2012年09月13日

自分の芸術への態度を自分で説明する能力について(和歌を例に)

 千首ほどの自詠伝統和歌をサイトで公開していると、時折「和歌を学びたいです。弟子入りさせて下さい」というような依頼がくることがあります。確かに私は、文化事業・イベントなどにおいて伝統的な和歌の詠進を仕事として依頼されることもあります。

 むろん、私のような一般の個人に弟子入り希望を頂けるのは、嫌な気分でないことは確かなので、一か八かで尋ねて下さるのは嬉しいのですが、私は人に和歌を教えるということがどういうことか分かっていませんし、和歌で弟子をとるなどということは未だかつて考えたことはないですね。それに、和歌を詠むのに資格は必要ないので、自分の和歌に対価・謝礼などが支払われたことのある人は、すでに「歌人」と言えばそうであるわけです。

 また、私の歌風は、新古今風を極度に推し進めた象徴主義的・唯美主義的な歌風だと様々な和歌愛好家・漢詩愛好家・美術愛好家などから言われていますので、今の時代において賛否両論が出ない基礎的な季節感などを読みたい場合には、どう考えても私から学ぶよりも、一般の書店の短歌の教則本を読んだ方がよいと感じます。

 私のような歌風に憧れていらっしゃる人は別として、いわゆる万葉集・古今集・新古今集などの和歌を学ぼうと思ったら、確かに「文学大学」「和歌大学」「古典執筆大学」というものは存在しないので、いわゆる「美術大学」「音楽大学」と同じことを自力で人生の中でやるしかないという気がします。私も、「和歌大学入学」などと自分で設定していました。

「美術大学(学部)」や「音楽大学(学部)」が芸術大学のカテゴリなのに、「文学部」が普通大学の下位カテゴリということもあって、「日本語」というものを「日本人の芸術的営為」として教える人がほとんどいないということは、残念ながら言えると思います。この前の東京藝大での講演でも、同じようなことを申し上げてみました。

 美術界や音楽界ではそのまま美大・音大卒がモノを言うのに、芥川賞などの文学賞には学歴など無関係で、むしろ高卒者などが極めて多いという点が、現代日本において「言語」というものが「美術」や「音楽」に対して持つ決定的な特性を表していると思います。

 東京藝大を初めとする芸術大学で少し前まであったような「ヴァイオリン転がし」などという風習が文学に通用しないことは、確かだと思います。「東大生には親が富裕層である学生が多い」というのは、最近の常識的な統計データですが、美大や音大も同じで、お金とコネがあれば良い絵筆や楽器が手に入り、それだけ絵も演奏も上手になれたというのは、皮肉な真実でした。

 だから、芸術の中で文学というのは、経済力があまりモノを言えない最後の砦だとは言えるかもしれません。ただし逆に、和歌は、必要な道具はその他の文学と同様に紙と鉛筆のみであるのに、詠む気と詠める頭がなければ書き留めるどころか詠めもしないという、ものすごく意地悪な芸術でもあり、現代日本語を知っているだけではいけないのが、大変なところではあると思います。

 そう考えると、和歌を今の時代に詠めるようになるには、神保町にでも行って和歌の古典を手に入れて、美大・音大や院に該当する「和歌大学」「和歌大学院」を想定して、人生を過ごしてみるしかない、ということも言えるわけです。ということは、美大や音大にかかるお金ほどではないにしても、本代はかかってしまいます。

 それに、和歌を詠む上で一番大切だと常々思っていることは、「自分が何をやりたいか」が自分で分かっていないとどうしようもないということです。一見すると、「なんだ、簡単なことだな」という気がするかもしれませんが、「今の自分の物事のとらえ方」が世界情勢・時事問題・自国の歴史上などにおいていかなるスタンスに該当するのかが自分で分かっていなければ、今の時代に和歌を詠めたことにならない、ということです。

 具体的に言えば、自分が(1)「日本に咲いている草花に感動する心を書きたい」のか、(2)「その心を古語風に詠みたい」のか、(3)「その心を、実在した日本古語の語彙や文法で詠みたい(つまり、その草花が存在する時代に存在しうる和歌を今詠みたい)」のか、(4)「自分なりの歌風の歌を詠みたい(写実か、空想か、その両方ともか)」のか、そういったことを意識することが、和歌上達の一番の近道だと思います。

 (1)なら、和歌である必要がありませんので、今すぐにでも現代の日常的な日本語で可能です。。むしろ、この大変な現代日本社会においてもなお人間存在や動植物・自然を愛でる心を十二分に持った人間でありさえすれば、いかなる日記でも詩でも書けますし、かえって自分の生きる「今」の日本語で書いたほうが良い場合が多いと思います。

 (2)なら、ペンと紙と数冊の古典とそれなりの頭があれば、およそ3年で詠めます。
 どういうことかと言うと、和歌には掛詞というのがあって「秋」と「飽き」をよく掛けたとか、枕詞の次に来る語は決まっているとか、そういったことを辞書を見ずに言えるようになるのに、およそ3年かかります、という意味です。ただし、あくまでも「およそ」ですので、1年や2年で詠める人もいるでしょうし、逆に3年よりも長いほうについては際限はないと思います・・・。

 また、「古語風に」ということだけであれば、古語を和歌のどこかに使って詠まれた現代短歌のほとんどは、それに該当しています。最近も、「欲しきものはスマホなりけり」、「彼氏にメールをなむ送りける」といった表現を女子高生が使っているのを見かけましたが、これも「古語風」とは言えます。

 こういう古語の使い方をヘンな使い方だなと笑う人も多いですし、私も正直なところ、その気持ちは分かるのですが、この女子高生たちは大まじめに古文を書こうとした結果、こうなったわけです。このような表現(自立語と付属語とに千年の開きがあるような混合短歌)になるのは、本人たちに責任があるとは限らないと思います。今時、普段目にするものはスマホで、学校で学ぶのは古文や漢文なのですから、こういう「茶髪の紫式部」みたいな日本語を作るしかない状況を作ったのは、今の大人たちでもあるわけです。

 しかし、やはりここから先が問題で、(3)なら、およそ(2)の3年+10年、つまり、少なくとも計10数年以上かかるとしか言えないと思います。期限などというものはないので、本当は一生精進です。

 これはどういうことかと言うと、例えば、私の自作言語の岩崎式日本語の解説でも書きましたが、「動作主(行為者)が一人称でないか、もしくは、述語の用言が終止形である限りにおいて、その文の動作主(行為者)は格助詞をとらない」という、日本語史上の史実があります。

 これを知っている人は、今の短歌結社の歌人や文学評論家でもほとんどいないでしょうし、知っていて論文も出しているのは、むしろ国語学者・日本語学者・歴史学者などです。古代日本人も、わざわざ意図的にそんな規則を考えて従ったのではありません。自然に日本語を使ったらそうなったということです。

 他にも、例えば、「身に染む」という表現は秋の季節における一定の吹き方の風について言明するものであるとか、「秋の恋( )消ゆ」という文脈においてカッコに「の」「が」「は」を入れることが可能か、または何も助詞を入れないで済むかどうかは、季節設定と男女関係と和歌の詠み手の性別(異性に成りきって詠む場合は、その異性)と述語の用言の活用形によって変化するとか、和歌全体の主体が「恋人の袖の涙」で、かつ季節が「冬」である場合は、用言の活用形が非終止形であっても「涙」に格助詞が付いた例が皆無である、など・・・。

 あるいは、「春風」と「春の風」の区別は単なる文字合わせではなくて、主体が助詞を取ったか否かによって出現頻度が変わるとか、「春風」が頻出するのに「春海」がほとんどないということを知るには和歌だけを勉強したのでは済まなくなってくる(漢詩を知らなければどうしようもない)、など・・・。

 そういった「和歌を詠んでいるつもりのほとんどの現代歌人が知らないのに、それを破った途端に現代日本人の前衛的な変則型の定型詩でしかなくなるような日本語の決まり事」というのがあるわけです。その歴史から外れたものは、「和歌」ではなくて、「新芸術」と言うほかなくなってしまいます。

 しかし、一体全体、そういう「過去への細かすぎる忠実さ」は誰がチェックしているのでしょうか。むろん、本気でそれらを研究したものすごく厳しい国語学者・歴史学者が知人にいない限りは、誰からも歌をチェックされませんし、叱られることもありません。しかし、空が見ているのかもしれません。いや、「空」などと言うと胡散臭い話になりそうですが、「過去の日本人や、樹齢数百年の木々や、おてんとさまが、和歌という文化の監督者である」、そういう気持ちで言ってみました。

「伝統和歌を詠めるようになりたい」という発言を厳密に解釈すると、本当は(3)の態度でなければならないし、実は私の態度は、「和歌の知識としては」(3)を人生を通じて身に付けたいというものであり(ちょっとこだわりが強すぎるかもしれないですが)、そして、「和歌の中身としては」(4)だと言えます。

 この(4)については、例えば、私の歌風は、周りの歌人様から、「新『新古今』派」、「魔術耽美主義」、「シュールサダイヘスム(超“藤原定家”主義)」などと呼ばれています。かつてエルンスト・ユンガーやカフカも「魔術的リアリズム」との評価を受けましたが、それの捩りだと思います。

 だから、こういう私のような、和歌というものが写実であるべきか空想であるべきかという二元論に飽きてしまい、「和歌がいかなるものか、と和歌の形而上学的本質を問う」よりも「和歌を詠む人間存在(日本人という存在)そのものの審美性・神秘性・魔術性を古語に転写する」という狙いや目標を持つに至った人ならば、和歌を詠もうとする前に、ユンガーやカフカや川端康成を読んで感想を書いてみたり、サンボリスム(象徴主義)絵画を愛でたりするような作業が必要だと思います。

 こうして、「和歌を詠みたい、学びたい」というひと言が(1)(2)(3)(4)のどのニュアンスを含むのかによって、勉強方法も変わってきてしまうことになります。(1)の発想をするからには、「ならば、なぜ不必要であるはずの和歌という形式を取りたいのか」を自分で自分に説明できなければ、有意義な和歌も生まれないし、「平安時代人になりきって恋の和歌を詠んでみたい」という(3)のような発想の場合には、「10年ほど人間観察や自然観察を繰り返しつつ、和歌に精進する」ことが、我が国の過去を生きた人たち(つまりは、他人様)に対して最も失礼のない礼儀だと思うわけです。

 一見すると和歌に思える歌であっても、現代日本語以外の日本語史上にあり得ない短歌になっているケースは、もはや普通になってきましたが、そういう時はむしろ、「これは和歌です」ではなくて、「文字数だけは和歌を参考にして、今の世の新たな詩を作ってみました」と言ったほうが良い味が出ると思うわけです。

 以上、色々と書いてきましたが、このように私は、「和歌の能力のある人」とは「自分の和歌への態度を自分で説明する能力のある人」のことだと思っています。私自身もそういう人になれるように、精進していきたいと思います。
タグ:芸術 和歌
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2012年01月20日

年末年始の和歌整理、そしてサヴァン症候群への関心

『新純星余情和歌集』
http://iwasakijunichi.net/waka/

120120.jpg 年末年始にかけて、自分の過去の和歌を色々と掘り返して入力し、『新純星余情和歌集』のほうに入れていった。

 私は今でも基本的に、右のようにごく普通の大学ノート(Campusノート)に手書きで詠んでおり、「ノートの色分け」などという少年のようなのん気な遊びまで一人で楽しんでいるが、一度はデータ入力しておかないと、将来的に自分で自分の和歌を五十音順に並べ替えたり語句を検索したりしたいと思ったときに困るのではないかと思っているので、こまめに入力している。

 例えば、和歌を並べ替えるときに、ノートだけだと、最初から全く同じ和歌を、「あいうえお」順、「年月日」順、「春夏秋冬恋雑」順など別々のノート群に全て書いておかないと調べようがないが、パソコンソフトで入力しておくと、クリック一つで様々な順番に自動的に並べ替え可能となる。便利なものだと思う。エクセルにも並べ替え機能があって便利である。

 ただし、「春夏秋冬恋雑」などの季節感別・意味別の自動的な分類だけは、コンピューターにはおそらく半永久的にできない人間の特権的能力であるから、とりあえずノートは最初からこの分類で書いている。

 こんな思考を楽しんでいると、よく出てくるのが、「筆と紙しかなかった昔の日本人は、いったいどうやって膨大な和歌集を制作・編集できたのか」という疑問で、こういうことはまさに私のサイト・ブログ・著書などがテーマとしてきたことだが、要するに「昔の日本人は、頭が一種の百科事典かパソコンのようだった。パソコンが必要ないくらいの記憶メカニズムが脳と体にあった」という見解を私などは採るわけである。

 かつて、アイヌ語を我々日本人(ヤマト民族)が研究しようとして、まず膨大なアイヌ文学(ユーカラなど)を仮名文字で記録しようとしたとき、「どうして頭で覚えているものをいちいち文字というものにするのか」とアイヌ民族から不思議がられた記録が色々と残っているが、まことにその通りで、昨年末にブログに書いた新古今時代一つ採っても、後鳥羽院・藤原俊成・良経・家隆・定家など、皆、頭の中に恐るべき数の和歌の記憶と索引機能があったことが見受けられる。

 つまり、わざわざ文字にしたのは、「物忘れ防止のため」というよりは、「他人に伝達するため」、「後世に残すため」であったようである。このような能力は、おそらく今で言う一種の「サヴァン症候群」のような能力、あるいは一部の「アスペルガー症候群」に特有の「羅列的暗記」の能力であると思う。

 私も昔から、高度に現代的な抽象概念の記憶よりは、膨大な羅列的記憶(和歌集、日本史・世界史の年表、一等星の名前と位置、恐竜の名前、城郭の名前、鉄道の駅名、国産車のヘッドライトの形状と車名の対応など)のほうが圧倒的に得意であり、このことが私の和歌の感性的側面に影響していると自分でも感じている。

 例えば、なぜか道を歩いていて、急に「今の目の前の雪の光景は、あの和歌集のどの和歌に詠まれたどこそこの風景に近いので、感動するなあ」などと思っているようなことがある。

 ただし、私が私自身の和歌を全首記憶しているかと言うと、これがどうも怪しく、危なっかしいので、今でもノート(手書き)とパソコンソフト(データ入力)に二重に記録している。それはそれで楽しい作業なので、満足だが。

(ともかくも、一応ほとんどの歌を記憶していることは確かなので、現代語訳してほしい歌があったら、ご遠慮なくメール下さって構いません。)
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2011年12月27日

『雪月花 拙唱交響 岩崎純一愚作選』

 20代最後の年越しの記念に、というわけでもないが、ふと思い立ち、『雪月花 拙唱交響 岩崎純一愚作選』というものを載せておいた。

http://iwasakijunichi.net/ronbun_ippan/setsugekka.pdf(PDFファイル)

 これは、『雪月花 絶唱交響 良経・家隆・定家名作選』(塚本邦雄、1976年、読売新聞社)という本をもじった試み。この本は、九条良経・藤原家隆・藤原定家の名作和歌(各50首)を塚本邦雄が撰し、それらから着想した塚本氏の解説・現代詩なども添えられたもので、この三歌人が私と同じく20代で詠んだ歌も満遍なく入っている。

 そこで私は、それぞれの歌と同じコンセプト・情景・歌語などを元にして歌を詠んだ。全部で同じく150首ある。絵画的・視覚的にも面白いものになったと思う。自分の和歌関連プロフィールも、わざとらしいが書いておいた。

 むろん、「拙」や「愚」というのは、へりくだりの言葉で、「拙唱(せっしょう)」と付けたのは、「絶唱(ぜっしょう)」とのいわば掛詞としての遊び心からである。いつか、この150首に限らず、私の全ての和歌について、現代語訳や、用いてある和歌の技巧・技術の解説なども入力できればと思っている。

 それはともかく、原著で何よりも面白いのは、良経が「雪」、家隆が「月」、定家が「花」というように、それ自体が象徴的に「四季」や「自然」という意味になる風物である「雪月花」に喩えられている点である。私が自分の和歌人生において最も著しく共感を持って私淑してきた三歌人が、たとえ今や紙の上でのみの面会であるにせよ、「雪月花」として再生した光景に、長年心躍ってきたものだ。

