2014年04月30日

共感覚と強迫性障害の違い

 昨日、テレビで強迫性障害についての特集があったからか、「強迫性障害」のワード検索でのご訪問が今日は多かったですね。

 私のサイトでは、以下のページで解説しています。精神医学的な定義と私個人の罹患者との交流とに分けて書いています。

不安障害・恐怖症・強迫性障害・PTSD
http://iwasakijunichi.net/seishin/fuan.html

 ところで、共感覚は時々強迫性障害と誤診されます。「ひらがなの“あ”が青色に見える」といったこだわりが、「数字の4は死を連想させて不吉だから、4に関係する行動や4が付く日の人との約束を避ける」、「玄関のカギを何度も確かめなければ気が済まない」といった強迫観念と似たものに見えるからだと思います。

 私は、十年ほど前に自分の感覚を、最初からインターネットで調べて強迫型・恐怖症型の症状や疾患ではないと確信して、のちに具体的に「共感覚」だと見極めたのですが、周りには、そういう確信を持てないうちに、実際に友人から心療内科を勧められたり、強迫性障害だと誤診されたりした人がいます。

 それではさすがにマズいということで、共感覚と強迫性障害の共通点と相違点を書いてみます。

 もちろん、「“あ”は青色だから、“あ”を青色以外で書く人との交流は避ける」などと言い始めたら、それは強迫性障害の仲間入りだし、どちらかと言うと強迫性パーソナリティー障害に近いもので、心療内科に行った方がよいということになりますが・・・。

 強迫性障害で有名な二大症状には、「過剰な手洗い」(洗浄強迫)と「玄関のカギの過剰な確認」(確認強迫)がありますね。過剰の程度がどのくらいかと言うと、手が荒れてかえって不健康になるまで手を洗ったり、家の玄関のカギが気になって、途中で旅行をやめて帰ってきて確認し、それでもまだ気になって自殺を考えたり、そういうものを強迫性障害と言います。

 昨日強迫性障害として出た例には、「外出先から帰ってきたら、手洗い・うがいを何回もするだけでなく財布・お金そのものまで洗う」、「数字の4に関係する行動を片っ端から避ける(1階から4階に行く時は、4階のボタンを押すのが怖いので、一度3階で降りてから階段で上がる、時刻の数字の中に4がある時には不吉なので動かない)」などがありました。(数字の例で分かるように、信じている宗教・習俗、属している民族・文化圏によってトリガーや症状が異なります。)

 過剰に手や物を洗う人は二人出ていましたが、一人は、痴漢被害以降に男性を不潔だと思うようになり、電車の中などで男性に触れてしまった手や物を徹底的に洗うようになった女性、もう一人は、手や物は徹底して洗うのに部屋はいわゆるゴミ屋敷状態の男性と、かなり極端な例でした。

 私は、本来、強迫性障害という診断名は前者のような人を救うためにあるはずだと思うし、強迫性パーソナリティ障害とされてもおかしくない後者を含めて報道されたのは不思議だと思いました。個人的には、残念ながら後者のほうについての報道姿勢にはあまり納得できませんでした。前者と後者とでは第三者による「助け方」が異なってくるためです。ちなみに、お金(日本銀行券・硬貨)や公共物をああいう形で扱ったら、器物損壊罪・文書等毀棄罪に問われることがあります。

 さて、当たり前ですが、先に上げたような誤診は神経内科や心療内科に行かなければ起きないです。つまりは、医者が誤診する前に共感覚者が自分で自分の共感覚を「誤診」するのでなければ、周りの人の勧めをそのまま聞いて医者にかかってしまったために、起きるわけです。医者も患者も人間だというわけで、やはり、どちらにもバランス感覚が必要ではないかと思いますし、同じくらいの責任は付いて回ると思います。

 共感覚と強迫性障害の共通点は、「具体的な知覚例が万人に当てはまるものではない」ということに尽きると思います。自分がそうだからと言って、他の人も「ひらがなの“あ”が青色に見える」わけではないし、他の人も「手を十回洗うまで気が済まない」わけではないです。

 しかし、決定的な違いは、共感覚の場合、例えば「ひらがなの“あ”が青色に見える」と言った時、それは大脳の反応、ニューロンの化学的・電磁気的変化の帰結として本当に知覚しているのであって、その点では、平均的な五感の人々が大脳の反応、ニューロンの化学的・電磁気的変化の帰結をもって「目が見える」と言っているのと全く同じことですね。空想や創作というものが入る余地がない点が特徴です。(もちろん、共感覚を元にして空想したり創作物を生み出したりすることはあります。)

 一方で、強迫性障害の場合、罹患者が自分の手には他人の十倍の雑菌がいるからと確信して手を十回洗ったところで、本当に手が綺麗になったか、そもそも平均的な人と比べて十倍の雑菌がその強迫性障害者の手に付いていたか、といったこととは全く関係がないし、罹患者は決してその雑菌を網膜や脳で知覚することはないわけです。手は綺麗になるどころか荒れるばかりだし、雑菌も十倍もいたわけではありません。

 玄関のカギを何回確認しようが、依然閉まったカギは閉まったままで、カギが開いた玄関から空き巣が入って物を盗む光景を強迫性障害者が目撃することはないわけです。起きていないことを見るはずもないのです。

 本来、今で言う「不潔感」や「恐怖感」という観念が何のために人間の脳に生じたかを考えるに、過去にいくらでも学説は出ていますが、基本的に私は「近現代社会の文脈において死や恥辱を避けるため」に生じたと思います。

 昨日の番組のような痴漢被害による強迫性障害の発症などはその典型で、性犯罪被害は死や恥辱に直結するものだと言えます。「恐怖感」というものは、一見すると今も昔も同じであると思いがちですが、動物に襲われる恐怖感と空き巣に入られる恐怖感とは、全く違うものであるわけです。(例えば、前者には「お金を盗られる恐怖や不安」は存在しない。)

 やはり、精神病理学上の知見は別として、未だに少なくない人がインターネット上や障害者施設などの現場で強迫性障害を現代病の一つとして扱っているのは、その障害に陥った罹患者なりの根拠である不潔感や恐怖感が、生物としての本能ではなく、現代社会の文脈におけるストレスとして出ているからではないかと思います。

 例えば、浮浪者の人たちが他人の食べ残した残飯を拾って食べる行動については、その行動自体の原罪的な「善悪」や「不潔性の有無」というものは私は存在しないと思いますが、現代の先進国に生きる平均的な生活水準の国民であれば考えも付かない行動だということは言えます。しかし、もしかしたら、世界一の食糧廃棄大国である日本の中にあって、残飯を拾って食べる行為は、実は最も崇高な宗教的行為でさえあるかもしれません。これらの人たちは、強迫性障害、特に不潔恐怖とは無縁の人たちです。カントの言う「善のための善」とは、むしろこれらの人たちの行為のことを言うのではないかとさえ思えるほどです。

 他人の残飯を避けるという多くの人々の常識的な行動は、今日の社会の文脈においては、実際に自分の身体を害する雑菌が残飯中に多く含まれるという科学的見識を本能的洞察力に徹底的に置き換えているということであって、「今日の社会の文脈においては徹底的に」正しい行動であり、そのような場合は、現代の精神医学は障害や病気だとは言わないわけです。

 しかし、何回手を洗っても気が済まないような強迫行為は、こういう不潔に対する科学的に極端に正当な抵抗かと言うと、「そうではない」ということです。本来は、「そうではない」ということをもって「強迫性障害」の診断を下さなければなりません。

 手は何回も洗うのに、体を何日も洗わず、部屋も片付けなかったりする罹患者もいます。そういう場合には、罹患者が人生の中で出くわした、何らかの個人的・特異的な事件によるトラウマをトリガーとして想定するべきではないかと思います。

 強迫性障害者に対してまずおこなうべきなのは、「不潔なものを不潔だ、怖いものを怖いと思わないように頑張るよう諭すこと」ではなくて、「現代社会の文脈においては不潔倒錯や恐怖倒錯だと言われてしまうような精神的な事態を、何とか対処して乗り切るうまい策を助言すること」だろうと思います。

 共感覚者がある文字を青色だと言ったら、それはその共感覚者にとっては本当ですが、強迫性障害者がある物を不潔だ、雑菌が多くいると言っても、現代の公衆衛生、科学的知見、良識、法律などに照らしてとてもそうだ言うわけにはいかないことが多いわけですから、扱う学問分野も、対処法も、かなり違ってくると思います。

2013年11月15日

リンクの充実と、解離性障害・PTSD・性虐待被害・トラウマなどの話

 サイトに、今まで個人交流会にご参加下さった方々のサイトを中心に、関連サイトへのリンクを増やした。

 便宜的に共感覚関連、精神疾患関連、言語・芸術関連などに分けてみたが、実際には複合的な悩みや症状を抱えた方々のご訪問が多くなっている。

 一番充実しているのは以下の精神疾患関連のページになっている。一般的には、共感覚そのものに悩む例はあまり見られず、一方で、共感覚が強迫観念化・恐怖症化して「強迫性障害」や「パニック障害」と診断された方々は、当然「神経症性の症状」として見ることができるため、そういった方々のサイトも全て以下のページに入れている。

「ぬいぐるみが私の共感覚に合うように綺麗に並んでないと、お風呂に入っても落ち着かない。ぬいぐるみがお風呂に怒って入ってきそう」といった悩みをお持ちの方もいらっしゃるが、これも「強迫観念化・強迫儀式化した共感覚」の一例だと思う。

http://iwasakijunichi.net/seishin/link.html

 そういえば、解離性同一性障害(DID)の方の場合、人格Aのときに私に面談をお申し込み下さり、実際に面談をおこなっていても、他の人格Bのときは私と面談したことを覚えていない(知らない)こともあった。記憶障壁が極端に厚いと、そうなるわけである。

 私はDIDの方々への対応は慣れているほうだし、そういうハプニングがあっても全く気にせず、嬉しく思い、非常に濃密な時間だと感じる性格なのだが、慣れているのは、むしろ知人・近親者からの性虐待被害や性的倒錯体験をトラウマとするDID女性やPTSD女性のほうで、最近は全くそういった心的外傷やトラウマが発見されない女性の「特定不能の解離性障害」のケースと出会っており、これが大変に勉強になっていて、ついついそちらにばかり時間を費やしている。

 ところで、ここまで長くサイト運営をしてきても、共感覚者はやはり女性が多いようだし、解離性障害(特にDID)は圧倒的に女性が多く、解離性障害女性の八割ほどは境界性人格(パーソナリティ)障害を診断されていて、その境界性人格障害もまた女性がほとんどであり、摂食障害は女性しか見たことがない。

 いわゆる多重人格・解離性同一性障害の当事者のサイトが最も多く見られたのは10年ほど前のことで、私もほぼ全てを読んできたと思う。つまり、当時のサイトの運営者の女性は、今は30代・40代になっていらっしゃる。現在、私のところに来て下さっているのはその次世代の方々であるわけだ。

 現在はウィキペディアなどのネット百科事典や、「めでぃっく」などの医療系ネット百科事典サイトの充実ぶりや正確さもあり、当事者のサイトも多くが閉鎖されている。それに、SNSサイトの急速な普及により、かえってDIDなどについての誤った知識は淘汰されていっているようだ。

(ちなみに、共感覚者のサイトがブームになったのは、多重人格サイトブームの後のことで、今ではほとんどの共感覚者のサイトも放置されている状況だ。これも、ネット上の会話の場のSNSへの急速な移行や大学・研究機関の共感覚サイトの集客ぶりには、一般の個人サイトは絶対に勝てっこないし、各共感覚者個人の生活の事情もあるし、地道に個人サイトを更新するのも大変だ、といったところだと思う。結局、個人サイトの純情さ・素直さ・初々しさは、SNSや学術機関サイトの勢いの陰に隠れる運命だということのようなのである。)

 なぜか私は、「岩崎さんならどんな精神疾患者にも対応できるでしょう」などと期待されるのだが、全くそんなことはなく、私にも実は苦手な分野があり、摂食障害(過食・嘔吐する、そのせいで指ダコができる、など)・解離・リスカ(リストカット)・イライラがセットになっている最も典型的な旧ボーダー・現境界性パーソナリティー障害の女性への対応が最も苦手であることは確かである。(嫌いというわけではなく、対応の仕方がまだよく分かっていない。)

