをこちらがやらないとどうしようもない。

 万が一「一億総スマホ社会」になって脚部・臀部・腰部の動きが根本的に変わっていくと、未知の症状も出てくるのかもしれない。しかし、一番問題なのは、歩スマーの危険性そのものにほかならないが。

 歩スマーに出くわすたびに、なぜ自分がよけなければならないのかと憤りを覚えていたが、自分の方が忍耐力や敏捷性などを劣化させないで済むのだという、やたらと冷静な医学的・生物学的視点で考えるようになってからは、多少は憤りもなくなってきた。


●注意警告への気づきの問題

 スマ歩は、鉄道事業者やスマホ事業者も問題視しているし、スマ歩禁止のポスターも色々なところに貼られるようになった。だが、ポスターを見るのは「顔を上げている、ポスターを必要としない人たち」なのだから、本当に意味があるのだろうか。

 歩スマーは、ポスターを全くまたはあまり見ていないか、見ても無視しているか、歩きスマホができない人の方を「不器用だ」、「前方を注意して自分を避けてくれるべきだ」と考えているか、のいずれかだと思われる。

 そうなると、歩スマーは、スマ歩に限らず、読書や人付き合いや仕事の仕方もいい加減なのではないかと思えてくる。そう思われても仕方がない。


●歩きスマホしなければならないような重大事案かどうか

 スマ歩する以上は、歩いているときに親族危篤の一報が入ったとか、上司からメールが来て早急な返信が必要だとか、今からデートの予定のところが悲劇の破局のメールが来て、足も涙もとどまるところを知らないとか、そういった緊急事態かと思いきや、私の横目に見えた歩スマーのスマホ画面は、50%くらいがゲーム画面、30%くらいがラインなどのSNS画面である。

 歩スマーはセキュリティ意識も甘くなるようで、他人が画面を見ようとしなくても見えてしまう点も問題である。

 こういったスマ歩ゲーマーが歩行の列の先頭にいるだけで、後ろ全員が引っかかるのである。あるいは、私の前方を歩く五人全員が歩スマーで、六人目の私が憤りを覚えながら歩いているようなケースも頻繁に起きている。

 そもそも、前述のような重大事案に迫られて真摯に対応できるような人たちは、最初から立ち止まり、道の端に移動してスマホを触ることのできる人たちであるはずだ。


●せっかくの「無意識の善行」がはらむ危険性

 警告自体に気づかないのは歩スマーの自己責任の問題だが、同じく問題なのは、我々のような非歩スマーが「無意識によけている」という点だと思う。哲学になるのはこの部分である。

 何となくでも腹が立ちながらよけるなら、まだ相手に対するマナー遵守の要求のニュアンスがこちらの顔の表情や態度のどこかに出るし、道義的な威圧効果もあると思う。

 事実、「そっちがよけないとこっちから当たってやるぞ」という念を込めて近づくと、何となくそれが相手に伝わり、相手も気づいてよけることがある。

 自分一人のときにはやらないように気をつけているが、自分の後ろから高齢者や小さな子供や障害者が歩いてきている(車椅子でついてきている)ことが分かっているときは、自分がよけたら後ろが危ないので、歩スマーが歩きにくくなる位置(私を迂回しなければ私の後ろに通り抜けられなくなるような位置)を意図的にいかめしい態度で歩いているのは確かである。

 しかし、よほど意識していないと「無意識によけてしまう」親切さを日常的に繰り返す私のようなタイプの人たちがいる限り、それは歩きスマホへの一種の加担だし、いつまで経っても歩スマーは堂々と歩き続けることになると思う。そんなことでは、道徳と反道徳が反転してしまう。理屈の上では、自分が人の命を軽視しているのと同じだ。


●カントの善を思う

 このような無意識的善行は、本当は哲学者カントからすれば、理想的な道徳律の体現であるかもしれないし、善人の見本であるかもしれない。真のボランティア精神かもしれない。

 しかし、ここは心を鬼にして、カントに失礼をして、街で個々人が堂々と行動すべきであるとも思う。

 そう考えていると、段々と「歩スマーに意図的に激突し忠告して、スマ歩を壊滅させる」などということが人道的に最も正しいのではないかと思えてくるのだが、私は、そんな無駄な善行はしていない。

 というのも、カントの「善」論、義務論とは、「何かのために」、「誰かのために」などと理由をつけ、自分に酔いながら善行を行うことを善しとしないからである。ならば、そこに気づいたのであれば、かえって「無思考・無判断のまま、絶対悪だと思う人間に向かって問答無用に激突する」というのが、至上の道徳の実行であるということにもなる。でも、カントが根本的に述べているのはそういうことであるし、カント哲学の最大の長所にして短所は、そこである。

 もちろん、普段から他人に関心がなく歩いている人が、他人の忠告の意味に気づくとは思えない。しかし、私個人としては、国内の歩スマーに対してそんな激突・忠告作戦をとるべきだと考えるかどうかは、やはり微妙なところである。せいぜい私も、口頭で簡単に注意する勇気しか持たない。

 しかし、種々のアンケートによれば、90%くらいが「自分の行動は危険だと思う」としながら、80%くらいが「歩きスマホをやったことがある」という結果となっている。私としては、同じ人間たちばかりがやり続けている一方で、一度危険性に気づいてその後はやめたという人たちが大勢いるのではないかと予想する。

 歩スマーに憤りを覚えるのは、「この社会の構成員たる国民個々人の、生まれ持った身体で懸命に歩行し通行する精神が組み合わさって生じる、阿吽の呼吸の平和的な結果としてのプライベートスペース」に身勝手に入ってきて、その温かみを台無しにするからだ。家族関係でも、恋愛でも、上司と部下の関係でも、人間関係なら同じことだ。