(ちなみに、塚本邦雄が書いた本で、この三人の和歌に一般の和歌初心者や和歌愛好家が触れる場合に最適なものを挙げておくと、『定家百首 雪月花(抄)』や『王朝百首』があると思う。いずれも講談社文芸文庫。)

「雪月花」とは、元は白居易の詩『寄殷協律』の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時最も君を憶ふ)」に由来し、日本人はわざわざこの「雪月花」を自然美の象徴として特別に愛好するようになり、主に「月雪花」と書くようになった。そのために、「雪月花」と書いた場合は「せつげっか」と音で読み、「月雪花」と書いた場合は「つきゆきはな」と訓で読むのが、古典では通例である。

 それにしても、三人の実人生を考えれば、私としては、良経は「花」、家隆は「雪」、定家は「月」であったかもしれないと思う。

 良経は、高官位を約束された藤原氏長者の血統にして学才早熟、和歌・漢詩文を良くし、10歳近く年長の家来である家隆と定家をも感心させ、自身が仮名序を執筆した『新古今集』の完成を見ながら、直後に頓死した。新たに建てた自邸にて曲水の宴を催す予定ながら、熊野本宮の炎上によって延期となり、その間に何の前兆もなく世を去った。

 まさに、春の夜にあっけなく散る「花」のようだと思う。家隆も定家も、良経の死に際して己の主君を「花」に見立てた哀傷歌を詠み合っている。

 昨日までかげとたのみし桜花ひとよの夢の春の山風(家隆)
 悲しさの昨日の夢にくらぶればうつろふ花も今日の山風(定家)

 さすがは家隆・定家と言うべきか、まるで自分のもとを去った男を嘆く女が詠んだ歌にも取れるように詠んである細工と技巧は秀逸で、恋歌仕立てとなっているのであるが、見方を変えれば、二人にとって良経の死は「自分を女に喩えて詠みたい」ほどの衝撃だったのだろう。

 家隆は、この三人の中では最年長で、良経の藤原主家とはもはや遠縁にすぎず、和歌も晩成型だが、若き「治天の君」である後鳥羽院に良経が「家隆を師とするがよい」と推挙して以来、当時の歌壇において、俊成・定家親子を中心とする御子左流歌道と並び称されるに至った。定家ほどの幻想美愛好家・厭世家とは見えず、優しくおおらかな男だったようだが、地上にあってもなお、常にどこか冷徹な観察眼を持って和歌と自己の厳格な研鑚に励んだ。

 やはり、なかなか溶け消えず残る「雪」のような男だと思う。

 定家は、大歌人俊成を父に持ち、父の「幽玄体」を発展させ、余情美・妖艶美を基調とする「有心体」和歌を詠み続けた。「定家は神経症・生真面目気質で、それが現実と夢との境界を消してしまう象徴美表現を生んだ」と分析している定家研究家は少なくない。

 19歳にして日記に「紅旗征戎吾が事に非ず」、すなわち「朝廷・天皇の軍旗(紅旗)も東国・鎌倉武士の反乱(征戎)も自分の知ったことか」と言い切り、いわば血生臭い世界とは無縁の芸術至上の人生を宣言した。あるいは、このワンフレーズは、かつては麗しい歌壇を共にしながら、鎌倉幕府打倒のために承久の乱を起こして暴走した後鳥羽院を、定家が見限って、失望のもとに後年・晩年に加筆したものとも言われる。

 いずれにせよ、定家の一生涯はそういうもの、喩えるなら、自らを天遠くより地上に照る「月」であると宣言したような人生であった。

 そして、この私の歌風が、古典伝統和歌に詳しい仲間の皆様から何と言われているかと言えば、数年前、まず最初に「定家流である」と言われたのであった。考えてみれば、花も雪も散り消えるものだが、月はそこにあって満ち欠けを繰り返すだけのものである。ならば月でよいだろうと納得したものだった。

 しかし、「いや、家隆流である」、「いや、良経流である」とおっしゃる人もいる。ともかく、私の歌風・歌論・詠みぶりは、ちょうどこの『雪月花』に挙げられた三歌人に近似するものと言われてきた。

 などと身勝手な私見を書いたが、塚本邦雄はこれら三人を先述の通りに「雪」「月」「花」としている。むろん、それで全く構わない。

 誰がどれに当たるかは、あまり重要ではないだろう。ライバルながらも、互いに尊敬し合った同時代の三人が、まとめて「雪月花」に喩えられたこと自体の感銘のほうが、ずっと深いように思われる。どんな男も、いつかは自然に帰るしかないのである。

 実際には、この三歌人の歌風、もっと言うと、和歌に対する没頭姿勢、和歌という言葉のパズルに対する命の賭け方は、大きく違わないと見るのがよいのではないか。三人全員がそれぞれに、「雪月花」という存在なのだろう。

 いずれにせよ、私にとっては、挙げられた三人の各50首は、感涙なしに最後まで鑑賞しきることの不可能な一級品であり続けた。

 その横に、およそ800年後に詠んだ愚作を散りばめてみたわけだから、出来ばえの差はいかんともしがたいものがあると恥じるばかりだ。しかも、800年後の若者の手によって勝手に「仮想版 曲水の宴」を催されて、さぞかし良経は嫌な思いだろうと察するが、私は心の内で、これまた身勝手に宴の開催の許可を得たものである。
posted by 岩崎純一 at 19:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論

2011年12月12日

和歌関連の追加

 前回二回分の記事に関連する追加事項です。


http://utanowa.net/user/view/1499(「うたのわ」。「純星」名義。)

 こちらは、前二回の記事で紹介した「うたのわ」の私のページです。これらの和歌は全て私のメインサイトに載っています。


http://iwasakijunichi.net/yoseikai/(伝統和歌の会「余情会」。本名名義。)

 こちらは、私が「開闔(かいこう)」という難しい名前の役を今年からやっている伝統和歌の会です。ネット上に自分の伝統和歌を公開していた私に声をかけていただき、今年この役になりました。

 これまでサイトは持たず、極めて閉鎖的に開催していたのを、ネット上でお見せするのも良いだろうということで、私のサイト内にページができました。

 ちなみに、「開闔(かいこう)」というのは、昔、平安・鎌倉・室町時代の朝廷に設けられた和歌専門の役所「和歌所(わかどころ)」の役職の一つ(一名)で、「寄人(よりうど)」(数名)と共に和歌所の事務仕事を形成し、和歌集の編纂などを担いましたが、同時にこれらの人々は、その和歌集に自身の歌が載る優秀な歌人でなければなりませんでした。

 役職名に関しては、どうやら『新後撰和歌集』以降は、「開闔」はそのままで、「寄人」は「連署(れんしょ)」という名前に置き変わっている形跡がありますが、多くの文献が散逸しており、和歌史学的にもあまり解明されておりません。

 ともかく、この余情会では、昔の真似事をしてしまおうという試みでもあると言えます。

 非常に興味深いのが、「茶髪・ピアスでの参加禁止」という参加ルールがあることです。何を隠そう、本心では、私が入ったのは、伝統和歌仲間を増やしたいからというより、このルールに心惹かれたからであります。

 私が拙著において、和歌の話と共に、日本人が生まれ持った髪の色のままで生きることの美的価値についてわざわざ論じたことが、私が開闔をお願いされた理由でもあったようです。

 そう思うと、少々照れくさくなりましたが、しかしながら、髪の色に手を加えないことは和歌を詠む際の容姿・所作の必然であるという私の考えは、皮相のものではなく、「時代への逆行ではないか」との批判を受けることを覚悟しつつ、一貫して本気で言っていることであるので、同じく「時代への違和感」から色々な短歌会を脱会してきたこれらの方々が定めたこのルールを、心から嬉しく思います。

 もっとも、和歌以外の日本の伝統文化についても言えると思いますが。
タグ:和歌
posted by 岩崎純一 at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論

2011年11月21日

私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その二)

(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50386486.html
承前。

 さて、(その一)の(A)から(F)の分類について、私がここ十数年ほどの和歌生活で知る限りのことを、もう少し詳しく書こうと思う。

 本来は、「和歌」とは「漢詩」に対する語であり、「短歌」とは「長歌・旋頭歌・俳句」などに対する語であるが、ここでは、(その一)でも書いたような理由で、「和歌」を「伝統和歌」、「短歌」を「近現代和歌(特に戦後和歌)」の意味で使いたいと思う。


■唯一「実践」できなくてもかまわないとされる伝統芸が和歌

 日本語が初めて文字記録として書かれた時(『万葉集』など)にはすでに身分の貴賎なく詠まれていた「和歌」は、今でも、「紙とペンと自分の頭」さえあれば誰にでも詠めるという点は、非常に興味深いと思う。

 この点で、高額な道具代と見習い代がかかるゆえに今後の格差社会においてますます富裕層や旧華族層だけの高級な骨董趣味・道楽になりかねない他の伝統芸能(華道・書道・琴・着付・日本舞踊・弓道など)やピアノ・バレエなどとは一線を画している。和歌集などの古典文献購入費を入れても、数十倍は違う。

「実際に詠んでいるかどうか」が重要なのではなく、「誰にでも詠める潜在性があること」が重要だと思う。和歌を十数年詠んできて、心からそう思う。

 和歌は、現在の格差社会において最も流行しておかしくはなかった伝統芸能であると言える。それでも、親の多くが「ウチの娘にはピアノか琴をやらせよう」とは思うけれども、「ウチの娘には和歌を詠ませよう」とは思わないようである。思ったとしても、和歌を教える指導者もあまりいないから、仕方がないことでもある。

 今や和歌は、独学以外にあり得ないとも言えそうだ。しかし、独学するのに、最もお金がかからない芸道である。実に興味深いことだと思っている。

 (A)から(E)の全体に言えることは、これら現在の巫女・神職女性・芸妓・舞妓・(または、日本には存在しないことになっている娼妓・遊女・枕芸者)などの職に就くのに、神楽・日本舞踊・着付・笛・琴・茶道・書道・小唄などの伝統芸能の「実践」はそれなりに必要で、被養成期間・見習い期間においても一通り習い、必修の科目まであるが、唯一和歌のみが自分で詠めるようになる必要がなく、「鑑賞」にとどまるということである。戦後の芸妓養成施設の科目を郷土資料などで見ると、見事に和歌だけが消えている。

 今の巫女・芸妓・舞妓というのは、和歌が詠めなくてもなれてしまう。特殊な巫女であった賀茂神社の斎王のなごりである「斎王代」も、京都ゆかりの一般女性から選ばれるが、和歌が詠めるかどうかとは無関係である。

 つまり、今でも伝統和歌会をひらいている巫女・芸妓・舞妓さんたちは、現在の上司たる宮司・神職・他の巫女や芸妓や舞妓たちとは全く別のところでそれをひらいているということである。ナントカ神社の巫女さんとカントカ神社の巫女さんが巫女の仕事とは別に、旧社家の一般女性をも含め、(F)の我々と一緒にひそかに歌会をひらく、という具合である。


■御製が「和歌」から「短歌」になったことの利点と、そうとは思えない点

 今ご入院の最中におられる今上陛下は、(その一)やこの記事の冒頭で書いた(旧宮家のご婦人・ご令嬢の日常語としての)「和歌」と「短歌」の語の定義において言えば、史上初めて「和歌」ではなく「短歌」を日常としておられる天皇であり、こうして「普段の話し言葉」と「歌に用いる言葉」とが天皇・皇族と国民の双方において東京標準語として均質化したこと自体は、日本が先進国として立つことに貢献したと思う。

 そもそも、文語と口語、歌語と俗語、などが近代化以前のようにバラバラのままなら、(陛下がご入院中にもお使いだという)パソコンのソフトの製造や文字コードの作成が不可能または膨大になる。

 先進国として立つための条件が、「自国の伝統を少なからず崩す覚悟で、少なくとも首都標準語を頂点とする簡易な公用語を持つこと」であり、アメリカ英語を頂点とするグローバルスタンダード言語の現代においては、「できれば英語や西洋語を公用語にすること」であるという皮肉な法則は、今後もしばらくは変わらないだろう。実際に、英語を公用語化している国が旧大英帝国・アメリカの植民地とは限らないし、日本では一部の大企業までが英語を社内公用語にし始めている。

 だから、前近代までの和歌というものは、悲しいかな、何らかの革新が加えられない限り、それ自体が「反グローバル的」なものであったということだけは言えてしまう。

「御製の短歌」と「冷泉家の短歌」と「サラリーマン川柳」とに同じ今風の日本語のフレーズが登場する一方で、(その一)の(A)旧宮家のご令嬢・(C)神社の巫女・(D)京都の芸妓・(D)金沢の芸妓・(F)一部の和歌愛好家などが伝統和歌をお詠みになるのを拝見する今、伝統和歌を愛する私としては、自分が生きている時代は和歌史上、最も面白く興味深い時代なのではないかと思えてくる。


fushimiinari.jpg■(A)と(C)の関係について

 現在は、全国の神社の国家による管理や社格制度、国教制度というものは法律上はないが、実際には、「神宮」・「宮」・「大社」・「大神宮」・「皇大神宮」・「天満宮」などを社号に持つ大神社の巫女(C)は、旧宮家・社家のご令嬢(A)より選ばれることが多く、その意味では、(A)と(C)の歌会どうしは同じ出自であることがある。また、(A)や(C)には、一生結婚せずに巫女・和歌生活に生きる女性も、ごく一部だが存在する。

 また、皇居内にある宮中三殿の賢所に詰める「内掌典(ないしょうてん)」の女性の方々の一部も、伝統和歌をお詠みになる。内掌典経験者の女性お二人に伺ったところ、いずれも伝統和歌しかお詠みになったことがないという女性でいらっしゃったが、その歌会は、神宮・大社級の巫女の歌会、そして以下に述べる花街の芸妓・舞妓、地方のひらいている歌会(D)ほどの規模ではないようである。

 現在では、「天皇」と「神道・神社」とは法令上は別概念であり、前者が憲法に象徴天皇制(立憲君主)としての規定を受ける一方で、後者の多くは宗教法人としての教団である神社本庁とその地方組織である神社庁が統括しており、また、かつては天皇の勅許を必要とした「神宮」号などを、今は神社が自由に名乗れるようになった。

 従って、「神宮」・「大社」などの上級社号を名乗る神社であったり、それなりに大きな神社であったりしても、巫女の大半が「好奇心から道楽や暇つぶしとして入ってきた」女子大生・女子高生アルバイトであるような神社が増えており、その場合は、伝統和歌会という以前に、巫女・神道という伝統そのものが廃れつつあるのだと思う。

 むろん、私としては、「多くの巫女の被雇用形態がアルバイトという時代になったこと」などは全く問題とは思っておらず、「巫女や和歌の心が廃れゆくこと」を問題にしているだけであるが。

 私は、戦後の日本の神社観・神道観・八百万の神々観には、極めて大きな不満があるが、ともかく、(その一)の(2)(3)(5)のご参加者には、すばらしい和歌を詠む、小さな神社のアルバイト巫女さんが数名いらっしゃる。


■御製短歌と旧宮家(A)・旧公家(冷泉家(B)など)の和歌の関係

 ちなみに、今上天皇は北朝の血統でいらっしゃるが、南北朝時代の13の勅撰集のうち10を独占したのは南朝の二条派歌道であった。さらに、今上陛下と、戦後に廃絶となった旧11宮家との、共通の男系祖先天皇は、今から20世代・650年以上前の北朝第3代崇光天皇であり、「伝統和歌の歌会が残っている」と私が(その一)から書いているのは、主にこれらの旧宮家、つまり「北朝の傍流のうち、北朝天皇とは違って南朝天皇文化を抵抗なく受け入れた家柄の宮家」である。

 南朝は、御亀山天皇が北朝の御小松天皇に三種の神器を渡す形で、半ば非対等合併し、衰退した後も、実際には「御南朝」として抵抗を続けた。要するに、この南北朝時代や、天智・天武両天皇の争いの時代、そして宮家の乱立に象徴されるように、そもそも「正統とされる天皇」と「正統とされる和歌」とは、互いにほとんど無関係に動いていることに注意する必要がある。

