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電通の価値観と東大で哲学を学んだ女性の過労自殺
(岩崎純一 at 12/10 17:03)
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200px-Dentsu_Head_Office_Day.jpg 先月7日(今から書く内容に似た、別の場への提出原稿を書き始めた日)、テレビでは、電通の女性社員(高橋まつりさん)の過労自殺をめぐって東京労働局が同社の強制捜査に入ったニュースが流れていた。ここ最近、疲労で発熱や頭痛に苦しめられていた私だが、この女性に比べれば実に大したことのないものに思える。やや気力が戻った先月22日は、福島県沖での地震で津波が発生し、日本中が東日本大震災を思い出したが、死者が出なかったことに皆安堵している。

 個人の「生」や「命」が現代日本という文脈においていかにあるべきか(あることができるか)について、私は常々考えているが、とりわけ東京大学で哲学を学んだ冒頭の後輩女性の自殺には、いつもと違うものが感じられ、心を痛めた。東大の哲学・文学・教養系の後輩男性の自殺は定期的に起きているが、女性のこのような自殺は久々に目にした。後輩と言っても、私は早々に同大中退の上、日本庭園や神社仏閣への鬱々とした放浪の旅を経てしぶとく生き残っているのに対し、死の直前まで男性上司らへの不満を、Twitterという新時代のツール上に書く気概を見せたこの女性のほうが亡くなった事実には、どうしても驚愕せざるを得ない。

 東大哲学を捨てた私が生き残り、東大哲学を完遂した者ばかりが世に知られず自殺している現状を見ると、どうやら東大哲学は私の知らないところで死の方法を教えているのではないかという疑念が生じるが、もちろんそんなことはない。ただし、東大卒・出版社勤務だった鶴見済が『完全自殺マニュアル』を著し、社会現象を巻き起こしたように、東大哲学・社会学学閥は、表でも裏でも日本人の死生観をコントロールしてきたのだから、そのレールを早々に降りた者として、私も今回の過労自殺について思いを巡らせておきたい。

 とにもかくにも分かることは、「この女性にとっては、電通(日本の大企業)の価値観よりは東大哲学が安住の地だった」ことである。ここまでは、この女性と私とで極めて価値観が似ている。

 日本では、自殺者は男性のほうが女性の2.5倍〜3倍くらい多いが、自殺の動機としては、経済的理由、病気の苦痛、家庭問題以外に、今でも哲学的自殺と呼べるようなものが含まれている。哲学的自殺に含まれると思われる東大の哲学・文学・教養系(自然科学系も少しあり)の男性の死はいくつか見てきた。特に、これらの分野の中退男性は自殺率が高く、その頭脳の消失が国益の損失や科学発展の鈍化に直結するからか、厚労省や日本中退予防研究所などの調査対象に入っており、怪しい書面が送られてきた当事者である私の実感からすれば、東大中退男性のリストがNPO法人間で不当に売り買いされているような気がするのだが、ともかく、今回のような女性の自殺は痛恨の極みである。

 ところで最近、宮沢賢治の作品を読んでいるが、彼の「失うものがない自由人」としての書きぶりに、非常に気分爽快になることがある。例えば、賢治作品には、人間や動物の大声を聞いて耳が「つんぼ」になったとか、人間や動物を「きちがひ(きちがい)」になるまでいじめたといった表現が出てくる。読むときに、いわゆる丁寧な言葉遣いをして本質をごまかす「いい子」でなければならないことはないし、賢治自身が「いい子」を気取っていないところに、賢治作品の真の魔術的・悪魔的・神的価値があるのである。

 今は時代も変わり、精神障害分類も法律も用語も(科学的根拠はありつつも「いい子」風に)改訂され、せっかく宮沢賢治が用いた「つんぼ」や「きちがひ」はもちろん、およそ20年前までの日本の精神科医らが用いた「分裂病」や「躁鬱病」、「鬱病」、「癲癇(てんかん。現在とは定義も分類も異なる)」といった用語を使うことさえ難しい時代となった。

 だから、冒頭の女性のような過労死・過労自殺についても、わざわざブラック企業やブラック上司の言動によって従業員が「PTSD(心的外傷後ストレス障害)や聴覚障害になり、労災認定された」とか、「
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