 ロシアが平気でトルコの領空に侵入したが、そのときはトルコは意図的に撃墜作戦を採用したのだった。個人の歩きスマホのレベルにおいても、小さないざこざばかりか、殴り合い殺し合いが起きるような事態になっているわけである。だから、歩きスマホ問題は、一方では自己責任、一方では日本人の道徳やマナー、日本に対する評価が問われる内戦である。

 これで世界に向かって、「お・も・て・な・し」などと笑顔で日本と東京をアピールしてしまったのだから、2020年までに何とかしないといけない。歩スマーに罰金を課すのは難しいとしても、過料を課すのはよい案だと思う。
posted by 岩崎純一 at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2015年07月19日

山崎行太郎氏と共感覚を語る

150717-01.jpg 先日、文芸評論家の山崎行太郎氏、ホラー漫画家の日野日出志氏や犬木加奈子氏と初めて会食させていただいた。お世話になっている日藝の清水正先生や山下聖美先生もいらっしゃった。

 個性豊かな巨匠の先生方に向かって、共感覚がどんなものかをその場でぶっつけ本番でお伝えするというのは、自分の脳・心身に負荷がかかるので、私としては良い訓練になるのである。
(ただし、それを「良い訓練になる」と考える習癖は、共感覚者の特性ではなく、私の特性であると思われる。)

 日野日出志氏と犬木加奈子氏には、その場でお名前に共感覚で色を塗ってお見せした。そして、途中からご参加の山崎行太郎氏に、改めて共感覚について説明させていただいた。

 ところで、山崎行太郎氏と言えば、私も八割方賛意を表したい『保守論壇亡国論』のような思想の一方で、小保方晴子擁護論や小沢一郎擁護論を展開し、未だにネット上を中心に色々と賛否両論を巻き起こしている。

 STAP論文問題では、私も下掲のブログに挙げたような懐疑的な観点からの記事を多く書いているし、山崎氏のようなSTAP論文擁護論者側の言動も当然意識して書いているので、その状況でお会いするというのは何とも気まずかったが、そんな心配をよそに、最初から共感覚とベルクソンの話で盛り上がった。

 そこで少し考えることがあった。

 さすがはネット右翼界ではなくネットオカルト界のほうで人気の山崎氏が、「遠くにいる親族の死が何となく分かるなどの感覚も、共感覚と言うのか?」というような、やや危ないが鋭いご質問を出されたので、私から「それは、先生がご専門のベルクソンのような、神秘主義やオカルティズムが好きな哲学者から見れば、そう言うかもしれません。私の場合は、条件付きで、ベルクソンの言う純粋知覚やエラン・ヴィタールの意味では、そう言います」と話に出したのだ。

 そうしたところ、カントとベルクソンの霊的な直観の違いの話になり、「小保方晴子氏の先見性」についての話になっていったので、大変面白かった。

 私にしてみれば、そもそも日本の多くの共感覚者や共感覚研究者はベルクソンの創造的進化や純粋持続の域に達するとは到底思えないので、私の人生の興味の外にあるのだが、しかしともかく、「人の死が分かる」という感覚が「身をもって分かる」のは、ベルクソンが報告するまでもなく、私にとっては、私が出会ってきた「本物の」憑依体質を見せる巫女の共感覚者がそうである。

 そこで山崎氏は、氏が述べるところの小保方晴子氏の霊的先見性(があるとすれば、それ)に、アインシュタインやベルクソンの霊的先見性と同じものを見ている旨をおっしゃった。私の言葉で言えば、山崎氏は小保方晴子という女性にSTAP細胞の存在を先駆する巫女的霊性があると見ていることになるのではなかろうかと思った。

 私の目には残念ながら、小保方晴子という女性と、アインシュタインやベルクソンや私が出会ってきた「本物の」憑依体質を見せる巫女とが、同じ「人種」であるとは到底映らないのだが、ネットで「異常者」扱いされている評論家でさえ、少し説明させていただいただけでいきなり共感覚とベルクソンの純粋知覚の比較の話に進んだのが面白かった。

 山崎行太郎氏と話をさせていただいていると、相互にかなり思想・哲学が異なるにもかかわらず、日本の共感覚者の馴れ合いのコミュニティに不満を抱いている私自身の考えや姿勢が正しい気がして、非常に不思議な感覚に陥った。


【関連ブログ記事】

●我々人間が作り出す虚構について改めて考える ― STAP論文問題、ゴーストライター問題などから ―
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/110641502.html
posted by 岩崎純一 at 17:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2015年04月26日

選挙カーの「連呼」「最上級表現」「有権者の行動の不当利用」に関する一考察

Go-shichi_no_kiri_crest_2.png 朝早くから統一地方選挙の投票に行ってきました。すでに公職選挙法違反で100人超の候補者や運動員が目をつけられているらしく、今夜投票が締め切られ次第取り調べられるようですが、警察の方々は頑張って下さい。

 ところで、今回の選挙運動期間中も選挙カーに頻繁に出くわしましたが、特に公職選挙法との関連で疑問(というより滑稽)に感じていることがあります。

 今回は、以下の三点について書いてみます。

 (1)は、ありふれた光景でありながら、有権者が逆に勘違いしていることが多いケースだと思います。(2)と(3)は、私が実際に出くわした選挙カーでも見られたケースです。

(1) 走行中の選挙カーの上では候補者名の連呼しか許されていない現状(公職選挙法の厳密な規定)
(2) 「日本一の実行力」、「反安倍政権最前線」、「日本のことを考えている唯一の政党」などの最上級表現の文言の違法性
(3) 候補者・選挙カーによる有権者の行動の捏造(有権者の日常行動の不当利用)の違法性