 こればかりは第三者がどうあがこうとも、本人がお菓子をバクバク食べて口に指を突っ込んで吐いたり、急に「キレ」たりするのをやめない限り、ほぼ必ずお手上げ状態になってしまう。しかし、これは私に限らず、人が人を見るときに一般的に苦手な光景であると思うし、そのこと自体が、これらの症状が精神障害ではなくパーソナリティー障害とされる所以でもある。

 私が、それらとは異なる、いわば「純粋な解離」・「巫女的解離」、つまりイライラや人への八つ当たりを含まない、鬱々とした女性の解離に惹かれる点にも、私の性質・傾向が表れていると思う。そしてそもそも、本当に一方的なDV・虐待被害などに遭い、それが原因で解離した女性の場合は、「純粋な解離」をしているのであって、やはり他人に対してイライラしたり「キレ」たりといったことは特に見受けられない。

 男性が同じだけのトラウマを抱えると、境界性ではなく反社会性・自己愛性パーソナリティー障害として表れ、暴力・殺人などの実力行使による反撃に出て刑法犯化し、刑務所入りすることがしばしばなので、要するに私の交流会・勉強会に申し込んで下さり、落ち着いて椅子に座って話をすることができるのが女性ばかりなのは至極当然と言えば当然である。

 解離の男性、境界性の男性もいることはいるのだが、ほぼ必ず反社会的行動を伴っており、一歩間違えば男同士で殴り合いになるし、私もそこまで犠牲を払ってサイトコンテンツの充実を図るつもりは、今もないし、これからもないと思う。結局、私は「落ち着いた解離や鬱症状を見せる人」が好きなのだな、と改めて自分でも思う。

 もちろん、私のように色々な精神疾患者(統合失調症者・鬱病者・不安障害者・解離性障害者)・パーソナリティー障害者といとも簡単に気の合う人は、当の私自身が精神疾患者・パーソナリティー障害者に極めて近い思考回路を持っているからだと思う。そこから人を殺す人になるかならないかは、本当に大好きな人に出会ったか出会わなかったか、本当に自分を認めてくれる人に出会ったか出会わなかったかだけの違いであると思う。

 さて、「女性の回り道」というサイトにもリンクさせていただいた。このサイトの運営には、私の交流会にご参加下さった方も参加されている。

 内容としては、解離性同一性障害(DID)・健忘・遁走・知覚脱失などの各種の解離性障害、転換性障害、身体化障害などの主に神経症性の障害と、それらのきっかけとして多い性虐待被害、性的トラウマ、そして、それらの被害やトラウマ体験後に、性の拒絶の方向に行かずに性への依存の方向に行ったニンフォマニア、サドマゾ、自己敗北性、受動攻撃性、セックス・自慰依存などを扱っている。

http://www.kokoro.daynight.jp/mawarimichi/

 これらの性関連障害のうち、いくつかの要素はDSM-IV以来、サディスティックパーソナリティー障害、自己敗北性パーソナリティー障害、抑うつ性パーソナリティー障害、受動攻撃性パーソナリティー障害などとして、まとめて「特性不能のパーソナリティー障害」の一群に組み込まれている。

2012年03月07日

十二指腸潰瘍、統合失調症、ヒトラーの血液型、単極性障害と双極性障害

■十二指腸潰瘍の「なりやすさ」

 最近の『Nature Genetics』に掲載された東大医科学研究所の研究論文によると、血液型がO・A・B・AB型の順に十二指腸潰瘍になりやすく、O型の人はA型の人よりも1.5倍ほど十二指腸潰瘍になりやすいという調査結果が出たようである。

 また、胃癌の「なりやすさ」の指標として使われるPSCAという胃癌リスク遺伝子がC型の人は、T型の人に比べて、胃癌リスクは半分であるのに、十二指腸潰瘍リスクはおよそ2倍という結果になったようである。

 これについて、東大医科研は、「O型の血液型遺伝子を持つ人の腸は、十二指腸潰瘍の原因となるヘリコバクター・ピロリ菌が住みやすいから」だと説明している。また、「A型人間は神経質である」といった血液型占いに警鐘を鳴らしてもいる。

(ちなみに、私はB型である。B型の男性は、血液型占いではあまりよく思われていないようで、「大雑把で片付けが下手」という評価が定番のようだが、なぜか私は整理・整頓が好きな人間で、一番大好きな家事は皿洗いである。)

十二指腸潰瘍の原因遺伝子を発見 Nature Genetics 10.1038/ng.1109
http://www.ims.u-tokyo.ac.jp/imsut/jp/research/papers/post_38.php
http://www.ims.u-tokyo.ac.jp/imsut/jp/research/files/120305.pdf
(東京大学医科学研究所)

 この十二指腸潰瘍及びよく似た胃潰瘍の「二大消化性潰瘍」について、いつも私が興味深く思っているのは、「どんなに精神的ストレスを受けてもこれらに罹患しない」人がいることも確実であるのに、「これらの疾患の主要因が精神的ストレスである」ことも確実であるという点である。およそ欧米と日本で出ている研究結果を足し合わせると、どうしてもそういう言い方になってしまう。

 だから、鬱病や社交不安障害やパニック障害の人がこれらの消化性潰瘍を併発していることがある。消化性潰瘍は、一応は「精神の疾患」ではなく「身体の疾患」ということになっていて、疾病分類として有名なICD-10でもそのようになっているので、私の以下のページにもリストアップしていないが、このページに挙げた何人かの方は、消化性潰瘍に罹患している。

http://iwasakijunichi.net/seishin/rei.html

 精神的ストレスが主要因という点では、消化性潰瘍は偏頭痛に似ている気がするが、これについても、「ある人がストレスを受けた時に、消化性潰瘍になりやすいか偏頭痛になりやすいかは、ある程度は血液型の差異などの遺伝的差異によって決定されている」ということが言えるのかもしれない。

 だから、「同じだけの精神的ストレスを受けた時に、まず十二指腸潰瘍という形に現れやすいのは、O型である」ということだけは言えるのだろう。

 もちろん、「精神的ストレスを受けると、体内でピロリ菌が発生する」などという超常現象が起きているわけではない。それに、「ピロリ菌が全くいない環境下でも、精神的ストレスを過度に受けると、十二指腸潰瘍になることがある」わけであるから、「ピロリ菌は十二指腸潰瘍のONスイッチとなる場合もある」という言い方しかできないわけである。

 私の素人目で見ても、消化性潰瘍は、飲酒と喫煙という「生活悪習慣」による発症に心当たりがない場合は、ほとんどが精神的ストレスによる発症ではなかろうかとさえ思う。


■統合失調症者の「病理回避能力」

 今回のO型とA型の差のように、1.5倍くらいの差なら、いくらでも実験の方法・環境の違いによってまだ結果が覆りそうな危うさがあるが、中には、いくら反証しようにもしがたい心身の相関関係というのもある。

 タブーになっていないもので有名なものに、「統合失調症者は関節リウマチになりにくい」というものがある。統合失調症者の関節リウマチ罹患率は、非統合失調症者の1/4にすぎないとの報告がある。

Environmental risk factors differ between rheumatoid arthritis with and without auto-antibodies against cyclic citrullinated peptides
http://arthritis-research.com/content/8/4/R133

 これも前後関係・論理関係が大変難しいのだが、「関節リウマチ患者は統合失調症になりにくい」のではなく、「統合失調症者は関節リウマチになりにくい」というのが通説のようである。ただし、どちらも正しい可能性がある。

 考えてみれば、統合失調症では自我の状態が変容しているのだから、脳神経系による命令系統、神経伝達物質やホルモンの分泌様態などが化学的に変化しているに決まっているはずで、「ある精神疾患に陥ると、身体の状態が変化して、ある病気になりやすくなったり、なりにくくなったりする」というのは、単に当たり前のことを言っているだけだとも言える。

 つまり、「心が変わると体が変わる」、「体が変わると心も変わる」というのは当たり前で、これだとまだ心身二元論的な言い方であるが、よりいっそう私好みの東洋的心身論の言い方で言うと、「心と体に区別はない」あるいは、「心と体とは、同じことを別の言葉で言い換えたものである」という言い方になるわけである。ここから先は、立場によって書き方が異なるだろうが。

 そういう意味では、「血液型(血の化学的構造)が違うと、心が違う」というのは、多少は当たっている部分もあるのであり、ただそれを偏狭な占いや優生思想や差別につなげなければよいのだと思う。

 おそらく、鬱病、社交不安障害、パニック障害なども同じことで、「その人がストレスを受けた際にどの疾患になりやすいかは、血液やホルモンや筋繊維などの遺伝的な形質によって、ある程度は傾向づけることができる」ということまでは、言ってもよいのだろう。

 一方で、これらの鬱や不安障害の一群に共通する点と言えば、統合失調症と違って「自我意識が崩壊しないまま、真正面から精神的ストレスを意識の上で受ける」ために、いわゆる「苦痛感」が常にある点である。これは残酷でもあるが、同時に、「心によって体が変化すること」を現代において意識の上で一番知っている人たちでもあるだろう。我々はこういう人たちを大切にしなければならないと思う。


■戦争遂行のために研究された日本の血液型類型学

 先日、大正や昭和初期の『サンデー毎日』や『週刊朝日』を読んでいたら、血液型による性格分類が当時の日本の医学界、政界、司法界、出版業界などにおいて本気で研究・普及されていた実状が色々と記録されていた。

 例えば、大正十一年七月二十五日発売の『サンデー毎日』では、「ヒトラーにしてもムッソリーニにしても、世界の独裁者はO型だ。近衛文麿首相が優れた能力を見せているのも、O型だからである。ゆえに、我が国も指導者層にO型の人間を置けば、外交に成功し、戦争に勝利することができるだろう」という内容の進言を医学博士らが外務大臣に対しておこなったことが記載されている。

 当時は、日本の軍事的・外交的勝利のためにO型の血を軍部や外務省に結集せよとの風潮があって、中でも新垣恒政ら医学界からの進言が急進的であったようである。この『サンデー毎日』のみならず、「東京日日新聞」、「讀賣新聞」、「毎日新聞」、「朝日新聞」など新聞各紙も、右派・左派に関係なく、このO型優生思想の風潮に加担する論調を展開していた。

 ところが、これには落ちがあって、実はヒトラーはA型だったというのが最近の定説なのだが、当時も、そうと分かったところで、今度は、「やはりA型には天才独裁者が多い。ゆえに、我が国もA型の人材を採用しよう」などという話のすり替えが行われていて、もはや呆気にとられる。

 当時の日本の医者、政治家、法律家などは、当時や今の我々一般国民とは比べ物にならないくらいの、「血液型性格分類教」の信者だったようである。

 さらに、今回のブログの冒頭の件を合わせると、「日本の軍部は銃後の国民よりも十二指腸潰瘍になりやすかった」などという笑い話になってしまう。

 ともかく、大正期・昭和初期の日本によるナチス分析を見ていると、ヒトラーの血液型一つを取っても、雑誌や新聞によってA型だったりO型だったり無茶苦茶で、全く我々日本人には恥というものがなくなったのかというくらいに出鱈目を報道している。このような当時の日本を、ナチス・ドイツが本当に「良き軍事同盟の同志」と信用していたかどうかは、極めて疑わしい限りだと思える。

 そのヒトラー自身が、親衛隊結成やユダヤ人虐殺を実行するにあたり、民族ごとの血液型による性格分類・血液型類型学の研究に邁進したことは知られているが。


■単極性障害と双極性障害は峻別できるという幻想

 私の鬱病観や単極性障害・双極性障害観が、今も変わらず以下の通りであることを添えた上で、少し論じてみたいと思う。

鬱病が鬱病を疎外する〜「本当の鬱病は美しいもの」〜
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/41932955.html