 南朝の二条派の流れは、主に東氏(とうし・武家)や三条西家(さんじょうにしけ・公家)に伝わったが、むろん、『玉葉和歌集』・『風雅和歌集』の二つの名勅撰集を生んだ北朝の京極派歌道も、折口信夫や岩佐美代子といった研究者によって見直されており、今では和歌をまじめにやっている人なら、和歌の優劣に北も南もなければ、歌道ごとの優劣もないことはご存じだと思う。

 この二条派と京極派、そして(その一)で書いた(B)の北朝の冷泉派とを合わせた三歌道は、藤原定家の子為家の子孫らが生んだいわば「三大歌道」である。私はこれら全部の歌風の歌を学んだり詠んだりしてきたが、結局のところ、歌学以外の日本史学で言われるようなケンカ争いはなく、特に「京極派」と「冷泉派」については、「家」の名の違いであって、歌風には大差がないというのが、歌学の通説になりつつある。

 これら三歌道とも、明治天皇や旧宮家に伝わり、旧桂園派を中心とする御歌所派が明治天皇の元で栄えた。主に三条西家が保存してきた和歌の古文書の多くは、現在は早稲田大学が所蔵している。

 この伝統保守的な歌道の流れを、そのまま今上陛下・皇族も受け継がれる予定であったが、結局、「御製」としてお詠みになるのは、「和歌」ではなく、国民の日常語彙(各短歌賞と同様の語彙)による「短歌」であり、天皇の血筋の中で、和歌集や古文書にあるような和歌をお詠みになるのは、旧宮家・旧公家・旧華族の、しかも一部のご婦人・ご令嬢に限られ始めた、という時代になったわけである。


800px-Kanazawa_higashi_yama_2006_03_03.jpg■(C)と(D)と(E)の関係、及びその内訳・地理的分布

(その一)では、「特に大坂の花街においては、(D)芸妓・舞妓の花街と(E)の娼妓・遊女の遊廓とが融合していたばかりか、(C)巫女までも芸妓・娼妓をやっていた傾向が他地域よりもあった」ということを書いたが、どの程度そうであったかの詳細は、今となっては誰にも分からない。

 しかし、そういった地域差とは関係なく、ともかく、室町末期までずっと続いていた天皇・皇族・公家・貴族・武家たちによる和歌の謳歌生活(歌合、勅撰和歌集・私撰和歌集の編纂など)の伝統、和歌から派生して室町時代に栄えた連歌・連句を経た民衆の俳諧・俳句の謳歌生活は、明治・大正・昭和戦前にどこに行ったかと言うと、(C)(D)(E)の世界に滑り込んだわけである。

 俳諧・俳句・川柳については、発祥時期がある程度新しいこともあり、現代俳句・川柳になっていくまでのルートが比較的目に見えて辿りやすい。また、ずっと民衆に近い文化あるいは民衆の文化そのものであるし、短歌よりも字数が少なく簡易であるがゆえに、先に発祥した短歌よりもかえって先に「サラリーマン川柳」などの文学賞形式に利用されることとなった。

 その点、「戦後の俳句の変容」はそのまま「戦後日本人の言葉や興味の変容」とだいたい同じであるように思う。だから、「戦後の俳人のどれほどが、伝統和歌の歴史全体をしっかりと勉強してから俳句を詠んでいるだろうか」といった批判をしたい私のような変わり者にとっては、かえって簡単に批判しやすい状況にある。

 一方、伝統和歌(特に京都の和歌)の場合は、(その一)で書いたように、「担い手の変化」かつ「担う土地の移動」であるため、かなり追いにくい。

 それらの変化や移動とは、「天皇から色々な土地の低身分の者までが連続体として詠んでいた『万葉集』の時代」から、「(その一)で書いた10万人ほどの限られた身分・地域・ネット上の担い手に点在的・局在的に縮小する時代」までの経緯である。このうち、(F)一般の和歌愛好家以外の歌人の現在の分布を見てみる。

(D)における和歌の現状だが、京都の花街においては、上七軒・祇園甲部・嶋原・先斗町・宮川町には伝統和歌を日常としている芸妓・舞妓または一般女性がいるが、祇園東については、私個人としては不明である。

 東京の花街においては、深川・柳橋・新吉原・向島にはいるようだが、新橋・赤坂・板橋・品川などについては、もはや現代的な風俗・コンパニオンの街であって、和歌と関係のある伝統的・日本的花街ではないことは自明である。

 金沢の花街だが、金沢は能楽堂の数からして全国一であるように、和歌の伝統も最もしっかりと継承している芸妓・舞妓・一般女性のいる土地であって、主計町・にし茶屋街・東山ひがしの金沢三花街に和歌の伝統があり、これらと金沢の(F)一般女性の和歌愛好家の方々は、(その一)で書いた(2)(3)(4)(5)の全てに関係・詠進している。

 そして、(E)について。現在はもちろん、娼妓・遊女などは日本に存在しないことになっているが、和歌の伝統の一部は、結局のところ、現在でも旧遊廓の娼妓・遊女と仕事内容を同じくする女性が生活する土地に滑り込んでいる。

 特に私の関心を惹いたのが、三重県志摩市の海に浮かぶ渡鹿野島で、ここは現在は美しい伊勢志摩国立公園に属する一方で、戦前までは、島まるごと「遊廓島」さながらの状態を呈し、住民のほとんどが江戸と大坂を結ぶ菱垣廻船・樽廻船の船乗りを相手した遊女であった。

 現在でもそのなごりがあって、国や自治体の人口調査で、周辺地域のうちこの島のみ「サービス業に従事する女性」の数が突出しているが、ここの一部には明治以降、京都の伝統和歌の風習が潜り込み、教養ある娼妓・遊女は、戦後まで和歌を詠んでいたようである。

 もちろん、多くの実質上の娼妓・遊女は、芸妓・舞妓との掛け持ちである「枕芸者」として、先に挙げた本土の旧花街や、地方の旧花街に分布し、そこで和歌をお詠みであるが、いわゆる島嶼部、特に離島は、京都の伝統和歌が生き残る「最終上陸地」のようなものらしく、隠岐諸島(島根県隠岐郡)や佐渡島(新潟県佐渡市)などにも、戦後少しまでは伝統歌会があったようである。

 この二つは、承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇と順徳上皇がそれぞれ流された島であり、二人にゆかりのある歌会の風習が生き残っていたことも功を奏したと思われる。特に隠岐は、後鳥羽上皇が死ぬまで『隠岐本新古今集』を編集し続けた土地である。

 こうして、和歌の伝統が残ったまま、江戸時代の海路の発達によって、これらの島々が船乗りの休憩地として機能し、そこに(C)(D)(E)の兼業女性が集まり、和歌が教養となり、本土のあからさまな近代化の影響を免れて和歌が生き残ることができたというわけである。

Ibuki_Island.jpg 一方、香川県観音寺市の沖に浮かぶ伊吹島は、(D)(E)の世界とは関係のない、いわば普通の島であるが、平安末期から鎌倉にかけての伝統和歌の風習が流れ込んだ形跡がある。伊吹島の高齢者が話している方言は、単語・文法もそうだが、特にアクセントについては、平安末期の京言葉のアクセントをほぼそのまま保っているようである。

 私は岡山県出身で、香川県本土の方言にしか詳しくないが、ともかく、伊吹島の風習は、民俗・風俗的な見地よりも日本語学の見地において興味を持たれているようである。

 なぜこのような島嶼部ばかりに和歌の風習が生き残るかについて、私なりにもう一つ理由を挙げてみたいと思う。それは、私が二冊目の拙著で書いたような「女性の性周期や出産」と関係があるのではないかということである。

 例えば、先の伊吹島では、女性は出産すると、一か月間は「出部屋(でべや)」と呼ばれる部屋に入って休まねばならず、子どもや他の女性たちと一緒に暇つぶしに和歌を口ずさんだ、だからこそ和歌が生き残った可能性がある、というわけである。そもそも、京都であろうが、江戸であろうが、地方であろうが、月の最中や出産前後に離れ小屋や別部屋に入るというのは、日本女性の普通の風習であった。

 島嶼部に限らず、和歌がなぜ、聖俗・貴賎の別なく、旧宮家のご婦人やご令嬢・巫女・芸妓・舞妓・娼妓・遊女・枕芸者など、女性の世界にばかり生き残るかということには、「女性の月経期間や出産、孤独や苦境における、心の拠り所としての和歌」という理由があるのではなかろうか。

 もしそうだとすれば、今では和歌が陸においても「陸の孤島」である理由の説明が付くように思う。それに、(「性に関する特殊な仕事」とは無縁で、主に洋服生活をする)一般国民に限れば和歌愛好家の男女数は同じくらいであることも、説明できそうである。

 もっと言うと、和歌は古来、胎教にも用いられた可能性があると思う。だからこそ、かつてよりは和歌が行われていない現代においても、女性どうしの歌会のほうが、より古式の和歌の風習をよく残しているのではないだろうか。

 それに、伝統歌会に関係している女性の方々に伺ってみたところ、今でも多くの女性が、日常生活においても伊吹島と似たような日課・習慣を繰り返していらっしゃるようである。内掌典や神宮の巫女は、月経期間中は蛇口を手で触らないようにして、触るときには手の甲で触っていらっしゃるし、地方の中小神社の一部の巫女にも、月経期間中は蛇口に触らず、和歌を詠み歌って体を清めている方がいらっしゃる。

 ともかく、こうして現在、かつての和歌(特に京言葉)の伝統は、宮中に集中的に残るほかは、瀬戸内海の島々や山陰・近畿地方の民家や一部の中小神社など、京都の周辺地域に流れ込んで消えつつあるわけである。

 もちろん、先に挙げた内掌典や神宮・大神社の巫女などは、(D)(E)の世界とは全く無関係で、遊女と同じ仕事内容を行うことは絶対にないのであるが、それ以外の(C)大規模神社の巫女、中小神社の巫女、(D)芸妓・舞妓、(E)娼妓・遊女の四者のうち、(D)と(E)とは兼業している場合が最も多く、戦前までは地域によってはほとんど同じものであり、ここに中小神社の下級巫女の一角が加わることがあり、これら三者と最も関係が薄いのが(C)である、ということは言えるようである。

 さて、東北地方はその頃どうだったかと言うに、少なくともこれらのうち、最大都市であり記録も豊富な仙台には、おそらく江戸時代には花街というものが存在しなかったと思われる。換言すると、花街ができる前から、(歌風は京都宮廷のそれとは少し違っただろうが、)伊達氏をはじめとする武家・民衆の和歌の伝統があった。

 もっと前には奥州藤原氏の文化もそうであった。あるいは、花街と呼べるものがないだけであって、巫女と芸妓と遊女とが未分離であるような女性の歌詠みは点々といたと思われる。土着の和歌文化もあった上に、京都の和歌文化も、東海道側と北陸側のいずれのルートからでも接触できた。

 いわゆる芸者の置屋が仙台に立ち並ぶようになるのは、明治4・5年あたりからのようで、それまでは、芸妓になりたいと思った仙台の女性は江戸に出ていた。つまり、仙台はじめ東北の都市は、「和歌の伝統があって花街がない」という特徴を持っていた。

 ただし、一つ言えるのは、明治・大正・昭和戦前までの京都の和歌文化は、ひょっとしたら東海道側よりも北陸を西から東へ抜けるルートを通って仙台や山形に達していたかもしれないということである。今でも、滋賀県北部、福井県、石川県、富山県、新潟県の一部では、いわゆる関西弁というよりは、京都言葉のイントネーションが行われている地域がある。

 天皇の居住地がほとんど瞬間移動のように東京へ移り、東京を中心に太平洋沿岸が近代化される一方で、取り残された京都の和歌文化は、近代化の力に南東から押されながらも、その場で頑張るか(定住)、先ほどのような周辺地域・島嶼部へと行き着き、それまでの巫女・芸妓・遊女や一部の一般女性の教養・芸道の一つにおさまって細々と生き残るか(南下かつ西進)、北陸へと流れた(北上してから東進)と考えられる。

 京都言葉が日本海側で生き残っていく様子がよく分かる例として、「おんな」という言葉の復活ルートを考えてみるのも面白いと思う。おそらく、そのルートは、近代化以後の京都の和歌と和歌に伴う巫女・芸妓・舞妓の風習の生き残りルートとほぼ同じである。

『万葉集』、『古今集』、『新古今集』などの歌集に限らず、他の古典を見てもそうだが、実は「おんな」という言葉のほうが「おなご」よりも古い言葉である。一時期は、九州・大坂・京都・江戸・仙台とも、「おんな」と「おなご」が対等か、「おなご」優勢となった。(「をみな」、「をんな」、「をんなご」、「をなご」の順に変化。)

 江戸時代には、江戸には「おんな」が復活してこれが主流となり、一方の京都・大坂では「おなご」が主流のままだった。しかし、近代化によって、この後者のほうが北陸を通って仙台に抜けることになる。

 江戸の「おんな」の語は、意味は「おなご」と同じで、要するに「女性」のことだが、これらの語は戦後に至って奇抜な変化を見せる。すなわち、現在、「容疑者の女」・「被害者の女性」と言うように、和歌に使える大和言葉の「おんな」は、マスコミ・ニュース用語としては蔑称・卑称であり、「じょせい」は敬称である、という使い分けがなされることになった。

 このように、近代化以降に仙台・東北地方に新設された花街文化は、高い確率で北陸を経由した京都・金沢の花街文化の一派でもある可能性が高い。ただし、仙台・東北の場合、もし日常的に和歌を詠んでいるような巫女・芸妓・舞妓さんが生き残っていらっしゃるとすれば、「元から和歌と一体化した花街があった」ことは歴史的にあり得ないため、逆に「近代化以降にできた花街が、南西からやって来た和歌の生き残りの受け皿になった」ことになるのだろう。

 そもそも、金沢や佐渡にあれだけの能楽堂が生き残っているのも、京都文化の北進と何らかの関係があるかもしれない。

 和歌もおそらく同じことで、北陸の芸妓・舞妓さんたちに伝統歌会が残っているのは、はるか遠くの東京や南の大阪・名古屋の急発展への「最後の抵抗」といったところかもしれない。そして、北陸の娼妓・遊女・枕芸者も、和歌や伝統芸能の保持という重大な役割を、ひそかに負うことになったわけである。

 そして、現在ではネットも発達し、和歌の広がりの地域差というものは一気に薄れたが、逆に、和歌愛好家が全国に点在的(特にネット利用者)かつ局在的(特に花街)に残るようになったということだろう。


■和歌の未来

 先ほども書いたように、「和歌の心」とは、高貴な人々のお家騒動、血統争い、ケンカ争いとは案外無関係に動いているのであって、天皇・皇族・公家・貴族・武家のものであるのと全く同等に日本の民衆のものであると言える。『万葉集』の時代から、そうであった。

 まずは漢民族には漢詩を、朝鮮民族には郷歌・郷札を、西洋人にはソネットを守っていってほしいと私は思うが、それと同様に、和歌はまずは我々日本人が守っていかないとどうしようもないものであると思う。ただし、和歌が或る身分・血統・家柄において衰えそうになったなら、どこか別のルートに乗って、日本人の手によって保存される以外にないだろうというのが私見である。

 その和歌保存の担い手の一角が、「旧」宮家・神社・花街・遊廓の女性たちであったという点は、非常に皮肉な精神的打撃を我々に与える一方で、私個人としてはこれは「人間存在の聖俗未分離性」という日本的美意識の良さが生んだ皮肉であるとも考えている。

 もちろん、私としては、近現代的・法治的な主権国家の国民の一人であることを免れ得ないのだから、今後も、「戦後の人権意識で戦前の日本の心を和歌にすることができるか」という大問題に挑戦するしかないし、その姿勢で和歌を詠んでいきたいと思っている。だから、いくら伝統的で懐かしいものであっても、現代的な女性の人権に差し障りがあることに自ら身を投じる女性たちの集会に残る和歌や伝統芸能を、無条件に称賛するわけにはいかない。