(1) 走行中の選挙カーの上では候補者名の連呼しか許されていない現状(公職選挙法の厳密な規定)

 まず、「候補者名の連呼」に関する規定の滑稽さから来る問題について考えます。

 公職選挙法を厳密に解釈すると、なんと「走行中の選挙カーの上では、静かな声による候補者名の連呼以外のことは許されていない」という笑えるような解釈になります。

 しかし、これは紛れもない事実で、政策(文章表現)を走行中の選挙カーに乗って公言することは、本来は違法行為なのです。候補者名の連呼だけを繰り返している候補者ほど、公選法を遵守していることになります。

 そもそも、連呼行為そのものは基本的には禁止されていますが(公選法第百四十条の二「連呼行為の禁止」)、例外的に演説会場、街頭、自動車又は船舶の上において許されています。

 次に、「選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない」という笑えるほど意味不明な条文があり(第百四十一条の三「車上の選挙運動の禁止」)、「自動車の上において選挙運動のための連呼行為をすることは、この限りでない」との規定があります。

 このほか、連呼に関する規定は種々ありますが、簡単にまとめると以下のようになります。

※ 基本的に連呼は禁止
※ 選挙運動用の自動車の上で選挙運動をしてはならない

 (最高に面白い規定なので、選挙をする前に、法律を作った役人や政治家の国語力テストをすべきだと思うのだが、現在は「選挙運動用の自動車は、候補者の送迎や資材・物品の運搬にしか使用できない」と解釈している候補者が多い模様。)
※ 「選挙運動ができない選挙運動目的の自動車である」、「連呼者が自動車の上にいる」、「走行している」の三要件を満たす場合には、「連呼ができる」が、ただし「連呼しか」してはならない。

 つまり、連呼以外のこと(演説や候補者名以外の政策のフレーズの発言など)をするには、車から降りるか車を停止させなければならないし、乗って走行している場合には連呼しかできません。

 従って、「人が乗っている」「走行中の」「選挙カー」に出くわした時に有権者が監視すべきは、連呼以外のことをしていないか(政策を語っていないか、演説していないか、手を振りすぎていないか、など)という点になります。

 一見すると、むしろ連呼のほうが禁止され、政策の主張のほうが許可されているかのように誤解しがちですが、実際の法律には逆のことが明記されているというわけです。

 また、学校教育法第一条に規定する学校、病院、診療所その他の療養施設の周辺においては、静穏を保持するように努めなければならない旨の規定がありますが(第百四十条の二)、結論から言うと、高齢化社会の今、それらの「周辺」でない場所は山奥以外にはないため、山奥で連呼するほかありません。

 施設から離れているべき距離が具体的にメートル数で規定されているのは、学校や病院からの距離ではなく、「二以上の選挙が行われる場合」の投票所からの距離であり(第百六十五条の二「近接する選挙の場合の演説会等の制限」、第二百一条の十二「政談演説会等の制限」)、投票所を設けた場所の入口から三百メートルとされ、しかも「連呼行為をすることも、また同様とする」とされています。

 第百四十条の二の規定も同様に三百メートルを想定しているとしても、学校教育法第一条に規定する学校、病院、診療所その他の療養施設に該当する施設の数の合計は、前述の投票所の数の合計を上回っており、東京都では奥多摩町辺りでしか連呼できないことになります。

 しかも、「自動車の上」という意味不明な条文のフレーズも気になるところです。「車上荒らし」の「上」と同じく、公選法の「自動車の上」も「自動車の中」を意味し、その上で「自動車の上(ルーフ部分)」をも含んでいると考えられますが、自動車の窓から上半身を乗り出して手を振りまくっている選挙カーも横行しており、この場合の「自動車の外」や「自動車の横」も「自動車の上」になるのかどうかの解釈が不明です。


(2) 「日本一の実行力」、「反安倍政権最前線」、「日本のことを考えている唯一の政党」などの最上級表現の文言の違法性

 時々、「日本一の実行力、○○をよろしくお願いいたします!」とか、「反安倍政権最前線の○○です!」とか、「日本のことを真剣に考えている唯一の政党です!」といった最上級形の文言を発している候補者がいますが、こういう言い方に違法性はないのかどうかが気になります。

 私だって、安倍政権に賛同できる部分と賛同できない部分の両方を持っていますが、「反安倍政権最前線」などとふれ回っている候補者はどの政党であれ信用できません。

 こういうケースは、景品表示法(不当景品類及び不当表示防止法)において「日本一おいしい○○」や「日本初の○○」といった商品の誇大表示がどのように扱われているかが、一つの参考になるかと思います。

 景品表示法において禁止されている「不当な表示」に当たるものには、「優良誤認」、「有利誤認」、「その他誤認されるおそれのある表示」の三つがあります。「優良誤認」は、「天然果汁100%」や「ウイルス駆除率業界第1位」といった表示が虚偽である場合、「有利誤認」は、「今だけ50%オフ」や「商品をお買い上げのお客様にだけ付いてくる特典」といった表示が虚偽である場合です。

 選挙カーの「日本一の実行力」といった最上級表現に照らすと、「日本一」かどうかの真偽の証明が具体的・科学的に可能であるかもしれない「商品」と異なり、ただの恣意的な自信にすぎませんので、「必ず虚偽・誇大表現になっている」という見方もできるかと思います。自分こそが「反安倍政権最前線」だと思ったり「日本のことを真剣に考えている唯一の人間」だと思っている人間なんて沢山います。