私の考え・思い・持論
http://iwasakijunichi.net/seishin/kangae.html

 鬱や単極性・双極性障害をテーマにしたテレビ番組を時々見る。一昔前に比べて、よく見受けられるようになったのが、「単極性障害と双極性障害の差異の過剰な強調の傾向」だという気がする。

 もちろん、医学界や製薬会社、マスコミがそのブームの中心にいるのは確かだと思うが、私が出会ってきた単極性・双極性障害当事者の中にも、最新の操作主義的・合理的な分類しか知らず、「双極スペクトラム」といった概念を知らなかったり、知っていてもこの考え方を最初から嘲笑・一蹴する人が少なからず見受けられることが、かなり気になっている。

 私はこれについて、基本的に、先に示した戦前の日本の軍部や医学界の多くの上層部の態度と大差ないのではないかと感じ、不安を覚えている。

 それに、私自身は今でも、最近のアメリカ型や日本型の単極性・双極性障害観よりは、クレペリンのような旧ドイツ型や、10〜20年前のアメリカ、特にアキスカルら新クレペリン学派の単極性・双極性障害観のほうが、心優しい考え方、しかも実は日本人にも合った考え方だったと思っている。また、「単極性障害は双極性障害の極値状態である」との考えを持っている。
(確かに、アキスカルの「双極スペクトラム」といった考え方は、薬の処方などの実用性には乏しいかもしれないが、ここでは「精神」についての人としての考え方・態度を問題にしたく思う。)

 テレビで、鬱に陥った人たちが、以前通っていた病院で単極性障害と診断され薬を摂取していたが、病院を変えたところ双極性障害と診断され、「誤診されて苦しんできた今までの人生を返してほしいと前の医者に言いたい」と怒っているのを時々目にする。私はいつも、このような番組を見ると、私の性格から来る気分だと思うのだが、それこそ「これからの日本人の思いやりやマナーは大丈夫だろうか」と鬱になってしまう。

 いつもこういう時に私が問題にしたいと思っているのは、なぜ患者側までも、「人間の鬱で暗い気持ち」の出現メカニズムを「単極性」と「双極性」とに分類する自らの歪んだプラトニズム・二元論的人間観(それはプラトニズムでさえないように思う)を疑わないのか、という点である。

 要するに、前の担当医も今の担当医も、それはそれで「診断基準に基づき、正しい診断をおこなった」に違いないと思うのである。双極スペクトラムの考え方に対する患者側からの強い非難に見られるように、現在は、医者よりも患者のほうが、いわば「診断名のイデア論」や「自身の疾患と他の疾患との壁の実在性」を強く主張・信奉しているケースが、かなり増えているように思う。

 ハワード・ベッカーの“Outsiders”に描かれたようなシカゴ学派のラベリング理論の研究のための「最良の」被験者が、現在の単極性・双極性障害者には多くいるということなのかもしれない。

 私はこのブログで、「本物の鬱」とか「真の鬱」とわざわざ書くことが多いが、その時の「鬱」とは、今書いたような、歪んだプラトニズムに基づく自我意識をもって他者と関係しようとする(医者側だけでなく)鬱病側の人間に対する、茫漠とした寂寥感や絶望感を保っている一部の人間のメランコリア(憂鬱)のことを指している。

 むしろ今は、特にヨーロッパ型の精神病理学の方が、このような「人間の鬱の本質」を分かっているような気がする。日本の精神病理観は、多分に政府やテレビ局や大企業、我々国民自身(医者も患者も含む)が創作して扇動している傾向にあると感じる。


■本質直観による精神病理観

 私の考えは、毎度のごとく変わり映えがしないので、面白くないのかもしれないが、「ある精神疾患への“なりやすさ”は、その疾患に対する我々の自我による命名と同時に現出される」というものである。自分の中では、先ほど述べたハワード・ベッカーの“Outsiders”に描かれたようなラベリング理論を、日本人の極端な大衆迎合性・付和雷同性に即して解釈したものと言えると思っている。

 ただし、もっと言うと、私の見解は、いわゆるギブソンなどのアメリカ型知覚心理学が編み出した「アフォーダンス」の概念とも異なって、少なからず大乗仏教で言う『中論』の「中観」に親和性を持つものであると思う。むろん、ここでは特定の思想・宗教の名前など問題ではないだろうが。

 最新の精神疾患分類を含む疾病リストであるICD-10やDSM-IV-TRは、主に操作主義的に精神疾患が分類されており、大雑把にどのような言い回しが好まれているかと言うと、統合失調症にせよ、解離性障害にせよ、鬱病にせよ、強迫性障害にせよ、「元々遺伝的にその疾患への“なりやすさ”を持って生まれた人が、あとから学校生活・社会生活・家庭生活などでストレスを受けると、その遺伝的形質が発現されて“病理・疾患”として表に現れる」という言い方である。

 一見すると、非常にうまくまとめているし、間違ってはいないとは思うのだが、一方で、まことに都合のよい言い方でもあると思う。これは結局、心身問題(心脳問題)というのは、追究していくと、なぜか一見すると矛盾した結果が導かれ(ある精神疾患Xは先天病でも後天病でもあるという結果)、現在のところ誰にもその答えが分からないので、苦肉の折衷案としての言い回しであろうと思われる。

 このような精神疾患のイメージを持つところまで人類が辿り着いたこと自体は、私は悪くないことだとは思うが、私が本当に関心を持っているのは、その先にあるものである。いや、「その先にあるもの」と書いたが、むしろ、「その前にあったもの」、「高度ストレス社会の前にあったもの」と言った方がよいかもしれない。

 こういう矛盾は、東洋哲学、仏教哲学、禅哲学などから精神疾患を考えている人にとっては、極めて「安心できる」結果だとも言えると思う。

「十二指腸潰瘍を発症させるタイプの精神的ストレスがない社会と時代においては、血液型のA・B・AB・Oそれ自体に“なりやすさ”が備わっているかを我々は認識できない(問うことができない)」と考えれば、我々は、先天・後天論争の大喧嘩を越えられるのではないかというのが、ずっと私の考えてきたことでもあり、このサイトの訪問者との出会いの主旨でもある。

 たとえ、ある人(Aさん)がある精神疾患(X)への「なりやすさ」を持っていたように将来的・事後的に分析されうるとしても、その「なりやすさ」が我々第三者や社会の側の人間(B)の自我の認識上に(X)として現出されない限り、(X)という精神疾患の保因者は、それ以前の時代には実在しない、というのが、私の考えているところである。

 換言すると、「精神疾患」というのは、「在るものに名前が付いたもの」ではなくて、「名前が付くことによって精神疾患の実在がようやく現出されたもの」であると思う。「血液型の差異があったから、その差異による特定病理の発症率に差が出た」のではなく、「特定病理の発症が問題となる社会となったから、血液型の差異が問題となった」ととらえるわけである。

 これは、癌について考えた場合には、極めて現実感を持って分かりやすく感じられる。しばしばテレビ番組で、「医学が発達しているのに、癌が増えた原因は?」という問題が出て、「医学が発達して、人類が長寿になったから」という医者の答えを聞いて、芸能人たちが「ウソー!」と驚いているが、これは現代の先進国民特有の生命観の表れだと思う。むしろ、こういう国民性に歯がゆい思いをしている医者のほうが増え始めたのではないだろうか。

 本来、「癌という病気があるから我々の知性がそれを認識・研究できるのではない」と、私などは思うわけである。

 私は、「元々統合失調症や単極性障害や双極性障害という疾患がこの世にあったから、我々の知性がそれらを発見でき、それらの疾患者が助かるようになった」のではなく、「我々の社会が、そのような人間の分類方法の必要に迫られる社会構造に変容したから、分類として自我のうちに定立し得た」という立場を取ってみたいと思うわけである。

 自分の鬱と躁が単極性障害か双極性障害かのどちらかに分類されなければ我慢ならないと主張する一部の患者、そのような「我慢ならなさ」を持つことの人としての危うさについて注意喚起をすると激高する患者もいて、私もそういう光景を見ていて、どうしても疲れてしまうことがある。

 本来なら、日本人の人間観の保存すべき点と改正すべき点とを冷静に考えていけば、我々は、血液型による性格分類一つを取っても、どこまでを信用しどこまでを疑ってかかるべきかが直観的に分かる、いわばフッサールの言う本質直観に長けた賢い人間でいられるのではないだろうか。

 そういう空気が日本に作られない限り、どうしても私には、「単極性障害と双極性障害の峻別」が「安易な血液型類型学」と同じにしか映らないのであった。

2012年02月10日

私の個人的な発想メモ「電磁気哲学や量子自閉症学の提案」「心と体の話」など

 たぶん、難しめの記事です。どちらかと言うと理系向け。

■2014年8月16日追記
 以下の新しいブログ記事も合わせてご覧下さい。

疑似科学にまつわる懸念 ― 疑似科学ではない超音波知覚と疑似科学である動物駆除超音波装置を例に ―
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/102454374.html


■心と体の密接な関係

 前回の記事では、「地震の数日前から行動が変化する自閉症児の体には、本当に地磁気の歪みが見えているのではないか」という主旨のことを書いたが、地震の話題に限らず、一般に「人体と磁気の関係」は「人体と電気の関係」よりも「実感として分かりにくい」から、ましてや言語障害のある自閉症児と磁気の関係などは、今後も話題にはのぼりにくいと思う。

「人体と電気の関係」ならば、特殊な知覚能力を持つ自閉症者や共感覚者に限らずとも、ドアノブを触ったときに静電気が放電されてバチッと来るなどの嫌な体験のように、普通の五感で体験できる。

 いや、実は、自閉症者や鬱病者や強迫性障害者では、静電気や街中の人工的な音に対する不安感が増すとか、本当に静電気に反応しやすい体になっているといった報告は、海外でもあるようだが、日本でそれを言うと、今でもオカルト科学扱いされる可能性があるから、これ以上は言わないでおこうと思う。

 今のところは、自閉症・共感覚などに関心があり、自身も共感覚を持って生きる岩崎という一人の人間が持っている、自閉症児たちへの敬意や親しみなどの個人的な思いを、いかめしく学問的に語っているのがこのブログ記事だろう、という程度に読まれるだけでも十分ありがたいと思う。


■磁気感知についての二つの仮説

 さて、「自閉症児には磁気の歪みが感じられる」ことが本当ならば、二つのことが考えられる。

 一つは、自閉症児も同じ人間である以上、生物・有機体としての分子・原子組成は一般健常者とほとんど同じなのだが(従って、本当は人間は皆、潜在意識で磁気を感覚していて、地球・家電製品・金属製品などのN極やS極に引っ張られているが)、一般健常者だけが磁気感知能力(というより、ここでは自我による磁気認識)を失い、自閉症児ほどその能力が残っている可能性。

 もう一つは、自閉症・発達障害と呼ばれる一連の症状を生み出すような特定の分子・原子組成やDNA構成、電磁気的な状態の揃い方や乱れ方というものがあって、それが彼らの磁気感知(磁気認識)を実現しているという可能性。つまり、自閉症児や我々のような共感覚者というのは、体の作りが現代の一般多数者とは本当に異なる可能性。

 両仮説のうち、前者のほうは、「人体が磁気に反応すること」と「自我が磁気に反応すること」とを別概念としているが、いずれにせよ、電磁気学的には、「人体が磁気に強く反応する」ためには、「人体に磁場をかけたときに、その人体のうちに多かれ少なかれ磁気モーメントを一定方向にそろえるような機構」が存在していなければおかしいことになる。

 つまり、こういった反応を、自閉症児たちの体は地震予測などにおいて本当にやっているのかどうか、という話になる。とりあえず、自閉症による地震などの自然現象感知だけを例にとるとしても、元々自閉症児が、鉄やコバルトのような強磁性体質を持っていることはあり得ない。

 かと言って、自閉症児の体温は、一般健常者と同じく摂氏36〜37度が多いため、自閉症児の体内の特定の器官の構成粒子がネール温度を超えて、磁場をかければ自由に磁化するような体質になっているわけでもない。

 むろん、鳥類には、実際に体の磁気モーメントが変えられることによって地磁気の乱れを感覚したり、元いた場所に戻ってくることができたりする種が存在するが、自閉症児についてのそのような報告は今のところ聞いたことがない。