 しかしながら、多くの花街・遊廓研究者の発言を改めて待つまでもなく、戦前までの花街・遊郭の姿が、現在のような伝統芸道不在の性産業の姿とは全く異なるものであったことは、忘れてはならないと思う。

 近現代西洋社会から見れば事実上の「立憲君主制の国家元首」と見なされている天皇でさえ、ごく普通に「和歌」ではなく「短歌」をお詠みになる時代なのだから、反対に私は、呼吸をしたり、咳をしたり、寝たり、風呂に入ったりするのと同じ感覚で、ごく普通に「和歌」を詠んでいければと思っている。

「一人の日本国民として、風呂上がりのつれづれに詩を書いてみたら、なんと伝統和歌となっていた」

 そのような境地が今の目標である。


■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E3%81%B2%E3%81%8C%E3%81%97
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%90%B9%E5%B3%B6
伏見稲荷大社の写真は自分で撮影。
posted by 岩崎純一 at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論

2011年11月14日

私の和歌人生史、平成日本における伝統和歌の現状(その一)

■私の和歌ページ(参照)
http://iwasakijunichi.net/waka/

(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/50713456.html


732px-Rikugien3.jpg■現在までの和歌詠進先のおおまかな分類

 私が古語を用いた伝統和歌を詠み始めたのは、厳密には中学生の頃で、その頃から、「自分の母語である日本語の美意識」や「日本人の自然観・動植物観」というものに懐古や憧憬のようなものを感じており、「ならば自分で和歌を詠むしかない」と勝手ながら思い立ったのであった。

 中高時代に、「なんだか岩崎君は和歌が好きそうだから、やりなさい」というだけの理由で、教師から「校内百人一首大会運営委員」なるものに就かされ、司会ばかりやって札取りに参加できず、「司会は嫌だが、和歌は好きだ」と思った経験も今は懐かしく、気づけば十数年が経った。

 私は現代短歌も詠むが、これまで詠んだ短歌の9割以上が伝統和歌であり、現在、私が伝統和歌を詠進している歌会は、おおまかに分けると以下のようになる。

(1) ネット上の短歌コミュニティサイトへの詠進(「詠進」というよりは「投稿」だが。)
(2) 和歌愛好家どうしで詠み合い・返歌のし合い、和歌愛好家作成の和歌専門サイトへの詠進・投稿
(3) 神社の巫女の私的歌会への詠進
(4) 花街の芸妓・舞妓などの私的歌会への詠進(いわゆる旧遊廓としての花街の娼妓のことではなく、芸道を伝承する芸妓などのこと)
(5) 自分で理想のミニ伝統和歌会を開催


(1) ネット上の短歌コミュニティサイトへの詠進

 私も、大抵のサイトは眺めたり登録したりしてみた。

 特徴としては、その全てが近現代短歌のサイトで、かなり気軽に登録・利用できる点である。これ自体は、短歌文化が広まるための利点であると感じるし、賞を開催しているところもあるが、「57577形式であること」以外に「ルール」と呼べるものを設けていないため、いわば「mixiの短歌バージョン」のようなサイトが乱立、多くの場合、商業化・ゲームアプリ化している。つまり、短歌に関する文学上の議論が主眼ではないサイトがほとんどだと考えられる。

 登録者における伝統和歌詠進者の割合が最も高いのは、「うたのわ」というサイトで、ここではネット上で良質の歌会を開催できるが、それでも、あくまで気軽さがコンセプトだと言える。


(2) 和歌愛好家どうしで詠み合い・返歌のし合い、和歌愛好家作成の和歌専門サイトへの詠進

 伝統和歌に限れば、「投稿」の形式をとるものは、(2)のような趣味の高じた個人作成の和歌サイト以外には存在せず、ほぼ全てが、学者・研究者向けに大学等が運営する「閲覧・鑑賞・研究のための和歌データベース」の形式になっている。つまり、本当に和歌を詠み合うなどの人的交流は、もっぱら在野の和歌愛好家の活動に任されている。

 むろん、有名な和歌集(万葉集・古今集・新古今集など)の多くは電子データ化・公開されており、一応は国民が誰でも閲覧できるようになったのは有意義だと思う。

 ただし、データベースの中には、大学等の学術機関やプロの和歌研究者が共同で「ライスワーク(ricework・職業)」として作成したものよりも、個人の和歌愛好家たちが骨身と自費を削って「ライフワーク(lifework)」として作成したもののほうが質が高いと感じられるケースがあり、私は両者を参考にしている。

 現在では、和歌研究者であっても、ライフワーク・人生として和歌を詠む人は皆無に近いと考えられる。また、現代短歌を生業とする人は存在するが、伝統和歌を生業とする人は皆無と思われる。

 前者であっても、短歌の詠進そのもので生活しているわけではなく、流行の言葉を用いた短歌の出版物など、自作短歌を売るための商業的発想に乗って新風を起こさない限り、短歌だけで胃袋を満たせるとはいかないようである。ただし、多くの場合、職業は「歌人」と名乗ることになる。

 完全に在野の和歌研究者の作成で、私が特に気に入っているサイトの一つが、水垣久氏の「やまとうた」というサイトで、私も以前、「海松純」の雅名で氏のネット歌会『花筵百首題』に参加し、私の詠進歌100首が水垣氏によって以下に掲載されている。水垣氏の歌会は、それぞれ1000首近くを集めている。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/bbs/ju_h100_sp01.html


796px-Ishikawa_Kanazawa_Kazuemachi00.jpg(3) 神社の巫女の私的歌会への詠進
(4) 花街の芸妓・舞妓などの私的歌会への詠進

 (3)(4)については、私が著書・サイト・ブログに書いた「和歌と共感覚」の話などをご覧になったのをきっかけに交流の始まった、今も日本の伝統文化と深い縁のある生活をされている神社の巫女さんや花街の芸妓さんなどの歌会への詠進である。

 これらの歌会は、神宮や大社、その他いわゆる明治の「近代社格制度」において上級の官社に位置づけられた神社の巫女さんや、かろうじて東京・京都・石川などに残る花街の芸妓たち(旧遊廓の娼妓のことではない)が、普段の巫女・芸妓の仕事とは別に、完全な趣味サークルとして伝承・開催するもので、質の高さは(2)と同様に大変高いものがある。

 場所は、ご自身たちの神社の境内や花街の伝統茶屋とは限らない。神社近辺・ご自宅・日本庭園・区市民会館などの公共施設でもおこなわれる。

 そもそも和歌は、巫女・芸妓の教養というより、公家・貴族・武家の男女両方の教養であったし、さらに現在は、「神社への奉仕精神」と「和歌の教養」との関係は昔よりも希薄になっているため、「今の自分たちの和歌は、高じた趣味という以外に言い方がない」とおっしゃっていた。

 ただし、生涯の趣味に伝統和歌を選ぶようなことは、初めからそのような一定の出自の人以外にあり得ない、とも言えそうだ。巫女・芸妓の歌会は、最初から意識が違っており、平安や江戸時代の歌合の形式に従い、判者の判定のもとにおこなわれている場合が多い。

 私は、そのようないくつかの巫女・芸妓・和歌愛好家の私的歌会に詠進しているが、今はほとんどがメールや封書でのやり取りである。このうち、概要の掲載を許されたものだけを、冒頭のリンク先に載せてみた。

 また、『新水無瀬恋十五首歌合』については、詠者・判者・講師となった巫女・芸妓・舞妓の方々に許可を頂けたため、以下に恋の和歌全45首と現代語訳・判の模様を全文掲載している。

http://iwasakijunichi.net/waka/minase.pdf

 最近も、『新詠建久百首和歌』という、神社の見習い巫女さんや見習い芸妓さんの歌会に詠進した。『江戸川橋恋二帖』や『八丁堀桜川恋歌合』は、私が歌会のタイトルを付けたのだが、京都平安の味よりは、江戸下町の味を出してみたつもりである。


(5) 自分で理想の伝統和歌会を開催

 (5)については、私自身が、あくまで個人的な思いで和歌の伝統を味わうべく、(1)(2)(3)で知り合った伝統和歌詠者の方々に呼びかけて、ほとんどネット上でおこなっているものだが、「(2)(3)(4)のような伝統的教養・風格を、(1)のような現代の自分の日常において実践してみよう」という、いわば趣味人の勝手な試みなので、うまく成り立っているかどうか分からない。

 ただし、「俗語・漢語・英語・和製カタカナ英語などは使わない」、「枕詞・縁語・掛詞の教養を積極的に取り入れる」、「結句の四三調は避ける」といった、古今集以降の伝統和歌の品格や規範にはなるべく忠実に従うようにしている。


■平成日本において伝統和歌をライフワークとする日本人の分布

 ところで、私が自分の和歌人生で一番興味を持っているのは、和歌を通じて「人間とは何か、生きるとは何か、日本の心とは何か」を探究することに他ならない。だから、そもそも今の日本において、伝統和歌を詠んでいらっしゃる日本人がどこにどれだけいるのか、ということも、伝統和歌そのものと同等に関心がある。

 よく「俳句人口は1000万人」などと新聞などに書かれている。「近現代短歌・俳句・川柳人口」が「伝統和歌人口」を圧倒しているのは間違いないにしても、あまりに水増しのしすぎであり、日記を書くように作歌・作句を続けている人口だけをわざと多めに見積もっても、前者は約300万人、後者は10〜20万人、残る1億人超は「作歌・作句経験はあるが、それが人生・日常ではない」というところだと思う。そして、それはそれでかまわないと私は思うわけである。

 私がここ十数年で知る限り、上記の10〜20万人、すなわち、「万葉集・古今集・新古今集から江戸時代末期、そして明治・大正・昭和戦前までの純日本語(やまとことば)で和歌を恒常的に詠んでいる日本人」の分類は、以下の通りである。

(A) 旧宮家(旧皇族)とその歌会
(B) 京都の冷泉家とその歌会
(C) 神宮、大社、その他旧社格の高かった神社の巫女とその私的歌会(稀に、寺院の家柄の私的歌会)
(D) 花街の芸妓・舞妓とその私的歌会
(E) 旧遊郭の娼妓・遊女と同等の内容を生業とする女性たちとその私的歌会
(F) 伝統和歌愛好家どうしのネット交流:(F)だけで(A)〜(F)の95%強を占めると思われる

 まず、私が関係するのは、多くが(F)で、あとは(C)と(D)だけ(稀に(A))である。というより、私を含めたごく普通の伝統和歌愛好家が近づける機会が、それ以外にあり得ないだけであるが。ともかく、先の(2)は(F)に、(3)は(C)に、(4)は(D)に当てはまり、(1)は(A)〜(F)とは無関係の世界で、(5)は(1)の一部と(3)((C))・(4)((D))の一部を融合してひらいているわけである。


(A) 旧宮家(旧皇族)とその歌会

 (A)について、何よりも重要なのは、今上天皇はじめご皇室・現宮家の方々とその歌会(歌会始など)、及び旧公家・旧大名身分の方々とその歌会は、伝統和歌の系譜に入らないということが、旧宮家の方々の口からは普通に聞かれることである。

 私も、和歌を詠むようになり、何人かの旧宮家(旧皇族)のご婦人・ご令嬢の方々に和歌観をうかがう機会があり、興味深かったのが、「現在の宮中での歌会(歌会始など)の歌は短歌であって、和歌ではない」という言い回しが、ごく普通に聞かれたことであった。これは、(事実であるにせよ、そんなことを口にしてよいのかという意味で)私には驚きだった。

 つまり、本来は、「和歌」とは「漢詩」に対する語であり、「短歌」とは「長歌・旋頭歌など」に対する語であるのに、現在の一部の旧宮家のご婦人・ご令嬢の方々の日常語としては、「和歌」と言うと「伝統和歌(古典の短歌・長歌など)」、「短歌」と言うと「現代和歌(現代短歌)」を指している。

 これは、伝統和歌としての「和歌」に対して根岸短歌会・アララギ派・アララギ系の歌を「短歌」と呼ぶのと同じ論理が伝統和歌としての「和歌」の内部にも行われたもの、すなわち、「和歌」のうちにも「和歌」と「短歌」の別ありとの意識によるものと考えられる。この感覚に従うと、確かに、現在の天皇陛下はじめ皇族の方々は、短歌はお詠みでも和歌はお詠みにならないということになる。

 ただし、かえってこれによって、私が冒頭のリンクページに載せた伝統方式による歌会は、現在の皇室においては取り行われていない一方で、旧宮家(特にご婦人・ご令嬢)のごく一部においては現在でも取り行われ、伝承されていることを知った。これはこれで、非常に心が躍った。

 現在では、一般国民にひらかれている天皇陛下の歌会始に応募・詠進するときには、伝統和歌ではなく、現代短歌を詠まなければならないことは広く知られている。実際に、宮内庁のサイトも、「短歌」の語を多用して「和歌」の内容を解説するというトリッキーな歌論を展開している。この内容は、現代短歌寄りの方向性へと書き換えられ続けている。

 今後も、天皇・宮内庁主催の歌会に国民が詠進する際に、(C)〜(F)が伝承している和歌の伝統性を崩して詠まなければならない傾向は強まっていくと考えられる。

 それに、天皇陛下や皇族の方々ご自身が、俗語・漢語・英語・カタカナ語などを多用した現代短歌をお詠みになっている現在において、我々一般の和歌愛好家が伝統的規範を守った和歌を詠進してよいものか、かえって不敬や無礼に当たるのではないかという意見が、神社の巫女さん・芸妓さんたちや我々和歌愛好家の間で出たことがある。

 この気持ちが何となくおしなべて広がっているからか、それら知人の和歌愛好家の多くは歌会始に詠進していない。

 一方で、興味深い詠進実験をおこなっている和歌愛好家の有志の方がいらっしゃり、かつての天皇・貴族が詠んでいたような本格的な古今調・新古今調の和歌を毎年の歌会始に詠進し続けた結果、このような伝統和歌が必ず落とされるということを確認なさっている。

 実験と言っても、まじめなもので、その方にとっては、「そもそも現在の天皇個人だけでなく、過去の天皇と日本人と日本の自然・動植物の全てに敬意を払うからこそ、伝統和歌を詠進している。あくまでも“現在の”宮内庁から落とされているだけだと理解している」とのことである。この心境だけは、私にも深く分かったものだった。


800px-Reizeike.jpg(B)京都の冷泉家とその歌会

 (B)は、藤原定家の子孫の公家の家系である冷泉家のことである。この冷泉家は、定家の子孫の別の歌道(二条流・京極流)が廃れる中で生き残って、冷泉流歌道を継承しており、文字通り和歌の流派としての風格を保っている。

 定家の子孫の多くの家系そのものが断絶したことと、冷泉家以外の公家の家系及び天皇・皇族は、漢語・英語などを多用した現代短歌を詠まれていることから、今の我々和歌愛好家が「伝統歌会」と耳にすれば、ほぼ冷泉家のことを思うのが通例で、伝統歌会の勉強は、書籍だろうが何だろうが、まずは冷泉家のことを勉強することになっている。

 ただし、現在のご皇室の歌会は冷泉流歌道と深い関係にあり、我々一般の伝統和歌愛好家の中には、すでに冷泉流歌道もこれまでの伝統和歌とは別の道を歩み始めている、ととらえる人も多い。


800px-KamiShichiken.jpg(C) 神宮、大社、その他旧社格の高かった神社の巫女とその私的歌会
(D) 花街の芸妓・舞妓とその私的歌会
(E) 遊郭の娼妓・遊女とその私的歌会

 (C)と(D)については先に述べた通りだが、ともかく、今の日本で、私のようなごく一般の国民にすぎない和歌愛好家にとって、立場的に参加・詠進可能な伝統歌会の上限は、(C)と(D)だと思われる。(A)や(B)はあり得ない。私の知人和歌愛好家の何人かも、(C)と(D)の私的歌会には詠進していらっしゃる。