 自分のことを「日本一」だとふれ回るよりも先に、政策の内容を有権者に伝えるべきだと思います。日本一なのは桃太郎で十分です。あ、(1)により、走行中の選挙カーでは政策の内容はしゃべってはいけませんよ。


(3) 候補者・選挙カーによる有権者の行動の捏造(有権者の日常行動の不当利用)の違法性

 これも実際に私が出くわしたケースですが、ある日道を歩いていて、前から選挙カーが走行してきたため、道をあけようと端に寄ったところ、「失礼いたします! 頑張る○○党の○○(候補者名)のために道をあけていただき、いつも応援ありがとうございます! 清き一票に感謝申し上げます!」と叫ばれました。当然、近くを歩いていた少数の一般市民にも聞こえています。

 私は、基本的にこのような言い方をする候補者には投票する気分になれないし、「車をよけただけで、なんであなたを応援し、あなたに票を入れることになっているんだ。社会人としてのものの言い方というものがあるだろう!」と憤りを覚えたものです。

 それはともかく、これは法的に見ても、具体的な該当条文は存在しないものの、違法性が問われる可能性はあると考えます。

 選挙応援目的ではない、「車が来たらよける」という平凡な常識行動をした市民に対して、当該市民が当該候補者を応援し票を入れることが決定しているかのように(後援者であるかのように)偽装して周辺の有権者に聞かせ、周辺市民も当該候補者に票を入れることが望ましいかのような心境に誘導する行為には、個人的には「候補者名の連呼」よりも憤りを感じます。


【参考文献】
公職選挙法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO100.html
不当景品類及び不当表示防止法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S37/S37HO134.html

【画像出典】
公職選挙法(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%81%B7%E9%81%B8%E6%8C%99%E6%B3%95
posted by 岩崎純一 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2015年01月07日

我々人間が作り出す虚構について改めて考える ― STAP論文問題、ゴーストライター問題などから ―

stap_giwaku.jpg 新年早々、STAP論文の不正確定のニュースと、佐村河内守氏とJASRACの契約解除のニュースが流れていて、「今年もまたこの話題か・・・」という感想ではありますが、ブログに2012年から昨年にかけて、「我々人間が作り出す虚構」や「若い研究者の特徴」といったことをテーマに、思うことをいくつかの記事に書いてきたので、このあたりでまとめてリンクしておきます。

 まだSTAP問題やゴーストライター問題が噴出する以前の記事は、iPS細胞の臨床応用に成功したと嘘をついた看護師や、自分でその辺の石を地面に埋めて自分で「石器だ」と言って発掘した学者、アドルフ・ヴェルフリなどの歴史上の「嘘つき」人物の例を挙げて、(私自身を含めた)人間という生き物の不思議さを語ってみていますが、STAP問題やゴーストライター問題を知った今も、思うことは、ブログ記事の中で書いた以下の文章の通り、自分としては変わらないと感じています。

「自分も(職場や知人関係などにおいて小さな嘘をつくことがあるなど)嘘をつく人間という生き物の一人であるが、なぜ自分は、佐村河内氏の嘘や小保方氏・理研の不正を人としておかしいと感じることができ、そのような自分の価値観を正しいと信ずることができるのだろうか」


●我々人間が作り出す様々な虚構について
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/60189340.html

●続:我々人間が作り出す様々な虚構について
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/90201186.html

●「ゴースト知覚業」(知覚代理ビジネス)は成り立つか ― ゴーストライティング時代の次の時代における「知覚原作権」の概念 ―
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/86749957.html

●『ちいさなちいさな王様』から学びたいこと ―撤回する必要のない、小保方晴子氏の子供時代の「論文」―
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/90525685.html

●私なりの若い学生・研究者分析(STAP細胞騒動や論文の言葉遣いをめぐって)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/92897335.html

●疑似科学にまつわる懸念 ― 疑似科学ではない超音波知覚と疑似科学である動物駆除超音波装置を例に ―
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/102454374.html


【画像出典】
●小保方晴子のSTAP細胞論文の疑惑
http://stapcells.blogspot.jp/
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2014年10月03日

御嶽山の噴火、登山、日本の山などについての雑感

300px-Ontake-air.jpg 御嶽山の噴火では、死者数について、日本のマスメディアは死亡と心肺停止とをはっきりと分けて報道している一方で、海外では全てをまとめて最初から「40人死亡」などと報道したところもあるようで、それは単に医学的な立場や国民性の違いかもしれないし、感想としては少々大げさかもしれないが、人の死(死生観)や自然観そのものについても色々と考えてしまう事故となったと感じている。

 私自身は、アルピニズムやスポーツやレジャーとしての登山をしたことはなく、山岳信仰や地理的・生態学的・文化的観点からの山岳・森林・植生などに関心があるタイプだし、旅行先でロープウェイで山に登ったり、徒歩で標高200mくらいの山に登ったりする程度で、登山そのものには全く詳しくないが、いわゆる登山愛好家・山岳愛好家・山岳写真家などと接する機会は多いほうだと思う。個人的にではなく、山岳関連学会などの組織相手の仕事の中で、ということにすぎないが。

 今回も国民の命がかかっていることだから、気象庁や自治体も「登山者への情報提供が不十分だった」と謝罪するのも無理はないと思うが、逆に登山者が登山計画を家族に伝えたり警察に提出していなかったり、日帰り・単発の無計画登山だったりしたがために、遺体の身元確認や行方不明者の発見が遅れている現状については、色々と違うことを思ってしまう。特に、「息子が山にいるとは知らなかった」親のために、警察・消防隊・自衛隊が火山灰まみれになっている光景は、それが仕事だとは言え、何とも言えないなと思ってしまう。

 元々毎年の登山計画書の提出率が3割程度で、噴火などに巻き込まれた事故者に限れば2割を切ることから、登山者の責任でできることがあるということも、同時に物語る事故だった。