■自我・人体と磁気の関係

 電子はマイナスの電荷を帯びているが、電子の軌道運動による磁気モーメント、及び電子自身のスピン磁気モーメント、これらがいわゆる「磁気」の根本にある。我々の自我・自意識というのも、本当はこれらに基づく脳神経系の電磁気的発作を起源としている。

「電場」や「磁場」の「場」というものは、文学表現が嫌いな物理学者には怒られるかもしれないが、本当は、日本語で「間(あひだ・あはひ・ま)」と表わされるような、「空気感」の展開する「場」の意味でも追究可能なものである。電気と磁気は、相互不可分の関係であって、お互いがお互いを生み出すものである。

 ただし、我々の自我を生み出す脳神経系のはたらきは、電気的な視点からは大いに語られるが、磁気的な視点からはあまり語られない。だから、「我々の体は電気に反応する」と言うと、すぐに静電気などを思い浮かべるのに、「我々の体は磁気に反応する」と言うと、途端にオカルト科学じみた不審な発言だという錯覚が起きるようである。

 しかし、もし自閉症児たちの素晴らしい自然観察能力が、一種の電磁誘導のようなものだとしたら、あるいは、反強磁性やほとんど磁化を持たない一種のフェリ磁性における超交換相互作用の崩れへの「気づき」のようなものだとしたら、我々人類が、近現代化の過程で失ってきた我々自身の身体の磁化能力を利用した自然観察力がどのようなものであったかが、本当に分かるのではなかろうか。

 時々、テレビの超能力番組などで、色々な金属を体にくっつける磁石人間などが登場するが、あれが本当かどうかは知らないものの、普通は人体というのは、そんな強磁性体ではあり得ない。

 一方で、私が持っている共感覚を調べるのにもよく使われるMRIという装置は、核磁気共鳴(NMR)を用いた生体内部の画像化の方法である。MRIから出てきたときに、頭がふらついたという精神疾患者や共感覚者を、何人か知っている。(これらの私の知人は、医者から不審に思われたり、逆に医者に迷惑がかかったりすることを心配して、ほとんど誰もそのことを報告していないようである。)

 昨今は、いわゆるリニア新幹線(正式には中央新幹線)が話題だが、これは超電導磁気浮上式リニアモーターを用いたものである。私としては、東京から大阪までどんなルートで走ることになるか、などという政治的な駆け引きよりも、むしろ自閉症児・解離性障害者・我々のような共感覚者がリニア新幹線の車両内などの強磁場空間に入った際に、身体や知覚様態にどんなことが起きるのか、そういったことのほうに関心が深いのである。


■心の悲しみは体の悲しみ

 少し横道にそれる。「心が痛いのは体が痛いから」だとか、「体が痛いのは心が痛いから」だと言うと、一笑に付されるのではないかと不安なのだが、私は、知人・友人である自閉症児の素晴らしい自然観察力、鬱病者や解離性障害者などの綺麗な心を見ていると、どうしてもそのような考えや人間観に至る。

 もっと言うと、「ある人の心が優しいのは、その人の心臓や肺や腸が優しいから」だと思うし、「人の悲しみを一緒になって泣ける美しい人は、きっと血や骨や細胞が美しい」のだろうとも思うのである。

 この「綺麗」とか「優しい」とか「美しい」とかいうのは、何も「タバコを吸ってないから肺が綺麗だ」とか、「髪をきちんと洗っている」とか、「トマトをよく食べるので血がサラサラだ」とか、「美人だ」などという意味で言っているのではない。そうかと言って、心臓や腸や骨を擬人化して言っているのとも違っている。ともかく、いわゆる哲学用語の「純粋直観」のような直観で、このようなことを思うわけである。


■アニミズム的・汎神論的な電磁気学・量子論の提案

 この私の考え方は、言葉を変えると、「究極のアニミズム」とか、「究極の汎神論」とも言えるかもしれない。だから、私にとっては例えば、量子論を理解するのに、普段親しんでいる和歌文学の心を取り入れてみたらうまく理解できた、というようなことが成立している。私の高じた物理学趣味は、文系人間の果てにあるものとしての物理学であると言えそうだ。

 例えば、「心が優しい人であるのは、その人の体の分子・原子の動きが優しいから」だと思うし、「人の悲しみを一緒になって泣いてあげている人の体の中では、きっと分子・原子も一緒になって震えて、涙を流している」のだろうとも思うのである。

 ここまで来ると、いよいよ本当におかしな人だと思われそうだが、私の言っていることは、私の知る自閉症児たちにとっては、案外、人気と言うのか、安心の薬になっているようなので、むしろ、書くことをやめるわけにいかないというような類のものだと身勝手ながら思っている。

 私の場合、「自閉症児の心がなぜか分かる(見える)」とか「原子核や電子の震えを共感覚で実感する」といった私自身の「純粋直観」が先にあって、その後でマクスウェル方程式やシュレーディンガー方程式などを理解したという経緯がある。

 例えば、電子が磁気を帯びる要因には、軌道運動による磁気モーメント、及び電子自身のスピン磁気モーメントがあるが、これらの揃い方や乱れ方の一つ一つの積み重ねが、我々の「自我」であって、自閉症や鬱病というものは、本当は人体の変化が追いつかないほど急速に発展する現代社会に対する「正当な」電磁的・量子的状態であるという方向から、私は電磁気学や量子論を理解した。

 こういう感性、こういう物事のとらえ方は、元を辿れば、私が小学生だった頃からあった気がするし、僭越ながら、こういう感性があるからこそ、私は自閉症児・発達障害児の心に非常に親しみを感じたり、彼らとすぐに仲良くなれるのではないかと思っている。

 しばしば、電車の中などで、「将来的に、電磁気哲学や量子自閉症学といった分野を作れないだろうか」と、ふと考えている自分がいる。ただ、自閉症・発達障害・共感覚などの分野における私の主な夢は、基本的に「語り合う」ことであって、しかも、文系学問を中心に語り合うことであり、難解な理系学問の土俵に持って上がることではないから、基本的には「高じてしまった趣味」として、物理学をやっているという状況ではある。これからもそうだと思う。


■自閉症児の感性の証明

 それにしても、大震災後になって焦ったかのように「絆、絆」と言い始めた我々をよそに、元より大自然との「絆」を黙って持っていた自閉症児たちから、自分は学ぶところがまだあると考えている。けれども、学問的(特に自然科学的)態度としては、残念ながらそれだけではまずいことになるとも感じている。

「自閉症児は本当は素晴らしい感性の持ち主である」と、たとえ自分では思っていても、それはこのサイトに来てくれる自閉症児たちや特殊な心身の感性の持ち主と私との間の関係であって、このような文学表現を伴う自閉症観をあまり良くは思わなかった学者とも将来的に対等に渡り合っていくには、どうしても、私が学者に自分の共感覚を説明するときに通過してきた色々な苦労や思い出と同じことを経験する必要があるとも思っている。つまり、「自閉症児の自然観察力は素晴らしい」という曖昧な文学表現を論理的に説明するだけの神経学的・理論物理学的知性をこちらも持たなければならないと思っている。

 これは、私が実際に叶えたい夢でもあるし、既存の学者に対する礼儀でもあるかもしれない。

 一概には言えないが、かなり大まかに言えば、天体や地球の動きなどの巨視的・大局的な視点においては、世界を記述するものは物理学であって、これはアインシュタインの相対性理論に代表される。そして、地球上に住む生物・有機物・我々の人体などの記述は、まずは化学的な文脈によって行われるものである。

 ところが、さらに微視的な視点が精神医学や認知心理学などの分野にも適用されるようになって、私としては、人間は自分の体が電磁気的・量子論的に、つまりは物理学的にいかなる状態のときに暗い気持ちになるのか、嬉しい気持ちになるのか、人を愛するのか、人を嫌いになるのか、とも考えるようになった。


■人間の原初の姿としての自閉症

 私は、これまでにも何度も書いてきたが、「我々人類は、文法言語や近代的自我を持たなかった時代には、皆がそれなりに自閉症的であった。このことは、電磁気的・量子論的にそうであった」という考えを持っている。

 いわば、電磁相互作用が束縛している原子の「乱れ方」に対する認識能力のうちの一番強いものを、我々は逆に「障害」と見なして「自閉症」と呼んでいるにすぎないのではないか、ということである。

 そして、その自閉症のさらに昔の彼方に、我々人類と動物との接点があると考えている。むろん、これは証明済みでも何でもなく、私の「純粋直観」のようなものにすぎないが。しかし、我々人間の自我というものを、電磁気学的・量子論的な一瞬の乱れ、いわば超交換相互作用の一瞬の破綻などを始原として記述できるような、ある種の部分関数のことである、としてみた上で、私はこれからも自分の発想を楽しんでみたいと考えている。

「自閉症や発達障害は、動物としての人間の原初の姿である」という私のような人間観・世界観を持っている人、そして、その考え方を公表している人が、日本にどれだけいらっしゃるかは詳しく知らないが、少なくとも私はこの考え方や思いで歩んでいければと思っている。


■補足

 ところで・・・、前々回の記事で、地震予測をブログに載せてみようと書いたが、載せるのではなく、将来のためにデータとして溜めていこうと思う。ただし、震度6弱以上の大地震が予測された場合は、なるべくその旨をブログに載せようと思う。

2011年10月12日

自閉症・現代物理学・仏教哲学・日本の心についての一考(その三)

(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48297838.html
(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48359342.html

続き。

■自閉症者の世界認識

 さて、これまで、古典物理学・ニュートン力学というものが内包する「因果律的決定論」のいわば「人類史上における特殊性」について、自閉症・サヴァン症候群診断に多用される「心の理論」などを例に述べてきた。

 そして、このような決定論がなぜ生じたかを分析する際に、「我々人間自身にそのような決定論を正当であると感じさせるような五感様態を我々自身が有するようになったため」であるとするのが私の見方であることも書いてみた。

 自閉症者たちの世界観は、一見すると確かに不可解である。「心の理論」問題にはうまく答えられない。ところが、先の例(色のカード、足への接触)のように、健常者が解釈をこじつけるところでは、かえって「緑を見たのは過去でも現在でもある」などと、「ありのままを正しく」答えることがある。

 あるいは、自閉症者は「時間と空間の区別が分からない」と訴えることもある。ところが、時間と空間が「同一概念の別称化」にすぎないという「物理学的事実」を体感していたのは、自閉症的傾向を持っていたであろう物理学者アインシュタインその人であった。

 先の私の対女性共感覚も、例えば(3)(1)(4)(2)などという順序で私に体感されることがある点などを見れば、まさに「自閉症的世界知覚」であると言えそうだ。これもまた、相対性理論的・量子力学的に(そればかりか科学全般的に)「正しい」可能性を秘めていると私は考えている。


■岡潔の言う「浅い心」と「深い心」

 さて、久松真一が『東洋的無』において述べた「愛をも絶する」境地としての「東洋的無我」というものに、(自閉症的傾向を持っていたであろう)日本人の物理学者や数学者がいかにして達してきたのかについて、私が最も好きな数学者である岡潔を例に述べてみたい。

 今の私の人生29年間の仏教観は、『中論』や『成唯識論』が基軸であり、かつ「唯識」を「中観」のレトリック、「禅」を「中観」の実践と考えているが、どうしてそうなるか、その詳細は省きたい。

 ともかく、仏教哲学(ここでは、私なりに、主に禅・中観・唯識思想を指す)が最初から一貫してニュートン力学的な因果律的決定論(あるいは、アインシュタインでさえ陥ったそれ)を退けている点が、自閉症者やサヴァン症候群者にとって親和的にはたらくのではないか、という私の考えを書いてみたい。

yuishikizu_wiki.jpg ここに順に、本来的な唯識思想の模式図(最初の二つ。二つ目は、鎌田茂雄著『華厳の思想』より)、岡潔が晩年に達観したと主張した「西洋と東洋の心の構造の違い」の図、私の作成した「西洋と東洋の心の構造の違い」の図を掲げる。