 私にとって最も興味深いのが(D)と(E)の関係で、これもこの十数年間の和歌人生の中で色々と関心を持った。

 いわゆる花街(東京では深川・柳橋・新吉原・向島など、京都では祇園・上七軒・嶋原・先斗町など、金沢では主計町・にし茶屋街など)に、今でも伝統和歌を人生としている芸妓・舞妓がおり、これについても共感覚の方面から交流を始めた数人の芸妓・舞妓の、ある歌会への詠進によって知った。

 ただし、「和歌が人生」と言っても、和歌が芸妓見習いや芸妓学校の必修項目であることは現在はなく、芸妓が自主的に一般の伝統和歌サイトを通じて学ぶしかない状況だとのことである。

 私は大阪には全く縁のない人間(むしろ、大阪の空気に似合わない性格!?)なのだが、もしかしたら飛田・今里・松島など大阪の花街にも何らかの伝統歌会文化が残っている可能性はある。ただし、これらの街に関しては、色々と複雑な歴史を考慮してみるに、簡単に伝統和歌などと結びつけて語るような場所ではないと感じている。

800px-Pontocho_by_Wolfiewolf_in_Nabeyacho,_Kyoto.jpg ただし、少なくとも私の知る東京・京都の花街の芸妓は、あくまで芸妓であって、娼妓ではなく、旅館や料亭の女将さん・工芸品売り・書家・伝統楽器奏者などとして花街に残っている方々である。

 巫女(神社)と芸妓(花街)と娼妓(遊廓)とが同じ土地に共栄した傾向が他地域よりも大きい大坂においては、「和歌・生け花・書・裁縫などの教養」と「体を売る覚悟」とに区別があまりなかったことは十分に考えられ、その意味では、(どちらが良いか悪いかの問題ではないが、)私個人の探し求めている歌道は、江戸・京都・金沢のものであるのかもしれない。

 聞きづらいことに、「いわゆる赤線・青線地域と伝統和歌の関係とは、どういうものですか」と伺ってみたところ、「それらはそもそも別物で、最初から伝統和歌会の伝承と結び付いていたのは芸妓の方だと思う」との答えだった。

 それはともかく、私が詠進したことのある歌会において、東京・京都・金沢の芸妓・舞妓の詠んだ和歌に用いられた歌語・雅語は実に優美で、私は個人的にこういうことに日本らしい懐かしさを覚える。

 その懐かしさとは、「日本人が和歌の知識を持たなくなったことへの不満から来るもの」ではなく(知識がないのは、単なる環境によるのであって、和歌の精神を知る日本人は残っている)、むしろ、「神宮・大社・官社級の神社の巫女の心と、俗世間の花街の芸妓・舞妓の心との両方に、全く同じように守っていきたいと思わせる和歌とは何なのか、という面白さ」から来るものだと言える。

 例えば、リンク先の歌会では、職業巫女と花街の芸妓が同時に参加するなどしているが、(一見すると聖俗分離という常識に反していそうな)この優雅な度胸のようなもの自体が「和歌の精神である」ということを、私は思うわけである。「聖俗の別を人の一生に設けない境地」が「和歌の精神」であると、私はそう思っている。

 それで、旧宮家の方々に和歌観をうかがったのと同じように、旧花街である向島の隅っこの方の、「本当の向島」を伝承している芸妓・舞妓の方々に、どうして歌語・雅語というものをそんなにご存じなのかを尋ねたところ、これがまさに私のような(和歌だけ詠んで花街は歩かない)無知な男の盲点で、いわゆる「源氏名」というものを考える時に、ひそかに源氏物語や和歌集から言葉を引っぱって来るのだ、だから勝手に頭に残るのだ、とおっしゃったのを聞いて、なるほどと感じた。

 私が何を言いたいかというと、「和歌の精神」は「和歌の技術・歌語の知識」をいつでも醸成するということである。つまり、和歌を詠んだことがないが和歌の精神を持つ日本人は残っているのだし、一方で、上級公家や神宮の巫女や花街の芸妓の世界でさえ和歌を詠む人が極めて少数になっている時代だからこそ、それらの身分の区別なく、むしろネット事情に長けた一般の伝統和歌愛好家のサイトに集まるしかすべがない、ということにすぎない。

 その芸妓さんが教えて下さったことで、興味深かったのが、それなりに上級の出自である今の若い見習い舞妓に古語で日本語を書かせたところ、「携帯にてカレシにメールしたれども、返信来ざりければ、超悲しかりけり」といった文章になったそうである。しかし、これを頭ごなしに笑ったり怒ったりすることも、また良くないことである、和歌・芸道の精神ではない、とおっしゃっていた。

 私も同じ意見で、「古語の優美さへの欲求」がかえって如実に現れている日本語であると感じた。今の我々日本人の皆が、このような文章を書いてしまう可能性を持っていると言える。

 しかし、ここから先、「現在の流行語や若者言葉、ハイテクIT用語に千年前の助動詞をくっつけることへの違和感」がそのまま「日本人としての恥じらい・たたずまい」であるのだ、ということに、自分で身をもって気づくかどうかが大切なのではないか、という会話になり、私も大いに共感できた。


■平成時代において和歌・短歌をライフワークとする日本人およそ300万人の分布
(自分で詠んでいない限り、和歌研究者等は除く。)

 さて、まとめると以下のようになる。これは、実際に旧宮家(旧皇族)及び花街の芸妓から聞かれた「和歌」・「短歌」の語の定義・使い方に基づいている。

 今は、かつての天皇・公家・貴族・武家などが詠んでいた伝統和歌の流れは、先述の(A)(B)に継承され、さらには(C)〜(F)に継承されているということだと思う。そして、最終的には、天皇陛下・皇族の方々がお詠みになる短歌は1億人の一般国民の詠む短歌と同じものになり、かつての伝統和歌はかろうじて(C)〜(F)においてのみ詠まれるような、そんな時代が来るのかもしれない。


★「短歌」の詠み手の分布(「短歌」とだけ言うと、普通は「近現代短歌」を指す。)

 天皇・皇族・いわゆる「歌人」と呼ばれる職業歌人・一般国民およそ300万人(系譜としては、ほぼ全てが根岸短歌会・アララギ派・アララギ系で、「写生・実景描写」と「題詠・空想」とを厳然と区別した上で前者を優越させる短歌観・文学観を有する。さらに最近では、サラリーマン川柳など娯楽性を追求する人口が増加していると考えられる。)

★「和歌」の詠み手の分布(「和歌」とだけ言うと、普通は「伝統短歌」を指す。)

 旧宮家・旧公家のうち主に女性の方々のごく一部、神宮・大社・旧社格のある程度高い神社の巫女の一部、花街の芸妓・舞妓の一部、旧遊廓の娼妓・遊女の一部、演歌歌手・詩人などの一部、ごく少数の一般国民の和歌愛好家有志(私はここ)

★「和歌」から「短歌」への過渡期にある「短歌」の詠み手の分布

 冷泉家、多くの旧宮家、多くの旧公家など、かつて天皇の直属・直下・家臣の地位にあった家柄の人々

(その二)へ続く。


■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%BE%A9%E5%9C%92
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A8%88%E7%94%BA_(%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%B8%82)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%AE%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E3%81%AE%E8%8A%B1%E8%A1%97
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2011年11月01日

なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応(その三)

(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49231797.html

(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49405339.html

承前。

 今回の(その三)は、以下の模式図と照らし合わせながら読んでいただけると分かりやすいと思います。

http://iwasakijunichi.net/ronbun_ippan/utsu_to_shokugyo.htm

 さて、ここまで、「今の一部の日本人独特の鬱・社会不適応性・不登校などは、“職業としての労働(学業)とは目的合理性を持った宗教儀式に端を発する”という(社会科学的・宗教学的な知識を必要とするはずの高度な)知見を、すでに敏感に分かっているのではないか」という主旨のことを書いてきた。

 もう一度書いておくと、ここ二回の記事で話題にしている鬱病者・社会不適応者・不登校児などは、いじめ・パワハラなどの心的外傷体験を持たずとも、現代の日本に生まれたその自己の身体だけをもって社会不適応性を自発的に生じるタイプの日本人のことを指している。

 つまり、職業としての労働をする中で誰にでも生じうる「人間関係の悩み」や「仕事の忙しさ」などによって生じた「気分の暗さ」は除くのであり、現在の日本の「職業」概念そのもの、「就業」そのものへの違和感や批判としての「鬱」を指す。

 そのような鬱・社会不適応性は、現在の日本の場合、ほぼ必ず「経済的自立」の問題と関わっているのが興味深い。つまり、鬱病者側は「経済的に自立していない自分」に誰から言われるともなく自省的に思いを巡らせることが「鬱」そのものの原因である傾向があり、社会側はそのような鬱病者を「社会に出す」ことを職業にしている(自治体やNPOなどによる鬱病者の社会復帰の支援など)場合さえある始末である。

 ところが、今「誰から言われるともなく」と書いたが、実際には「社会から無言で言われている」と言えなくもないと感じる。

 もし経済的に自立していなかったり学校に行けなかったりしても、そのことを自分で気にせず、平然と過ごしていたり、他人や他国のせいにして暴動やテロリズムに走れば、「鬱」にはならない。この状態が、まさに前回までに書いたイスラム教圏(ないしアフリカや南米、東南アジア)の若者たちであると言える。

 その意味で、今の日本人の鬱・社会不適応は、むしろ、あまりに人への配慮・責任感・社会性・協調性を持った一部の日本人において発生していると言えそうである。すなわち、鬱・社会不適応であることによって、戦後日本・今の日本の社会構造に対して、何らかの正当な批判を全く非暴力的に表出していると考えられる。

 そのことを示すため、我々人類の脳神経機構に「職業」や「資本主義」、「精神疾患」という概念がどのようにして発生・認識されるに至ったかを図示及び箇条書きして、この話題を締めくくりたいと思う。このブログを読んで下さっている鬱病の方々などにも見ていただけるとありがたいし、束の間の知的な安息にでもなればと嬉しく思う。

 今の日本においては、厳密に「職業」と言えば正規雇用のことを言い、パート・アルバイト・契約職員などの非正規雇用は「職業」とは見なされないケースがある。

 このことからして私はおかしいと思うが、ここで図示した「職業」の概念とは、少なくとも正規・非正規問わず、今の我々日本人がごく普通に「就職活動」や「労働者」や「仕事に行ってくる」などと言う時の「職」・「職業」・「労働」・「仕事」(英語で言うところのwork、job、labor、occupationなどの訳語に当たる日本語全て)を指している。

 このような近現代的「職業」概念が我々人類の脳神経機構に発生・認識されるために歴史的に必要であった条件を、以下に挙げておきたい。逆に言えば、これらの条件がなかった社会・文明圏には「職業」概念が生じなかった。

 こうしてみると、「職業」という概念は、西洋キリスト教社会の大衆が既存の堕落勢力(教会・聖職者)に抵抗する中で、順を追って醸成された概念であることが分かる。

 日本の場合、一般大衆が前近代的労働観で動いていた明治初期には、その分、新政府を形成した旧下級武士や知識人たちが、きちんと「意識の上で」西洋一神教圏の労働観の宗教儀式性を慎重に吟味してから取り入れた。また、その労働観の輸入は、日本の植民地化を防ぐために、仕方なく実行せねばならないものだった。

 しかし、戦後には、(国・官僚・会社・国民を問わず)日本人全体がこの「一神教的労働観」をほとんど無思考・無意識のうちにアメリカから輸入し、常識化させてきたように思う。

 心的外傷体験の有無に関係しない一部の今の日本人の鬱・社会不適応は、このような「無意識的一神教的労働観」への論理的反駁であろうと、私には思われる。


■まず、「職業」・「資本主義」概念の発生条件を示す。これらは、マックス・ヴェーバーらの社会学分野やマルクスらの経済学分野だけでなく、宗教学分野からも興味深いものだと思われる。我々が平気で使っている「職業」という概念は、千数百年の時を経てやっと生じているのである。

●ユダヤ教が発祥すること

●堕落したユダヤ教に対して新約聖書が提示され、キリスト教が発祥すること

●キリスト教信仰が自己目的化すること

●唯一神と人との新契約(religion)をもって「宗教(religion)」概念とすること

●パウロやアウグスティヌスの(あるいは、本来のキリスト教の根幹思想である)予定説の変容を誘発するようなローマ・カトリック教会の腐敗が横行すること

●教会の腐敗を批判するロジックとして、予定説の解釈が「人が救われるのは、人の能力ではなく、神の意志による」から「自分が神に救われるか滅びに至るかは、神によってあらかじめ決められている」に変容し、従来の農作業・商業などの労働の苦悩とその経済的成功とが「自分が救われる者であるかどうかの確証・証拠」であると考えられるようになり、「宗教儀式としての労働精神」と「神に向かって前進する目的合理的精神」とが自己に宿ってプロテスタンティズムが確立すること

●プロテスタンティズムの労働精神と利潤追求精神が自己目的化し、宗教的動機によらずとも利潤増大のための労働を自己が欲するようになること

●「神に救われない者に対する、神に救われる自分自身の利潤追求は、天命としての職業(Beruf)であり、神の望む善行である」との意識が芽生え、ここに「労働」と「報酬追求(生活費獲得)」の一致としての近代的「職業」概念が発生して、資本を元に自由競争による利潤追求をおこなう資本主義のイデオロギーが確立されること


■以上、ここまで、近代的「職業」概念の発生経緯である。
 ここから先は、日本の明治期の頃に世界で見られた動きであり、明治期の役人や知識人ならば把握していた動きである。もはや「真摯な宗教儀式性」が欠落した資本主義の発展となる。


●プロテスタンティズムを契機として生まれた資本主義が、経済体制としてのイデオロギーを有するに至って、「資本主義国」と呼べる主権国家が誕生し、国内の他宗教の大衆の労働を縛るようになる。

●「技術・商業の発達と資本の蓄積が過剰になると、社会主義革命が誘発されて資本主義は倒壊する。これら経済の動きが下部構造となって、上部構造(芸術・文化・宗教など)を規定する」というマルクス・エンゲルスの唯物史観に基づき、欧米の過剰な資本主義発展に対する社会主義思想・マルキシズムが登場する。

●無神論を内包する革命イデオロギーとしてのマルキシズムが自己目的化し、その実現の準備として、膨大な資本の蓄積、資本主義体制過多の実態を作り出すため、ソ連が五か年計画を実行に移し、一時的に大国化する。

●実際には、西側諸国の資本主義経済は「キリスト教・プロテスタンティズムに基づく(前期的資本ではない)近代的資本の倫理的運用」によって達成されていた(宗教は経済の下部構造である)にもかかわらず、経済の方を下部構造と考えたマルキシズム・社会主義体制を敷いたソ連が崩壊する。


■一方で、この間、明治期から戦後までの日本の動きは以下のようであった。

●武士・大名階級が廃止され、倒幕を成し遂げた旧下級武士が新政府に多く入ったため、近代的法治主義ではなく、前近代的な人間関係と武士道精神が日本独特の官僚組織を形成した。

●地主階級はそのまま残されたため、地代などを現物(米)で納入する独特の封建的資本主義が形成された。

●ここに欧米の近代法体系・実力試験制度(科挙の体制、一高・東京帝大を頂点とする官僚養成体制)・資本主義経済を見かけ上輸入・適用したため、「官僚・公務員は国家の公僕である」という欧米資本主義の倫理意識が徹底されないまま、前近代的な人間関係と武士道精神・地主精神で国家そのものが私的財産のように運用・運営される。

●日本の資本主義における資本は前期的資本であるために、国家の財産と官僚の正当な報酬とに区別のないまま資金を軍需産業に投入し、戦争を遂行。

●戦後、アメリカによる日本の対共産主義・対社会主義陣営防波堤化や朝鮮特需によって、急速に経済が発展する。軍事力・国土防衛をアメリカに委ねる代わりに、日本の官僚は経済成長に有利な産業に資金を投入し、高度経済成長を達成。官僚が見かけ上の依法官僚制によって企業に命令を下す、事実上の家産官僚制の社会主義体制である。