 今まで、槍ヶ岳周辺の方々と一緒に仕事をさせていただいたり、一昨年にお亡くなりになった日本山岳会の宮下啓三氏の話を直接伺ったり、同山岳会の会長も務めた今西錦司の自然観・生命観に私淑したりしているうちに、日本の登山が、ウェストンなどの宣教師によるキリスト教の布教活動、そして「狩り(なりわい・生業)」と「信仰(アニミズム)」の二点を「登山行動」から切り離す精神と一体化して「山登り」から「近代アルピニズム」として発展するまでに、様々な紆余曲折があったことは、理解できるようになったつもりである。

 今西錦司の生態学については、今でも私の中では特別で、私の自然観の一つの基礎を作っていると言ってよい。一方で、例えば、槍ヶ岳山荘の経営者の話などを伺っている中で、槍ヶ岳の大自然に感じ入るために登るのでありながら、その槍ヶ岳を切り崩して山荘を建て増ししたりといったことについては、色々と複雑な感想を持った。

 しかしそれよりも、山岳会・山岳関連学会の方々によると、世界遺産の富士山のほうが大変らしく、日本人かそれ以外のアジア人かに関わらず、路を外れて用を足したりゴミを放り捨てたりする登山者が激増していて、別の意味でどうしようもないようだ。そうなると、なおさら「山は登るよりも遠くから見る方がいい」という私のような好みを持つ人の意見に分がありそうな気がするのだが・・・。

 少し前までは、もし自分が冬山や火山に徒歩で登るなら、火山の噴火などの自然災害に巻き込まれるか否かは「運」と「自己責任」によるものだと覚悟して、ドまじめに登山計画書も提出した上で、ただし再び家に帰ることができるとも思わずに、半ば厭世的に一歩一歩を登るのではないかという気がしていた。

 厳密には、今もその思いは変わらないのだが、しかし「登山計画書」の提出そのものが、「人間が山を登攀・制覇する」という近代アルピニズムの精神の象徴であり、「その登山者が心から登山をしているか否か」を判断する上で重要なことは、(ほとんどの山で提出が義務ではなく任意の権利である)登山計画書を提出したか否かなどという「近代の法精神・任意の権利の行使の有無」という点ではなく、「何事もなく安全に下山し帰宅できるだろうなどという根拠なき蓋然性(見通しの甘さ)の有無」だという点に気づいた。二度と帰ることができないときはできない、死ぬときは死ぬのであり、やはり最終的には「山への畏敬の念」という話につながってくると思う。

 もしかしたら今回も、元々誰に助けられるつもりもなく、わざと計画を第三者に知らせずに、ただ「そこに山があるから」登り、噴火で吹き飛ばされ、山に生きて山に死に、それが本望だった人もいるかもしれず、もしそうなら、その「無計画の自然愛」にはむしろ敬意を覚えるべきところがあるとも感じる。

 そうは言っても、山岳会・山岳関連学会の方々の話を伺えば伺うほど、自分は登山には向いていない人間だな、ということが分かるばかりで、不思議な気分だなといつも思っている。

 さて、話題は変わるが、日本列島の山の特徴として一番目立つのは、やはり標高第1位(富士山、3,776m)と第2位(北岳、3,193m)の標高差が、第2位と第100位(新蛇抜山、2,667m)の標高差よりも大きいことかもしれない。

 しかも、第2位から第100位(本当は第300位くらい)までは、ほんの数センチメートルから数メートルずつ漸減していて、そのほとんどが飛騨または赤石の二つの山脈に属しているから、最高峰兼独立峰としての富士山の「孤高さ」・「異様さ」は群を抜いている。日本の山の中では、かなり特殊な山だと言える。

 富士山は天皇と同じく日本の象徴だという形容も、山岳関連学会の保守系論者の口々から頻繁に聞こえてくるが、その天皇にとっては、遠江(とおとうみ←とほたふみ=遠い海)国のさらに遠方にある富士山よりも、近江(おうみ←あはうみ=淡海・琵琶湖)国の琵琶湖のほうが身近な存在で、富士山のことは噂に聞き、和歌に詠むばかりで、日本史上初めて富士山を「旅路にてまじまじと目視した」天皇は明治天皇だったわけである。

 富士山の登山の歴史の発展は、江戸時代の庶民によるところが大きい。富士山の権威の発展は、それを一度も見たことがない歴代天皇によるところが大きい。世界遺産としての富士山の威厳は、天皇の権威から庶民の汗水までの合わせ技なのだと思う。

 とにもかくにも、「山は神々が創った」とか「山そのものが神である」と言うし、私は後者の言い回しや自然観をとる人間ではあるが、そう言うのであれば、日本の山々の諸要素と諸関係(標高・地理的配置など)は数学の神かピタゴラスが計算して創ったのではないかと思うほど、都合のよいあり方をしている。しかし、それもただの妄想に違いなく、独立峰火山の標高第1位・2位である富士山と御嶽山も、飛騨・赤石山脈の山々も、木曽山脈の中規模の山々も、どれも同様に「自然に形成された」のであり、それら自体が神々であると私は思っている。

【画像出典】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E5%B1%B1_%28%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%29
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2014年07月23日

児童虐待問題などに関するサイトの更新と雑感

 最近も、児童が監禁や虐待の被害に遭ったニュースが色々と報道されていますね。

 岡山県倉敷市で児童誘拐・監禁事件が起きたり(監禁場所は岡山市)、渋谷駅で母親が公衆の面前で我が子を足で蹴り倒しその子が頭を床に打ち付けた様子を動画に撮った男性が、ネット上に動画を掲載し、観念した母親が警察に名乗り出るケースがあったり、静岡県沼津市で母親の交際相手に一歳児が暴行されたり(この子は昨日22日に死亡したと報道あり)、など。岡山県の事件は、地元の近くだったので、嫌な気分です。