 岡潔は、(私が氏の仏教論や自伝的な書を読む限り)あからさまなアスペルガー・サヴァン症候群的な性格の持ち主であるのはもちろん、散歩中に突然石で地面に数式や言葉を書き始めるなど、奇行の数学者として知られる。

 私にとって岡潔の興味深いところは、「自分が数学者になったのは、著名になるためではない。西洋人のものの考え方を知るためである」とそこかしこで述べている点である。

kegonnoshiso104.jpg 岡潔によれば、なんと(西洋の学問である数学を自ら究めた結果として、かつ、自分の日本的情緒から出る直観的な結果として、)「西洋人の心は浅く、東洋人の心は深い」という結論に至ったという。しかも、西洋人の浅い心を「第一の心」、東洋人の深い心を「第二の心」と名付け、戦後日本人は「第一の心」ばかりを見てきた(日本的な日本人ではない)としている。

 さらに興味深いことに、岡潔は、(日本的な)日本の心の構造を数学と直観の両面から調べた結果、日本の心の規定を成す「情(情緒)」の深さの前には、同じ東洋の思想たる仏教でさえ無力で不十分だと述べ、「真情」としての「日本の心(情)」なるものを図の一番底に置いている。

 岡潔は、「日本の心は人間全般の心」である、すなわち「日本は世界である」と言わんばかりである。岡潔によると、近代西洋人には「真情」というものがないらしい。そういうことを自らの数学と日本的情緒から見い出したと岡潔は述べている。


yuishikizu_okakiyoshi.jpg■岡潔の唯識思想への私なりの注文点

 実は私は、岡潔の「脳局在論に基づく因果律としての日本的情緒」の考え方には、かなり異論があると言える。なぜなら、岡潔は、前頭葉を自我意識、側頭葉(今の右脳・左脳に対する岡潔の呼び方)を機械室と呼び、「戦後日本は機械室ばかりを教育し、日本的情緒をないがしろにしてきた」と批判し、日本的情緒というものは前頭葉によって側頭葉をコントロールすることで発生すると見ている。つまり、岡潔は、前頭葉以外の脳部位を前頭葉に対して従属的・補助的に扱っている。

(私が読む限り、岡潔の脳局在論の主張と図とは、あまり合っていない。むしろ、図の方が正しいように思える。)

 これに対して私の場合は、「脳や内臓の各部位どうしには、ニュートン力学的な因果関係・上意下達関係は存在しない」と考える。

 自我意識・知性の座たる前頭葉とそれ以外の大脳部位、さらには脳とそれ以外の身体部位とに機能差がないと達観すること。すなわち、随意的思惟・意識と不随意的五感・感覚とが同時に脳と身体の全体に確率分布しているのみであると知ること。我々が大脳の前頭葉を「観測」した瞬間、そこに自我意識が収束・可視化されるのみであると悟ること。

 私の場合は、こういった考え方を、脳で成すまでもなく、内臓で体感している「情態」を、「日本の心」と言うのだと考えているし、仏教の真如(真理)に向かう考え方だと考えている。「懐かしさ」や「はかなさ」や「恋」などもそこから出てくると考えている。

yuishikizu_iwasaki.jpg 私の場合は、たとえかなり譲歩して「脳局在論」を認めたとしても、岡潔が「日本的情緒」と呼んだ情感は、前頭葉ではなく、むしろ側頭葉(聴覚そのもの)や頭頂葉(体性感覚そのもの)や視覚・味覚・嗅覚、あるいはそれらの五感と前頭葉の融合感覚(共感覚)こそが、日本的情緒や非西洋的先住民族文化を生み出したと考えている。

 本来の禅・中観・唯識思想も、岡潔のようなことは言っておらず、私の主張の方に近いと言える。唯識ではどう考えるかと言うと、「五感は意識であり、思惟である」と考える。つまり、「五感(五識)」(知覚)は「意識」や「思惟」の下位プロセスであるという考え方を拒否する。

 だから、正しくは、岡潔の図の「五感」と「意識」とは横並びでなければならない。これが私の唯識思想分析から見た岡潔の図への注文である。(巷の唯識思想の解説においても、意識を五識の真下に置く図が見受けられるが、これも同じ理由で「悪くはないが不十分」だというのが私見である。)

「日本の心を説明するには仏教(日本にとっては外来の思想)でさえ不十分であると感じられる」のは、岡潔も私も同じだが、その理由として、岡潔は、「仏教の識(岡潔による図のマナ識やアラヤ識。意味の解説は後述)よりも縦方向(鉛直方向)に深いのが日本の心であるから」と考えている。

 私は、「仏教が説明している同じ心は元々縄文・弥生的自然信仰(アニミズム・シャーマニズム)にもあったので、わざわざ仏教用語で説明すると、悪くはないが野暮になってしまうから」と考えている。

 事実、仏教が初めて輸入された時、「日本」という国号も概念もまだなく、「一つのヤマト文化を共有する民族共同体」という意識を持つ人々のいた地理的範囲は今の日本の国土の半分以下であった上に、唯識思想が法相宗(南都六宗の一つ)の教義として日本に広まるのはさらに後世であるなど、唯識思想と岡潔の言う「日本の心」とは、元より歴史的に別々の動きをしているのだから、唯識思想の図の中に一要素として「日本の心」を描き込む岡潔の行為には、かなり無理な奇抜性があるだろう。

 さらに私は、岡潔のように「西洋人は東洋人・日本人よりも心が浅い」という趣旨の主張をする東洋人・日本人有識者を見る際、その有識者が「今の」や「昔の」といった修飾語句をきちんと用いているかどうかを分析する態度を忘れないように留意している。

 どういうことかと言うと、「今の日本人は、昔以上に価値観が西洋人と大差なくなっている」とか、「岡潔の言う深い心を西洋人が持っていた時代も昔はあった」という言い方をするだけで、随分と知的で冷静な(それこそ科学的な)目線でいられると感じるからである。


■岡潔の達観

 しかし、ここで強調したいのは、岡潔のそんな些細な世界史・仏教史上の知識ミスではなく、岡潔が気づいた、洋の東西での「心の構造要素の積み上げ方」の違いである。数学という西洋人のものの考え方を知り尽くしたこの日本人が、数学と仏教の両方を人生をかけて精査した結果、「西洋の心は浅く、東洋の心は深く、しかも日本の心は仏教でさえ達し得ない深さにある」と言ったのは、それなりに切実で、看過しがたい重みがある。

(こういう発言は、例えば松下幸之助の「水道哲学」を批判して松下幸之助本人に仏教論を持ちかけた中で言うなどしたため、奇行の一種としてもとらえられたようである。)

 西洋では、おおまかに分けただけでも「感覚・知覚・認識・認知・思惟・感情」といった段階説をとり、これらを下から順に積み上げ、逆に上から順に欠けていくのを「アスペルガー症候群」や「自閉症」や「動物」とする。だから、西洋の精神病理学や量子脳理論によれば、「自閉症者は、五感があって感情がない」とか「動物は、かろうじて認知能力はあるが思惟しない」という分析になる。

 先の「心の理論」の無理解者としての自閉症が西洋の論文で用いられた場合は、「五感があって思惟・思考がない人間」のことを指している。岡潔の図に同じことを言わせると、西洋では「自閉症者には、友だちどうしでケンカをする本能的な競争心はあっても、知識に乏しく、感情はもっと乏しい」ことになる。むろん、岡潔も私も、このようなものの見方に異論があるわけである。


■現行の未分化的体感としての唯識

 唯識思想では、これらの要素は全て現行(げんぎょう)(五感プラス意識=六識)として刹那滅(せつなめつ)の原理の元に阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)を反復していると見る。

 阿頼耶識というのは、我々の身体に宿る、素粒子・アメーバ・霊長類時代から今の身体に至る全ての記憶の「薫習(くんじゅう)」された「場」で、本能である末那識の底にある。五感や自己意識というものは、自己の身体によるこの阿頼耶識の参照であると見なす。

 このようなことが「ごく普通に」起こっている身体が、自閉症者やサヴァン症候群者の身体であろう、というのが私の考えである。彼らは、どの情報を採ってどの情報を切り捨てるか、ということを意識・思考しない。

 その一の記事の交通事故の例で言えば、「事故車両は走行中に時間が遅れ、これを構成する量子としての素粒子の位置と運動量が同時に確定できない」という量子力学的事実と、「今事故を起こした人物はこの人で、事故車両はこれである」というニュートン力学的事実の両方を「知覚」してしまい、いずれが近現代的五感に立脚する法治国家における交通事故処理にとって「正しいか」が判断できない。

 自閉症のサヴァンには、「今見た情報」どころか、「西暦何年何月何日に見た情報」なども写真のように覚えていたりする(カレンダー記憶など)人もいる。

 だから、彼らにとっては、「五感で知覚」したものがそのまま「思考・思惟・意識」であると言えるのではないだろうか。「外界の情報」をそのまま「受け取る」ということは、「素粒子は粒子性と波動性の両方を持つ」などということも最初から「見えて」いるかもしれない。これが自閉症者たちの世界認識であると、私は見ている。

 このように、「あらゆる情報」を知覚してしまい、現代社会生活になじめないことが自閉症の特色だが、この「あらゆる情報」を唯識思想の「現行(げんぎょう)」だと考えれば、自閉症とは「五感が意識に同一である状態」、「内臓感覚がモノを考えている状態」を言うことになり、これを私は「古代人一般の標準的外界認識」であったとするわけである。

 私の対女性共感覚も同じことだと考えていて、私は、「女性の排卵を知覚する」ことと「女性の排卵を思惟する」こととが同一であることが(人間を含めた)動物のオスの共有本能(本有種子(ほんぬしゅうじ))であり、ほとんどの現代人男性の「現行」が阿頼耶識を参照していないだけにすぎないと見なすので、先の(1)から(4)の前後関係が「逆転する」ことの方が「科学的真実」であるのは当たり前だと感じられる。


■西洋ペイガニズムへの懐古

 実は、キリスト教文明が世界制覇する以前の原始キリスト教、あるいは西洋にキリスト教が誕生する前のアニミズム(いわゆる侮蔑表現で言う「ペイガニズム」)にも同じ世界観があったと見ている西洋人はおり、動物行動学者のジェインズなどは、「今の統合失調症者の精神構造は古代人一般の精神構造に同一である」などと主張したことがある。

 実際のところ、宗教としてのキリスト教が他宗教を排撃するための侮蔑表現として「ペイガニズム」や「アニミズム」といった用語を生み出した歴史的経緯があるにもかかわらず、イエス・キリストそのもの、聖書そのものは、極めてペイガニズム的、アニミズム的な要素を含んでいるように見える。

(キリスト自身は、何も世界の宗教を一神教と多神教とに分別したわけではない。分別したのは宗教としてのキリスト教である。)

 私も同じような発想をしており、「現代の自閉症者やサヴァン症候群者の世界認識の方が、西洋原始人及び近世以前の日本人全般の通常の世界認識であった」と見ている。これは、解離性障害についても同様で、古代日本女性の通常の世界認識が今の解離性障害であり、また日本女性の全員が「巫女」と呼ばれていた時代があったという折口信夫や中山太郎の説を私は支持するものである。

「人間以外の動物はエピソード記憶を持たない」という脳科学全般の合意がある。例えば、自分の子どもがいつ生まれたかということも、動物の母親は覚えていない「かのように観察される」。

 ところが、私はそうは思わない。実際には、重度自閉症者や動物というのは、外界で生起しているあらゆる物理現象(相対性理論的・量子力学的・不完全性定理的な現象)と「現行」とが一致している境地、すなわち、「切り捨てているエピソード記憶や物理理論が一つもなく、全てが無意識の深層(阿頼耶識(あらやしき))に保存される」(現行薫種子(げんぎょうくんしゅうじ))と考えるわけである。

 本来の唯識思想家は、「切り捨てない主体」が「人間の脳」であるとは限らず、動物の脳であってもよく、植物や岩石であってもよく、さらに素粒子一個が主体となるような「五感(感覚)」や「意識」があると考える。さらにそこから前戻って、素粒子が量子として二重性(粒子性と波動性)を持つのと全く同様に、人間の自己と身体も実体性と非実体性の二重性を同時に持つと考える。


