2014年09月18日

未来年表と言語についての考え方・実験のページを設置

 サイトに以下のページを設置しました。

言語学・言語体系考案内に「言語とは何か」についての私の考え方現代日本語に関する実験を追加。

人間学・哲学全般を設置。

 未来年表を追加。

未来年表

【画像出典】
https://en.wikipedia.org/wiki/File:1e0657_scale.jpg
(パブリックドメインのため、改変した。)
posted by 岩崎純一 at 20:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語論

2011年05月22日

「疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD-10) 第V章 精神及び行動の障害」とスラフォーリアとの対応表(2011年5月版)

 以下の表を有志の方々の協力により制作し、サイトに掲載しました。

◆「疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD-10) 第V章 精神及び行動の障害」とスラフォーリアとの対応表(2011年5月版)

 なお、スラフォーリアは現在、言語名の変更を計画しています。正式な言語名が決定し次第、本表のタイトルにも反映します。
タグ:ICD
posted by 岩崎純一 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語論

2010年12月10日

新常用漢字

 今年の6月に文化審議会国語分科会から文部科学大臣に答申され、先月30日に告示された新常用漢字表。僕が以下に載せている2965字は、日本工業規格の第一水準漢字で、常用漢字・新常用漢字を含む別規格だが、いずれにせよ僕は、今回の新常用漢字も全て共感覚色で記憶している。

http://iwasakijunichi.net/ronbun_ippan/kanji1-1.pdf
http://iwasakijunichi.net/ronbun_ippan/kanji1-2.pdf

 今回新たに追加された196字は、「柿」「亀」「誰」「脇」など、すでに多くの国民が用いている字で、それほど難解な字はない。「書けるかどうかは分からないが、ほとんどが読める」という国民が圧倒的多数と思われる。

(常用漢字に追加された196字)
http://www.kanjijiten.net/joyo/newjoyo.html

 削除されたのは「勺」「錘」「銑」「脹」「匁」の5字。「勺」と「匁」は度量衡の単位。「錘」は、「紡錘」くらいしか使わなくなった。「銑」は、もはや日本史マニア以外は知らなくても困らないような漢字(陸軍大将・第33代 内閣総理大臣 林銑十郎)。「膨脹」も、今は「膨張」と書くのが普通。一方、「逓信(ていしん)」の「逓」は残ることになった。

 たった一つ、読みが変更された漢字があって、それは「側」。「かわ」が「がわ」になった。「かわ」と読むのは、「右っ側」「上っ側」など促音「っ」を伴うときぐらいだ。例えば、「面」は、単独では「づら」よりも「つら」と読むことが多いのに、「側」は単独でも「がわ」と読むようになった。明治・大正時代は「かわ」と読んでいた。今そのように読む人は、普段観察する限りでも、ほぼ全て90歳以上の人である。

 2008年に亡くなった国語学者の大野晋氏は、「日本語の起源はタミル語である!」と奇説を唱えながらも、廃れゆく「日本語の良さ」については鋭い洞察を持ち、「なぜ漢字が工業規格なんだ。文化規格にすべきだ」と言った。今後も、そのような優れた国語学者が出てこないものだろうか。

 昔は、前近代的で突拍子もない新説・奇説を持った国語学者は多かったが、日本語を愛する心は今よりもずっと大きかった。

(文化庁 「常用漢字表の内閣告示等について」)
http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/jyoyokanji_kokuji.html

★訂正★
「漢字は工業規格ではなく、文化規格であるべきだ」と言ったのは、大野晋氏ではなく、情報工学者の坂村健氏でした。失礼しました。もしかすると、大野氏も言ったかもしれません。いずれにせよ、氏たちの論は正論だと思います。
posted by 岩崎純一 at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語論

2010年12月05日

言語はなぜ家族を捨てるのか

minzoku.jpg 特に具体的な活動が決まっているわけではないけれども、僕の考案言語スラフォーリア(現在の岩崎式日本語)について仰々しく「スラフォーリア研究会(現在の岩崎式日本語研究会)」を設けた。