■ここから先、社会主義陣営崩壊後の動向である。

●一極勝利したアメリカの新自由主義型資本主義に、日本政府が追随。

●見かけ上の依法官僚制によって家産官僚制的命令を受けていた企業(会社)が、社会主義陣営崩壊(1991年)から同時多発テロ・世界金融危機にかけて、それぞれ見かけ上の依法的経営に基づく事実上の家産的経営によって防御を図るようになる。

●欧米型資本主義のように宗教的必然性を通過していない日本の企業の経営者は、経営維持・不況打開の足かせが、法律上の非社員(会社員・従業員)であると考えるようになる。

●「明治期に倒幕を担った下級武士階級の武士道精神」や「地主階級の小作人との信頼関係」がそのまま明治新政府の官僚組織や財閥に入り込んだことが多少は功を奏したように、伝統的な「家」制度に基づく人間関係の効果を頼みとする意識は現代まで残されていたため、世界金融危機以降、日本の企業は、長期的忠誠心を担保・確認できる者(正社員・正職員)に私的信頼としての報酬や給与を優先的に回すようになる。

●企業が「雇用形態は、そのまま企業と従業員との人間関係や従業員の人間性を表現している」と考えるようになる。また、社会が「各人の雇用形態は、そのまま個人の人間性・信用可能性を表現している」と考えるようになる。すなわち、「雇用形態」が「人間評価」に直結する日本独特の人間観・労働者観が形成される。

●「倫理性・忠誠心の低い者から順に非正規雇用に回す」という欧米資本主義に見られる能率的・合理的雇用対策ではなく、日本においては「非正規雇用者は倫理性・忠誠心が低い。ゆえに非正規雇用とする」という無限ループが生じる。

 さて、ここまで、長々としたタイトルへの回答に達するべく長々と書いてきたが、おおよその回答は示せたのではないかと思う。

 ちなみに、カナダやフランスなどでは、非正規雇用者や精神疾患の無職者などは、不安定であるがゆえに手厚く保護されており、実はここにも、近代の「職業」概念・「資本主義」概念が生じたときと全く同じく、キリスト教的博愛精神がはたらいていると考えられる。

 逆に言えば、そのような手厚い社会保障体制は、完全に近代的社会契約論の延長でおこなわれるもので、日本的な「主君との武士道精神的連帯」や「地主と小作人の信頼関係」や「ムラ社会的なご近所関係」が崩壊した後に生じたものであると考えられる。

 日本においては、これらの前近代的ないし戦前的人間関係がそのまま「雇用者と被雇用者(正社員・正職員)との信頼関係」に不当に滑り込んだのだから、間違いなく、これからも「しばらくは崩れない」ものであると思う。

 鬱病などに陥って社会不適応とされた一部の日本人(非正規雇用者・無職者など)がそのような関係の内部に再び割って入る余地や機会は、なかなかないと思われる。本当は、そのような一部の日本人の中には、ひとたび職の機会を得たなら、人並み以上の和魂洋才(前近代的武士道精神と近代的公僕精神)を持って良い働きをする人が多くいるに違いない。

 しかし、実際には企業側は、前期的資本を(法律に基づきながらも)私的・家産的に運用するという、事実上の社会主義国家(ソ連)企業に似た経営体制をとっているのだから、正規雇用は死ぬまで正規雇用、非正規雇用は死ぬまで非正規雇用、という見事に綺麗な構図が完成されつつある。

 しばしば、テレビで、企業側が「正社員になりたかったら、まずは人としての信頼を勝ち取れ」と主張しているのを目にする。つい最近も、日本の財界のトップの一人が、「非正規雇用であろうとも、雇ってやっていること自体を恩恵と思え」と発言していた。

 これこそ、まさに「近代欧米型資本主義を前近代的日本精神によって運営するという、戦後日本人らしい過ちの果て」に出た不当な発言だと、私には思えた。これらは、主君を不当に裏切った江戸時代の武士に向かって言うべき言葉であって、食べるため・生きるためにもがいている非正規雇用者・社会不適応者に対して言うべき言葉ではないと思えた。

「恩恵」と言っても、日本には「恩恵」を与える主体が伝統的に不在だったわけである。西洋には、キリスト教の唯一神という圧倒的な超越存在が「職業」という概念を保証したからこそ、キリスト教自身の横暴によって引き起こされた弊害は、キリスト教自身の博愛精神によってカバーされた。

「国家」と「国民」、「雇用者」と「被雇用者」の関係というのは、西洋社会においては、延々とキリスト教精神の反復なのである。そのような経緯を、日本の政治家・官僚・企業人・経営者たち、そして社会を構成する我々日本人皆が、ほとんど勉強してこなかったのではないかと思える。

 ここまで見てくると、私がその二で次のように書いた理由も、八割方は説明できたのではないかと思う。

「登校を拒否している子どもが再び登校し、社会不適応者が社会復帰・社会適応するためには、何らかの絶対的・超越的理念との再契約という“宗教(religion)精神”が必要なのである」

「現在の一部の日本人の鬱病や社会不適応は、“神に対してでなく雇用主・会社に対して無意識下に成される、一神教的な禁欲と忠誠”という“極めて摩訶不思議な宗教儀式としての現在の日本の労働形態”への、“正当な批判”として生じた」

 そしてまた、そのような「宗教精神」を持つことに本能的に苦痛を感じる一部の日本人の心とは、本来は全うな伝統的日本精神なのであって、これを今の我々日本人がいかにも異端らしく「鬱病」などと呼称しているにすぎないというのが、私の意見である。
posted by 岩崎純一 at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論

2011年10月27日

なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応(その二)

401px-Die_protestantische_Ethik_und_der_'Geist'_des_Kapitalismus_original_cover.jpg(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49231797.html

(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49662507.html

承前。

 さて、前回は、現代人の「宗教」観を大雑把に四つに分け、このうち多くの戦後日本人は「(3)宗教的であるが、宗教とは何かを脳が認識していない人間」に該当するだろうと書いてみた。

 縄文・弥生時代よりあった「日本的アニミズム・八百万の神々信仰」、その後に輸入された「仏教」、そして、「如来・菩薩・明王・天」などの仏教概念を借用する形で「八百万の神々」が「アマテラス」を中軸として再編成・体系化された「神道」及び「神仏習合」は、そもそも「宗教(religion)」に該当しないものだということが、明治期の知識人には正確に理解されていたと思う。

 現在、「宗教」の定義は星の数ほどあるにせよ、「宗教」の原義が「唯一神と人とが(re)再び新たに(ligion)契約すること」である以上、厳密に言えば、「神道」や「仏教」は「宗教」ではあり得ないことになる。

 一方で、「旧約聖書だけでは物足りず、同時に、後世のコーラン(クルアーン)は不必要であるとする世界観」、すなわち「神との新契約(religion)が描かれた聖書(新約聖書)を重点的に信奉する世界観」にこそ、まずは正当に「宗教(religion)」なる呼称が与えられることになる。

「宗教の中にキリスト教やイスラム教や仏教や神道がある」のではなく、「宗教とは第一に、西洋のキリスト教によってキリスト教自身に与えられた正当性・優越性のことである」という歴史的経緯を意識しておくことは、非常に重要なことである。

 逆に言えば、本来、西洋にとっては、「新契約(religion)」に拠らない世界解釈は「宗教」ではないのだから、軍事行動によって他文明に「宗教」を啓蒙しなければならないという発想が生まれることになった。これが、十字軍や西洋列強の帝国植民地主義が「キリスト教布教」と一体化していた仕組みそのものであることを理解する必要があるだろう。

 そして、私は前回、戦後日本人は、そのような歴史的経緯と「宗教」観を(義務教育の段階から)知識として持ち得ていないにもかかわらず、結局はそれらを無自覚のうちに都合よく利用してきた可能性がある、という主旨を書いてみたわけである。

 先に書いたような積極的な「religion」への顕在意識が国民レベルで存在しない先進国は、ほとんど日本だけであると思う。そのことがなぜ今の一部の日本人の鬱病や対人恐怖症、社会不適応者の持つ疎外感につながっていると考えられるのか、これを今から説明してみたい。

 そもそも、「鬱病」や「社会不適応」といった精神疾患概念は、もっぱら近代西洋のキリスト教世界と戦後日本にしかないものである、ということを知る必要がある。

 私の周りにも、稀に、学校や職場で明らかないじめ・パワハラ・セクハラなどを受けたわけでもなく、日常生活で家族や知人の死や離別の悲しみを体験したわけでもないのに、ほとんど先験的・自発的に、自らの心身の何らかの機構のみによって鬱病や対人恐怖症、社交不安障害を発症する日本人が存在する。

 あるいは、就学前・就業前からそのような心境となり、登校拒否・就職拒否に陥り、現代日本社会において「生きる」こと自体に非常に苦労していると訴える一定数の日本人が存在している。

 いわゆるアスペルガー症候群者には、そのような感性的過敏者や社会不適応者が多いと言われるが、私もその説を大いに認める一人であるにしても、ここではともかく、「特定の他者からピンポイントでいじめ・批判・攻撃を受けた心的外傷体験の有無にかかわらず、自発的に精神疾患(いわば「心的内傷」)を呈してしまい、だからと言って、先述のような定義としての宗教(religion)や新宗教にも全く頼らない日本人」に見られる「鬱」や「社会不適応」を中心に扱う。

 このような場合、発症原因としての具体的事件(いじめ・被暴力体験・戦争被害など)が、過去の人生のどこを探しても全く(あるいは、少ししか)存在せず、茫漠とした「生きる営み」自体についての苦脳だけが鬱々と自覚されるのであるから、西洋医学としての精神科・心療内科による診断能力の蚊帳の外にあり、むしろ哲学書や芸術に拠り所を求めたり家に閉じこもったりして心的防衛体勢をとることになる。

 このような日本人が一定数いるということについて、私は非常に好意的な感情を持って観察している。なぜならば、本来ならば、あらゆる戦後日本人の心身に、元より出生時からそのような心的内傷性・メランコリ気質・感覚過敏性が普遍的に備わっている可能性が、浮かび上がってくるからである。

 特に対人恐怖症(TKS)が日本人の脳神経系に固有の「文化依存症候群」であるとされているように、日本人の鬱気質・敏感気質というものは、世界に類を見ない平和的特色を持っていると言ってよいはずである。

 ところが、実際にはこのような精神性は、「伝統的日本人の特色」であって、「戦後日本人(特に平成日本人)の特色」ではなく、「一部の日本人に残された日本人性」と述べるのが正しいようである。

 ある文化圏・民族圏・宗教圏にのみ極端に偏向して観察される心的様態・精神疾患というものは存在すると見るのが、真に客観的な姿勢だと私も思うけれども、しかし、現代の日本は、そのような心的内傷性を日常的に抑圧して意識の傍流に追いやり続けることが、「職業としての労働」において暗黙のうちに要求されている社会であると思うのである。

 ならば、このような心的様態が日本以外にあるのかと言うに、「アブラハムの三宗教」であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教を比較すると、非常に興味深いことが観察される。

◆ユダヤ教・イスラム教圏・・・アメリカ精神医学会の定義する鬱病や社交不安障害、社会不適応などの近代的精神疾患概念が存在しないか、定義から大幅に外れた症状(日常的苦脳)や行動(ジハードとしての聖戦など)が見られる。

◆キリスト教圏・・・宗教としてのキリスト教自体が、鬱病や社交不安障害、社会不適応などの近代的精神疾患概念創出の主体であって、アメリカ精神医学会の精神疾患分類の作成にカトリック教会、プロテスタント教会などが関係しており、その精神疾患分類のグローバル化とキリスト教の布教活動(特に近現代プロテスタンティズム)とが渾然一体化している。

 まず、資本主義・新自由主義大国であるアメリカで見られる精神疾患の傾向は、ほとんど戦後日本と同じである。むしろ、日本がアメリカの新自由主義的な社会・経済システムをそのまま自国に輸入・転用し、特に小泉政権以降に格差が極端に広がってきたのだから、そこから生じる精神的ひずみ、及び精神疾患分類がアメリカ的であるのは当たり前だと言える。

 例えば、日本と欧米における鬱病者や社会不適応者に見られる感性過敏者は、アメリカの心理学用語において、「HSP(Highly Sensitive Person)」と呼ばれる。アメリカの心理学者エレイン・N.アーロン氏らによって提唱された、「心が敏感すぎる人」とでも訳される概念で、アメリカにおいても、鬱気質・敏感気質の人ほど現代特有の資本主義・新自由主義経済体制から取り残されていく可能性が、心理学レベルで緻密に分析・言及されている。

 ところが、まさにムバラク政権やカダフィ政権が打倒されるなど、緊迫した情勢が続くイスラム教圏において、日本の「鬱病」や「対人恐怖症」や「敏感気質」、アメリカの「HSP」や「社交不安障害」に当たる心理学・精神医学用語と概念とが存在するかと言うに、ほとんど存在しないのである。

 コーランは、そもそも神がムハンマドを通じてアラビア語でアラブ人に与えたとされるが、中東全域に渡るアラビア語のみならず、シーア派圏・イランのペルシャ語においても、心理表現用語(「苦しい」・「悲しい」・「悩む」など)は存在するにせよ、精神疾患としての「鬱病」や「社会不適応」という概念自体が存在しない。

 ユダヤ教圏・イスラエルのヘブライ語も、(イスラム教圏・アラビア語よりも圧倒的にアメリカ式精神医学の息がかかっているとは言っても、)ほぼ同様の様子を呈している。

 ここで言う「疾患として存在しない」というのは、「疾患が定義する症状」については彼らの脳神経機構において知覚・認識されていないという意味である。あくまでも「鬱病」が存在しないということであって、「鬱」が存在しないというわけではない。だから、「非先進国の多いイスラム教圏では、まだ欧米の先進的な心理学・精神医学・宗教学などの発展がないから、鬱病などの概念が生じていないだけだ」という分析も、誤っている。

 さらに言えば、彼らにとっては、イスラム教という考え方そのものが、「鬱の解消法」及び「社会適応」なのであって、それがアメリカや戦後日本人にしてみれば「国際常識不適応」であるというだけにすぎない。いわば、イスラム教の中に過激な原理主義があるというよりは、イスラム教はそもそも正当な原理主義なのだ、そして、過激なテロリズムはイスラム教一派の特殊な思想なのだということを、私は感じるのである。

 その原理主義の実践こそが、「ジハード(本当の神の道に従うための人生における努力)」なのだろうと思う。「ジハード」は本来、テロ行為などではない。いずれにせよ彼らには、アメリカ的価値観の圧迫によって「鬱」や「社会不適応」(というよりは、「対世界鬱」や「世界不適応」と言うべきものだろう)に陥ったときには、その「前宗教的な唯一神アッラーフ」に頼るという道が担保されているわけである。

 これがおそらく、イラク戦争が全くうまくいかなかった原因そのものだと思われる。アメリカがイラク戦争を起こした背景には、戦後日本の占領統治の成功があるに違いないと思う。イラク戦争を失敗させたのは、巡り巡って、マッカーサーの姿を前に感動のあまり大泣きした戦後の多くの日本国民の付和雷同性格にあると思う。

 戦後日本の占領統治は、その一でも少し書いたが、日本人男性の崇敬対象たるアラヒトガミ(現人神)が天皇からマッカーサーにすり替わること、日本人女性の性的陶酔対象が夫からマッカーサーに移行すること、家族内での夫の妻に対する性的地位と子どもに対する父権的地位が崩落し、代わりに「会社に心と体どころか一生を捧げる」という「性的実践的宗教心」、「会社との契約」という「顕在意識化しない新約聖書性・一神教性」が常識化することで、簡単に遂行できたのだと思う。

 すなわち、戦後日本人はアメリカの占領統治を、「新約(religion)」という「宗教性」を「実生活の無意識下」において獲得することで、乗り切ることができた。それが「意識上」ではなく「無意識下」に起こったのは、その一の「宗教」に対する態度の四分類における(1)と(3)に共通する「無意識性」という良さだけは、日本人全般に残されていたためだと思う。(1)から(3)に突然飛び乗ったというわけである。