■「愛をも絶する」愛としての禅的中観の境

 ここに「中観」なる境地が生じてくることになる。「中観」とは、量子力学的な「真空」状態に「仮観」としての素粒子の「はたらき」を持たせることを指す、というのが私の言い方である。

「中観」の言う「はたらき」を持たせる主体が、唯識思想家に言わせても、西洋の一神教的な超越理念としての神には当たらないとする点、すなわち、アニミズム的・「ペイガニズム」的・多神教的自然信仰の全ての体験と記憶とを薫習する阿頼耶識だとする点は重要である。

 言い換えると、「中観」とは、その「人間や動植物や素粒子などの自己や身体や構造が実体性と非実体性の二重性を同時に持つと考える自己(識)だけは実在すると見なす境地(唯識無境)」を最終的に「空」と諦観しつつ(空観)、「仮」の実体としての他者・自然界と関係して(仮観)生き続ける境地のことである。

 すなわち、「中観」の「中」とは、「中庸」の「中」でもあり、かつ「的中」の「中」でもある。「有る」に対して「無い」と言う時の「無」は、「空(くう)」とは異なっている。だから、「本来の唯識思想は必ず中観を志向する(境識倶泯(きょうしきくみん))」というのが、私の考えである。この「中観」の実践に当たるものが「禅」であると私は考える。

 このような禅的境地としての「絶対無」こそ、先の『東洋的無』(久松真一)においてうまく説明されているものだろう。彼は、「東洋的無我」は「愛をも絶する」と述べている。まことにその通りだと思う。

 先にも書いたが、重度の自閉症者・サヴァン症候群者には「心などない」と言われてきたし、マニュアルにもはっきりとこの言葉遣いで書かれていた。ましてや、「愛などというものは一生知らずに終える」と思われているかもしれない。ところが、ここで言う「愛」とは、岡潔の西洋の図の最上部の「情」であって、東洋の図の「情」ではないだろう。

 私の考えでは、自閉症者には「現代の人間愛」がないだけである。非常に分かりやすく言って、「最重度の自閉症者は、相対的に人間への愛が希薄だと観察されるほど有り余る動植物・自然界への愛のために、本能的に西洋近代的な自己を閉じているのである」としてもよいと思う。

 有り余る愛は、絶された愛に同じであり得るだろう。「人間愛」や「隣人愛」を超えて、いや、超えるのではなく人間の原点に前戻る形で「中観」される「動植物愛」や「素粒子愛」や「宇宙愛」のことを、久松真一は「愛をも絶する」「東洋的無」と言い、岡潔は「戦後日本人がどこかに捨ててきた」「日本の心」と言ったのではないだろうか。

 そして、私は、「数学は西洋の学問として発生したが、やがて西洋の心の浅さに対する日本的情緒の深さが実際に数学的に証明できる」と岡潔が主張していたのと同じ原理で、「いわゆる鬱なる精神様態は日本的真情の表明であって、それがそのまま人間普遍の心理であった時代が過去にあることが、物理学的・数学的に証明できる(むしろ、それが物理学的・数学的に正しい)だろう」というような直観があってもおかしくないだろうと思う。

 私には、岡潔は紛れもなく『中論』と『成唯識論』に書いてあることに、数式を持って帰ってきた、極めて少ない日本人自然科学者の一人であると感じられる。そして、もっと重度の自閉症者たちは、いわば数式を持たずに禅的境地・中観の境地のうちにひたすらとどまる。彼らは、禅的境地・中観の境地に至るまでに、唯識思想というレトリックさえ必要としていないと、私には感じられる。

■参考文献
『岡潔集』 学術出版会、2008
『情緒の教育』 岡潔、燈影舎、2001
『情緒と創造』 岡潔、講談社、2002
『春宵十話』 光文社、2006
『情緒と日本人』 岡潔、PHP研究所、2008
『華厳の思想』 鎌田茂雄、講談社、1988
『東洋的無』 久松真一、講談社、1987

■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/6251/kouen.html

2011年10月07日

自閉症・現代物理学・仏教哲学・日本の心についての一考(その二)

toyotekimu.jpg(その一)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48297838.html

(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48435988.html

■「心の理論」

 以上、(その一)で書いたことをまとめると、こうなると思う。

 いわゆる現代物理学を生み出してきた物理学者たち、例えばアインシュタインは、(今の義務教育の算数・数学から始まってニュートン力学までを習得するという)初歩的知識の積み上げの順を追って相対性理論を「発明した」のではなく、相対性理論を「五感で元々知っていた」から「発露できた」のではないか。「発露」のために足りない「言葉」が物理学用語であったというだけではなかろうか。(実際にアインシュタインは、初歩の物理学・数学能力に問題があったらしい。)

 そして、現代においてアスペルガー症候群・サヴァン症候群などと呼ばれる世界認識様態がアインシュタインらにあったと考えれば、それよりもさらに重度の自閉症者・サヴァン症候群者などは、相対性理論のその先(量子力学・不完全性定理など)さえ「体感」として持っていると考えることができるのではないか。

 しばしば自閉症者・サヴァン症候群者について、「心の理論」が理解できない人たちだという言われ方をする。以下の「サリーとアン課題」が有名である。

1.サリーとアンが部屋で一緒に遊んでいた。
2.サリーはボールをカゴ(中が見える)の中に入れて部屋を出ていった。
3.サリーがいない間にアンがボールを箱(中が見えない)の中に移した。
4.サリーが部屋に戻ってきた。
質問:サリーはボールがどこにあると思うか?

 現代の定型発達者(健常者)にとって正解は「カゴの中」だが、自閉症者たちの最も一般的な回答では、「分からない」や「ボールは消えた」が多く、次いで「箱」、そして「カゴ」となる。

 ところが、少しミクロの世界(例えば、脳神経系のふるまい)になっただけで、健常者とて自閉症者を笑っている場合でなくなることは、その一の記事に示した通りである。「緑と赤、どちらを先に見たか?」「同時です」。「まずどちらの足に触れられたか?」「右足です」。これら「本当のような嘘」が、現代の「自閉症でない」健常者の「正しい世界認識」とされる。

 先に述べたように、現代の健常者は、決定論やニュートンの運動方程式の方がどうしても「五感・体感」として「自然に感じられる」ために、「心の理論」や先の例(色のカード、足への接触)に対してニュートン力学的に理由を与えようとする。

「心の理論」のように、自分たちの五感・意識にとって自明的な「正しさ」については、これが理解できない相手方を「自閉症」と名付けている。一方、先の例のように、自分たちにとって不可解な現象については、自分方に都合のよい解釈を考える。

 それが、「経験の繰り上げ(下げ)」や「時間の繰り上げ(下げ)」と言われるものだ。色のカードの例だと、「赤を見てから緑と赤を一緒に意識に上げた」という解釈が主流である。先に挙げた私の対女性共感覚についても、おそらく「経験と時間の繰り上げ(下げ)説」が適用されることになるだろう。

 これらの「表向きは健常な回答」は、「ニュートン力学的・常識的な五感と意識において正しい」だけであって、「量子力学的・自閉症的・共感覚的な五感と意識においてはそうとは限らない」ことに、もっと目を向けたいと私は考える。

 前者の「正しさ」は、例えば、「自己(回答者)」と「他者(サリー・アン)」が全て別個の物理的実体・独立の素粒子結合体であるという「量子力学的には特殊な事態」を我々現代人の脳のニューロンが仮に幻想し、かつそのことが幻想であることを意識するためのニューロン活動が淘汰され停止していることのみによって、保証されている。

 ところが、「ボール」を「素粒子一個」に置き換えてみれば、たちまち自閉症者たちの答えが「名答」となる。自閉症者たちは、いわば本能的に「シュレーディンガーの猫」や「コペンハーゲン解釈」を「心で」議論しているのだと思う。

 むろん、量子力学は、そのようなミクロの世界に適用するのが一般ではあるが、これから述べる禅・中観・唯識では、いかに巨視的・可視的な物理現象であっても、実体的実在を問えない東洋的絶対無の境地があると見る。

 現代の定型発達者の五感が「古典力学系」であるのに対して、自閉症者の五感が「量子力学系」であるというのは、さらに詳しく見ていくと、どういうことを意味するのだろうか。前者は、あらゆる物理現象を絶対時空間内の因果律・決定論で見る習慣が付いている。だから、外界の情報が、我々の感覚神経から脳のニューロン発火、そして意識に達するまでの過程を、「感覚・知覚・認識・認知・思惟・感情」などに分けて段階説をとっているとも言える。

 量子力学は完全に「思惟」や「知性」の問題と思われ、「体感」としてはどうしても西洋的・古典的因果律に落とし込まなければ気が済まないという「感じ」が頭にあるのが、現代の定型発達者だと言えるだろう。


■東洋的無我と量子力学

 無意識のうちにニュートン力学的五感に合わせて世界をとらえようとするこの「感じ」を人間が覚えるようになったのは、人間史上において近現代にすぎない、しかも西洋人から順にそのようになった、という私の考えは、ずっと一貫しているつもりである。

 ある意味で、「古典力学」の「古典」という用語は正しくないのではないか。「古典力学」は、有史以降の人間の脳が自閉症的・サヴァン的共感覚を失った結果として得た、後天的に限局された「物事の見方」であると私は考える。

 そう考える私としては、むしろ、「なぜ人間の感覚や意識は、外界の過去や未来を正しく見ていないのか」ではなく、「なぜ人間の感覚や意識は、過去や未来という概念を生み出したのか」という問いの方が重要な問題だと感じられる。あるいは、後者の問いしか残らないとも言える。こういうところに、一種の禅的・仏教的な観点から自閉症者の世界認識を考える意義を感じる。

 実際のところ、自閉症者の世界認識では、およそ先のような因果律というものが崩れている。「崩れる」とは、「この世界・宇宙の物理現象を、西洋的自我ではなく、東洋的無我として達観する」ことだと私は考える。

 もっとも、そう言うからには、「世界をありのままに認識する」という全人類に普遍的であるはずの概念がなぜ「自閉症的である」ことになるのか、また「自閉症的である」という無国籍的な概念がなぜ「東洋的である」ことになるのか、また「東洋的である」ことがなぜ「世界をありのままに認識する」ことになるのか、これが論理的に説明できなければならないと思う。そして、この「論理」に当たるものが唯識思想であろうという考えに基づいて、私は唯識思想を見ているつもりである。(この説明については、その三の記事で試みた。)

 禅・中観・唯識思想を一通り学んだ仏教愛好家が皆そういう境地や意見になるかどうかは、私は詳しく知らないのだけれども、少なくとも私としては、「近現代人は相対性理論・量子力学・不確定性原理・不完全性定理への先験的な理解を系統発生・個体発生過程のどこかで切り落としてきた」と考えており、「現在はそれらを西洋的な脳機構によって奪還しようと試みている時代にすぎない」と考えている。

 ところが、ここからが重要で、自閉症や共感覚や自由意志や素粒子を研究している一般の量子脳理論学者や素粒子物理学者が普通はそのような考え方をとっていないことには、留意する必要がある。

「相対性理論的・量子力学的現象は、自然界や我々の身体・脳神経系で起こってはいるが、古代人の五感が知らなかったのはもちろん、現代人の脳にも理論化・数式化して初めて認識されたことで、元々人間の感覚能力を超えた真実を解明するのが物理学や数学だ」と普通は考えるようである。

 換言すると、人類が存在せずとも、この宇宙・この世の中には素粒子という「状態」(量子の粒子性と波動性という二重状態)が成立すると考える。人類が存在せずとも、時空は相対性理論や量子論の通りに変容すると考えるようである。

 むろん、いわゆる「科学(自然科学)」自体の推進力となっているのがこのような考え方であることは、確かだと思う。本当はアインシュタインも、そういう世界観(因果律的決定論)の持ち主であり、そのことがボーアとの論争に関係していることは、よく知られている。

 この点、ボーアは少し違って、量子力学と東洋思想とが渾然一体となった世界観を持っており、素粒子の姿を達観するには「仏陀・老子などの東洋思想家が昔に直面した認識論の問題に立ち返らなければならない」などと述べており、実際にこの世界観がアインシュタインの理論の欠陥を言い当てるまでの正しい道筋となったから、興味深い。