 昨日も、親がパチンコを楽しんでいる間に駐車場の車内に放置した子供が熱中症で死亡したとのことです。

 だからというわけでもないですが、先日、赤字の文言を以下のページに追記しておきました。児童虐待の通告は、「児童虐待の防止等に関する法律」に規定されている「義務」であるわけです。

 私のところには、サイトで扱っている話題との関係上、子育て中の母親から、「私の子は、学校の算数が苦手なのに、数字に色が見えるなどと共感覚を訴え、頭がおかしいし、見ていてキモイので殴りたいです。衝動を抑えるのにどうすればいいか、同じく共感覚者のあなたに相談しました」といったメールが今も時々来ます。(シングルマザーや離婚した方のほうが多かったですが。)

 よく考えると、不思議です。「キモイ」はずの共感覚者に相談なさっているわけなので・・・。しかし、ふざけているわけではなく、本当に方法が分からないのだと感じます。こういった母親は、実は子供を虐待しそうな自分を助けてほしいのだと思います。

 むしろ、こういう子供の知覚関連のご相談が最初の頃にあって、それから虐待問題や精神疾患全般を扱うまでにサイトが肥大化しただけだとも言えますが・・・。

「ご連絡・メールを頂く際の留意事項」の
「公的機関の相談窓口・ホットラインや警察などへの相談・通報の重要性について」の項

「虐待を受けたと思われる児童を発見した場合の通告は、権利ではなく義務です。」
http://iwasakijunichi.net/ryui.html

児童虐待の防止等に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H12/H12HO082.html

 倉敷市のようなケースはどうにも気をつけようがないし、沼津市のケースやパチンコのケースも子供からはどうしようもないですが、渋谷駅のケースは、やはり大人の対応として、法的な面、道義的な面の両面で、賛否両論あるようです。動画投稿者の嘉瀬正貫氏はインタビューで、「通告が義務であることを知らなかった」と述べていました。

 ただし、ここでは(私のリンク先のページでは)、「児童虐待の通告が我々にとって権利であるべきか義務であるべきか」、「素手で止めに入るのが先か、スマホで撮影して証拠を残すのが先か」、「見て見ぬふりは加害者と同罪か」、といった心情論ではなくて、単に「法律にはこう書いてあるのだ」ということだけをとりあえず書いておきました。

 渋谷駅の件も、嘉瀬氏の精神が間違っているのではなくて、行動や法の知識に瑕疵があっただけだということのみを私は個人的には思うようにしています。駅で見たあの子を助けたいという気持ちだけはお持ちだったということだと思うので。

「法律にどう書いてあっても、またその条文を知っていても知っていなくても、日々せかせかと駅構内を通り過ぎている我々の行動は、いつでもこの嘉瀬氏のようになる(悩んだ結果、児童相談所などに通告せずに自分のSNSにアップロードする)可能性があるのだ」という、自分への戒めも込めて、追記しておきました。しかし、今の時代、SNSに上げたほうが本当に虐待防止効果や加害者の特定率が高いこともありますから、一概に批判できないと思います。

 それにしても、妊娠・出産したくてもできない女性がいる中で、我が子を公衆の面前で虐待する母親がいるという、その社会全体の光景を本当に寂しく感じています。

 岡山県の事件については、当初は、女児がパジャマ姿で、犯人の男の前に敷かれた布団の上でくつろいでテレビを見ていたと、絵まで付けて報道されましたが、今度は手のひらを返したように、犯人はアニメオタクの小児性愛者であるという報道に変化しています。

 結局、監禁現場にいなかった我々視聴者には、詳細は何も分からないのだと思います。

 もし百歩譲って「女児の心の中に、ある種のくつろぎ感」が芽生えた瞬間があったと認めるとしても、本当に虐待問題に教養のある大人なら、私が以下のページに書いているような防衛本能としての「ストックホルム症候群・リマ症候群」の事態を先に思い浮かべるのが大人の思考回路だと思うのです。

 以下の「解離性障害」のページで「ストックホルム症候群・リマ症候群」の解説をしています。
http://iwasakijunichi.net/seishin/kairi.html

 この女児が、突入してきた捜査員に対して「何、何??」と驚いている点はその典型で、虐待によって解離性障害を引き起こした方などには普通に見られるものです。

 だから、報道ステーションのような報道姿勢の内には、むしろある種の「視聴者受けのする今回の小児性愛事件を報道することの楽しみ」があるのだと感じます。

 ともかく、我々一般の国民一人一人の知恵と想像力と知識と教養とで、子供を守っていくしかないと思います。

 ところで、芸術という面から見れば、岡山県の事件を分析しようとする際に、咄嗟に頭に浮かぶものとしては、谷崎潤一郎の『刺青』・『痴人の愛』やユイスマンスの『さかしま』などでしょうか。竹久夢二が目の前で女性を歩かせたりして楽しんでいた例も重なります。

 また、今回の犯人が、もし長期の監禁を叶えたとして、そのいわばキルケゴール哲学の初歩段階にすぎない「審美的」な空間は、結局は「虚構美」ですから、小児性愛者アドルフ・ヴェルフリの芸術とも重なってくると思います。

続:我々人間が作り出す様々な虚構について(先に挙げたアドルフ・ヴェルフリに触れています。)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/90201186.html
posted by 岩崎純一 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論