「自分(日本人)はなぜ、家族や友人と会話するにも、いったんは家族や友人を捨てて迂回し、日本民族の日本語という言語へと大回りしなければならないのか」

 この悩みは、僕が中学二年生の頃から持っていた悩みのうちの一つだった。

 世の中には、いわゆる「家族ルール」というものがある。「ウチでは皆、トイレの扉を開けっぱなしで用を足す」、「我が家では車には土足で乗らない」、「家族それぞれがマイ風呂桶を持っている」など、色々と個性的なものを耳にする。

 しかし、もし本当に「家族(family)」が社会と文化の最小単位であるなら、「日本語」ではなく「家族語」が存在してもよかったはずである。

 あるA家の中では、「扉を開けっぱなしで用を足す」を意味する動詞「ぱなしぽさらす」があってもよいはずだし、B家には「車には土足で乗らない」を意味する否定動詞「どさらばさらない」があってもよいはずである。あるいは、「ウチでは動詞の活用をしない」などという独自の文法が成立しそうなものである。

 だが、そうはならない。わざわざ家族の「外部」の言語「日本語」を用いて「扉を開けっぱなしで〜」などとややこしく言う。

 我々は、身近な家族と話すにも、一旦は「家族」なる概念を横に置いて、むしろ「日本民族」なる概念を確定的に実在するものと仮定し、その民族が用いる「日本語」へと大回りして再び家族を認識している。なぜか例外なく、そうである。

「家族と心が通じる」ということの真相は「家族の母語が認識できる」ということである。もし本当に「心が完全に通じ合えている」と断言できる理想的な家族がいるなら、そこに「日本語」は必要ないことになる。

 つまり、我々日本人が「家族」と言うとき、それは結局、「日本語で互いに認識し合う家族像の幻影」という意味のことであると言える。

「日本」「日本人」「日本民族」「日本文化」といった概念と、純粋な「家族」という概念とは、本来は相容れない。

 もちろん、ここで言う「家族」とは英語的「family」、「民族」とは英語的「race」、「言語」とは英語的「language」のことだ。戦前・戦中日本のように天皇を「現人神」と見なしたり、太古日本のようにムラの長を「父」と見なしたりし、日本民族それ自体が「共同体としての家族」であるという見方をすれば、日本ほど「言語」と「家族」とが高精度でほぼ一致している国は無い。

 或る言語が共有される物理的・精神的領域というものは、必ず、一つの例外もなく、「家族」や「恋人」や「友人」といった最小のゲマインシャフト(※注1)を捨て、「民族(race)」という中途半端な共同体を選択して、なおかつそこにとどまろうとする。逆に、どんなに一つの言語(英語)が世界に普及しようが、全人類が地球規模でそれを母語とするところまではいかないのである。「言語」は必ず、自然の摂理として、「民族」を選択するのである。

 もちろん、日本においては、まだ江戸時代にもアイヌ・蝦夷(エミシ)・隼人(ハヤト)・熊襲(クマソ)などの少数民族が本州の至るところにいて、それぞれに言語があった。だから、今僕が言っている「日本語」とは、「天皇」の支配の及ぶ領域の母語としての「日本語」である。もし天皇の存在がなかったなら、日本語の規模と分布は全く違っていたわけである。

 つまり、僕の冒頭の問いは、「なぜ僕は、家族や友人としゃべるにも、一度は天皇と同じ言語と世界認識を志向するのか」という問いと同じであることになる。「なぜ自分は、自分の父親と話すにも、いったんは天皇を中心とする日本語の認識世界へと迂回してから父親を認識するのか」という問いのことである。

 日本人、特に男性ならば、この事実(自分の父親と天皇とが同じ言葉を母語として生きる事実)と人生で一度は真剣に向き合うべきだと思う。このことを喜ぶか苦しむかは別にして。そして、やはり日本人は、英語よりも日本語の良さに立ち返ってくるのがよいとも思う。

 この事実を言語学的に破棄して、自分の母語である日本語を否定し、自己意識の外部に無言語的に実在するものとしての「父親」とか「大自然」とか「好きな女性」を完全に認識するということは、日本人には不可能なのだと言える。あるいは、それができないことが日本人の特質であるとも言えると思う。