 その一で挙げたニュートリノの件に限らず、私が相対性理論と量子力学、また「場の量子論」と「超ひも理論」、あるいは私自身の共感覚・対女性共感覚などを考える時に、必ず立ち返るところがあり、その一つが、久松真一の『東洋的無』の一節で、そのまま引用しておく。

「私が東洋的無と称しまするものは、限定をも矛盾をも絶する此の現存者であります。而も是は私自身と別にあるものではないのであります。若しも別なものでありまするならば、それは最早現存者ではないのであります。併し、かかる私は既に私とも言へぬ私であります。無我とは斯かる私に外ならぬと思ひます。汝と我とを区別する立場に於ては東洋的無我は成立たないのであります。東洋に於ける無我は、有の立場の否定に於て甫(はじ)めて成立つものであります。通常の愛としての無我は尚有の立場を出でないものであります。東洋的無我は愛をも絶するものと言はなければなりませぬ」

 この東洋的絶対無の境地、そして(私がこれと渾然一体であると見なしている)自閉症的・サヴァン症候群的境地というものは、いわゆる「大統一理論」の構築にとっても欠かせない世界解釈となっていくのではないかとさえ思う。

 もしかすると、未来の物理学や数学の主流は、言語障害ギリギリの自閉症者やサヴァン症候群者や統合失調症者が担っているかもしれない。あるいは、そうであってほしい。私はそう思っている。

 実際に20世紀には、(少なくとも私から見ると)軽度のアスペルガー・サヴァン症候群は持っていると見られるアインシュタインやペレルマンなどが登場したから、21世紀の物理学と数学の発展は、より一層「東洋的・自閉症的無我の懐古」と渾然一体化するかもしれないと私は思う。

 湯川秀樹も自らの理論構築に禅哲学を用いた形跡が多々あるけれども、日本人数学者のうち私が最も好きな岡潔と仏教哲学との関連についての私見を、次に書きたい。そして、最後には、「愛をも絶する」境地としての「東洋的無我」とはいかなるものかについての私見も述べてみたい。

続く。

2011年10月03日

自閉症・現代物理学・仏教哲学・日本の心についての一考(その一)

480px-Einstein1921_by_F_Schmutzer_2.jpg(その二)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48359342.html

(その三)
http://iwasaki-j.sblo.jp/article/48435988.html

質量のある素粒子の光速超え

 9月23日に、ニュートリノ振動検証プロジェクトOPERAのチームが、素粒子ニュートリノが光速を超える速さで移動したことが実験で確認されたと発表した。(2012年7月10日追記:実験方法に不備があったことから、2012年6月8日に実験結果を正式に撤回した。)

 研究チームは、測定誤差の可能性を排除して1万5千回の実験を行い、ほぼ同様の結果となったことを強調しており、もし結果が本当ならアインシュタインの特殊相対性理論と齟齬が出るということで、話題になっている。(理論上は、ニュートリノが未来から現在にやって来ることがあり得ることになるから。)

(日本語プレスリリース)
http://flab.phys.nagoya-u.ac.jp/2011/wp-content/uploads/2011/09/PressReleaseJPlast20110923.pdf

 私が思うに、もし本当だとしても、今後生まれる新理論の相対性理論に対する関係は、相対性理論のニュートン力学に対する関係に同じだろう。

 つまり、相対性理論は極値においてニュートン力学に近似(ニュートン力学を内包)するように、極値において相対性理論に近似(相対性理論を内包)する新理論が生まれるということであって、普通はこれを「相対性理論が間違っていた」という言い方はしないし、(アインシュタインをはじめ様々な科学者たちの意に反して)原爆や原発を生み出した「張本人」であるこの理論が簡単に崩壊することはないと考えられる。


強度共感覚者や重度自閉症者の先験性は科学的先見性

 私は、根っからの人文系人間である上に、自分の中に「共感覚」や「解離感」、「天体や素粒子のふるまいを頭の中で立体的に描く幼少期からの遊び」など、いわば特異な「宇宙」があるものだから、現代物理学(相対性理論や量子力学)についても、まずは自分の身体や仏教哲学(禅・中観・唯識)から入ることの方に面白味を感じる。

 ただし、私が言っているのは、特定の宗教・宗派としてのそれらではなく、前宗教的な仏教哲学としての「仏法解釈」のことで、いわば、釈迦本人、龍樹本人の人間性から出た「物の考え方・世界観」とでも言うべきものを指している。私自身は特定の宗教の信者ではなく、自分のことを「日本的なアニミズムの持ち主、自然信仰者」とだけ思っている。

 そこで話題にしたいのは、勝手な発想ながら、相対性理論の祖アインシュタインや量子力学の祖ハイゼンベルクやボーアといった人たちには、自閉症とまではいかなくとも、共感覚・サヴァン症候群・アスペルガー症候群・離人症などと言えるような感覚や感性があっただろうということである。

 量子力学などの用語(波動方程式など)をあえて使わずに、私のなけなしの日本語能力で大雑把に説明することが可能かどうかは分からないが、以下に、物理学・自閉症論・仏教哲学を内包する私の世界観を説明してみる。

 突然だが私は、強度の「共感覚」や重度の「自閉症」というのは、「現代人の一般的五感」プラス「相対性理論・量子力学」のようなはたらきを持っていると考えている。

 重度自閉症者たちの「身体」は、両理論を基礎として主に現代物理学者が「論理的思惟」によってやっとの思いで手に入れてきた量子脳理論学や素粒子物理学の「物理理論」の役割を元より備えている、すなわち、重度自閉症者たちにおいては「科学的先見性」は「非科学的先験性」に同一である、という考え方である。

 もっと分かりやすく言うと、全ての人間の子どもや動物というのは、元より相対性理論的・量子力学的境地を先験的・前数式的に持って生まれるのだが、便利な科学技術を身体の外に有する近現代人の脳と体だけが「無くとも生活に困らない感覚(共感覚など)」を失っていき、成人の頃には決定論や運動方程式を基礎とするニュートン力学しか「自然だと感じられない」脳と体が形成されるのではないかという仮説である。


現代人の五感のニュートン力学性

 いわゆる「現代人の健常者」の持つ五感・感覚というものは、古典物理学、その中でもニュートン力学の範囲内でしか世界を「見て」いないことは確かだと思う。ここでの「見て」とは、量子力学的な「観測」ではなく、ただの五感的な「目視」「目撃」「聴解」などのことである。それを超えた量子力学などの知的世界は、「思考」「思惟」によって到達するものだと考えられている。

(ニュートン力学は決定論や運動方程式に特徴付けられ、量子力学は確率解釈や波動方程式に特徴付けられる。)

 例えば、道の両側から車どうしが走って来てぶつかった時、警察はわざわざ「自分の目には、自動車及び車内の運転手の人体を構成する素粒子が進行方向に収縮し、素粒子の時間が遅れたと観測されたため、事故の発生時刻及び運転手の年齢を特定できない」などとは考えない。

 つまり、近現代の「常識」や「社会通念」や「法律」、さらに「自己と他者との関係」などの概念は、近現代人の五感とそれに基づく学力・想像力が実は「ニュートン力学程度でしかない」ことによって、うまく機能している。

 量子力学的には「事故車両を構成する素粒子にはアリバイがあり得る」のに、ここでは「事故車両は特定できる」ということの方が「正しい」のだから、ニュートン力学は「現代の先進国民の分裂した五感」において「正しい」、とするのが物理学の在るべき「正統」な姿である、と私も考える。

 同じく、ニュートリノが超光速であったとしても、相対性理論は「現代の先進国の物理学者の分裂した五感による知覚と思惟」において「正しい」とするのが「正しい」、ということに変わりはない、とも考える。冒頭で書いたのは、そういうことのつもりである。

 つまり、「相対性理論が正しいから原爆や原発を作ることができた」のではなく、「原爆や原発を作ることができたから相対性理論は正しい」とする世界観は、後に述べる仏教的境地においてとても重要な世界観だと思う。

 我々現代日本人の五感とそれに基づく学力・想像力が基本的には「ニュートン力学でしかない」という例は、いくらでも挙げることができる。それは、「我々の感覚・意識は、本当はニュートリノを含めた素粒子の確率論的・不確定的ふるまいと全く同じふるまいをしているのに、それが(物理学者から教えられない限り)分からない」という点に如実に現れる。

 例えば、被験者の脳の視覚野を刺激して視界の真ん中に穴が空くようにしておき、穴の周りの背景部分に「青、緑、赤」の順に色のカードを見せると、緑を見たと同時に穴の部分に赤が見えることがある。いわば、緑を見せた段階で赤という未来が見えたことになる。

 また、右脳の体性感覚野の左足をつかさどる部位を直接刺激し、そのまま今度は右足の皮膚に手で触れると、後者の方が「皮膚、感覚神経、左脳」という順に一定の移動時間を要するはずなのに、意識の上では、左足よりも右足を先に触られたと自覚する。いわば、過去と未来の逆転が起こる。電子などの素粒子のふるまいは、もちろんそれら素粒子が構成する脳や神経系のふるまいを形作るわけである。

 これらは、いずれもベンジャミン・リベットをはじめ自由意志研究や量子脳理論学・素粒子物理学の分野で得られた知見である。

 ところが、現代の我々は、「普通に考えてそんなことはあり得ない」とか、「あったとしても信じられない」とか、「あくまでも知識として知った」という「感じ」を受ける。


自閉症やサヴァン症候群(や私の共感覚)の量子力学性

 ところが、そのようなことが「あり得る」ことが「信じられる」「感じ」を最初から持っている「現代人」がいる。例示したようなこと(交通事故や神経系の変化)が起きたときに、それらのあらゆる情報を知覚してしまうために、重要な情報だけを取り出して他は切り捨てるという抽象能力に立脚する現代の社会生活が送れず、パニックを起こす人のことだ。これを我々は「自閉症」や「サヴァン症候群」と呼んでいると私は考えるわけである。

 私の共感覚にも、「自閉症」や「サヴァン症候群」と似たような性質を持つものがある。二冊目の拙著で「対女性共感覚」という私の共感覚を紹介した。

 私が女性の排卵を共感覚で遠方から感知する「感じ」というものは、ニュートン力学を超えてアプリオリに相対性理論的であり、(相対性理論を含めた広義の)古典物理学を超えてアプリオリに量子論的である。そのような時空観・素粒子観を、私の身体だけを用いて体感できる共感覚の筆頭が、対女性共感覚であるのだと考えている。

 実は、この私の自閉症観と同じことをおっしゃっているのが、二冊目の拙著を「動物と感情」などの観点から分析して下さっている松本氏で、以下に一つ、氏による拙著への言及を挙げておく。

「動物と感情」について
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/masson63.html

 この対女性共感覚について、私の神経系や自我のふるまいを波動関数(波動方程式)レベルで考えるとはどういうことかと言うと、「女性の身体から素粒子レベルで排卵情報が発せられた時刻(1)」と「素粒子レベルでの女性の排卵情報が、私の皮膚なり網膜なりに達した時刻(2)」と「女性の排卵情報が素粒子レベルで私の感覚神経・脳を動かし始めたと思われる時刻(私の脳の電位の発生など)(3)」と「女性の排卵情報を素粒子レベルで感知したと私の自己意識が自覚した時刻(4)」とを、今回のニュートリノ実験ほどの精密さで測ってみると、(1)(2)(3)(4)の順番になっておらず、(1)よりも(2)、(2)よりも(3)、(3)よりも(4)が早い場合があるということである。

 多くの自閉症の男性も、現代人の五感にとって常識的な順番になっていないことの方が自然であると体感される身体を持って生きているだろうし、そしてその体感は、相対論的・量子論的にも全く正しいというわけである。

 これは、最終的に「異性とは、いつでも波動関数的・確率論的に立ち現れる他者である」という「東洋的な無我や日本的なはかなさ」を語るのに、絶好のテーマだと私は思っている。この「体感」を、古代日本語で「恋(こひ)」と呼んでいたというのが、私の和歌・古典解釈の態度でもある。