 アメリカはおそらく、イスラム教圏においても、このような占領統治と民主化が可能であると甘く考えたと思う。ところが、アメリカから見た「イスラム教圏の後進性」を克服させる「民主化」・「近代化」という概念を絶対神との「新約(religion)」に結び付けることがアメリカの狙いである以上、また、それが(その一)で述べたように半ば(4)の顕在意識による目論見である以上、イスラム教は「(2)前宗教的な宗教」の立場として、強大なアメリカ市民型キリスト教(資本主義的・新自由主義的プロテスタンティズム)に対抗しようとする。

 結果として、(2)は(4)を翻弄できることが分かったわけである。ところが、(3)である戦後日本には、簡単に(4)側の社会・経済システムが侵入できたわけである。

 さて、「キリスト教」とひとくくりにしていた「新約(religion)としての宗教」について、もう少し丁寧に考える必要があると思う。

 そもそも、ソ連崩壊以降、レーガン政権やサッチャー政権にその萌芽を見ることができ、資本主義が行き着いた果てである「新自由主義」は、結局のところ「キリスト教」全般と言うよりは、「アングロ=サクソン型の現代版プロテスタンティズム」と言った方が、より正確に違いないからである。

 何よりも、アメリカの社会・経済を象徴する資本主義というものが、紛れもなく「ローマ・カトリック圏からは出ず、プロテスタント圏から出たイデオロギーである」ことを見る必要がある。すなわち、アメリカがイスラム教に対置して正当化しようとしている「キリスト教」とは、多分に「現代版プロテスタンティズム」の響きを持っている可能性について、見る必要がある。

 もし、テロリストに限らず、イスラム教全般の「前宗教的性質」の立場から違和感を覚える相手が、本当は神を同じくする「キリスト教」自体ではなく、「現代アメリカ的プロテスタンティズム」であるということが言えるならば、そのアメリカ型の社会・経済システムを輸入・転用してきた戦後日本において初めて生じた今の鬱病者や社会不適応者の心境とは、「現代アメリカ的プロテスタンティズム」なるものに対する違和感であり得る。

 先にも書いたように、日本人の脳神経機構においては、ちょうど「日本的アニミズム」が具体的な「仏教用語」を用いて初めて「神道」として体系化されたのと同じく、「神との新契約(religion)」としての「一神教」・「宗教」という概念は、「GHQへの追従」や「会社への忠誠」や「マッカーサーへの性的恋慕」といった極めて具体化された心境として理解された。

 ゆえに、その中身に大きな誤りがあったとしても、逆に気づかなくなるように思う。これがまさに、我々ほとんどの戦後日本人の陥った(3)の宗教観であるのかもしれない。

 しかし、戦後日本人の中に一部、(1)または(2)のような宗教観を「平和的に」持つ人間がいるのであり、それを「鬱」や「社会不適応」と呼ぶのであるというのが、私の考えである。

 それら「鬱」や「社会不適応」は、「平和的(非暴力的・非テロ的)」である点でイスラム原理主義の一派とは異なるが、「一神教的な神との新契約(religion)自体の現代アメリカ型宗教化への拒否反応」である点でそれと似ている、というのが私見である。

 そして、その一でも書いたように、そのことが日本においては、「国家理念」など国民全体の宿命を背負う抽象概念よりも、「学校」・「労働」・「職業」・「世間体」・「ご近所関係」といった個々人の実人生を担う具体概念に現れる。だから、「ジハード」性は、「テロ」や「クーデター」ではなく、子どもの「登校拒否」、学生や社会人の「鬱病」などの形で現れるのだと考える。

 これらは、「一神教的な神との新契約(religion)自体の現代宗教化への、無意識的・非暴力的だが実践的な拒否反応」であると定義付けることができると思う。

 では、今のアメリカや日本の新自由主義型の資本主義を担保する「現代アメリカ的プロテスタンティズム」とはどういうものだろうか。日本においては、その「プロテスタンティズムへの拒否反応」が一部の人のみの「就学・就労の苦痛感」として顕在化するのは、どうしてだろうか。

 もしかすると、イスラム原理主義者にとっては自らの宗教が近代西洋・アメリカの言う「宗教(religion)」ではないのと同様に、戦後日本の鬱病者や社会不適応者にとっては、「自らの持つ労働・就業精神が、アメリカ及び現在の日本の新自由主義型の労働・就業精神ではない」と自覚されている可能性があるのではないか。

 なぜならば、今の日本において「就労」・「就業」と言われる時、それはすでに「戦後日本独特の官僚社会主義的資本主義」と「プロテスタンティズム(ないしカルヴィニズム)」とが歪んだ形で融合した「宗教儀式としての労働への参画」の響きを持っているように思われるからである。

 過去には、技術と商業の発達及び資本の蓄積が充分であるにもかかわらず、「労働」があって「職業」が存在しなかった社会、「資本」があって「資本主義」が存在しなかった社会がたくさんある。中国の春秋時代、ヘレニズム時代、産業革命前までの西洋社会、そして中世・近代のイスラム全域などがその典型だが、ともかく以下の時代と地域において数多く見られる。

◆古代のエジプト・メソポタミア
◆古代のギリシャ・ローマ・ヘレニズム
◆古代・中世のインド・中国
◆古代・中世のヨーロッパ
◆中世・近代のイスラム教圏
◆古代・中世・近世の日本

 ここから分かることは、「資本の蓄積があること」と「資本主義が芽生えること」とは全く異なっているということである。このことは、「労働している自己」と「職業としての労働をしている自己」とはそれらの脳神経系における発生機序として全く異なる、という命題にそのまま対応しているように思われる。

 技術と商業の発達及び資本の蓄積がありながら「職業」・「就職」といった概念が存在しなかった過去の社会に共通して見られることは、次の二つである。

 一つは、「労働とは宗教儀式である、という考え方が存在しない」ことである。むろん、ここで言う「宗教」とは、これまでに述べてきた「キリスト教」のことである。二つには、「目的合理的な生き方が存在しない」ことである。

 つまり、「資本主義」そのもの、あるいは、その資本主義における「職業(Beruf=天命)」・「就学」・「就業」という概念は、「労働(学業)とは目的合理性を持った宗教儀式である」という精神が共有されている社会でなければ、絶対に出てこないのである。

 むろん、このような考え方をなぜ当時の西洋の大衆が持ったかと言えば、カトリックに対する自分たちの正当な「キリスト教」を新設しようとしたためであった。それが「プロテスタント」である。

 非常に身近な話をすれば、私の周りにも、登校拒否の我が子を学校に行かせよう、鬱病の人間を社会復帰させようと尽力している人がいる。そもそも、現在の日本で見られるそのような社会復帰支援活動のほとんど全てが、文字通り「支援」という「他者に手を差し伸べる博愛精神」を顕在的または潜在的に行使している。

 ところが、そのような他者への「はたらきかけ」自体が一つの「宗教(religion)的行為」であることに気づかないのが、戦後日本人の非常に摩訶不思議な特徴である。これがすでにキリスト教的宗教儀式であるということを理解していないのは、ほとんど戦後日本人だけであると思う。

 逆に言えば、登校を拒否している子どもが再び登校し、社会不適応者が社会復帰・社会適応するためには、何らかの絶対的・超越的理念との再契約という「宗教(religion)精神」が必要なのである。

 この「絶対的・超越的理念」を、「一神教的な神」ではなく、「会社」・「年功序列・終身雇用」という理念にすり替えることができたのが、多くの戦後日本人であったのではないかと思う。

 先にも書いたように、現在のイスラム世界(特に原理主義・テロリズム)とアメリカの新自由主義型資本主義との戦いは、(2)と(4)の戦いだと言える。互いに自らの世界観を「アブラハムの宗教の正統」として争っているが、それは実態としては「前宗教的アブラハム性」と「宗教的アブラハム性」の戦いであると言える。

 前者イスラム世界の人々(特にテロリスト)の実人生においては、「いざとなれば戦闘行為に身を投じる覚悟」が、「義務教育」・「就学」・「就業」といった欧米的輸入概念と全く対等に意識されている。「対欧米・対キリスト教・対アメリカ型プロテスタント」の意識それ自体が、幼少期から人生の一部なのである。

 ところが、多くの戦後日本人は常に(3)のような世界認識であるために、「義務教育」・「就学」・「就業」それら自体が「キリスト教的・プロテスタント的宗教儀式」であることに気づいていないように思う。それらを「無意識下の脳神経系のはたらき」のまま成し遂げて、いつのまにか(1)から(3)になったというところに、一種の恐ろしさを感じるわけである。

 もっとも、このような資本主義的職業社会の人間の持つ特質に、最も天才的なひらめきによって言及したのは、マックス・ヴェーバーにほかならない。

 むろん、ヴェーバーは戦後日本の姿を見ることはなかったが、今私が書いてみた「戦後日本人に見られる一定の特色」と同じものを、ずっと早くから近代資本主義社会の西洋人のうちに見て、正確に指摘していた。(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』など)

 ヴェーバーは、近代資本主義がプロテスタンティズム(特にカルヴァンの予定説に代表されるカルヴィニズム)的な「世俗内禁欲性」と「目的合理的生活」とによって担保される、ということを見い出した。極めて具体的な例で言えば、今の資本主義経済体制における「会社の利益追求」という欲求は、我々人間の「近代的な禁欲性」という倫理によってしか担保され得ないと考えるのである。

 私も、「会社の利益を禁欲的に追求することを倫理とする人間になどなれない」という「非宗教(religion)的・非カルヴィニズム的な精神性」は、今の日本においては、そのまま精神疾患としての「鬱病」や「社会不適応」として現出されていると考える。

 ヴェーバーが不安と不満を覚えた近代西洋の姿と同程度に歪んだ姿を、アジア極東において体現しているのが、まさに今の日本であると私は思う。

 現在の一部の日本人の鬱病や社会不適応は、「神に対してでなく雇用主・会社に対して要求される、無意識下における一神教的な禁欲と忠誠」という「極めて摩訶不思議な宗教儀式としての現在の日本の労働形態」への、「正当な批判」として生じたと、私は見ているわけである。

続く。

■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Die_protestantische_Ethik_und_der_%27Geist%27_des_Kapitalismus_original_cover.jpg
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2011年10月24日

なぜ戦後日本人のうち「一部のみ」が「確実に」鬱や社会不適応になるのか -「宗教儀式」としての戦後日本社会、「宗教儀式批判」としての鬱と社会不適応(その一)

549px-Info_box_collage_for_mena_Arabic_protests.jpg(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49405339.html

(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/49662507.html

 先日のカダフィ大佐の死についてもそうだったが、中東情勢全般について、日本のメディアや専門家たちが「日本は無宗教社会であるから、中東情勢は理解しにくい」と解説しているのをよく耳にする。

 確かに、欧米や中東のように明確な一神教を持たない日本社会であるから、それぞれの超越理念たる絶対唯一神を賭けた他宗教・他宗派・権力への敵対心、血を流し合うあのような動乱というのは、(石原都知事が述べるように)北朝鮮から東京にミサイルでも撃ち込まれない限り、起こり得ないのかもしれない。

 しかし、この「日本人は無宗教」という響きは、厳密に言えば、単に「日本はアブラハムの三宗教に該当する一神教を意識的に持たない」という意味しか今後も持ち得ないだろう、と私は考えている。

 メディアや専門家がそこまで考えて言ったか言わないかは分からないが、ともかく、少なくとも明治期においては、「religion」の訳語としての「宗教」という概念を自我意識がとらえていた可能性があるのは当時の知識人たちのみで、一般国民は理解していなかった点を見ても、半永久的に先の意味しか持ち得ないと私は思っている。

 むしろ、「日本人は、ほとんど戦前まで無宗教であったが、戦後に宗教的になった(無意識的一神教性を帯びるようになった)」という言い方が正しいのではないかと私は見ている。

 それはなぜかと言うに、例えば、明治期の日本の知識人、及び現在の仏教学・宗教学界においては、「宗教(religion)」が元来「唯一神と人とが(re)再び新たに(ligion)契約すること」である以上、「仏教を本当に宗教(religion)と呼んでよいか」という議論があった(ある)にもかかわらず、戦後の多くの日本国民はそれを議論せずに生活できたという気楽な現実を、いつも私は考えてしまうからである。

 すなわち、戦後日本人の自我意識・脳神経機構には、「仏教も宗教の一つである」とか「仏教とキリスト教とイスラム教の違いは、宗教の違いである」といった文脈で認識されているのではないかということを、如実に感じてしまっているからである。

 むろん、現代日本の(いわゆる「葬式仏教・戒名商売仏教」になってしまった)宗派仏教などは、「宗教」であると私も思う。私は心境的に、そのいずれもに対して、今のキリスト教やイスラム教に対する興味よりも小さな興味しか持ち得ていない。

 私の死生観・宗教観は、基本的に、かの白洲次郎と同じく「葬式無用、戒名不要」の一点に象徴されると自分で感じているし、いわば原始日本的な諦念そのものだと言えるけれども、ただし、仏教分析においては、10月3日〜12日の記事で紹介した原始大乗仏教としての禅・中観・唯識などは「religion」としての「宗教」には該当しない可能性が高いという見解をとっている。

 また、これは今のところ、我ながら極めて客観的で冷静な仏教分析ではなかろうかとも思っている。その意味では、私は「仏教徒」というよりは「仏徒」であるという見方もできなくはないと思う。

 しかも私は、江戸・明治期の日本の知識人は、今とは比較にならないほど賢明だったと感じるのであって、例えば彼らが、「カミ(神)」という語を従来の八百万の神々の呼称としてそのまま残し、キリスト教の絶対的超越理念に相当する主体のほうは「デウス」の音と結び付けて「天主(テンシュ)」「天帝(テンテイ)」と訳し、非常に正確に区別した点などは、実に賢明だったと思うのである。

 それがいつのまにか、西洋人自身が世界の宗教を「一神教」と「多神教」とに分け、横並びに優劣を比較して前者を「優れた文明的宗教」と規定したために、この考え方が日本にも伝わって、「神」の語はむしろ「天主」の響きとなり、「日本の自然信仰・神道や東洋の仏教と、西洋のアブラハムの宗教との違いは、神様・仏様の数の違いである」、そして、「神を一つに絞ることと近代化とは同義である」という、二重の勘違いが生じた。

 さて、ここまで説明したところで、私は、戦後の日本人ほど「宗教的でありながら、宗教的であることを自覚していない」民族は、世界のどこを探してもいないのではないかと思うわけである。ここで言う「宗教的」の意味は、ほとんどそのまま「近代西洋のアブラハムの三宗教的」という意味に等しく使っているつもりである。

(厳密には、ユダヤ教でもイスラム教でもカトリックでもない、「近代プロテスタンティズム」を指している、というのが正確なのだが、その説明は後にしたい。)

 ここで、「religion」としての「宗教」に対する態度は、四つあることになる。

(1)「宗教的でなく、宗教とは何かを脳が認識していない人間」
(2)「宗教的でないが、宗教とは何かを脳が認識している人間」
(3)「宗教的であるが、宗教とは何かを脳が認識していない人間」
(4)「宗教的であり、宗教とは何かを脳が認識している人間」

 (1)は、もちろん有史以前の人類が挙げられる。いわゆる自然信仰・アニミズムや世界各地の多神教信仰全般である。あるいは、前回三回分の記事に挙げた(キリスト教側からの侮蔑用語としての)ペイガニズム全般も挙げられる。これらは、「宗教」を標榜する十字軍や帝国植民地主義国などから攻撃を受ければ簡単に壊滅するものの、平時においては最も平和的な社会・信仰形態と言える。

 (2)は、インドやタイやブータンなどの禅修行者、アフリカの比較的都市化した地域の先住民族や、中国国内の異教先住民族などが挙げられる。

 彼らは、土着の自然・動植物信仰を今でも持っており、宗教学的体系としての「宗教」を持っているとは言えないにもかかわらず、しかし「宗教」としてのキリスト教・イスラム教の征服地域、あるいは中国共産党という事実上の独裁体制の地理的内部に居住しているため、「宗教」の威圧感、「宗教」に対する危機感というものを肌で理解していると思う。