「日本国」と「日本民族の居住領域」とがだいたい一致しているがために、我々日本人自身には分かりにくいが、「言語」が「国家」「国境」ではなく「民族」なる境界をおのずから選択していることは、イスラエル人やクルド人や朝鮮人を見れば簡単に分かることだ。国を持たずとも、民族がいるところには生き生きとした言語があるのだ。

 ところが、その言語を操る我々人間にしてみれば、「家族」や「恋人」や「友人」といった小規模の共同体のほうが定義しやすく、かつ安心感の基本単位なのであって、「民族」なる概念のほうが混血その他の理由によって不安定なもののはずである。

 しかし、そういった「家族」についての定義や安心感のほうが、どうやら極めて近代的な思考様式であって、人間の脳は、本来は「民族」なる概念のほうに安住するようにできているらしい。ということは、「民族」全体をいわばゲマインシャフト的な「家族」と考えていた戦前の日本は、あえて軍国主義をやったというよりは、その思考様式が極めて生物学的・生態学的に見て自然であったがために戦争を避けられなかったとも考えられる。

 しかし、特に現代社会では、「人間」と「言語」とは、分離した別個の主体概念であり、「言語」それ自体が「人間」の意志と同等の仮想意志を持ってふるまっている。だが、この「人間」と「言語」の分離独立に気づいている日本人は、本当に少ないと思う。

 僕の勝手な意見であるが、「日本人」とは「日本語を第一言語・母語・人生の基盤語として話す人間」のことである。逆に言えば、「自国の小学生に強圧的に英語を学ばせることを良しとするような日本人」は「日本人ではない」と僕は信ずる。

 そして今や、たとえ「民族」よりは近代的な概念であるけれども安住できる場所の筆頭であるはずの「家族」という概念さえ、虐待問題などで崩れかかっている。


※注1:ゲマインシャフト(共同体)・・・

 血縁・地縁・恋愛・友情などによって自然に結び付いた伝統的共同体。家族・親族・恋人・友人・町内会など。多くの場合、或る一つの言語を母語として共有し、なおかつその言語の行われる範囲よりも小規模である。利害関係をもとに人為的に形成された会社(営利社団法人)・地方自治体・近代国家・超国家型同盟(国連・NATOなど)といったゲゼルシャフト(利益社会)に対する概念。ドイツの社会学者テンニースらが提唱。

 共和制・大統領制国家は間違いなくゲゼルシャフトであるが、立憲君主制国家の一部はゲマインシャフトである。日本は、事実上の元首として天皇を戴いており、特に戦前では巨大なゲマインシャフトを形成していたとも言える。日本語は、憲法にも国語・公用語として記載されていないからこそ、現在でもゲマインシャフト的な言語と言える。
posted by 岩崎純一 at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語論

2010年11月24日

スラフォーリア研究会サイト更新

スラフォーリア研究会のほうに「思想体系」や「文法解説」を掲載しました。メンバーの方にはパスワードなどをお送りします。

文法解説と言っても、言語学だけでなく、哲学・国語学・東洋思想・和歌・精神疾患など、僕の頭の中にあるものを色々と含めた膨大な解説になっていますので、きっと読んだら疲れます。(!?)

たった一人だけ、スラフォーリアを「ほぼ完璧に」使いこなせる重度の解離性障害者で、現代の標準日本語によるコミュニケーションが苦手な方がいらっしゃいますが、この方はかなり哲学的な問いを僕に考えさせてくれます。

つまり、この方が他者に向かって、「私は今の日本語は話せないし、苦しいけれど、スラフォーリアなら話せる」という主張をしようと思ったら、現代日本語ではできなくてスラフォーリアでやるしかない、ということです。普通の言語学ではこんな問題は起こりません。だから、僕のやっていることは言語学ではなくて哲学なのだろうということです。

人間にとって「他人に自分の気持ちを伝えるとはどういうことか」ということを、これからも考えていきたいです。

鬱病や解離性障害を負った方々となぜそんなに会話したいかと言えば、やはりそれは僕の情熱や執念がそうさせているのだと思います。「こういった方々がなぜ言語障害を負いやすいか」を、感受性と論理性の両方から語っていくことが重要なのではないかと僕は思っています。
posted by 岩崎純一 at 19:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語論