2014年06月23日

少子化・晩婚化問題や塩村文夏都議へのセクハラ発言について思うこと

●内閣府・厚労省の少子化・未婚化・晩婚化調査結果

 ここ数日は、各メディアもネット上も、都議会での少子化・晩婚化問題についての塩村文夏(あやか)都議の質問時に飛んだセクハラヤジの「犯人」探しの話題で持ちきりのようです。

 グッドタイミングなのかバッドタイミングなのかは分かりませんが、皮肉にも先日、今年の「少子化社会対策白書」が閣議決定されました。未婚・晩婚化の理由として最多だったのが、男性では「経済的余裕がないため」(52%)、女性では「独身の自由さや気楽さを失いたくないから」(55%)でした。

 重要なのは、未婚の若者に未婚の理由を尋ねたのではなく、あらゆる年齢層の男女に「なぜ未婚が増え、晩婚化していると思うか」を訪ねた結果だという点です。

 この他、女性のほうが極端に多い回答に、「希望の条件を満たす相手にめぐり会わないから」、「仕事(または学業)に打ち込みたいから」があります。男性では、「異性とうまくつき合えないから」が高くなっています。

 結局まとめると、「男性に対して希望する条件が高く、自分は仕事や学業に打ち込んで自由と気楽さを楽しみたいという女性とは、男性はうまくつき合えていないから、結婚にまで至らない」という当たり前のことしか言っていない気はしますが、色々と重大な問題を孕んでいるので、冷静に細かく分析してみましょう。

 よくよく白書を見てみると、ヘンだとしか言いようがないと思います。単に「(結婚の意志・希望の有無にかかわらず)未婚である理由」を尋ねているのに、多くの国民が「男性が結婚したくてもできない理由」と「女性が結婚したくない理由」を答えている点が、です。

 ところが、多くの国民が、人口動態調査でも自殺対策白書でも同じ答え方をしています。だから、もはや国民の思考回路がそうなっているとしか考えられないように思えます。「男と女は永遠に分かり合えない」といったオシャレな詩的表現とは意味が違って、重大な社会問題だと思います。

 この調査結果は、自分が自分をそう思っているというより、国民の目に世の男性・女性がどのように映っているか、異性から自分がどのように思われていると感じるか、という観点で見るべきものだということになります。

 国民それぞれの目には、男性に経済的余裕や女性との交際の自信がなく結婚をためらっているように見えているし、女性が男性に高い条件を要求して自由と気楽さを謳歌しているように見えている、ということを話題にしないと意味がないと思うのです。

 あるいは、これらの回答は、未婚の人たちが過去に実際に異性から言われたか、異性から日々要求されている(と感じている)ために将来の婚約者や結婚相手からも当然要求されるだろうと予期している内容でもあるのだと思います。

 こんな国で、簡単に少子化・晩婚化が止まるとは考えがたいです。特定の政党・政府がコントロールできるようなものではないと思います。

 本当はこういう白書と同時に、「男性では正規労働者よりも非正規労働者の生涯未婚率が高いが、女性ではほとんど差が出ていない」、「女性の自殺の理由は、性犯罪被害や虐待被害などが多い」、「男性の20代〜40代の死因のトップは自殺である」、「男性では50歳までに結婚経験がない場合、その後も独身である確率がほぼ100%である」といったデータをマスメディアが出せば、即座にその奥にある真相が見えてくるものです。しかし、こういう部分だけは、国や民間調査団体は公開しているものの、マスメディアは隠すことが多いです。

「経済的余裕のある男性や、仕事と子育てが両立できる職場や保育所に巡り会えないから(でも、それを男性だけのせいだとは思っておらず、政治のせいだと分かっている)」や「親が反対しているから」というのが「結婚したくてもできない」多くの女性の意見なのであって、自分の自由と利益を優先するために「結婚したくない」と意見や行動をするような女性に対しては、女性の間でも批判が起きるはずだと思います。


●一般の国民・都民女性の日常生活に影響が大きいセクハラに優先的に対応してほしい

 さて、もちろん、今回都議会で発せられたようなセクハラ発言も大いに問題だとは思いますが、もっと一般の女性が無差別に被害を受けているケースを、国や各自治体の議会でどんどん制裁的に取り上げてほしいです。

 以前、池袋駅前で出くわした光景ですが、とある献血団体(NPO)のメンバーが駅前で献血を呼び掛けているかと思ったら、横断歩道で信号待ちをしている私の数メートル前で、同じく信号待ちしている一人歩きの若い女性を男性メンバー数人で取り囲み、「献血いかがですか?」と詰問していました。女性が「いいです(断る意味で)」と答えたら、一人の男性メンバーが「ちぇっ。ダメだってよ」とリーダー格らしき男性に報告しました。すると、そのリーダー格が近寄ってきて「血ぐらいくれてもいいでしょ」と女性を脅迫しました。それでもダメなら、今度は若い女性が出てきて、「あなたのためを思ってオススメしているのよ」と同性間のハラスメントとも言える言動に至りました。

 そういう光景に、池袋と巣鴨で何度か遭遇しました。これも結局、「血」の問題でも何でもなくて、「性」を利用したマインドコントロールや悪徳ビジネスだろうと思います。しかも悪いことに、元気に友だちと騒ぎながら歩いている女性には声をかけず、一人で静かに歩いている女性ばかりに声をかけるのが、見ていて腹が立ちます。

 こういう時は、通りすがりの者にできることと言ったら、変な団体と被害者の間に割って入って、仁王立ちして信号待ちをする、そしてすぐに交番に駆け込むか通報する、ということくらいなのがじれったいです。相手は複数の男性ですので、男性一人が正義感だけで手を出したところで、結果は見えています。