 (4)の筆頭は、言うまでもなくアメリカであるだろう。湾岸戦争においても、イラク戦争においても、キリスト教を標榜することだけは忘れなかった。あるいは、ルネサンス・大航海時代から産業革命、帝国植民地主義に至るまでの西洋列強の姿も、まさに(4)であるし、その成功は「宗教」の意図的利用によるところが大きかったわけである。

 そして、(3)の筆頭こそ戦後日本人ではなかろうかというのが、私の考えだと言える。しかも、(3)というのは、どうやら四つのうち最も危険な宗教観に思えてならない。「危険」というのは、戦争を起こされやすいだけでなく、実は原理的に戦争を起こしやすい宗教観でもあるという意味で書いたつもりである。

 日本人は、つい1945年8月までは、異口同音に「鬼畜米英」と叫んでいた。ところが、その数か月後には、マッカーサーやGHQに宛てて「マッカーサー様、GHQ様、あなた方は私たちの希望の星です」などという数十万通の手紙を送り付けている。戦後日本はここから始まったのだ、これが近現代の日本人であるということを、我々は今一度、意識の上に引っ張り上げてみるべきだと思う。

 男性は、それまで天皇に対して注いでいた崇敬の念を、そっくりそのままマッカーサーに移した。当時の60代や70代の高齢男性らも、マッカーサーに骨董品を送り付けるなどしている。若い女性や主婦たちは、半ば性的欲求・性的陶酔に近い感情を吐露した手紙の数々をマッカーサーに送り付けた。

 こうしてマッカーサーは神格化された。見ていると、敗戦後の日本人女性たちのマッカーサーへの性的陶酔は、ドイツ人女性たちがヒトラーに対して引き起こした性的陶酔に似ていたことが観察される。

 性的陶酔への言及を控える代わりに、滑稽さを加味した一般向けの本には、例えば、袖井林二郎氏の『拝啓マッカーサー元帥様』がある。マッカーサーにハニワをプレゼントしたり、マッカーサーの肖像画を皆で刺繍したり、摩訶不思議で滑稽な日本人の行動が記録されている。

 マッカーサーらGHQ一同は、このような日本人の行動を観察した結果、これはふざけているわけではない、単に彼らは脳が十代の子どもかサルのそれであるからそういう行動をとるものと考えられる、と結論付け、大統領と連邦政府・議会に報告した。

 このような心境と行動に始まる戦後日本人の姿を一つの宗教体系と見て、「戦後日本教」と名付けてもよいようなものを、名付ける気がないのも、また戦後日本人であるからではないだろうか。だからこそ、表向きは「日本人は無宗教である」という言い方になる。

 そういう言い方のままで、我々は戦後を営んできた。これがいかに一つの「宗教的」行動であるか、しかも冷静で知的とは言えないそれであるかということを、どうしても私は個人的に感じるのである。

 私は、GHQに対してとられたこのような「無意識的宗教性」としての日本人の心境と行動とが、それ以前の明治期や江戸期、ましてや上古代の時期から日本列島民の固有の特質としてあったかと考えるに、無かったと考える。

 このような心境と行動とは、実は「日本人的ではなく、戦後日本人的であり、そのまま戦後日本人性の始まりである」、すなわち、先の「宗教」の定義に絡めた言い方で言えば、「日本人は、戦後に初めて宗教というものを脳に獲得した」と考えている。

 これは、憲法においても、同じことが言えると考えている。義務教育がそのようなシナリオになっているから仕方ないかもしれないが、帝国憲法というのは、それがそのまま天皇主義と軍国主義を保証した、あるいはそれらと一体化した憲法だと、多くの日本国民に思われているように思う。

 ところが、それは憲法学的に見ても誤りであるし、もし当時の知識人だけでなく、国民(皇民)が帝国憲法をきちんと読んでいれば、この憲法をうまく使って悲惨な戦争を防げたか、または最小限に食い止めることができた可能性があると、私は考えている。

 ことに「宗教」という観点から見ても、帝国憲法は、伊藤博文ら当時の知識人の手によって「日本的自然信仰・アニミズム」(無意識の世界)と「近代西洋的知性」(意識の世界)とが半分ずつ組み込まれた立派な憲法であったと思う。そこにあるのは、「宗教性の無条件輸入」ではなく、「日本という前宗教性との調和」に他ならないと思う。

 つまり、帝国憲法が悪法であったのではなく、その解釈をおこなった国民の脳のほうに、実は「鬼畜米英」と呼んだ相手であるはずの欧米の「宗教性」が無意識に準備・担保されていたために、その「宗教心」の相手を天皇からマッカーサーにコロッと変更することができたのではなかろうか。

(ちなみに、どのような軍隊をどのように持つかということが憲法に書いていないのに事実上の軍隊を持っている国は、そのことが憲法に書いてあってそれ相応の軍隊を持っている国よりも、他の国から見て危険であるということを、戦後日本人は考えなくなってしまったと思う。今の憲法は、平和憲法ではなく、むしろ他国に失礼な憲法であるだろうと私は感じている。今の日本人の宗教観のままだと、有事の際には、突如としてまた「鬼畜米英」を掲げて現憲法をさらに軍国主義的な憲法に改憲するとともに、軍備増強国家になる可能性を秘めている。だからこそ、平時の今、いわゆる「選び直し」によって全く同じ内容の憲法に改定した後でもよいので、再び安全保障条項について考えていくのがよいと思う。)

 そして、「対アメリカ無意識的追随教」とでも呼びたいような戦後日本人のそのような「宗教性」は、時が経つにつれて、「安全保障」や「天皇」といった「国家理念」の問題よりも、むしろ「労働」「職業」といった「日常生活」の問題において如実に現れるようになったと感じている。

 その最たるものが、「会社に一生を捧げる」というフレーズなのだと思う。私はこれについては、一種の性的陶酔であるという分析が可能だと考えている。

 そして、この感覚を生じている際の脳神経系のはたらきをそのまま西洋一神教圏、特にアメリカの宗教学に持ち込んだら、「宗教」という名が付くであろうにもかかわらず、どうして我々日本人はそこに気づかないのか、摩訶不思議だといつも思ってしまう。自分たちは基本的には無宗教であるという自己分析になるのは、どうしてだろうか。

 そこで、この「宗教」の問題とセットで考えることができると私が最近感じているのが、今の日本の鬱病や各種不安障害、適応障害などの精神疾患の問題である。

 換言すると、今論じたような「無意識的宗教性」という戦後日本人の特色を持つに至らなかった一部の日本人に、「宗教儀式としての職業」への非暴力的・非クーデター的反抗としての「鬱病」が生じているのではないかということである。

 これがどういうことかについて、より詳しく説明したい。

続く。

■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Info_box_collage_for_mena_Arabic_protests.png
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2011年09月08日

私の思う「愛国心」や「愛郷心」について

800px-Lindernia_procumbens.jpg 今回は、「愛国心」や「愛郷心」についての私見を書いてみようと思う。ここでは、「国家」や「出身地」という概念への愛というよりも、その「国家」や「出身地」を下から支えているその土地固有の動植物・農作物への感謝の念・観察眼・洞察力としての「愛国心」や「愛郷心」についての話である。

 私の故郷岡山では、侵略的外来種であるヌートリア(ネズミ目ヌートリア科)の異常繁殖により、地元のいくつかの動植物が壊滅状態に追い込まれており、自治体も毎年数千匹規模のヌートリアの殺処分に奔走している。

 元々は、その毛皮を日本軍の軍服・防寒服に使うために欧米から輸入した動物であった。日本は欧米の動物の毛皮を身にまとって欧米と戦ったのだという現実を、忘れてはならないと思う。

 私は、小学四年生のときに、学校の裏山でヌートリアを捕まえて、そのままわざと逃がしたことがある。最初は、つかまえてから自分の手でヌートリアの体を叩いてみようと思っていた。それは、ヌートリアによって壊滅状態に追い込まれつつあった岡山のベッコウトンボに対する愛情から出た、子どもなりの精一杯の仕返しのつもりだった。

 ところが、初めて見たヌートリアの目には、「動物の眼光の強さと温かさ」があった。私が子ども心に、「ヌートリア」と「ベッコウトンボ」の構図を、「欧米先進諸国」と「日本」の構図に重ねたらしいこと、そして、結局は「動物に罪はない」という判断を下して逃がしたのであろうことが、今になってようやく論理的に分かるばかりである。

 そして、二十年が経った今、岡山県内のベッコウトンボはほぼ壊滅、あるいは全滅したと言われている。こうして、「ヌートリアを叩き殺さなかった私の優しさが、ベッコウトンボを死に追いやった」という言い方もできる結果となったのであった。「不条理だ」と、しみじみ思った。このような体験は、ずっと頭に残るものである。

「日本らしい田んぼの畦道」の風景というものがあると私は思う。ここでの「日本らしい」とは、「日本列島が大陸と分断されて以降に長い年月をかけて育ってきた、水草・雑草・生物の固有種が豊かな」という意味のはずだと思う。

 ところが、戦後になって、日本人の生活のアメリカ化と全く同じ形で、日本の植物もアメリカ化した。例えば、国産畦菜(アゼナ)はアメリカアゼナに取って代わられていった。

 私のような植物学の素人でも、東京の郊外の田んぼなどを電車の窓からぼんやりと眺めていると、アメリカの田園風景かと冷や汗を掻くことがある。私には、いわゆる五感が混ざり合う心理学上の「共感覚」があるので、今の一般日本人よりも異常に敏感すぎるのだろうかとも、一時期は考えた。

 確かに私は、小さい頃はネズミのしっぽをつかまえて遊ぶような少年であったし、おそらく「通常ではない」敏感さを持って自然や動植物を知覚・観察しているとは感じている。

 ただし、物事の見方には微視的な見方と巨視的な見方があるとすると、小さなアゼナが国産か外来かなどということを見分けるには、どんな「敏感人間」であっても、数メートル〜数十センチまで近づいて微視的に葉の形を観察しなければならないはずだと思える。

 ところが、そう思いきや不思議なことに、素人の私の目で、半ば怠けながら数十メートル離れた位置から見ても、「日本の懐かしい田んぼの畦道」の趣が感じられない場所が東京にもある。そこで、近づいてみると、本当にその周辺がほぼ全て外来種の植物であることがある。

 今回の大震災被災地域のうち、宮城県は、全国で真っ先にベッコウトンボが絶滅した土地であったようだ。宮城県の田んぼはあまり見たことがないし、宮城県についてはほぼ仙台の中心部しか知らない私だが、それでも、今回の震災で流された東部の田畑の水草の中にも、欧米産のものが大量にあっただろう。

 アメリカ両大陸に起源を持つ水草は、今や岡山の田んぼにも青々と、いや、ブルーブルーと輝いている。岡山県民の方がここをご覧になっていたら、悲しまれるかもしれないが、私の愛郷心は昔よりもずっと薄れてしまった。

 今回の台風12号で、岡山県玉野市の全域が避難勧告となったが、私の「ヌートリア体験」や「アメリカアゼナ体験」は、「現在の故郷(現在の日本)を愛する」という心を、少なからず冷めたものにしている。

 玉野市が雨に流されたと聞いても、アメリカアゼナが流された光景ばかりが脳裏に浮かんでくる。存在しないものは雨に打たれないのだから、壊滅したベッコウトンボが雨に打たれるはずもなく、雨に打たれたのはヌートリアである。

「今回の震災で流されたのは、本当に日本であるか」、「今回の台風が通り過ぎたのは、本当に私の故郷であるか」といった、私自身が生み出したかなり意地悪な問いが、私の「愛国心」や「愛郷心」を邪魔しているようである。これは、私だけに当てはまる、あくまで個人的な思想の問題なのだろうか。それとも、日本社会全体で考えてみる意義のある課題なのだろうか。

 人間は不条理な生き物で、自分が愛するものの消滅しか深く悲しむことができないようである。

「全人類の命が大切だ」と頭では思っていても、我々日本人は、毎日毎日世界中で餓死している子どもたちを思って涙するわけではない。けれども、身近な人の死には簡単に涙する。それと同じで、「今回の自然災害で壊滅したのは、紛れもなく日本である、我が故郷である」ということが言えなければ、私は残念ながら、深く悲しむことができないようである。

 私は一人の日本人男性として、自分のこの心情に一種の皮肉と同情を覚える。この心情は、かつて三島由紀夫が、「もし先の戦争に勝っていたとしても、日本刀で戦ったのではなく、欧米の技術で戦ったのだから、日本が勝ったとは言えない」という主張をしたことに似ていると感じる。

 私は、三島由紀夫の最期の血を流した行動の是非の議論はともかくとしても、その「日本観」や「日本感覚」は本質を突いていると今でも思っている。三島由紀夫のように、「愛国心」や「愛郷心」を軍事技術に喩えて主張すると、色々と異論もあるだろうが、同じことを動植物や我々人間の身体について言えば、いかに「日本の風土」という概念が崩れかけているかがよく分かると私は思う。

 我が国は、自分たちで食べるものの多くを自分たちの手や自分たちの土地で生産していない国である。「和食」と「洋食」の違いは、加工後のスタイルの違いであって、原材料から見れば、多くは「洋食」化している。「ほとんどのものは自分たちの田んぼや畑で作るが、どうしても足りないものだけ輸入する」という意識が、我々から失われつつあるようである。醤油の味も、だんだんと懐かしい味がしなくなってきた。

 我々の身体の大部分は、外国人の労働のおかげで外国の農場においてでき上がったものを食べることによって、その外国産の食べ物の粒子で構成されている。これによって、日本人の死因のトップ5は全て欧米式疾患に入れ替わった(癌・脳卒中・心疾患など)。

 主に日本産の農作物を原材料とする和食を食べ続けたことによる、戦前までの死因のトップは、肺炎・気管支炎・全結核・胃腸炎・老衰などであった。この頃にはすでに癌・脳卒中・心疾患の存在が知られていたにもかかわらず、それよりも上位に肺炎・老衰などが位置していたという意味であり、老衰の分類の中に癌などがあるのではない。

「有機体である生物が、その生物が生まれた土地以外の土地で生まれた有機物を短期間に大量摂取すると、拒否反応が出る」という現実への危機感を、我々はもっと持つべきではないだろうか。日本人という有機体が、たったの数十年で他の土地の有機体である動植物を胃に入れるようになった事実を、もっと真剣に見直した方がよいのではないだろうか。

 特に日本は、海で他の土地と隔てられているために、多くの野生動物や野菜などの農作物の固有性が、ユーラシア大陸やアメリカ両大陸と比べて歴然としている。この数千年に渡る異質性を、我々日本人の身体・内臓がたった数十年で埋め尽くせるとは思えない。

 もっとも、私とて、このような主張をしていながら、その体の大部分は外国産の食べ物で出来ていると思われる。私は、自分にできる範囲で、なるべく自分の考えに合うような食生活をしているつもりではあるが、それでも限界というものがあるのは仕方ない。

「懐かしい日本製の田んぼの畦道」という心象風景を脳裏から薄れさせることに長けていない性質、自然の変化に敏感な性質の日本人であればあるほど、かえって今の日本を心から愛すること、大震災や台風被害を心から悲しむことは難しいかもしれないと、私にはそう感じられる。個人の問題ではなく、日本人全体の問題なのだろうと思う。

 いつかまた次回の大震災・大津波が襲ってきて、家も田畑も流されたとき、「ああ、今回流されたのは、確かに懐かしい日本の風景であった。今回ばかりは、悲しみもひとしおである」と我々が心から言えるように、これからの日本の文化・政治・経済を構築していかなければならないのではないだろうか。

 結局、今回の記事も、最近書いてきた各記事と根を同じくしていると思う。つまり、何度か書いたように、「虚無的殺風景」の直前までは美しく目に見え続ける「花」や「もみぢ」を今から作ろうということだと思う。「次回の津波や台風には、本物の日本製の田んぼを触らせてやろうではないか」という気持ちで生きようということだと思う。

■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Lindernia_procumbens.JPG
posted by 岩崎純一 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本論