続く。

■画像出典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Einstein1921_by_F_Schmutzer_2.jpg

2011年06月13日

震災のとらえ方

 このところ、当サイトの交流会を色々とやっている。この週末は、二日間で短い交流会を三回おこなった。

 共感覚・鬱・発達障害・強迫性障害・離人症・解離性遁走・解離性同一性障害・統合失調症・人見知り・絶対音感の話などをしている。それぞれのメンバーが必ず上記のどれかを持っている。

 書きたいことはたくさんあるが、一つだけ。

 以下は、参加者たちが、普段周りの人たちからは理解されないと訴えるのに、この交流会ではみんなで同意し合った言葉である。

「今回の震災が起こって、なぜか心が楽になった」
「震災が起こってから一般の日本国民が言い始めた格言的な内容(命は大切だ、など)は、普段から私たちが考えていたことだ」
「震災が起こってから、なんだか一般の人たちも苦しんでいて、みんなが同じ地上に降りてきた」

 私も、「それはよく分かる」と答えた。

 精神科医の斎藤環氏は、95年の阪神大震災発生直後に、率先して外出して人助けに当たったのが、それまで家から出なかった鬱病や引きこもりの人たちであったことを指摘している。(ただし、普段私は、斎藤氏の精神病理観の全てに賛同しているわけではないのだが。)

 今回の東日本大震災でも、まず最初に騒いだり、パニックになったり、東電に対して恫喝・非難したのが、本当にそれまでごく普通に会社に行くことができていた人々に違いないということは、普段から共感覚や発達障害、精神疾患などの特殊な事態に生きている人たちにとっては、わりと容易に想像がつくものなのだと思う。

 ある方は、それまで統合失調症だと診断されてきた患者が、一転して、震災でうろたえていた健常者の日常生活を手助けした例を教えて下さった。自分たちのように心の病気にならずに、バリバリと会社員ができるくらいだから、ものすごい精神力を持っているのかと思いきや、なぜ自然災害ではそういう人から順番に倒れて寝込んでいくのか、不思議でたまらない、と述べていた。

 姉が会社の正社員で、妹が解離性障害で何年も闘ってきた、姉妹のお母様からも、同様のメールを頂いた。

「このたびの震災で、妹は心が穏やかになったと訴えます。姉は、自分の会社がつぶれることを心配して機嫌が悪いです。姉のほうをどうにかして下さい。妹は、周りの人たちがなぜか私の目線に降りてきた、と言います。どういう意味でしょうか」

 これについては、「これでやっと、今まで妹をいじめていたお姉さんは、妹の心を理解していくと思います。どちらも褒めてあげて下さい」と答えておいた。私は精神科医でもカウンセラーでもないし、これしか答えてはいけない気がした。

 人間の心の問題や命の問題、そして人間が先験的に体得しているべきアフォリズム(命は大切だ、自然は偉大だ、など)に、人生上の大事件が起こってから気づく人と、起こる前から考えている人と、両者が併存しているのが現代日本社会なのだと、改めて思う。

「仕事での表面上の苦労」と「自己の存在の苦脳」とを比べて、普段前者を「人間の苦労」だと思って生きているか、または前者しか脳が認識していない状態に生きていると、大災害などが起こった時に、まずはそういう人から先に急性症状を呈して倒れていくという現実は、かなり滑稽ではあるけれども、笑って済ませられるような話ではないと思う。

 ただし、「震災で心が楽になったなどとは、なんと不謹慎なことを言うのか!」と言われないためにも、言い方には気をつけなければならないという議論、そして、どういう言い方をするのが適切かという議論もした。なぜなら、言い方には気をつけなければならないけれども、言わなければならない大切なことである気がするからだ。

2010年12月21日

「生(せい)の哲学」

449px-Nietzsche1882.jpg 先日掲載した以下のページに出てくる「生の哲学」は、「なまのてつがく」ではなく、「せいのてつがく」という哲学用語です。つい使ってしまい、申し訳ないです。

http://iwasakijunichi.net/seishin/

 このページをお読み下さった共感覚者の方々から、「岩崎さんの共感覚の語り方って、まさにナマの人生哲学ですね!」というご意見があったので、一応書いてみました。でも、不思議と的を射たご意見だと思いますし、何となくおっしゃりたいことは分かりますね。何だかほほえましいことですし、褒められると嬉しいのですが・・・。

 しかし、学問としての哲学における「生の哲学」は、また違った意味を持っているのです。

 私としては、「日本人の鬱や共感覚をこの生の哲学の観点から語る人がもっといてもいいと思うし、自分もその観点から語っていきたい」という内容を書いているわけです。難解ですみません。

「生の哲学」は、西洋では、最初は哲学ではなく、文学的エッセイとして現れました。次第に、反主知主義・反実証主義・反キリスト教・反機械論・反哲学といったイデオロギーとして確立し、やがて「生の哲学」自体が一つの哲学になった感はありますが、日本・東洋では、「生の哲学」的な思想というのは、ある意味で人間の実存の自然なあり方として、生活に密着した歴史を持ってきたと言えるでしょう。

 事実、「科学もまた一つの宗教である」(科学が悪いと言っているのではない)、「仏教は宗教ではない」といった、僕が持っている考え方自体が、西洋の「生の哲学」者たちの主張するところと同じ洞察・立場に立っています。

 ソクラテス以来ヘーゲルに至るまでの従来の西洋哲学では、「生の哲学」的な考え方のほうが異端であったわけです。「生の哲学」とは、本来は「反哲学」です。僕は、この考え方によって日本の鬱や共感覚を語るべきだという思いを持っている、ということを書いているわけですね。


■「生の哲学」

●ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6

●大辞泉
19世紀後半から20世紀初めにかけて、理性主義・主知主義・実証主義の哲学や唯物論などに反対し、生きている生、体験としての生の直接的把握を目ざしてヨーロッパで展開された一連の哲学的傾向。ショーペンハウアー・ニーチェを源流とし、ディルタイ・ジンメル・ベルクソンらによって代表される。

●大辞林
実証主義や機械論などに対抗して、一九世紀中葉から起こった哲学的潮流の一。真実在を、知性では捉えられない非合理で根源的な生であるとし、生の直接的把握(解釈・直観)を意図する。ニーチェ・ショーペンハウアーに始まり、ベルクソン・ディルタイ・ジンメルなどがその代表。


■画像出典
フリードリヒ・ニーチェ(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7

2010年12月01日

鬱病が鬱病を疎外する〜「本当の鬱病は美しいもの」〜

utsu1.jpg ついに「鬱」という漢字が常用漢字に組み入れられた。元々「うつ病」なる書き方を避けて「鬱病」と書いてきた僕にとっては、何の変化もないけれども、やっと僕の書き方が「合法化」されたのは嬉しい限りだ。

「鬱」とは、「木々や葉っぱが生い茂るさま」を言う。僕の個人的な意見では、「心が生い茂っていて、悩むときにも一生懸命にならざるを得ない、人間的に良く出来た美しい人間」のことを「鬱」と言うのだと思っている。

「ピンからキリまで」という言葉がある。「脳卒中」や「癌」にもピンからキリまであるのだから、「鬱病」にその論理が当てはまらない理由もきっとないと思う。

 日本で「鬱」が話題になり始めたとき、むしろ「鬱」という漢字の原義は正しくとらえられていたと思う。対象となった「鬱」の状態は、高度競争社会からはじき出された「本物の鬱」だった。

 けれども、それ以来、「鬱病」にかかっている「と言われる」日本人は急増して、今では「国民の3分の1が鬱をかかえている」と言う学者も多くいる。むしろ、その人間観を推進することが精神病理学の使命なのかもしれない。そして僕は、僭越ながら、その数字を「ウソ」だと思ってしまっている人間の一人である。そんなに多いはずがないというのが実感である。

 以下は、差し当たり僕個人の見解である。中には僕に近い考え方の人もいると思う。僕と同じ考え方の精神病理学者をまだあまり見たことはないが、必ず増えてくるに違いないとも思っている。

 人間は結局、「自分が正しい」と思って主観で生きるしかない生き物であるのか、僕も僭越ながら、自分の「精神病理観」は正しい、いつかこのような考え方が主流になる日が来てほしい、と身勝手にも願っているから、以下のようなことをずっと語ってきている。

 日本における精神病理研究を見ていて僕が思うのが、日本人が罹患している最大の病理は「何でもかんでもシンドローム」「症候群症候群」「病名つけたがり病」「精神病理インフレーション」ではないかということだ。

 どうやら、実在する病理に「症候群」という名前が付くのではないようである。学者が「症候群」とポロッと口にすれば、それが「症候群」になる。それが、「脳卒中」でも「癌」でもない、日本最大の「病理」だと僕は思う。

 鬱病と名指しされる絶対人口が増えるということは、その中には「重度の」鬱病者もいれば「軽度の」鬱病者もいるということになる。もちろん、「鬱」を自覚する人が「鬱病」と診断されるには、病院にいかなければならないし、そもそも病院に行った人こそ「鬱病者」に他ならない。

 第三者に無理やり病院に連れて行かれてセロトニン薬付けにされた人は、確かに別だと思う。そういう人は、僕からすると「真の苦脳を知る真の鬱病者」だと思う。

 けれども、だいたいのところ、中程度・軽度の鬱者こそ、自分で外出は可能なのだから、重度の鬱者よりも先に外出して病院に行き、「鬱病」の名と社会支援を手に入れることになってしまう。その「鬱病者」よりも外出の難しい重度の「鬱者」は「鬱病者」とは言われない。

 よほど気をつけておかないと、これまでの「本物の重度の鬱病」の概念が過度に希釈され、「鬱病者」による「鬱者」の支配という逆転した構図がどこかの時点で生じることになる。そして、そのような事態が起きているのを、実際の精神病理学界を見ていて感じる。

 そして、「鬱病」研究者の目的も、「鬱病者」の発見ではなく、「鬱病者」の創造・捻出に移り変わっていくことになる。「健常者に疎外された鬱病者をいかに救い出すか」ではなく、「健常者をいかに切り崩して鬱病のレッテルを貼っていくか」。これが今の日本の多くの「鬱病」研究者や「鬱病」関連ビジネスの仕事になってきていると感じる。

 ヘーゲル哲学に言わせれば、鬱病者の異常な肥大化が本来的「鬱」を自己疎外して、真の「鬱」の本質を外へ放り出し、「鬱」は「鬱」にとって遠い他者となる。マルクス経済学に言わせれば、真の「鬱」者が一生懸命に生きれば生きるほど、働けば働くほど、それを眺め下ろす「精神病理学者」なる「資本家」が一度はそれを引っ張り上げて「鬱病」と名付け、それを健常者にまで押し広げる形で最初の真の「鬱」者を外へ放り出してしまう。(僕は個人的にはヘーゲル・マルクス主義者ではないが。)

 しかし、「さすがに今の風潮はマズイから、どこかで止めなきゃ」と思っている人も多いはずである。この「止めなきゃ」というニュアンスが、巷に出ている「鬱病」関連の本から、そろそろ読み取れ始めたのが興味深い。

 僕は今まで色々な「鬱」に出会ってきたつもりである。もちろん、「鬱病」と名の付いた人の中にも、真の鬱者はいる。けれども、「私は鬱病と診断された者です」と名乗り出た人を全て足して人数で割った「鬱度」と、「私は鬱です」と言った人を全て足して人数で割った「鬱度」とを、じっくり僕なりに味わってみたなら、やはり僕には、「私は鬱です」とだけ言った人の症状のほうが深遠であると感じられる場合が多かったことは否定できない。

 なぜかは言葉ではうまく言えないが、やはり真の鬱者とは、「鬱病だと名づけすぎ病」という社会病に疑問を呈する人間のことではないだろうか。これからの日本に必要なことは、「鬱病」という診断を意識的に減らしていき、それでもどうしても「病的」であらざるを得ない人に「鬱病」という診断を与えることではないのだろうか。

 もっと言うなら、「鬱病」という病名がなくとも「鬱者」の心を分かるような社会でなければならない、というのが僕の意見であるが。