 幸い、取り囲んだ状態で女性の腕をつかんでスッタモンダしているところで、だいたい信号が青に変わるので、今のところ事なきを得ていますが、「実害が出ていないし、現行犯でもないし、献血を勧める時の声のトーンが本当に脅迫的かどうか不明」ということで警察も全然動いてくれないですし、最近流行の冤罪事件のように「本当は君がやったんだろ?」などと疑われてもいけないので、どうしようもないです。区や都に言うのが一番なのでしょうか。軽微な条例違反どころではないと思います。

 一人の人間としては、「そういう光景にたまたま出くわした人は、警察の代わりに加害者を殴り倒してもよい」というくらいの条例でも作ってほしい気分になります。

 いずれにせよ、このような例は、献血だけに「ブラッディ―“bloody”・ハラスメント」、略して「ブラハラ」と言ってよいと思います。「血」とは、文字通り「血液」の意味でもありますが、女性の「性」が血と骨の隅々に至るまでビジネスに使える世の中になっていることの英語的な形容としても、そう書きました。(“bloody”には、ひどい、度が過ぎた、残酷な、の意味がありますから。)

 男性だけでなく、女性自身がそう思っている(女性の性が使えると思っている)場合があるということを、塩村都議に限らず、政治家・官僚が分かっていかなければならない現状だと思います。いや、それ以上に性犯罪だし、脅迫罪・強要罪、場合によっては傷害罪になりうるものだと思います。

 今現在は、明らかに脅迫・強要を伴う献血の勧誘であっても、罪刑法定主義の観点からは、女性の生命・身体などを害悪する告知とまでは見なされないようで、実際に警察の間でも軽微な条例違反という認識にとどまっているようです。

 しかし、実際は大人しい女性ばかりを意図的に狙っているわけですし、日本人の男女両性が主導するこのような女性侮辱団体がある現実を直視しなければならないと思います。

 社民党やフェミニズム団体も、あまり「女性の権利」を全称的に掲げるより前に、もっとそのあたりのことを注視してほしいです。女性を利用する女性から被害女性を守ることも同時に考えなければ駄目だと思います。

 基本的に私は、個人的な考えではありますが、同じ献血や被災地支援の募金活動やフェミニズムの演説と言っても、街頭でやっているものはほとんどが怪しいし不衛生な団体であると思っていて、それはさすがに思い込みすぎかと反省していたのですが、本当に怪しい団体が多すぎます。

 献血したところで、世界のどこかの困っている子供たちの体内に本当に入るか分かったものではありませんし、「被災地のワンちゃん、ネコちゃんに募金を」と言われて募金したところで、本当にワンちゃん、ネコちゃんの口に入るエサになるか分かったものではありません。

 どれだけの善意が怪しい新宗教団体やNPO法人や暴力団の資金源になっているか分かりません。特に東京はそういう所なのですから、都議会・区議会・警視庁で徹底追及してもらいたいです。また、街頭でのそういう誘いに乗る一般国民の安易さは、決して善意ではないし、知性や良識や衛生観念の欠落であると思われても仕方ないと思います。


●塩村文夏都議の質問時に飛んだセクハラ発言

 さて、今回の都議会でのヤジですが、本日、鈴木章浩都議が一部の発言は自分のものだとして謝罪しました。まだ他にもいるようで、ネットユーザーらによる「犯人」探しは続くのでしょうか。その場にいた自民党の都議たちには、すでに分かっているでしょうけれど。

 その場では塩村都議個人に対して発せられた言葉ではありますが、立場上、都民女性・国民女性全員に向けて発せられた言葉であるととらえられても仕方がないですし、そもそもどうしてヤジが禁止されていないのか不思議に思います。会議で他の人の発言中に口を挟むこと自体が問題だと思ってしまいます。

「品位の問題」として処分すべきという意見もあるようですが、そんなことをし始めたら余計に皆がお互い様で、都議のほとんどがいなくなってしまうでしょうし、「品位」の話として終わらせるのがおそらく一番不適切ではないかと思ってしまいます。

 それに、内容について言い合うと収まらないと思いますし(すでに「男というものは何も分かっていない」などの言葉を用いた、女性議員たちやフェミニズム団体などからの逆襲も始まっていますし)、かえって、まるでお互いのセクハラ侮辱発言W杯のようになって不適切なのではないかと思いますので、ともかく「人が話をしている時には口を挟まない」ということを徹底していただきたいです。

 本当なら都民・国民女性のバランス感覚で、都民の生活の蚊帳の外で行われた同点ゴール(どっちもどっち)として片づけるのが、最も冷静で客観的な視点だと思いますし、それが「品位」なのだと思います。

 ただし、基本的に今回は、どっちもどっちではなく、塩村都議と都民女性・国民女性が被害者として収束するのが筋なのかもしれませんが、しかし、そうしたければしたいほど、「品位の有無」を除いて、本当に異性間の感情論ではなく、立場上や会議の礼儀上の問題として片づけるのが、良い気がしています。

 それにしても、私は個人的には、未婚の女性に苦言を呈する世の女性たちの心境に、普段から大変関心があります。女性間の格差もまた激しいのだと、いつも傍目に見ていて感じます。こういった苦言が、未婚・晩婚・不妊などに悩んでいる都民・国民女性を傷つけている可能性も多々あるのではないかと、非常に強い不安を感じます。


【参考文献】

少子化社会対策白書
http://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/index-w.html

犯罪被害者白書
http://www8.cao.go.jp/hanzai/kohyo/whitepaper/whitepaper.html

自殺対策白書
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2014/pdf/gaiyou/index.html

自殺の統計
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/toukei/index.html

男女共同参画白書
http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/index.html
posted by 岩崎純一 at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会論・人生論